「あと一応言っとくが、その程度の力量で俺に脅しをかけるとか無謀もいいところだぞアバン」
そもここで戦う気などないだろう? そう言ってブラッドは肩を竦めてみせた。
アバンが勇者としての力を見せたにもかかわらず、その姿はどこまでも余裕を見せたままだ。お前はここで戦闘などしないだろう?という無言の信頼が確かにそこにあった。
一方でブラッドの言葉にアバンは驚いたように目を瞬かせた。
困ったように頭に手を当てる姿は、まるで悪戯がばれた子どものように見える。
闘気を収めたアバンは肩を竦めた。
「……これは参りました、私の闘気では踏み止まらせることすらできませんか」
「当たり前だろう? お前は人間にしては強いが、この俺はもっと強い。それだけの話だ」
常と全く同じ楽観的な色を帯びた言葉に、だからこそアバンはブラッドと己の差を理解した。
初めに言っておこう。
勇者アバンの力量は決して低くない。寧ろ相手が並みの魔族なら凌駕するほど高い。それこそ地上において魔王と冠される存在に対抗できるほどのものだ。
そして魔族は力を重視する傾向があることを、魔王ハドラーと戦い一度は部下に誘われたアバンは十分に知っていた。
だからこそアバンは自身の力を見せつけることで、ブラッドが魔界に帰るよう説得するつもりであったのだ。
(少し見誤っていたようです、彼の実力を)
内心冷や汗を流しながらアバンはそう呟いた。アバンとて歴戦の戦士だ。相手の力量を読む程度訳もない。
ブラッドが並みの魔族、それこそ魔王ハドラーと同等以上の実力を持つことは感じ取っていた。
だが今なら理解できる。この相手はその程度ではないと。
その証拠に、ブラッドは本気で今のアバンに何の脅威も感じていない。ここでアバンが本気で戦う気がないことを看破していても尚余る、自身の力量への絶対的な自負がある。
だが止めなければならない。アバンとて掴みとった平和を守るためなら命を投げ出す覚悟がある。
だが、とアバンは横目で愛弟子を見つめた。
託された彼を育てる為には、どうしても命を投げ出すわけにはいかなかった。
そんな苦悩する彼の様子を読み取り、ブラッドは得意げな笑みを浮かべた。
「一つ勘違いしているぞアバン・デ・ジニュアール三世。俺は恩には恩で返すと言っただろう」
「……言いましたね。でもその為に地上を脅かすのでしょう?」
「だからそこが勘違いなんだ阿呆勇者。俺はお前にも恩を感じているんだぞ」
その言葉にアバンは思わず目を瞬かせた。顔を背けていたヒュンケルも同様だ。
何を言っているのか理解していない勇者とその弟子の様子に、ブラッドは呆れたように眉間に皺を寄せた。
「地上観光だよ阿呆。まさか本気で理解していないのか?」
「……ホワーッツ? マジですか」
「マジと書いて本気だ。それがあるから地上を侵すやり方はやめてやる」
ブラッドは本気だった。
周りに影響を出さない呪術は手間がかかるができないことではない。万一影響が出ても天界に全てを押し付ければいいのだ。
呪怨王の名は伊達ではないのだ。
確かに地上にきた当初なら美しい自然などお構いなしに呪術を発動させただろうが、今はアバンとヒュンケルと共に旅をした良い思い出がある。
……更に言うなら、影響を出して大魔王に見つかるのが嫌だったのもあったりするがそれは置いておこう。
誰だって無駄な胃痛は欲しくないのだ。
曲がりなりにも一週間共に旅をしたアバンは、ブラッドの言葉が本気であることは直ぐに理解できた。
「……。そうですね、貴方はそういう人でしたね。ほんとーに、変わり者ですねブラッドってば」
「お前にだけは言われたくない。……ほら、話は纏まったんだから解除頼む」
そう言ってブラッドは人間のように短くなっている耳を指差した。
それを見てアバンは少しだけ目を細めると、一つ指を鳴らす。掛けたままであった変身呪文(モシャス)を解除したのだ。
途端に現れたブラッドの魔族本来の大きな耳を見つめて、アバンは寂しそうに呟いた。
「うーん、やっぱり勿体無い気がしますね」
