九鬼研究所第四実験場。天井も床も壁も白で統一された空間の中に2人の男女がいた。
彼らは手合わせをしているようである。壁の上方にはガラスで仕切られている所があり、そこから海経が数人の部下に指示をしつつ戦況を見守っていた。
現在行われているのは、征士郎の左腕の調整と戦闘データの採取であった。その左腕は征士郎の体に合わせて微調整が繰り返されており、今回も彼の成長に合わせて調整されるにあたって新たな改良も加えられたため、そのデータ取りを行っている最中であった。
征士郎の相手を務めるのは静初。専属であるからという理由もあるが、2人の実力差ははっきりしているため彼にケガを負わせる心配がないというのも彼女が相手を務める大きな理由の一つである。
しかし、そうと分かっていても納得しづらい部分が征士郎にはあるようだった。
(一発たりとも入らんか)
思わず舌打ちをしたくなるような展開。繰り出す拳は空をきるか逸らされるかのどちらか。これでも静初は本気から程遠い。もし本気であればそれこそ一瞬で終わっているであろう。
征士郎が本気で戦えるギリギリのところを上手く引き出しながらの戦闘。静初の行っていることはこれである。だから征士郎が一瞬でも気を抜けば容赦なく一撃を入れる。
「征士郎様、焦りから攻撃が雑になっています」
静初はそう言うとともに征士郎の右腕を弾き、ガラ空きとなった脇腹に蹴りを放つ。当然加減はしてあるが、それでも一撃が入れば痛みが体を駆け抜ける。
征士郎の体が左方向へと飛ばされ、その勢いのまま一回二回と転がった。しかし彼に休む暇はない。顔をあげれば静初の追撃が始まっていた。
その場から起きることも許されず、征士郎は転がるように避ける。そしてそれを追いかけてくる静初にカウンターを仕掛ける。下段の払いのけるような蹴り。それすらも彼女は予測済みだったのだろう。ジャンプしてかわすでもなくトップスピードから急停止。それも彼の攻撃範囲ギリギリの場所で止まりまた肉薄してくる。ひょっとするとかすっているのではないかと思えるほど、まさに紙一重での避け方。
しかし征士郎も負けてはいない。持ち前の勘が働いたのか、繰り出していた左足を強引に引き留め飛び跳ねるようにして静初へ突っ込んでいく。
2人は互いに拳が届く範囲に入った。征士郎と静初の視線が交錯する。喰らいつこうと猛った笑みを浮かべる征士郎。そして、そんな彼の全てを受け止められることに喜びを感じている静初。それが余裕を感じさせる笑みへと繋がっている。
秒にも満たない間に互いの拳が繰り出される。そして次の瞬間には静初が主導権を握っていた。
静初の瞳が征士郎の苦い顔を映す。彼もまずいと気付いているようだった。それでも彼は諦めることなく拳をつきだす。後ろに退こうものならその時が最後だと頭の中で警鐘がなっていた。しかしどちらにしても悪手。そこからは泥沼に嵌ったようにもがけばもがくほど追い詰められていく。
そして遂に征士郎は完全な隙を作りだされてしまった。直後、ブザー音が鳴り響きそれが終了の合図となる。静初が時間ピッタリにこの態勢にもっていったのは偶然とは言い難い。
動きの止まった征士郎は短い呼吸を行い、やがて大きくゆっくりとしたものへと変わっていく。汗がどっと噴き出し、玉となったそれが地へと落ちた。
征士郎は一度右腕でそれを拭う。
「毎度思うが一発も入れられんというのはどうなんだ?」
「逆に一発でも入れられたなら私の存在意義が危うくなりますが?」
静初には征士郎のサポートの他にその身を守るという大事な役目がある。揚羽は別格であるが、彼に攻撃をもらうようではその役目を果たすことはできない。彼がより強くなりたいと願うように、彼女もまたその彼を守れるぐらい強くありたいと望んでいるのだから。
「いやその程度揺らぐはずがないだろ。しかし一発決まれば……それはそれで手を抜いたかと思いそうでもあるな」
「では……私はどうすれば……よいのでしょうか?」
静初は少し考えて首をこてんと傾げる。主の要望には応えたいがどちらに転んでもあまり変わりがない。どちらの結果も喜ばれそうにないからだ。
征士郎は真面目な専属に笑みを返す。
「やはりこのままでいい。俺が悔しいと思うのは俺に力がないからだ。悪いな静初。余計なことで煩わせてしまった」
「征士郎様に武力は必要ありません。傍に私達従者が控えておりますから……というのでは納得できないのでしょうか?」
征士郎にできないことはできる奴に任せる。その代わり彼にしかできないことは全力もって成し遂げる。そういうことである。
「もちろんそれはわかっている。しかし、こう……なんというか、力に憧れを持ってしまうんだよ。俺も男だからな」
「そうなのですか……」
「そうなのだ。面倒な生き物だろう?」
その言葉に静初はしばし考えたのち、
