チェンジ、メタリック千雨!   作:葛城

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こち亀も終わりを迎えて幾しばらく。秋の深まりとともに姿を見せる冬の腕の向こうに佇む、変態が一人


修学旅行は波乱万丈!? 中編

 

 

 ……翌日。

 

 すわ復讐か、と警戒していた千雨を出迎えたのは、何でもない。千雨の望んでいた、普通の修学旅行二日目であった。

 

 もしかして、あいつらが襲ってくるんじゃねえだろうな?

 

 と、思って一人警戒はしていたのだが、どうやら心配のし過ぎだったのかもしれない。碌に食事も喉を通らないその姿に周囲から心配の目を向けられていたが、それも今は昔。

 

 張りつめていた緊張感も午後になると少しずつ緩み始め、夕方になる頃にはすっかり気を緩めて、こっそり千鶴と一緒に甘酒を飲んだりしていた。

 

 なんやかんや言いつつも、千雨もしっかり修学旅行を満喫していたというべきか。

 

 まあ、クラスメイトの宮崎のどかが、担任であるネギに愛の告白をした、という話を(いわゆる、盗み聞きである)耳にすれば、力も抜けるだろう。

 

 不特定多数の(ネット)アイドルである千雨からすれば、「リア充爆発しろ!」である。女子中学生の千雨からすれば、「お前ふざけんな!」である。

 

 やきもきしながら心配している傍で、ストロベリーチックな青春を送られるのである。あまりそういった物事に興味が薄い千雨とて、少しは妬み(隣の芝生は青いというのが近いのかもしれない)の念が浮かぶというものだ。

 

 ……実のところ、気が緩んだ最大の原因は、千雨の零した「私だって、彼氏の一人もいたことねえんだぞ……」という愚痴を、クラスメイトに弄られたことだったりする……のは千雨だけの秘密である。

 

 ……けれども、だ。

 

 何だかんだ言いつつもそれなりに修学旅行を楽しんでいた千雨ではあったが、結局千雨の心の中に、あの少年の姿が消えるようなことは無かった。

 

 少しばかり……あの少年に対して思うところがあった。

 

 それは、不安から来る警戒心であった。何せ、相手は(特に、あの少年は)普通の人間ではない。詳細は不明だが、ネギたちのようなファンタジーに分類される者であるのはまあ、間違いない。

 

 そんなやつらが、己の近くにいる。それは、千雨にとって紛れもない恐怖である。

 

 己を狙っているわけではないが、とばっちりを受ける可能性は高い。というか、既にクラスメイトが実害を被っている以上は、だ。その実害が何時こちらに及んだとしても、おかしくはない状況だ。

 

 あの時のアレで警戒を抱いて、引いてくれれば……そして、このまま最後まで何事も無く終わってくれたらなぁ……。

 

 修学旅行を楽しみつつも、不安は少しずつ膨らむばかり。大浴場にて、千鶴の尋常ではない視線にさらされながら、千雨はそんなことを考え続けていた。

 

 そうして、けれども、まあ、現実はそう都合よく動いてくれることなんて、あるはずも無く。

 

 その騒動が起こったのは、その日の夜。正確に言い直すのであれば、修学旅行二日目の夜……入浴を終え、消灯時間が差し迫ろうとしている時のことであった。

 

 

 

 

 ……時刻は22時40分。消灯時間である22:00を40分も過ぎている。当然ではあるが、テンションの上がった女子中学生が眠りつくわけもなく、大多数の生徒はまだ起きていた。

 

 特に、千雨が所属する3-Aなんて、喧しいの一言だ。酒騒動(酒が混入されていた、あの事件)によって貴重な一夜が潰されたせいもあってか、部屋の中にいても彼女たちの興奮が伝わってくるようであった。

 

 まあ、それは千雨とて同じだ。不安と睡眠不足と疲労が相まっているとはいえ、千雨とて年頃。普段と違う、修学旅行独特の空気の中では、22時という消灯時間は些か早すぎた。

 

 しかし、眠くならないわけではない。なので、クラスメイト(同じ班部屋の、千鶴、あやか、夏美、ザジである)が集まってお喋りをしたり、他の班部屋へ(千雨は面倒なので断った)遊びにいったりしているのをしり目に、千雨は一人部屋に残っていた。

 

 幸いなことに、麻帆良の教師陣は他の学校と比べて、比較的寛容な部分が多い。今、こうして千雨がノートパソコンを持ち込んでいるのもそうだが、班部屋で大人しくしている分には基本的にお咎めが無いのである。

 

 そうして一人心行くまでネットの世界を楽しんでいる千雨の耳に聞こえてくるのは、学園広域生活指導員の一人である、通称『鬼の新田』先生の怒声。

 

「あいつら捕まったのか……ていうことは、そろそろこっちにも見回りが来るな……」。

 

 時計を確認すれば、なかなか良い時間であった。

 

 まあ、普段の千雨は夜更かしなんて当たり前のようにこなしたりもするが、さすがに今日みたいに疲れている日に夜更かしなんてしないし、する気力も湧かない。

 

(……ねみぃ、さすがに今日はもう無理だな)

 

 そろそろ、眠気も限界に強い。電源アダプタにて充電を確認してから、布団の中に潜り込むこと数分後。フッと意識が眠りの中に入った……その、瞬間。

 

 

 

 

 スーパーマンも顔負けなハイパースペックとなったさすがの千雨も、目が血走ったあやかの手によって叩き起こされることとなるとは夢にも思っていなかった。

 

 

 

 

 ――さて、後は寝るだけ。

 

 そう思って気持ちよく眠ろうとしているところを起こされたとき、たいていの人間は不機嫌になる。というより、機嫌を悪くしない人間は、いないのではないだろうか。

 

 それはもちろん、千雨とて例外ではない。

 

 しかし、そんな千雨の胡乱げな眼差しもなんのその。逆に押し潰す勢いでされた強いお願いに、しばし千雨は頭が理解を拒んで困惑に目を瞬かせる他なかった。

 

「…………はあ?」

 

「私、不機嫌です」というニュアンスがこれでもかと込められた疑問符を、千雨は目の前に居る、あやかに送った。けれども、鼻息が荒いあやかには通用しなかった。

 

 彼女の傍には、千鶴がいる。何時ものようににこやかな笑みはそのままだが、どうしてだろう。妙に疲れているというか、「あやか、少し落ち着いたらどう?」と困った様子であった。ちなみに、千鶴の進言は全く届いていなかった。

 

(……あのさぁ)

 

 身体を起こし、枕元に置いたメガネをかけ直しつつ千雨はため息を吐く。「そんな体たらくでは困りますの!」と鼻息を荒げるあやかを、千鶴と二人掛りで宥めながら、平和って短いもんだなあ、と内心、愚痴を零した。

 

「とにかく、さあ千雨さん! 私と一緒にこれからネギ先生の唇を死守するんですのよ!」

 

 そう宣言するあやか(いつの間にか名前呼びされるようになった。ちょっと、気恥ずかしい)から、はい、と枕を二つ差し出された。

 

 ……なんか、また暴走していやがる。(いくら美人でも、こうなったら色々駄目だろ)と思いつつ、いつの間にか離れた所に移動している千鶴に視線を向ける。

 

 胡乱げな千雨の視線を向けられた千鶴は、いつもと同じく、飄々とした笑顔を見せていた。何度か千雨の方へ目をやりながらも、のんびりと鏡台の前に座って髪を梳かし……ことりと、千鶴は手櫛を鏡台に置いた。

 

「……なあ」

「あ、そうだわ」

 