「そうか? 俺はやはり魔族の姿の方が落ち着く。今の姿は気に入っているんだ」
「おや、知りませんでした。ブラッドってばナルシストだったんですか?」
「違うわ阿呆勇者」
軽口を叩き合っている間にブラッドは荷物を纏め終えたようだった。
と言っても元々出していたのは通信用の手鏡ひとつ。装備は常に纏ったままであったから片づけも何もない。
旅準備を万全に整えたその姿を確認し、ブラッドは一つ頷いた。
「別れを告げた手前、ここにいるのはおかしいからな。俺はもう行く」
「そうですか。これからどこへ?」
「さて、どこだろうな。気になるのはギルドメイン大陸とホルキア大陸だが、何しろ時間がない」
これは本当のことであった。
親衛隊長に申告したのは一週間。これまでの旅と同程度の時間で二つの大陸を回り、三馬鹿魔族を回収するのは流石の呪怨王でも骨が折れる。
本来なら今こうしてアバンと話す時間すらも惜しいのだが、ブラッドは不思議とそうは思わなかった。
どうやら自分が思った以上に勇者アバンを気に入っていたようだ。
瞬間移動呪文(ルーラ)を使うため窓を開け、ブラッドはもう一度勇者とその弟子を見た。
「お前達との旅は楽しかった。礼を言う」
柔らかな笑みと共に贈られた言葉にアバンとヒュンケルは目を見開いた。慌てて窓を見るも既に瞬間移動呪文を使った後で、光の軌跡しかそこにはなかった。
途端に広くなってしまった部屋を見渡してアバンは眼鏡の位置を直した。
「……礼を言うのはこちらでしょうに。ありがとう、ブラッド」
そんな師の姿をヒュンケルはじっと見つめていた。
いつにも増して眉間に皺が寄った顔には複雑な感情を浮かべている。
この弟子と出会ってから初めて見せるその表情に、アバンは柔らかな笑みを浮かべて視線を合わせた。
「ヒュンケル。言いたいことがあったら言ってもいいんですよ?」
「……」
師の言葉に一瞬喉を震わせ、ヒュンケルは絞り出すような声で呟いた。
「おかしいんです、先生。俺は何で涙なんか流れたんだろう? まだ目が熱くてたまらないんです」
そう言って真っ赤に腫れた目元を乱雑に拭うヒュンケル。
そんな彼にアバンはそっとハンカチを差し出した。
「ヒュンケル。それはきっと、寂しさからの涙です」
「寂しさ……?」
「ブラッドという魔族と旅をすることで、貴方はどことなく、地底魔城にいた懐かしさを覚えていたのでしょう。
思えば私から見ても貴方はブラッドに積極的に話しかけていた。それは自分でも気づいていませんか?」
アバンの言葉に思い当たる節があったヒュンケルは渋々頷いた。
「……確かに、話しやすかったです。あとストレス発散できました」
「すぐ手が出るのはよくありませんよ。まあそれはさておき。
……その感情は誰でも持ち得るものです。涙も恥ずべきことではありません。
別れにそれはつきものです」
そう言ってアバンはにっこりと笑顔を浮かべた。
「そういう時は、思いっきり泣いて恨み言を叩きつけちゃいましょう!
出会いと別れは表裏一体。そしてこの別れはブラッドが決めたものです。ヒュンケルには何の責任もありません」
その言葉は何故かヒュンケルの胸に素直に落ちた。
だから泣いて良いのですよ、と言われた気がしたのだ。
沈黙したまま師弟の視線が交差する。アバンはハンカチを差し出したまま笑みを浮かべ続けていた。
ヒュンケルはその笑顔が嫌いだ。
……嫌いだが、今日だけは素直に見つめることにした。
差し出されたハンカチを受け取ると、ヒュンケルは乱雑に目元を拭った。
「お人よしめ。魔族に礼を言う人間など奴くらいだろうな」
夜の海を見つめ、ブラッドは小さく呟いた。アバンの言葉はしっかりとブラッドの耳に届いていたのだ。
ポルトスの町に来る手前、丁度昼食を食べた海岸にブラッドはいた。
赤い目がじっと海を見つめる。
太陽の強い輝きとは反対に月明かりが柔らかく照らす海は、全てを受け入れるような深い色を見せていた。
海は広いな、と呟く声は小さかった。
今はただ海の度量の広さが心底羨ましく、また、妬ましかった。
「……」
先のアバンとのやり取りを思い返す。