「可愛い生き物だと思いますが」
そう言って征士郎を笑わせた。どうやら彼の想像の斜め右をいっていたようだ。
「それじゃあ可愛い生き物にも立派な牙があるというところを見せねばな」
「征士郎様にはその牙が既に揃っています」
「ははっその鋭い牙は周りを取り囲んでくれている者たちのものだろう?」
征士郎は静初から距離をとって再び対峙した。そして鈍く輝く左腕の調子を確かめるように肩を中心に一度ぐるりと回し、海経に準備が整ったことを伝える。二度目となる戦闘が開始されようとしていた。
◇
戦闘を終えた征士郎は着替えるために更衣室へと向かっていた。
「シャワーののちマッサージを行います」
「ああ、助かる。正直体が重くてたまらん」
先の戦闘において時間が経つほどに征士郎の勘が冴えていき、その度に静初は速度を上げていった。どれだけ先が分かろうともそれに体がついていかなければ意味がない。結果、征士郎は最初の戦闘と同じような展開を繰り広げることとなり、しかし体への負担は倍増するという厳しい状況に立たされることとなった。やればやるほどに深みに嵌っていく。それが二度三度と続いていくのだから、最終的に喋る事も困難となった彼を責めることはできない。
静初はそんな征士郎を心配しながらも一方でまだやれると判断を下す冷静な自分がおり、彼もそれがわかっているため優しい言葉をかけるわけにはいかなかった。だから彼女にできることといえば戦闘後の体のケアくらいである。
今の征士郎は他人から見れば分からない程度に注意散漫となっている。近くに他の人間がいないことも相まっているのだろう。
静初はその大きく成長した主の背中に、昔の彼の小さな背中を重ね懐かしく思った。
(あの頃はまだしなやかさが目立っていました)
それが今や男性特有のゴツゴツとした体形へと変わっている。しかしそれとは別に変わらないものもあった。
(脇が弱いのは相変わらずですが)
征士郎の弱点とも言えるのがそこであり、静初も初めてマッサージを行ったときそれを知ったのだった。笑い声を抑える事のできない彼は身をよじり、それではマッサージが進まないと彼女はそれを阻止しようとする謎の攻防を繰り広げたのも懐かしい思い出である。
その頃の征士郎は反撃にくすぐりを行ったが、びくともしない静初に敗北を悟った。もっともそのときは脇や脇腹をくすぐった程度で、念入りにいたぶったりしたわけではないということを注記しておく。
以来、征士郎は我慢するようになり多少なりとも慣れてきたらしいが、未だにくすぐったいらしい。時折ぴくりと震えるのがその証拠である。
一方で、今の静初が反撃に出た征士郎のくすぐりに耐えられるかどうかは甚だ疑問である。それはくすぐったいからというより別の感覚で耐えられないといった意味でであった。
時は色々なものを変化させていくのである。
2人は実験場近くにある更衣室へ辿りついた。征士郎はドアの傍にある機器へ指を持っていき、ちょうどカードを通すところに爪先から1㎝ほど伸びた金属板を通す。普通はカードを通してロックを解除するのだが、わざわざカード持ち歩かなくともこの左手でどうにかできるのではという考えのもと加えられた機能の一つであった。無駄機能というべきかマスターキーの一つを減らすことができたと喜ぶべきか判断に困るところである。
機器は征士郎を認識して赤のランプが緑へと変わった。同時に扉が空気を吐き出しながら開いた。
□
次の日の夕方は生憎の雨模様であり、いつもなら明るい時間帯である現在も薄暗く出かけるのが億劫になる。
しかし、静初は傘をさし外へ出た。早上がりの今日はシューマイを食べに中華街へ出かけることを決めていたのだ。雨はそこまで強くはないがしとしとと降り続けている。
この雨も悪い事ばかりではない。うだるような暑さを和らげ過ごしやすい温度となっている。
静初は電車を乗り継ぎ中華街へとついた。こんな天候だが夕飯時ということもあって、そこは雑多なにぎわいを見せている。雨特有の香りにまざり食欲をそそるいい匂いが辺りに漂っていた。
静初はいつも回る店の一件目で早速シューマイを購入し食した。暗殺者をやっていたときはその香りから気付かれる可能性があったため食べられなかったが、九鬼の従者となってからはそのことを気にせず食べられるようになっていた。その事に感謝しながらも食べ終わったあとはブレスケアもしっかりしておくよう心がけている。それに加えて食べ過ぎないこともであった。
征士郎に近づくことも頻繁にある中でニンニクやニラの臭いをさせるなどありえない。
もしそれを征士郎から指摘されでもしたら、静初はある意味死ねる。であれば食べなければいいのではと考えるところだが、食べられる状況にあって食べるのを我慢し続けることができないところにシューマイの魅力があった。