 パン、と千鶴の手が合掌する。そのまま千鶴はそそくさと千雨へ背を向けると、我関せずと言わんばかりに「私、おトイレに行ってきます」と部屋を出て行ってしまった。その後ろを、夏美とザジがこそこそと続いていくのを、千雨は苦々しい思いで見つめた。

 

(……あいつら、逃げやがったな……くそったれ)

 

 どうやら、孤軍奮闘になりそうだ。千雨は二度目となるため息を吐きながらも、差し出された枕を腕で押し返した。

 

「とりあえずは、だ。なぜ、ネギ先生の唇を死守することになったのか、まずそこから教えてくれないか?」

「『くちびる争奪! 修学旅行でネギ先生とラブラブキッス大作戦!?』ですわ!」

 (……あ、いかん。これは面倒な話になるぞ)

 

 開口一言目に、千雨は思った。相手は日本語を話している。宇宙製である千雨の頭脳も、あやかが口にした言語が日本語であると判断している。

 

 だというのに、千雨はあやかの口にした日本語がどういう意味であるのか、分からなかった。というより、分かりたくないと思った。

 

「どうなさいましたの?」

 

 心底不思議そうに首を傾げるあやかの姿を前に、(あれ、私の疑問は何も間違っていないよな?)と思い、千雨は頬を引き攣らせた。

 

「……ああ、いや、うん。何からツッコミをいれればいいのか分からなかったんだけど、どうもいいんちょの顔を見ていると、それが無粋なことであることが分かってなあ……」

「なんだか腑に落ちませんが、理解してもらえて何よりです。さあ、これを!」

「さあ、これを、じゃねえよ! 私が聞きたいのはそこじゃねえよ。普段あんだけ頭良いのに、なんで時々こうなるんだよ」

 

 再び押し付けられた枕を、千雨はまたもや押し返した。

 

「とりあえず、その、なんだ……その、ラブラブキッス大作戦ってやつ? タイトル聞くだけでだいたい内容は分かった」

「理解が早くて助かります。では、これを!」

「だから、これを! じゃねえよ!」

 

 三度押し付けられた枕を、千雨は鬱陶しげに押し返した。

 

「あたしが言いたいのは、なんであたしが参加することになっているってことだよ! 他にもいっぱいいるだろ、こういった催しが好きで、運動神経抜群のやつが!」

「残念なことに、参加できるのは同じ班から二人だけですの。千鶴さんと夏美さんは体力面に不安がありますし、ザジさんは不参加だそうで……千雨さんしか残っておりませんの」

 

 しれっとした表情で言われて、思わず「あ、なら、あたししかいないか……」と納得する。だが、枕を一個受け取った辺りで、己の参加する理由が無いことに思い至り、枕を返した。

 

 瞬間、あやかの顔に浮かんだ表情を見て、千雨は内心冷や汗を掻く。どうやら、あやかは色々な意味で本気のようであることを、今更に千雨は悟った。

 

 しかし、いくらあやかが本気であるとはいえ、千雨からすれば、どうでもいい話である。正直、勝手にやってくれ、というのが本音である。

 

 先ほど聞こえてきた新田の怒声を思い出すに、次に見つかれば、どうなるか分かったものでは無い。いくら何でも、こんなしょうもない理由で説教されるのはごめんである。

 

「いいんちょが参加するのは勝手だけど、それをあたしに言われてもなあ……今回は運が悪かったと思って諦め――」

 

 その時であった。あやかの細い両腕が、千雨の肩を掴んだのは。千雨の視力をもってしても捉えきれなかった、その素早さに、千雨の背筋に怖気が走る。

 

 すらりと浴衣の袖から伸びた両腕は、色白で、華奢で、綺麗で……そんなふうに感想を思い浮かべていた千雨の目の前で、あやかは、千雨の肩からそっと両腕を離した。

 

 そして、静かにその両手を床に下ろすと……千雨の眼前で、あやかは土下座をした。額を布団に擦りつけるぐらいの、見事な土下座である。

 

「ちょ、おま!?」

 

 これにはさすがの千雨も驚きに狼狽する。思わずあやかを抱き起そうと手を差し伸べると……その手を、がっしりと掴まれた。「ひぃ!?」と悲鳴をあげる千雨。

 

 ぎゅうっと、掴まれた腕に指が絡みつく。細い腕から伸びた、さらに細い指先が、白くなるぐらいに強く、指先が腕に食い込む。半端ではない力の入れようだ。

 

「……さん」

「え?」

 

 ポツリと呟かれた言葉に、千雨は思わず聞き返し……直後、後悔した。このまま聞かなかったことにして腕を振り払えば……と思ったからであった。

 

 ゆっくりと、あやかは顔を上げる。徐々に露わになっていくその顔を見て、千雨は息を呑んだ。

 

「千雨さん、お願いですわ」

 

 そこには、力強い意志に基づいた、並々ならぬ決意があった。思わず、こいつなら、と手を貸してしまいたくなる、なにか例えようも無い力が、そこにはあった。

 

 顔の造形も多少は関係しているのだろうが……それだけでは、出せない。美人なだけでは、凡人には決して出せない、そのカリスマにも似た瞳の力に、千雨は抵抗していた手から力を抜く。

 

 すると、それを見計らったかのように、もう一本のあやかの腕が、既に抑えている手の上に重ねられて、千雨の手を握りしめた。

 

 普段はあまりそういった面を見せない彼女だが、やはり根っこは庶民と違う。さすがは世界でも有数の財閥である、雪広財閥の娘にして、幼いころから数々の英才教育を受けてきているだけのことはある……ということだろうか。

 

「千雨さん、お願いですわ……私に、力をお貸し願えますか?」

 

 縋るように、あやかは千雨の手を握りしめて、願いを込める。千雨の助力を願って、自らの願いを込めて、千雨へお願いする。

 

(……こいつ、そこまで)

 

 純粋な願いは、人を動かす。それはもちろん、千雨も例外ではない。不思議な光を放つあやかの瞳に惹かれるかのように、千雨はゆっくりと唇を開いた。

 

「他を当たってくれ」

 

 ――その直後、千雨はあやかの手によって投げ飛ばされた。後日、パソコンの部品を奢って貰える見返りに、半ば無理やり参加を決定させられることとなった。

 

 このときの千雨には知る由も無かったが、たとえ千雨が拒否をしようが何をしようが、この時点で、千雨はあやかの手によって参加することが決まっていた。

 

 というのも、既に出場者名に名前を入れられていたからで。何も知らない千雨が、その事を知るのはゲームが終わってからであった。

 

 

 

 

 静まり返ったホテルの廊下を、足音を立てないように千雨は進む。「おそらく、新田先生はロビーから他のクラスを中心に見まわっていると思います。なので、ロビーは避けて行きましょう」。そうあやかに指示された千雨は、大人しくあやかの背中を追った。

 

 足音を立てないように、階段をゆっくり上る。チラリと視線を、目の前を進むあやかの背中へ向ける。なんとなく、邪なオーラが立ち上っているような……そんな気がした。

 

「……そろそろ23時になります。援護の程、お願いしますわね」

 

 腕時計にて時間を確認していたあやかの言葉に、千雨は欠伸を噛み殺しながら、頷いた。手に持った枕を脇に抱えて、面倒くさそうに頭を掻くと、「こら、まじめにおやりなさい!」と叱責が飛んだ。

 

 真面目に、と言われてもなあ……。

 

 そんな千雨の本音が表情に漏れたのだろう。(別段、隠してはいないが)はた目にも、色々な意味でやる気を出しているのが窺い知れるあやかは、グッと手に持った枕を千雨へと向けた。

 

