平和という二文字に含まれる言葉の重みというのは、あまりにも何物にも変えられないものがある。
たとえ自分の認識できる範囲という意味での世界が平和であったとしても、そこから外れた
真の意味での平和を成り立たせるためには、地球規模での外敵が必要なのだ。宇宙人でもいい。地球外生命体でもいい。
――それこそ、人類の敵に足りえるのであれば人間でもいい。
『何かと戦う』という意思があって初めて世界は一つになるのだ。
けれども、それを個人として感じるのは不可能だ。
対岸の火ではないが、人間というのはどうしても自分の世界以外の不穏には目を閉じてしまいがちになるものだ。結局のところ、〈自分さえよければ〉という思考からは逃げられない。
他者に目を向けられる人間というのは、あくまで自分という範囲が広いか狭いかの違いしかないと、俺は思う。
ここまでグダグダと思考を重ねてみたが、つまりのところ俺がなにを言いたいかというと、
「平和だ――」
俺は、ようやく平和を手に入れられたというだけである。
目を覚まし、食事をし、風呂に入る。歯を磨き、ふかふかの布団にはいって一日を終える。
そんな当たり前のことを当たり前に出来ることこそが、平和なのだ。
それを、俺はふかふかのベッド上に横になって実感していた。
けれども、どこか居心地の悪さというものがあった。そわそわするというか、背中がむず痒い。
この館にやってきて一日しか経っていないことも理由の一つではあるだろう。いまだにココが自分の家だという感覚がないのだから。もっと言ってしまえば、洋風の外観に合わせた内装の煌びやかさがあまりにも自分の感性に合わないのだ。
どこぞの高級ホテルのスイートルームかと思ってしまう。そもそも、部屋の大きさがおかしい。俺一人の部屋なのに畳一八畳程度の広さがある。床一面には濃い赤茶のカーペットが敷き詰められている。家具といえば、ベッド、クローゼット、三段のタンスに、丸テーブルに椅子が四脚、大画面の液晶テレビ。パソコン、自分の身長の半分ぐらいの大きさがあるスピーカのついた音楽プレーヤー。天井まで届くほどの本棚に梯子。それにトイレとお風呂まである。これをホテルの一室と言われれば誰もが信じてしまうだろう。
別に俺が小市民だと言いたいわけじゃない。けれども、それでもこの部屋は大きすぎる。
大の大人が三人寝転んでも余裕があるほどの大きな天幕付きベッド。そこにはシルク生地のシーツに重さをほとんど感じない羽毛布団。豪奢な刺繍が施されていて、高級感が凄まじい。
そんな部屋のなかに流れているは、俺の大好きなテクノ。
はっきり言おう、場違いにも程がある。ジャズやクラシックの類には一切の造詣がないので仕方ないのだが、違和感が一周まわって逆に落ち着いてしまう。
そしてなにより――。
コンッ、コンッ。
BGMの流れる室内に、少し躊躇いがちのノックが二度響いた。
「どうぞ」
こんな部屋にいるせいだろう。ノックに答える俺も、少しおかしなテンションになってしまっている。
「
そう言って入ってきたのは、可愛らしい装飾のはいったティーセットとクッキーを載せたカートを押す一人の女性の姿だった。
オレンジ色を基調とした編みこみドレスに身を包んだ碧髪の女。肌の色は白というよりも青い。けれどもそれは病的な青さではなく、儚さを感じさせるものだった。化粧も薄めで素朴。その表情は純朴で家庭的だ。
ゆったりとした動作で体を起こす。
「ありがとう、シルキー」
ベッドから立ち上がり、まずは音楽プレイヤーの電源を落とした。もともと違和感しかない状況にさらにティータイムが始まるのだから、せめて形だけでもまともにしておきたいのだった。実際、音楽を止めたぐらいでどうにかなる違和感ではないが……。
「本日は、ベリーのタルトとアップルティーをご用意いたしました」
ブルジョアにもほどがある。慣れた手つきで丸テーブルの上にカップとお皿を置いていく姿を見ながら、そんなことを漠然と思った。
シルキーとは、そもそも家霊――つまり家に住み憑く精霊のことを指す。家主が寝静まっているいるうちに家事を済ませてしまうというのが伝承として残っている。夜中に微かに聞こえる布が擦れるような音がしたらシルキーが住んでいる証拠なんて言葉もあるぐらいである。さらに、家に害をなす人間を殺してしまうといった過激な守護者としての一面も存在する。