地上観光の礼としてやり方を変える。その言葉に偽りはない。
だがやり方を変えようと思ったのはそれだけが理由ではなかった。
呪怨王と恐れられた彼に、力量差を理解しながらも闘志を向けてきたのはアバンが初めてではない。
だが魔族の扱う恨みや憎しみなど負の感情が溢れ出る暗黒闘気とは全く違う、澄み切った真っ直ぐな意思。光の闘気とでも言うべきものを向けられたのは初めてのことだった。
だから思ったのだ。
この男を殺すのはあまりに惜しい。と。
「……生きろよアバン、ヒュンケル」
呪怨王としてそれを願うのはどうかと思うが、気に入ってしまったのだから仕方ないとブラッドは思う。
尤も大魔王の計画がある以上、二人が生き残れる可能性などほぼ皆無に等しい。
だがもし生き残れたならば、もう一度旅をしたいな、とブラッドは思った。
ふと海の爽やかな空気に瘴気が交じる。
それは覚えのあるものであった。
「おい、居るんだろう影(ミスト)」
確信をもって自身の背後に声をかけると、明確に空気が張りつめた。
虚空に暗黒の渦が出現する。
その中から現れたのは白い衣の男――ミストバーンだ。
素顔を見せない暗黒から二つの眼が威嚇するように輝いた。
「…………」
「相変わらず無口だなお前。だが……分かりやすい眼光で何より」
自然体のまま軽口を叩くブラッドであったが内心はそうでもなかった。
大魔王の魔力を発見した時点でこちらも見つかる予感はしていたが、あまりにも場所の特定が早すぎたのだ。
あと数分、アバン達の元から立ち去るのが遅れていたらポルトスの町は戦場になっていただろう。間に合ったことに小さく安堵の息を漏らす。
そんなブラッドの内心を知ってか知らずか、ミストバーンは静かに浜辺に佇んでいた。
数百年前見た時から全く変わらないその在り様にブラッドは目を細めた。
「変わらないな。ここに来たのは大魔王の意思か」
言葉を喋ることはなかったが、ブラッドの言葉に答えるようにミストバーンから黒い闘気が溢れだす。魔族の使う闘気……暗黒闘気だ。
ブラッドが何をしてもすぐに対応できるようにしたのだろう。
しかし警戒心を露わにするミストバーンとは反対に、ブラッドは全く動きを見せなかった。
「なあミスト。この地上は美しいな」
「……?」
「不思議そうだな。俺がこんなことを言うのはおかしいか?」
ブラッドの言葉にミストバーンは静かに頷いた。
そんな彼から視線を外し、ブラッドは空高く昇る月に手を伸ばす。
「俺は知らなかった。月の照らす海は美しいことを。太陽の眩しさと温かさを。大地の実りを、自然の息吹を。数千年もあって地上に興味がなかったのを、今思えば勿体ないとすら思う」
「……!」
「勘違いするなよ、別に大魔王の邪魔をしようというわけではない。ただ惜しんでいるだけだ、これが失われる未来を」
その言葉は酷く落ち着いたものであった。
だがそれはミストバーンにとって看過できないものであった。
地上が失われる未来。それは偉大なる主である大魔王バーンの悲願であり、決して邪魔されてはならぬものだ。
だが今呪怨王はそれを「惜しい」と言った。
それは大魔王の計画を邪魔する可能性があるのではないか――?
そう考えたミストバーンの殺気が高まる。それと同時に白い衣の袖口から鋭利な爪が露わになった。
明確に向けられる疑念と敵意に、ブラッドは小さくため息を吐いた。
「……邪魔はしないと言っただろう。忠犬も行き過ぎると主を困らせるぞ」
「!!」
「まあ落ち着け。波の音でも聞いて心を鎮めるといい」
そう言って視線を外すブラッドの姿に、ミストバーンは抗議を込めて静かな怒りを乗せた爪を構えた。
だがそれが分かっているにも関わらずブラッドはまるで興味がないように目を閉じて耳を澄ませている。
潮騒の音が静まり返った海岸に響き渡る。
数分か数秒か。
呪怨王は無防備なその姿をさらし続けた。すぐ傍に敵意があるにも関わらず、無警戒を貫くその姿にミストバーンは訝しむ。
……何故そのような姿を晒しつづける? 自分は警戒に値しないとでも?