「もうちょっとやる気をだしなさい! このままでは、ネギ先生の麗しい唇が、どこぞの誰かに奪われてしまうんですのよ!」

「どこぞの誰かって言っても、結局はクラスメイトの誰かだろ……大方、古菲か楓のどっちかだろうし、いいんじゃないのか。どこぞの誰か、じゃなくて、知っている誰か、だし」

 

 枕を両手に持ち直しながら、そう言い返す。むしろ、この二人なら安心して任せられると思うのは己だけだろうかと千雨は自問する。ぐぬぬ、と唇を噛み締めているあやかを横目で見やりつつ、千雨はため息を吐いた。

 

 面倒なことになったなあ……と、千雨は率直に思った。

 

 パソコンの部品(値段は5ケタであるが、恐ろしいことに即決であった。こいつ、おこずかい決めているはずだよな……大丈夫か、と不安に思ったのは千雨の秘密である)をネタにされて参加に賛成したとはいえ、考えれば考える程、面倒に思えてくる。

 

「なあ、いいんちょ」

「なんですか、千雨さん」

「どうして、あたしはこんなことをしているんだろうな」

「もちろん、ネギ先生の唇を守るためにですわ!」

「……そうだったな」

 

 気持ちのいいぐらいに綺麗な笑顔を向けられて、果たして真っ向から否定出来る人間が、どれだけいるだろうか。とてもではないが、千雨には出来なかった。

 

 それにしても、と千雨は背中を向けているあやかを見て、(どうしてこいつ、そこまであのガキに固執するんだろうか?)と首を傾げる。

 

 襟元から伸びたうなじは、どこまでも滑らかで、浴衣に覆われた四肢は、驚くほどにきめ細やかな肌が広がっているのを、千雨は風呂場にて確認している。

 

 程よく痩せた(といっても、あるところにはしっかり脂肪が乗っている)プロポーションは、千雨の目から見ても羨ましいと思える程であり、顔だってそこらあたりのモデルなんかよりはずっと良い。

 

 それこそ男連中が放ってはおかないのではなかろうか……と千雨は思った。

 

(まあ、こいつショタコンだし。あいつも見た目は美少年だからな……いいんちょ的には、ストライクゾーンど真ん中なんだろうか……ていうか、犯罪……というつもりはないんだろうな、こいつ。でなけりゃ、こんな企画に参加なんてしないもんなあ)

 

 そこまで考えて、千雨はため息を吐いた。正直、加勢するのは面倒だが、ここまで来て何もしないのも、少し具合が悪い……かといって、参加するのも具合が悪いのだが。

 

 それに、と千雨は頭を振った。

 

(そもそも、古菲と長瀬の二人が参加している時点で、詰んでいるんじゃねえか、色々と。いくらいいんちょでも、あの二人相手で勝ち目なんてないと思うぞ)

 

 二人の事を考えたとき、真っ先に浮かんでくるのは、彼女たちの身体能力である。

 

 麻帆良に存在する運動系の部活は、公式、非公式を合わせれば、3ケタを優に超えると言われている。バスケやサッカーなど、よくある普通の部活もそれに含まれているが、その中にもちろん、武闘系の部活も存在し、その種類は多岐にわたる。

 

 その中でも古菲は、中国武術研究会と呼ばれる格闘系の部に所属しており、中学生でありながら、部長を務めている程の人物だ。

 

 小柄な体格ながら、その運動能力は素晴らしく、体育の授業では学年記録を当たり前のように更新する、ある意味化け物のような女の子だ。(ちなみに、千雨は平均より少し下である)

 

 又聞きではあるが、その実力は麻帆良全体でも上位にあるらしく、麻帆良武闘派四天王の一角と言われ、一部では崇拝され、また怖れられていると聞く。超の文字が5個は付きそうな、天才格闘少女なのである。

 

 では、残った一人である長瀬楓の方は、普通の女の子なのだろうか……と聞かれれば、誰もが「そんなわけがない」と、答える少女である。

 

 彼女もまた、麻帆良武闘派四天王の一角を務めているのである。さんぽ部という、武術系の部活にこそ所属してはいないものの、その実力は古菲を超える……らしい。

 

 らしいというのも、誰も彼女が本気を出して戦っている姿を見たことが無いからだ。

 

 彼女は時折、古菲に誘われて組手を行っているのだが、一度として明確な決着がついたことはないらしく、明確な実力ははっきりしていない。

 

 それは単純に実力が拮抗しているからなのか、それともお互いに手を抜いてやっているからなのか、それを知るのは、古菲と楓の二人のみ。

 

 どちらにしても、古菲の組手に付き合えるというだけで(並みの相手では、例え古菲が加減していても一瞬で決着がついてしまう)、それなりの実力は裏付けされていることは分かる。

 

 そもそも彼女が古菲より強いと言われるのも、その古菲自身がそう言っているからだ。楓自身は否定しているのだが……今のところ、それを信じる人は少ない。

 

「さあ、23時になりましたわ。今から最後の瞬間まで、決して気を抜かないでくださいな」

 

 固く、枕を両手に握りしめながら、あやかは千雨に告げた。「……なあ、パーツの件無しでいいから、帰っちゃ駄目か?」「駄目ですわ」「……だよな」千雨はメガネの位置を直しながら、ため息を吐いた。

 

 さて、どうしようか。千雨は頭を回転させる。いいんちょ自身の身体能力とてバカに出来るものではないが、いかんせん、相手が相手だ。

 

 まともにやりあったら最後、まず間違いなく敗北してしまうだろう。たかが枕投げで敗北も何もないような気がするが、とにかく武闘コンビを突破するのは至難の業だ。

 

(けど、なあ……)

 

 考えれば考える程、気が滅入ってくる。現時点で、参加しているチームは、全部で五つ。

 

 1班の、鳴滝風香・史伽の双子コンビ。背丈も小さく、そこまで脅威ではないが、その行動力と無鉄砲さはダントツである。

 

 2班の、古菲、長瀬楓の要注意武闘コンビ。言わずもがな、最も警戒しなくてはならないチームである。

 

 そして、あやかと千雨が所属する、3班。あやかの身体能力はかなり高いのだが、千雨自身の能力はそこまで高くない(何か一つでも能力を使えば話は別なのだが)のがネックである。

 

 共に普通の運動部(バスケと新体操)に所属する、明石裕奈、佐々木まき絵の4班。この二人は共に運動能力が高く、油断は出来ない。

 

 そして、残った5班は……図書館探検部に所属する、綾瀬夕映、宮崎のどかの両名である。千雨としては、ネギに告白したのどかの応援をしてやりたいくらいだが……そうもいかないのが、現実というやつか。

 

 参加チーム全員のことを思い浮かべた千雨は、(まあ、5班はそこまで警戒する必要も無いかな)。そう、結論付けた。

 

 彼女たちにとっては失礼な話ではあるが、千雨がそう判断したのも、ある意味仕方がない。なにせ、この二人……身体能力が低いわけではない(かといって、高い、というわけでもない)のだが、なんといえばいいのか……どんくさいのである。

 

 おまけに両名とも体格は小柄であるし、まともな力比べなら、千雨より下だ。そんな二人を警戒しろ、というのも、やりすぎな気がする。それ以前に、のどかの恋心を邪魔すること自体、忍びない気がするのだが……。

 

 ちらり、と。ふんふんと、鼻息荒く先を進むあやかの後ろ姿を見つめる。見れば見る程、並々ならぬ情熱である……恋する乙女のパワーというやつなのだろうか。

 

 さすがに秒殺……されるようなことはないだろう。古菲たちも手加減はするだろうし。けれども、いずれは負けるであろうことは想像するまでもないわけで。千雨は苦笑した。

 

(でもまあ、このまま負けるのは、あたしとしては構わないんだけど……)

 