(罪深い料理です……)
静初は2件目で買ったシューマイを頬張りながら思う。幸い、征士郎も彼女がオススメするシューマイを好んで食べてくれる。現に「中華街行くなら買ってきてくれ」と頼まれていた。これがもしシューマイ嫌いであれば、静初は一体どんな選択肢を選んでいただろうか。
しかしその事で一つ悩みが発生していた。それはどの店のものを買って帰るかというもので、できれば全ての店のものを味わってもらいたいところだが、夕食後にそれを食すということを考えればせいぜい2軒ほどである。
(この間は清風楼のものでしたね)
まずは有名所――海員閣や安楽園、重慶飯店のものなどの皆に人気のものが良いだろう。
静初はうんうんと悩みながら通りを歩いて行く。そんなときある光景が目に入り、迷うことなくそちらへと足を向ける。
「どうかされましたか?」
静初はとりあえず英語で話しかけた。話しかけた相手は同い年か少し上の女性。その手にはガイドブックを持っており、肩にバッグ。静初が声をかける前はキョロキョロと周りを見渡していたのだ。観光客がどこか店を探しているのだろうと思い、その手助けをするつもりであった。
話しかけられた女は少し早口に喋り出した。言語は中国語であった。
静初は久しぶりに使う中国語で会話を続ける。女はそれに安心したようで笑みを浮かべ、ゆっくりと話しだした。どうやら行きたい料理店があるらしい。
「誰かに聞こうと思ったけど中々勇気がでなくて……助かりました」
「お安いご用です。そのお店は……こちらですね」
静初はこの中華街を知りつくしていると言っても過言ではなく、その店もすぐにどこにあるか検討がついた。あとは行き交う人にぶつからないように女を案内していくだけだ。
女とはそこまで多くのことを話したわけではない。日本に何をしに来たのか。一人で来たのか。日本はどうであるかなど差し触りのないものばかりである。
静初は元々多くを喋るほうではなかったし、女も周りに興味を示していたため多くの会話を必要としなかった。あとは時折聞かれることに答えながら歩いて行く。
店の看板が見えたところで静初が指を差した。女はそれを見て一層嬉しそうにして、静初に深々と頭を下げる。そのとき肩口からチラリと刺青のようなものが見えた。しかしそれは一瞬、女が頭を上げると同時に見えなくなった。
静初も別に刺青をどうこう言う気もないし、出会ったばかりの人に問うものでもなかったので無視をする。
女は少し離れると振り返って手を振り、最後は店に入る直前でもう一度同様の行動をとった。静初もそれに手を振り返していたが、女が最後に言った言葉は雨に遮られ聞こえなかった。
笑顔の女はこう言っていた。
「今度はお迎えに上がります、お嬢様」
上空はさらに分厚い雲が広がり、これからさらに雨脚が強まりそうであった。
◇
ある一室に先ほどの女がいた。持っていた荷物は無造作に床に置かれ、代わりに黒の大きなバッグが近くにあった。そのバッグの口から白い仮面がのぞいている。
「まさかあちらから声をかけてくれるとはね。仕事ついでに探せって言われたときはどうしようかと思ったけど案外楽勝だった。それにしても、昔のそれは随分雰囲気が違うから信じられなかったけど、なるほど……確かに似てる」
女は2枚の写真を弄びやがてそのうちの1枚を端から燃やし始めた。そこに映る静初は鋭い目つきと無表情である。長い髪をしていることからも昔の写真だということがわかった。しかしそれもチリチリと広がる炎に焼かれ灰となった。もう1枚の方も同じように燃やされていく。
「実力は……私じゃ測れなかった。でももしやり合ったら殺されるな。そんな感じがする」
女はバッグから仮面を取ろうとする。その拍子にタンクトップの紐がずれ肩口が露わになった。そこに彫られているのは動物かあるいは怪物か。しかし確かなことは不吉さを感じさせる刺青であることだった。
女は仮面を取り、ずれた紐を直した。
「ま、今回は見てこいってだけだし気にしても仕方ない。それよりこっちは期限も迫ってるし、ちゃちゃっと標的殺して帰るかな」
女は黒を纏い仮面を付けた。時刻は零時を迎えようとしている。依然、外は雨が降ったまま。
女の姿は既に消えていた。荷物も何かも全て――まるで霧が見せたまやかしであったように。
翌日、製薬会社社長がビルから投身自殺を行ったという報道が流れる。しかし、そこにはもっともらしい理由がいくつもあげられるだけであった。ニュースキャスターはお決まりの文句を述べさっさと次の話題へ移る。
そして、その夜にまたもや九鬼に襲撃があった。あまりにもお粗末なものであったが襲撃は襲撃であり、それを依頼した人間の特定が急がれていた。
実は更衣室であるラッキースケベを起こそうとしたが無理だった。無念だ。
でも諦めない。