そう思えば先の怒りも相まって鋼鉄の爪が刃のように伸びあがる。小波が二人の足元を濡らした次の瞬間。
ミストバーンは超高速で爪牙を振るった。
「相も変わらず短気だな影(ミスト)。千年以上前だったか? 俺がバーンの配下を蹴った時も無礼と言って同じことをしたな。懐かしい」
「……!」
突然の襲撃にしかし、ブラッドは全く表情を変えなかった。
ミストバーンの鋭い一撃は確かにブラッドの首筋を切り裂いている。だが切り落とすまでにはいっていない。
月明かりが反射する爪牙は確かにブラッドの首の半ばまで食い込んでいたが、切り落とせなかったのはなぜか。
その答えはブラッドの血にあった。
「オラ早く抜け。喋りづらくて仕方ないっての」
噴水のように溢れ出す真っ黒な血液によって、ミストバーンの鋭い爪牙は一気に腐食していたのだ。
一瞬前まで月明かりに輝いていたそれは見る影もなく真っ黒に染まっており、今にも崩れ落ちそうである。
首の半ばまで食い込んだはずのそれを、ブラッドはつまらなさそうに見つめて呟いた。
「ご自慢の爪が真っ黒だな。自業自得だが」
「……失念していた。魔族の姿をしていようと、相も変わらず暗黒闘気を超える瘴気の血液だな」
「お、喋った。うっかり者め」
「!」
ミストバーンは慌てて爪を引き抜くと、止む無く腐食部分ごと手を切り離す。再生能力のある魔族としては当然の判断であった。
衣の奥に隠された眼差しがギラリと怒りに輝く。
意図せずして言葉を漏らしてしまったことも加え、ミストバーンの白い衣は怒りに震えていた。
ブラッドは回復呪文(ベホマ)を使ってさっさと首の傷を治すと、鬱陶しげな眼差しをミストバーンに向けた。
「全く嘆かわしいことだ。俺は積極的に争う気などないというに、どいつもこいつも喧嘩を売りやがって。胃が痛い」
『……そう言ってやるな。そやつは余の命令を忠実に守っただけのことだ』
低く、落ち着いた声が海岸に響き渡った。
その声の主をブラッドは知っていた。否、魔界でその正体を知らないものはいなかった。
銀の髪が月明かりに浮かび上がる。
月の光を背に、大魔王バーンの映像が映し出されていた。
「……久しいな大魔王。相変わらずけったいな術で寿命を保っているようで」
『久しいな呪怨王。ふふ、ヴェルザーや貴様のような不死身性は流石の余にもないものでな。老いのない生が羨ましい限りだ』
「それはどうも。で? 右腕を寄越してまで何の用だ?」
呪怨王の問いに大魔王はにやりと口元を歪めた。
『何、数千年もの間沈黙を保っていた貴殿が今になって地上に来た理由が知りたくてな。しかもハドラーを倒した勇者と共にいたとか……どのような風の吹き回しだ?』
「偶然の出会いに決まってるだろ。俺自身はあの時から変わらず計画の邪魔をする気はないよ」
『……変わらぬな。賭け事の時もそのようなことを言ってまだ続けるか』
数百年前のことだ。
大魔王と冥竜王、そして呪怨王は一つの賭け事をした。
互いに各々の戦略を進め、成功したものに従うという賭けを。
当時魔界を二分していた大魔王と冥竜王は敵対しており、呪怨王はまだ別の名で呼ばれていたジオン大陸に反戦派の魔族を集め始めたばかりでのことだった。今思い返しても不思議だ、とブラッドは思う。
あの時大魔王は地上を消滅させることで太陽を手にする、冥竜王は地上ごと全てを手に入れる、と宣言した。
そして呪怨王は――。
「地上になど興味はない。俺は俺の民を守るから好きにしろ。……違えたつもりはないが、今思い返せば笑止ものだな」
罰が悪そうにブラッドは頭を押さえた。ここ一週間の出来事を振り返れば何も言えない。
しかしそんな呪怨王に対して大魔王は愉しげに声をかけた。
『いいや? 貴様は何も変わっておらぬよ』
「ふん、よく言う。今の俺は少なくとも地上を消すのは惜しいと思っているよ」
『だが惜しんでいるだけで余の邪魔をする気はない』
その言葉に呪怨王は赤い目を伏せ沈黙した。
だが何よりも雄弁に語るその姿に、大魔王は堪らず笑い声を上げた。
『クックックック……慣れぬことはせぬ方が良いぞ。今の貴様は姿もそうだが精神性も若い。否、幼いというべきか?