 少し、羨ましい。同時に、千雨は思った。相手がどうであれ……まあ、倫理的に言えばアウトだろうけど、それでも恋心に押されて行動している、行動できる彼女が、少しだけ、凄いと思った。

 

 恋って、どういうもんなのだろうか。小説なんかで読む話だと、とても苦しいものであると描かれていたり、とても素晴らしいものであると描かれていたり、いまいちコレだ、というようなものは無い。

 

 良い恋、悪い恋、つまらない恋、素晴らしい恋……恋一つとっても色々あり、それは恋をしている人にしか分からない世界らしく……そんな人たちを(女子は、なんやかんや言って、恋愛は話のタネである)、千雨は何度も見てきた。

 

(私なんて、一つ行動するだけで、あんだけ悩んだりしているのに……こいつらは単純というか、なんというか……悩む内容が内容だから、しょうがないんだろうけど……)

 

 ……まあ、なんだ。せっかくの修学旅行だ。ちょっとぐらい、バカやったところで、たいしたことにはならないだろう。そう、思い至った千雨は、自らの甘い考えに、改めて苦笑する。

 

 けれども、悪い気分ではなかった。例えそれが、旅行前日に立てた誓いを破ることだとしても……まあ、既にもう何度も破ってはいるのだから、今更なことではあるのだが。

 

(いいんちょ、今回ばかりは加勢してやるよ)

 

 少し歩調を早めて、あやかの横に並ぶ。横目であやかの様子を確認した千雨は、早速思考演算速度を加速させ、『クイック・タイム』を発動する。

 

 途端、船酔いにも似た一瞬の感覚が過ぎ去る。即座に対外時間と体感時間を適応させた千雨の身体は、瞬時に意識を覚醒させた。

 

(たぶん、これで上手くいっていると思うんだけど)少し不安に思いながらも、「よお、いいんちょ。やっぱりあたし、帰っちゃ駄目か?」と、呟く。

 

「往生際が悪いですわよ、千雨さん」と、あやかから横目で注意された千雨は、その声には何の遅延も感じられず、いつも通りの音声であることを確認した千雨は、こっそりほくそ笑んだ。

 

 名付けて、『簡易クイック』

 

 本来は極限まで演算速度を加速させたことによる、副次的な加速こそが『クイック・タイム』なのであるが、この『簡易クイック』には、そこまでの加速は行わない。

 

 言うなれば、ただこの『簡易クイック』は、自身の反射と体感速度を底上げしただけで。こうやって名前を付けるだけでも、イメージしやすくなるので、とりあえず千雨はそう名付けたのであった。

 

 次いで、千雨は『観測粒子』を放出。散布されたスパイ粒子を二群に分けた。

 

 一つは、自らを起点として、半径数メートルを覆うように。もう一つは、見回りを続けているであろう、新田先生へ向けて。

 

(ごめん、新田先生。今回ばかりは、生徒の思い出作りだと思って許してくれ。あと、いいんちょ、協力するんだから、多少のプライバシーを知られるのは我慢してくれよ)

 

 送られてくる映像を、静かに処理する。新田先生の動向が送られてくるのもそうだが、スパイ粒子の観測内に入っているあやかの情報も、千雨の脳裏には送られてきていた。

 

(よし、これでだいたいは対処……って、おい、そこの角には)

 

 観測範囲ギリギリの地点から送られてきた情報を見て、千雨は思わず息を呑んだ。

 

「ん?」

「あ?」

 

 ばったり。言葉にすれば、そんな感じで、千雨達とまき絵たちは遭遇した。呆気に取られた3(千雨を除く)の顔に、すぐさま理解の色が浮かんでくる。

 

「――っ! い、いいんちょ!?」

「勝負ですわよ、まき絵さん!」

 

 最初に我に返ったのは、まき絵とあやかであった。気合十分で振りかぶったあやかと同じく、まき絵もまくらを振りかぶって……互いの顔面に直撃した。

 

「ぷも!?」と、間抜けな悲鳴をあげて二人が体勢を崩した。まき絵の方がダメージが大きいようで、膝をついただけのあやかに比べ、足元が覚束ない。

 

 それを見た裕奈が動く。膝をついているあやかに向かって、「でかした、まき絵! トドメだ、いいんちょ!」、と腕を振り上げた。

 

 だが、そうやすやすとやらせるわけはない「悪いな、今回だけだから」加速した千雨の身体は、瞬時に裕奈の傍まで接近すると、左足をそっと差し出した。

 

「うわっと!?」

 

 足を引っ掛けられる形となった裕奈が、ぐらりと前のめりに体勢を崩す。けれども、さすがは運動部か。枕をクッションにして、ダメージを最小限に食い止めていた。

 

 チラリと、千雨はあやかに視線を戻す。何度か頭を振りながらも、どうにか立ち上がろうとしていた……のを確認したあたりで、千雨の意識は、背後の階段上から降りてくる古菲の姿を捉えた。その後ろには、のんびりと後をついてくる楓の姿があった。

 

(あ、やべ)

 

 反射的に振り返りそうになった千雨は、寸でのところでそれを堪える。チラリと、古菲の視線が千雨の背中を……正確には、千雨の前で崩れている二人の姿で止まった。直後、楽しげに弧を描いていた古菲の頬が、さらに吊り上った。

 

 ――エモノ、発見アル!

 

 そう、古菲は小さな声で歓声を零すと、後ろにいた楓から枕を一つ奪い取り、駈け出した。日に焼けた褐色肌と、浴衣の奇妙なコントラストが、照明の明かりによって陰影をつける。とっとっとっ、中学生とは思えない軽やかな動きで距離を詰めた古菲が、音も無くジャンプした。

 

 ……危ねえだろ、おい。

 

 そう小さく愚痴を零した千雨を他所に、古菲は両手に持った枕をあやかと裕奈に。片足の指で器用に掴んでいた枕を、千雨へと放った。

 

「チャイナピロートリプルアターック!」

 

 中々の速さでもって放たれた二撃が、あやかと裕奈の頭に直撃した。その威力に耐え切れなかった二人は、くぐもった悲鳴と共に体勢を崩した。物が枕とはいえ、まともに投げつけられれば相応に痛い。

 

 加えて、投げたのが麻帆良四天王の一人、古菲だ。小柄だがそのパワーは常識の外を余裕で突っ走る。男顔負けの瞬発力を用いて放たれたその一投は、寸分の狂いもなく千雨へと向かっていた。

 

(当たったら痛そうだな)

 

 しかし、今の千雨には、それは遅いし丸見えである。ほぼ死角の位置から放たれた一撃を、千雨は落ち着いて避けた。この程度、今の千雨には造作も無かった。

 

 いちおう『偶然にも避けることが出来た』というのをイメージしたのだが……残念なことに、古菲には通じなかった。古菲はピクリ、と己の目じりを痙攣させると、浮かべていた笑みをさらに深めて「にょほほほ」と楽しそうに笑った。

 

「そういえば千雨はあの図書館島の地下を行き来出来たアルね……少し本気でいくアルよ!」

 

 そう言い終えるが否や、古菲は千雨へと蹴りを放った。その指先が抓んでいるのは枕だ。驚いたことに、古菲は足の指を使って枕を叩きつけに掛かったのである……が。

 

 『簡易クイック』を維持したままの今の千雨には、大した意味はない。普通ならまともに食らうであろう奇策染みた一撃も、千雨は顔色一つ変えることなくさらりと避けた。

 

 と、同時に、千雨は仰け反るように身体を捻る。途端、顔の位置を枕が通り過ぎた。腰を軸とした、ほぼ真上へと放たれた後ろ蹴り。それが空を蹴ったことを察知した古菲は、その場に手を付いて、そのままの勢いを利用して全身を捻じり、回し蹴り(with枕)を繰り出した。

 

(――やっ、これ無理――ったぁ!?)