そういう意味では、従者としては問題ないのだろう。こういった動きが隙のない所作というものだと示している。
けれども、問題はこちら側にある。
どこの高校生が、従者に茶を運ばせるんだと言いたい。いや、いわゆる
正直、今後も慣れることはないだろう。
四つある椅子のうち、一番窓際にある椅子に腰掛ける。なんというか、座った感触も今まで椅子なんかで感じたことのない柔らかさと反発力があった。
目の前には、切り分けられたタルトの一つと、赤茶色の液体に満たされたカップ。そして、細かな細工が施された銀のスプーンとフォーク。カップから立ち昇る湯気に乗って、タルトの香ばしさと甘酸っぱい香りが俺の鼻先をくすぐってくる。
「美味そうだ――」
自然と言葉が漏れた。
「どうぞお召し上がりください」
シルキーは深くお辞儀をした。けれども、俺には顔が見えなくなる寸前、彼女の顔が赤くなっているのが見えた。どうやら照れているらしい。
それに気づいたからといって、それをからかうようなマネはしない。日常生活においての仲魔の態度というのはなかなかに新鮮だけれど……。あの東京封鎖のときのような戦闘だけで呼び出しているわけではない。あくまで生活の一部として存在している。
だからこそ、どこかで感謝しているのだ。
彼らが戦闘以外で生活してる光景を通して、俺が平穏のなかにいることを実感できている。
けれども、不意に頭の片隅に過(よ)ぎる。
戦いに命を懸けたあの八日間――。
急激な高低差に心肺が対応しきれずに命を落としてしまうかのように。
俺の心は、いまだにあの地獄のなかに取り残されている。
ヒトとして生きた俺――。
後悔は、ない、はずだ。
けれども、もしかしたら――。
並行世界なんて概念を考えるのはあまりに荒唐無稽な話だが、もしかしたら別の選択をした俺が、他の未来を切り開いているかもしれない。その未来と今の俺の姿を比較するつもりはない。ただ、気になって仕方がない。逃げようといったユズの言葉に頷いていれば、ナオヤの誘いを断っていれば、ジンとともに行動していれば、アマネの言ったとおりに神の試練に挑んでいれば――、なにか違っていたかもしれない。
自分でも女々しいと思う。
後悔はないといっておきながら、もっと別の可能性を夢想している。
これでは、うかばれない。
他の誰でもなく、自分自身がうかばれない。
ずるずると思考が奥へと沈んでいく。人間の思考は沈みやすい。なぜなら――。
「――後悔するには早すぎるかと思いますが」
俺の思考を読んでいるかのような一言が俺を縛っていた鎖を振り払う。
「それでもな、後ろを見たくなるんだよ。なにか遣り残しはなかっただろうか? なにかミスをしてなかっただろうか?ってな」
「それで、良いではありませんか。
力のある言葉というのはこういうものを言うのだろう。完全に納得できたかと問われれば解らないが、それでも前を向ける気がする。
「すまない――」
「違いますよ、
あまりにもお決まりな文句だが、クスリと微笑んでいるシルキーの姿を見ると、それもどうでもよくなってくる。
「あぁ、ありがとう」
少し冷めたカップを手に持ち、口を付ける。アップルティー特有の爽やかな酸味と甘みが口いっぱいに広がり、のどに香りが抜けていく。
ほう、と息が漏れた。
「美味い」
心からの一言だった。
シルキーはにっこり微笑んで、
「ありがとうございます」
一つの会話が終わると同時に、部屋の外が突然騒がしくなった。
この館にはあまりにもふさわしくないドタドタドタという慌しい足音。そして、
「きょ~う、っの、ティータイムッは、ベリッ、ベリッ、ベリータルトォ~。ご主人さま~と、甘いッあっまぁいティータイム~ッ! エル・オー・ブイ・イー、LOVELOVEタ~イム」
雰囲気をぶち壊すにもほどがある。
「私(わたくし)、あの方が本当に邪神なのか疑わしく思うことがあります」
ぽかんとした表情のシルキーに、
「場の空気を混沌とさせてるだろう」
現れた瞬間に混沌を生み出す。さすがニャルさん、なのだろうか。
自動車が事故の寸前に急ブレーキをかけたようなゴムが磨り減る音がドアの向こう側で起きる。
ノックなんてものはなく、扉を壊そうな勢いで開け放たれた。
「とうちゃ~く。シルキーちゃんとのピンクなアバンチュールはさせませんぜ、旦那ぁってね」
天真爛漫な笑みを浮かべて現れたニャルさん。腰に手を当ててふんぞり返っていた。