その状態では老成した余と言葉遊びをする余裕もないだろう』
「……誰のせいでそうなったと。千年前、お前に受けたダメージのせいで身体を作り直す羽目になった怨みは忘れてないぞ」
『ふ。余とてあの時ばかりは命の危機を感じたわ。つくづく我が傘下に入らなかったのが惜しいことだ』
千年前の出来事を思い出したのだろう。大魔王は整えられた顎髭を撫でると、砂浜から動く気配のない呪怨王に尋ねた。
『……それはそれとして、呪怨王ともあろう者が海で一晩明かす気か? 破天荒なことだ』
「育ちの良いお前と違って俺には珍しくもないことだ。俺の流儀は知っているだろう?」
『呪には呪を。恩には恩を。成る程、故に勇者も見逃す、か』
「俺にとってはその価値があった。それだけだ」
その言葉に大魔王はゆっくりと目を細めた。
愉しげだった眼差しが理解できないようなものを見る眼差しに変化する。
顎に手を当て、大魔王は微かに首を傾げた。
『……相も変わらず狂った存在よな。余には理解できぬ。
反戦派の魔族を纏め上げて領地を作り、守り人の真似事を楽しむ一方で、黒の核晶のようなすべてを無に帰す超兵器を生み出したあの時と変わらぬ、
貴様は矛盾している』
「そんなことは分かってる。俺は初めからオカシイのさ」
自嘲したように呪怨王は首を縦に振った。
「それに勇者にも変わり者と呼ばれたよ。俺からすればお前が言うな、と言ってやったけど」
『ふ、はっはっは! そうか、勇者にすら言われたか。人間の勇者も豪胆よな。まあ貴様の正体を知らぬから言えることであろうが……』
「……。もう良いだろう、勇者のことは。
……ああそうだ、気になってるだろうから言っておくが、今回は後一週間で魔界に帰るから安心しろ。ここで暴れる気もない」
くっくっく、と喉を鳴らして笑う大魔王に呪怨王は不機嫌そうに眉を顰めた。
そんな大魔王に対する無礼な態度に俄かに従者が殺気立つも、主の視線を感じ取りすぐに平静に戻った。
無言の時が続く。
ゆっくりと口を開いたのは大魔王であった。
『ふふ、ここでは、か。成程。一週間……我らにとって瞬き。否、刹那に等しい時間で貴殿が帰還するというのなら余ももう詮索はすまい。
万一の時の為にミストバーンを送り込んだが……杞憂であったようだ』
しかし、と大魔王は言葉を続けた。
『知っての通り余は慎重な性格でな……貴殿が帰還するその瞬間を見届けねば安心できぬ。
故に、帰還する際は死の大地へ来るが良い。貴殿が『暴発』しないよう、万全の準備をもって帰還ゲートを用意しておこう』
「俺は危険物扱いか! 否定はしないがな!」
『できない、の間違いであろう? 呪怨王』
違いない。笑う大魔王にそう返し、ブラッドはため息をついた。
黒の核晶を作ったとき以前から彼は魔界の住民からはそのような扱いであったのだ。
自領でこそ幾分かマシではあるがそれは例外ではない。
しかし故に呪怨王は大魔王・冥竜王と対等なのだ。
大魔王はその年の刻まれた顔に愉しげな表情を浮かべると、背後に控える腹心に目を向けた。
『……呪怨王の意思は確認できた。ミストバーンよ、そなたも戻るが良い』
「はっ」
『ではな、呪怨王。一週間後にまた会おう』
「俺は行くと一言も言ってないぞ大魔王」
『何、律儀な貴様のことだ。招待を受けて来ぬという選択肢はないだろう?』
そう言ったのを最後に大魔王の声は途絶えた。
白い衣が翻る。海に浮かんだ大魔王の姿が消えるのを見届けると、忠実な配下は直ぐに瞬間移動呪文(ルーラ)を行い、海岸にはブラッド一人になってしまった。
大魔王主従の無駄な威圧感のある空気が完全に消えたことを確認すると、ブラッドはため息とともに砂浜に腰を下ろした。
「……胃が痛い」
これだから大魔王と話すのは好きでないのだ。
今頃死の大地でゆるりと過ごしているであろう大魔王に少し毒吐き、ブラッドは空に目を向けた。
どれほどの時間海を見続けていたのだろう。
いつの間にか月は海に沈み、太陽が顔を覗かせようとしていた。随分と長居したようだ。
ブラッドは一度だけポルトスの町を振り返った。
「またな、勇者達」
朝焼けの光が海岸を照らす。
そこにはもう、赤い髪の魔族の姿はどこにもなかった。