 

 内心ではそんな悲鳴を上げながら、千雨は衝撃と共に一瞬ばかり目の前が白く揺れた。いくら加速しているとはいえ、千雨の精神は常人のそれで、体捌きは素人だ。見えていても避けられない攻撃を前に、千雨はたたらを踏んで尻餅を付いた。

 

 それを見て、ようやく復帰したあやかとまき絵と裕奈の三人が一斉に戦場へと舞い戻る。とにかく手当り次第に枕を振り回す三人と、余裕を持って迎え撃つ古菲。三つ巴の大乱戦と成り果てた戦いは徐々に激しさを増し、あっという間に誰が誰を狙っているかすら分からない状況となってしまった。

 

(下から来たかと思ったら、真横から飛んでくる……加速しても対処できないとか、どういうことだよ!)

 

 その中で、一人。幾分か苛立ちを覚えながら、ずれた眼鏡を戻した千雨が立ち上がる。「大丈夫でござるか~?」戦いに参加せずに静観している楓から気遣われたので手を振ってやり……乱戦を前に、千雨は深々とため息を零し――はっ、と、その視線が彼方へと向けられた。

 

 ――ヤバい。

 

 そう思った時にはもう、千雨は反撃しようと体勢を立て直しているあやかの手を強引に奪い取って、素早く走り出した。「ち、千雨さん!?」目を白黒させているあやかをしり目に、千雨は構わず走った。

 

 ――新田がすぐそこに来ている! 見つかる前に逃げるぞ!

 

 傍目からでも焦っているのが分かる千雨のその悲鳴に、げげっ、と汚い悲鳴を上げたのは誰が最初だったか。さすがの武闘コンビも新田の名前には我先にと逃げ出し、局所的第一次唇奪い合い合戦は双方痛み分けという形となった……が。

 

 そこが、千雨の限界であった。

 

 さすがに、これ以上続けるのは千雨の体力的にもつらい。もう疲れたという千雨の泣き言をあやかが聞き入れ、途中棄権(リタイヤ)という形で千雨がゲームを降りることとなった。

 

 ショタコンであると公然の噂であるあやかがよくもまあ許したと驚くところかもしれないが、あれで意外と面倒見が良い。いくら暴走しているとはいえ、己の欲望の為にそこまで無理強いする程傲慢な性格ではない。

 

 役職ではあるが、伊達に『いいんちょ』という渾名で呼ばれているだけあって、クラスメイトの成績は把握している。

 

 なので、体育の成績がよろしくない千雨の『体力の限界』という言葉を疑うことはなく、「ありがとう」と言い残して颯爽とネギ先生を求めに行った……のを、千雨は心底うんざりした顔で見送って……泥のようにその日は眠りについたのであった。

 

 ……そうして、翌朝。

 

 そっと枕元に置かれたお菓子と、『ごめんね』と書かれたメモ。すやすやと寝顔を見せている夏美、ザジ、千鶴の三人を見て……それはもう深々とため息を零したのであった。

 

 

 

 

 ――京都修学旅行三日目。AM6時40分。今日は、完全自由行動の日。気づけば、修学旅行の工程は折り返し地点を通り過ぎていた。

 

 

 

 

 ほぼ徹夜なのに疲れを微塵も見せず元気にはしゃぐクラスメイトの体力に密やかな戦慄を覚えていたりする千雨を他所に、思い思いに京都の街並みへ散って行った3-Aの各班。その中で、千雨達3班は、京都太秦シネマ村へと観光に来ていた。

 

 京都といったらシネマ村。シネマ村といったら、コスプレ。衣装を着こまず何のためのシネマ村か。

 

 そう宣言し、シネマ村への直行を決めたのは、誰が最初であったか。新選組の衣装を身に纏った女性が、千雨の横を通り過ぎる。白粉を顔に塗りたくった厳つい男を遠目で拝見しつつ、千雨は己が巫女衣装の裾を、そっと抓んだ。

 

(やっぱり、こういうのは黒髪じゃないと似合わねぇな)

 

 千雨の髪は、どちらかといえば茶色に近い。染めているのではなく、色素が生まれつき薄いせいだ。千雨自身の採点では……せいぜいが45点といったところ。そうしてふと、千雨の視線が隣を歩くハーフ美少女へと向けられた。

 

「……いやあ、美人って、得だな、おい」

「――何か、おっしゃいました?」

「美人は得だなって言ったの」

「あらまあ、美人で御免あそばせ」

「似合っているから余計に腹が立つなあ、おい……」

 

 その言葉に、花魁衣装にメイクアップしたあやかが、振り返った。さらりと揺れた着物に刺繍された花々が、清廉とした彼女の印象を、より華やかにしていた。

 

 着物って、確か寸胴体型の方が似合うはずだったような……うろ覚えな知識から、千雨は首を傾げる。けれども、相手は雪広財閥の娘。そんな着物の弱点を全く感じさせず、見事に着こなしていた。

 

 ……というか、あの長髪をどうやって入れたのだろうか。綺麗にカツラの中に収まっているのを見て、どうにもこうにも右に左に首を傾げていたのは彼女には秘密である。

 

 そんな千雨の内心を他所に、千雨の正直な賛辞を聞いたあやかは、逆に千雨の姿を見て、「でも、千雨さんの方がお似合いだと思いますわよ」と破顔した。

 

 あやかが褒めるのも、無理ではなかった。千雨自身はあまり気にしていないのだが、一般的水準から言えば、千雨はかなりの美少女である。(もちろん、ある程度は自覚しているのだが……まだ、甘い)

 

 ネット限定ではあるが、ランキング上位を常にキープするトップアイドルの名は伊達ではない。普段はやぼったいメガネを着けて、目立たないようにこそしているものの、素地は良いのだ。

 

 おまけに、千雨自身はそんなに大きくないと思っている肉付きも、客観的に見ればバランスよく育っていると言っていいものだ。(というより、比べる対象が対象である)

 

 平均より上なのは確実であり、少なくとも、同じ班の夏美が「中学生のスタイルじゃないよ……」と一人落ち込んでいる程度には大きいし、要所が細いのであった。

 

 ちなみに、その夏美の恰好は大正当時の女学生の間では一般的であった袴姿。

 千鶴は同じく大正時代における御洒落男子の定番である燕尾服。

 ザジは男性用の袴……というよりは、時代劇では定番の肩衣が付いた武家の正装となっていた。

 

「うんうん。私もそう思うよ。千雨ちゃん、本当に肌綺麗だし、もっと露出した方がいいと思うんだけどな……あ、良い匂い。千雨ちゃん、何か香水付けた?」

 

 あやかの言葉に賛同した和美が、顔を千雨のうなじに近づけた。今の和美の恰好は江戸時代等における野武士のそれであり、言うなれば時代劇における浪人……妙に、似合っている。

 

 まあ、そんな和美の着こなしは別として、良い匂いという感想に興味を引かれた他の三人が千雨の傍に近寄ってくる。思わず千雨は肩をすくめて逃げるが、和美も混ざった四人は構わず鼻を鳴らした。

 

 ――元来、千雨はそういったスキンシップは好まない。今が天下の往来であったこともあって、くんくんと鼻を鳴らしている四人の額に千雨は苛立ちを込めて凸ピンを食らわしてやると、彼女たちは誤魔化すように笑みを浮かべた。

 

「いきなり人の臭いを嗅ぐな、ばかたれ」

「いやあ、めんご、めんご。ところで、結局は香水付けているの?」

 