「悪いが、紅茶の追加をふたつな」
「ふたつ、ですか?」
「あぁ、シルキーも一緒にティータイムしようかと思ってさ」
「ですが、私(わたくし)は――」
「別にメイドって訳じゃないんだ。それに俺は皆を仲魔であると同時に家族だと思ってる。召喚している間ぐらいメシ食ったりしてもバチは当たらんだろうさ」
「|主様(マスター)、分りました。少々お待ちください」
手馴れた所作でカートの下の棚からカップを取り出すと、そこに琥珀色の紅茶を注いでいく。「本来はカップを温めたりといった準備が必要なのですが……」なんて言いながらも、表情は明るい。そして、カップと人数分のタルトを用意すると、椅子に合わせてテーブルにそれらを置いた。
そして、シルキーはスカートの裾を畳みながら、上品な動きで椅子に腰掛けた。
「無視はダメですよー、無視は。ニャルさんは寂しいと世界を滅亡させちゃうんですよー。あ、そしたらご主人様とアタシが新世界のアダムとイブッ!? むしろこんな汚い世界は滅ぶべき!!」
見る見るうちにニャルさんの体から魔力がどろりと溢れていく。煌びやかな金髪は逆立ち、スカートの裾が風を受けたようにふわふわとたなびく。
蒼の瞳の瞳孔が開き、焦点はあっていない。魔力が密度を増し、霧のように体を包み、その空間がぐにゃりと歪んでいく。その奥からいくつもの眼球がコチラを覗き込んでいた。瞼(まぶた)もなく血走っている眼からはどす黒い感情の色が見てとれた。
「あ、あああぁぁッ、あアアァァァアアアア――ッ!!」
ある程度の耐性を持っている俺とは違って、シルキーはその狂気を直に感じて悲鳴に似た声を上げた。顔は血の気が引いて真っ青になり、額から汗がぶわっと滲む。呼吸が不規則になっていて、なおかつ浅い。そして、彼女の体を構成している魔力分子がぼやけはじめていた。このままいけば彼女の構成魔力が崩壊してしてしまうだろう。
「いいから、こっち来なよ。紅茶の準備できてるよ、ニャルさん」
「あ、そーでした。せっかくのタルトですからねー。温かいのが美味しいです」
俺が座るよう促すと、一気に魔力が霧散した。ホニャッとした笑みを浮かべて、とてとてと俺の隣に座ると、フォークを思い切りタルトに突き刺して頬張る。
「んまー!!! さすが一家に一台スーパー家政婦シルキーです。酸味も甘みもカリッとした生地も、さいっこうですよー」
幸せそうにタルトに夢中になっているニャルさんを横目に、
「シルキー、無事か?」
声をかける。
「ハァ、ハァ――。んクッ、な、なんとか」
狂気は消えたものの、いまだに息が荒かった。
そのまま何度かゆっくりと深呼吸してようやく回復した彼女は、自分の体を抱いてブルリと肩を震わせた。
「さすが、【邪神】ニャルラト――」
彼女の名を言おうとしたシルキーの唇を、俺は自分の人差し指で押さえて止めた。
「名を呼ぶっていう行為は相手の存在を確定させる意味を持つ。ココで名を呼んでしまうとニャルさんは邪神として存在を確定してしまう。俺がニャルさんって呼んでるのはな、彼女の狂気を抑える意味があるんだよ。だから、シルキーもできるだけ真名を呼ばないようにな」
世界を混沌に堕とす存在であるニャルさんからは常に狂気が溢れている。俺が彼女をニャルさんと呼ぶのは、『ニャルラトホテプ』という刀身の外側に、『ニャルさん』という鞘を当てているのだ。けれども、ちょっとしたことでそれは外れてしまう。もしも俺が彼女をニャルラトホテプと呼ぶときは、確実に死が溢れるだろう。
俺の魔力を抑えるニャルさん。ニャルさんの狂気を抑える役目を持つ俺。お互いがお互いの鞘を担っている。だからこそ、彼女は単独行動ができないという不便もあるのだが……。
「アタシはこの生活を気に入ってますよー。ご主人様あるところに邪神あり、影の守護者ってネ。ご主人様が死ぬときがアタシが消えるときですから。一蓮托生? いえ、赤い糸で雁字搦めですから」
「見透かされてんなー」
「ご主人様のことで解らないことはありま――、いや、唯一の疑問はいつになったらアタシとの甘い快楽に溺れてくれるのか気になりますけどねー」
「一生そんなことは起きないから安心しとけ」
いつもの会話を続ける俺たちの姿を見て、落ち着いたシルキーの表情に笑みが零れる。
それでいい。
皆が笑いあうこの光景こそ、俺にとっての幸福なのだから――。