 こいつ、謝る気があるのか……いや、無いな。和美の質問を無視しようかとも思ったが、止めた。和美のフレンドリーなスキンシップは、今に始まったことではない。

 

 というより、3-Aは基本的に距離感が近くてスキンシップが激しいので、もはやこれぐらいは慣れっこというべきか。そう思い至り、苦笑してため息を吐いた千雨は、「いや、香水なんて付けてないよ」と、首を振った。

 

 実際、千雨は香水を付けてはいない。さすがに制汗スプレーぐらいは軽く振ってはいるが、それだけだ。目に見えるモノが全てであるネットアイドルであるから見た目には気を使うが、映像越しでは絶対に分からない部分にはあまり金を使わない……それが千雨であった。

 

「ふ~ん……ってことは、これって千雨ちゃんのたいしっぐほぉ!?」

「終いには殴るぞ!」

「も、もう殴ってます……腹は、腹は止めて……さっき食べたあんこがでちゃうから……!」

「自業自得だ……おい、ザジ、お前までなんだよ」

「いい匂い」

「お前もか、ザジ」

 

 ある意味滅多に見られない同室の意外な行動に、思わず千雨は肩の力が抜ける。幾分か顔色悪そうに腹を押さえる和美と、あちらやこちらやと幾分か慌てた様子で空気を変えようと店を指差す三人に引っ張られるがまま、千雨は……そっと、ため息を零した。

 

 ……とはいえ、実のところは、だ。

 

 一見すれば気分を害しているように見える千雨ではあったが、その実……千雨はそこまで機嫌を悪くはしていなかった。いや、全く気にしていないというわけではないが、それでも機嫌の数値は正の数字を維持していた。

 

 何故か?

 

 それは単に、目下の心配事である『ネギ先生』の問題から解き放たれたから。というのも、千雨は今朝方(例のアレで盗み聞きした)になって、ネギ先生がこの自由時間中に『親書』なる物を届ける為に完全な別行動を取るということが分かっていたからであった。

 

 ――千雨自身、その『親書』というやつがどういうものなのかは知らないし、知りたくもない。

 

 しかし、その『親書』の存在によって自分たちに少なからず嫌がらせされたのは、状況証拠的にも、ネギの発言から考えても、妥当な線である。

 

 だから、千雨としては、だ。

 

 そういう物騒な物がさっさと所定の相手に渡ってくれれば、当のネギ先生はもちろんのこと、こちらも安全となる。それが、千雨にとっては何よりも重要なことであった。

 

 何せ、ネギ達を狙っている(正確には、親書の方なのだろうが)相手方はあまりに危険すぎる。真剣という凶器を振り回すだけでなく、その事に対して微塵の躊躇いもない。

 

 そのうえ、その相手方は『魔法』というとんでもパワーを発揮するとなれば、千雨の不安は急上昇。なまじ、相手方の顔とその力が分かっている分だけ、余計にそうだ。

 

 ……私には無理だ。切った張ったなんてのは、テレビの向こうだけで十分だ。

 

 それが、現時点における千雨の正直な気持ちであり、偽りのない本音であった。

 

 千雨にもう少し勇気があれば、話は違っただろう。千雨にもう少し度胸があれば、心は違っただろう。しかし、千雨にはそのどちらもがない。あの時は感情が降り切れたことで何とかやれたが、今は無理だ。

 

 あの晩から一日経って、二日経って、千雨は改めて自覚してしまった。やはり、自分には無理なのだ。明日菜のように子供だからといって率先して助けに向かう度胸と勇気もなければ、桜咲のように真剣を前に立ち向かえる信念もない。

 

 ネギたちがあの晩にて見せた戦いを思い返すだけで、気が重くなる。加えて、あの謎の少年……ホムンクルスであるらしいあの少年の事までも思い返せば、足が震えてしまいそうで堪らない。

 

 結局、千雨は千雨なのだ。千雨以外の、何者でもない。どれだけその肉体が常識を超越し、この星を容易く滅ぼすに足る機能を有していたとしても、それを司る千雨は……年相応に臆病であり、年相応に普通でしかなかった。

 

 だからこそ、余計に千雨は嬉しかった。一時はどうなるかと思ったが、何もかもが万々歳な方向へと動いていることが分かった今、千雨は中々に機嫌が良い状態であったのだ。

 

(何が書いてあるかは知らねえけど、それさえ渡してしまえばとばっちりも無くなるし、あのガキも平穏無事に観光が出来るだろうし……やれやれ、ようやく肩の荷が下りた気分だ)

 

 心配ではあるが、盗み聞きした限りでは明日菜がネギの傍に付いている。桜咲も陰ながら手伝っているようだし、昼間なら、相手側も一昨日のような悪戯がせいぜいのはずだ。

 

 さすがに、一昨日の夜のような事……真剣やら魔法やらが飛び交う危険極まりない事態にはならないだろう。皆が寝静まったあの晩ならまだしも、こうまで人の往来が激しい場所でそんな騒動を起こせば……考えるまでもない。

 

 つまりは、だ。将棋で言えば、王手を掛けたに等しいであろう状況だ。

 

 なので、千雨はもう余計なことはせず、後は好きなように修学旅行を楽しむだけに気持ちを入れることにした。そうして思考を定めれば、千雨は自らも気付かぬ内に自分からどこぞの店だのあそこの店だの自ら足を向け始めていた。

 

「――あれ? あそこにいるの、ハルナと夕映じゃない?」

 

 ……けれども。

 

 そんな千雨のささやかな楽しみは、何やらこそこそと身を潜めている素振りの二人によって、終わりを告げたのであった……いや、まだ間に合う。まだ、逃げられる。

 

 嫌な予感を覚えた千雨は気付かない素振りでもって班の皆を誘導しようとした。だが、「どうしたのさ、二人とも」止める間もなく和美が二人に話しかけたことで、それが確定してしまった。

 

「え、え、なに、もしかして桜咲さんと近衛さんって、そういう仲なの!?」

 

 そうして始まる(予感を、この時千雨は確かに覚えた)、3-A特有の騒動。ようやく訪れた、平穏無事で、千雨が待ち望んでいた普通の修学旅行は。

 

「――よぅし! 決めた! 二人の恋、全力で応援するよ!」

 

 ほんの数分の出来事を境に、またもや終わってしまた。そうして、口を挟む間もなく避けようと全力を注いでいた面倒事に参加を余儀なくされる形となってしまった千雨は。

 

(おま、おまあぁぁぁぁああああああ!!!! 何やってんだぁあああ!? ほんとお前ら何やってんのぉぉぉおおお!!??)

 

 無表情を保ったまま、心の中で絶叫と罵声をぶつけた。辛うじてそれが表に出なかったのは、単にネットの荒らしや煽りによってスルースキルを磨いたからだろうが……いや、そこは今、問題ではない。

 

 問題なのは、千雨が必死になって避けたかった厄介事が目の前で起こってしまったということ。そして、それを視認したうえで知らぬ存ぜぬで過ごせる程、千雨の神経は図太くないということであった。

 

 ……まあ、何があったかと言えば、だ。

 

 例の、ネギ達を前に殺陣を見せた少女……名を、月読。その少女が、白昼堂々姿を見せたかと思ったら、衆人環視の中で桜咲に決闘を申し込んだのである。

 

 

 近衛木乃香を掛けた、決闘を、だ。

 

 

 何を馬鹿なと誰もが思うところだが、場所が悪かった。ここが一般的な街中であったなら警官の一人や二人は呼ばれただろうが、シネマ村という特異な場所がそうさせなかった。

 

 有り体に言えば、周囲の人々はその決闘をお芝居だと判断したのである。

 

 シネマ村は、映画の村。様々な衣装を身に纏った人々はもちろんのこと、敷地内の至る所で催し物が行われる。それ故に、シネマ村で行われる一般人参加型のお芝居だと周囲の人々が思ってしまうのも、無理はない話であった。

 

 加えて、ややこしいことに。千雨のクラスメイト……ハルナを中心とした3-Aのお馬鹿な暴走性が発揮された。

 

 何をどう間違ったか決闘を申し込んだ月読のことを、『想い合う桜咲と近衛に横恋慕しており、お芝居に託けて略奪を図っている愛に血迷う少女』という、ぶっ飛び過ぎて着地点が見えない経緯を想像し、それが事実であるかのような話の流れになってしまったのである。

 

「……マジかよ」

 

 思わず、そう零した千雨は何も悪くない。頭痛すら覚え始めた千雨は、おもむろに目頭を揉む。もはや、何処から突っ込んでやればいいのか分からないぐらいの妄想であったからだ。

 

 しかし、恐ろしいことに。ハルナたちはもちろんのこと、何時もであればストッパーの役割を果たすであろう幾人かまでが悪乗りしたことで、事態は一気に加速して。

 

 気付けば、千雨が所属している3班は桜咲と近衛の恋を応援する為に申し込まれた決闘場へと共に乗り込むことが確定してしまっていて。暴走する彼女たちから物理的に距離を置けただけでもマシだと思える状況に、なっていたのであった。

 

 ……もういっそのこと、こっそり逃げようか。

 

 ずんずんと先を行くあやかたちの後ろ姿を追いかけながら、そんな考えが千雨の脳裏を過る。けれども、千雨はすぐに首を振ってその選択肢を捨てた。

 

 悲しいかな、既に千雨は知っているのだ。これから向かう先にいる月読は、笑顔で人に刃を向ける少女であるということを。

 

 だから、千雨は逃げ出せない。

 

 逃げろ逃げろさっさと逃げろと頭では警報を鳴り響かせていても、心がそれをさせてくれない。能天気に危険へと突っ走るクラスメイトを思えば、とてもではないが……己一人だけが無事であれば良いだなんて、思えなかった。

 

 そうして、嫌だ嫌だと思いつつも指定された場所へと向かえば……だ。

 

 始まったのは、時代劇顔負けの殺陣であった。それも、普通の殺陣ではない。映画や武道なんかでは見られない、真剣と真剣とがぶつかり合う……互いの命を掛けた本気の殺し合いであった。

 

 その迫力は、大人であっても尻込みする程。いくら戦っているのが女子中学生とはいえ、滲み出る殺気、放たれる怒気は紛れもなく本物であった。

 

 これでは、いくらお芝居(と、周囲に思わせていても)だとしても、さすがに周囲も不審に思う……はずなのだが、ここでも月読は手を打っていた。

 

 百鬼夜行とかいう、コミカルな姿をした可愛らしい怪物を多数出現させたのだ。そのうえ、その怪物たちはけっして手荒なことはせず、あくまでお芝居であるかのようにひょうきんな動きで、あやか達3-Aの女子中学生に突進したのである。

 

 これによって、周囲は白昼堂々と行われている殺し合いに気付けなかった。

 

 仕方ない、ことだ。何せ、いくら二人が真剣でぶつかり合ったとしても、周囲では可愛らしい怪物たちがひょいひょいと動き回り、コスプレをした女子中学生達は嬌声をあげて逃げ惑ったり跳ね除けたりしているのである。

 

 傍目からは、可愛らしい集団とコスプレ女子集団がきゃーきゃー言い合いながらやりあっているようにしか見えない。そんな光景を見て、誰が命の危険を覚えるだろうか。恐ろしい話だが、周囲の空気は月読によって完全にコントロールされてしまっていた。

 

(や、やべぇ……吐きそう……!)

 

 ただ一人、千雨を除いて。歓声やら何やらが上がるギャラリーの中で、ただ一人千雨だけが……死人のように顔を青ざめていた。

 

 知っているからこそ、辛い。何も知らなかったら、ここにいるギャラリーたちと同じように眺めていたはずなのに。『元気なやつらだ』と暢気に考えて、参加しなくて良かったと胸を撫で下ろしていたはずなのに。

 

(真剣だぞ、真剣……お前ら、何を暢気に手を叩いてんだよ馬鹿野郎……! 警察の一つや二つ、さっさと呼べよ……!)

 

 誰も彼もが笑顔で眺めている中、千雨はそう心の中で叫んだ。本気で、心の底から周りの呑気さを恨み、手を叩いて喜んでいる周囲の人々を軽蔑した――けれども。

 

(……んでだよ。何で、足が動かねえんだよ……!)

 

 それ以上に、千雨は己を呪った。目の前で命の奪い合いが起こっていることが分かっているのに、千雨は何も出来なかった。ただ、目の前で起こっている戦いを見つめる他なかった。

 

 ――恐ろしい。

 

 その言葉と共に胸中を満たす恐怖が、千雨の唇を塞ぎ、足を止め、能力の発動をさせなかった。観測粒子を介して見るのと、目の前で見るのとでは、受ける影響の次元が違っていた。

 

 ――ただただ、恐ろしいと思った。

 

 自分に向けられたわけではない。けれども、千雨は心からそう思った。人を殺せる刃を手に本気で切り合っている月読も……それに一歩も引かずに立ち向かう桜咲も、千雨には怖くて堪らなかった。

 

 逃げたいとは、思っている。だが、逃げることが出来ない。目を離した瞬間に桜咲が……振り返った瞬間に何かがあったら……そう思うと、どうしても千雨は己が足の震えを抑えることが出来なかった。

 

(……っ?)

 

 だが、そのおかげで千雨は気付いた。おそらく、このギャラリーの中で唯一、千雨だけが気付いてしまった。

 

(……近衛のやつが、いない?)

 

 いつの間にか、近衛木乃香がいなくなっていた。桜咲の傍にはいない。あやか達の方にいるのかと思って見てみたが、そこにもいない。もしや、自分と同じようにギャラリーの方に来ているのかと辺りを見回してみるが……あっ!

 

 ――広範囲観測粒子、発射。

 

 嫌な予感が脳裏を過った時にはもう、千雨は観測粒子を放っていた。そうして脳裏に送られてくる膨大な情報を、マイクロ秒以下の速さで処理し終えた千雨は……気づいた時にはもう、走り出していた。足の震えなど、頭から吹っ飛んでいた。

 

 幸いなことに、千雨はギャラリーの一人に徹していた。だから、いきなり人だかりから離れたとしても、誰も気に留めない。例外をいえば、傍にいた幾人かの人々が急な千雨の反応に驚いたぐらいだが……それも、次の瞬間には記憶から消え去るぐらいのことであった。

 

 その千雨は今、シネマ村を全力で駆け抜けていた。まあ、駆け抜けた所で大した速度でもないが、とにかく千雨は走っていた。そして、その千雨が向かった先は……トイレだ。

 

 幸運にも空いていた多目的トイレへとなだれ込むように飛び込んだ千雨は、荒い息をそのままに扉を閉めて鍵をする。次いで、動揺をそのままにぐるぐると個室の中で回り続け、がりがりと己が頭を何度も掻き毟った。

 

 何故、ここまで千雨が動揺しているのか。それは、観測粒子より送られてきた映像のせい。

 

 何時の間にそうなってしまったのか、二人はあの場より離れたお(時代劇用)の中にいた。そして、その二人の前には……あの晩にて近衛を攫おうとしたあの女と、千雨がソニックブームで吹っ飛ばした……あの少年がいたのである。

 

(やべぇやべぇやべぇやべぇガチでやべぇ! 何でいきなりネギ先生と近衛のやつがピンチになってんだよ! シャレになってねえじゃねえか!)

 

 送られてくる映像から考える限りでは、やはり相手の狙いは近衛木乃香だ。しかし、命を狙っているわけではないらしく、あくまでその身柄を確保したいのか投降を呼びかけているようで……いや、一安心している場合ではない。

 

 今すぐ何かをどうこうするわけではないとはいえ、攫われた先で何をされるか分かったものではない。何せ、相手は真剣を振るうことに戸惑いすら見せない危険な集団……そんな奴らの元に連れて行かれるなんて、絶対に阻止しなくては――だが、しかし。

 

(――くそっ! 桜咲のやつも気づいたみたいだが、あいつのせいで助けに行けないのか……!)

 

 現状は、限りなく相手側の思う通りに進んでいる。桜咲は月読によって完全に足止めされている。近衛を守ろうとしているネギ先生も実体ではないらしく、何も出来ない。

 

 つまり、今の近衛は実質一人……相手がその気になれば、すぐにでもどうにでもされてしまう状況なのだ。

 

 ――どうする、どうすればいい!?

 

 苛立ちと不安を押し隠そうと、己の指を噛む。必死になって妙案を思い浮かべようとするも、焦燥感が邪魔をする。早く早くと己を急かすも、状況は刻一刻と進行してゆく。

 

 『クイック・タイム』で近衛を逃がす……いや、駄目だ。反射的に、千雨は首を横に振った。

 

 『クイック・タイム』は、時間を止めているわけではない。あくまで、演算速度を極限にまで加速させて物理的に、副次的に千雨自身を加速させているだけ。

 

 周囲への影響を最小限に抑えているとはいえ、『クイック・タイム』中に他者を運べば……どれだけの負荷が相手に掛かるか分かったものではない。100%の確証も得られないまま、そんな危険な賭けに出られる程、千雨の度胸は据わっていない。

 

 同じ理由で、『バック・ファイア』による一瞬の離脱も危険性が高すぎる。というか、それをしたら最後、己まであいつらに狙われる。

 

 それは、嫌だ。クラスメイトの為とはいえ、その為に己の命を掛けるなんて嫌だ。恥を知れと罵られたとしても、千雨はどうしても首を縦に振れなかった。

 

 ――けれども、クラスメイトと見も知らぬ誰かなら……自分たちへと襲い掛かって来ている誰かを天秤に掛けるなら……それなら……!

 

 迷いは……ネギ達が城の屋根へと逃げた辺りで、吹っ切った。もう、一刻の猶予もない。ばくばくと奏でる心臓の鼓動に突き動かされるがまま、「フォトン・レーザー!」右腕を変形させ……虚空へと構えた。

 

 全体的なフォルムは逆さにしたマヨネーズ容器な、未来チックな銃口が蛍光灯の光を受けて鈍く輝く。大きく、それでいて深々と……様々な思いを乗せた千雨の溜息が、個室の中を反響した。

 

「……大丈夫、私ならやれる。全てはイメージ、全ては想像……考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ……!」

 

 思い出せ。己をこの身体にしたあの宇宙人も言っていたではないか。全ては、己の想像力。確固たる強い想像力さえあれば、全てがそうなるのだと。

 

 思い込め、思い込め、思い込め。自分なら出来る、自分ならやれる。宇宙人から貰ったこの身体なら、己では叶えられない事でも手が届く。クラスメイトを……助けてやれる!

 

 

 

 その時――不思議な事が起こった。

 

 

 

 千雨自身がまだ認識出来ないでいる、己が胸中の奥のそのまた奥。超新星爆発に耐え、ブラックホール内における超重力下ですら問題にしない程の強度を誇る、第二の心臓とも呼べる部分が爆発的な勢いで活性化し始めた。

 

 それは、千雨を生かしている心臓とは全く別の、宇宙人がもたらした第二の動力源。千雨からもたらされる強い感情、ネギやクラスメイトを苦しめる相手に対する淡い憎悪を糧にして、千雨の身体に秘められた能力をイキイキと発動させたのである!

 

「――っ! フォトン・レーザー!」

 

 ばくん、ばくん。激しく高鳴る鼓動が最高潮に達した、その瞬間。心で引かれた引き金と共に放たれたのは、千雨の胴回りにも至る極大のレーザー線。それが、光の速さでもってトイレの壁へと――直撃しなかった。

 

 何故ならば、レーザーが壁と接触する直前、その間に黒い闇が現れ、光線を呑み込んだからだった。その闇の大きさは直径1メートルぐらいの円形で、厚さは1センチにも満たない。

 

 だが、レーザーはその闇を貫通することはなく、まるで吸い込まれるようにその闇の向こうへと飛び込んでいき……レーザーの光が途絶えるに合わせて、音もなく円形の闇は跡形もなく姿を消したのであった。

 

 ……いったい、今の闇はなんだったのか。

 

 一言でいえばそれは、『次元の虫食い(ワーム・ホール)』。分かりやすく言い直すのであれば、今の闇は場所と場所とを繋ぐ穴であり……ワープの入口みたいなものである。

 

 何故、そのようなものを……千雨は、考えたのだ。そして、閃いた。直接手出しが出来ないのであれば、相手が絶対に気付かないようにすればいい、と。

 

 その結果がこれ、ワープを使った次元攻撃だ。これならば、相手は千雨の姿を視認することはおろか、攻撃の予兆すら知ることが出来ないまま攻撃をまともに食らうことになる。

 

 千雨としても相手と相対する必要がなく、また距離も関係ない。今みたいな極限状態でなければ絶対に使うことのない技だろうが、それでも土壇場で思いつき、初めてでいきなり成功させたのは……よくやったと称賛されて然るべきものであった。

 

 ……さて、と。

 

 千雨の放った『フォトン・レーザー』は、そのワーム・ホールの向こうへと飛び込んだ。では、闇の向こう……今しがたのが入口なのだとしたら、出口は何処へ開かれたのか。

 

 その答えを、千雨は観測粒子を用いて急いで確かめる。

 

 粒子を通して見つめる先にあるのは、ネギ達がいる城の屋根の上。何やら矢に打たれたらしい桜咲と、それを助けようと一緒に落ちた近衛を捕縛する為に飛び出した、あの少年の行き先であった。

 

 ……いや、少し違う。正確に言い直すのであれば、レーザーが直撃した少年の行き先……である。

 

 というのも、レーザーを放った、あの瞬間。観測粒子から送られてきた、ネギの片腕が吹き飛ばされ、そのまま桜咲が撃たれた光景に動揺してしまい、反射的に放ってしまったのである。

 

 幸いにもワーム・ホールの生成が間に合ってレーザーは相手方の方へと向かったが、そこから先が駄目だった。

 

 感覚的な部分が多いので千雨自身上手く説明出来ないが、あえて言葉に表すのであれば『座標』というやつだろう。出口の生成座標……出口の出現位置を誤ってしまったのだ。そして、不幸にも間違った座標先に……あの少年がいたのだ。

 

 本当にそれは、不幸な偶然であった。間違った座標の先には、本来なら誰もいなかった。

 

 少年が、落ちてゆく近衛たちを追う為に、自らその座標へと飛び込んで来てしまうまでは。そして、たまたまタイミング悪くレーザーの着弾時間と少年の位置が重なってしまい……憐れ、少年は城の屋根からはるか彼方へとぶっ飛ばされたのである。

 

 偶然か、必然か、あるいはただの不運か。少年が吹っ飛ばされた先は昨晩、千雨が誤って少年を吹っ飛ばした、あの山の地点であった。

 

 観測粒子を使って急いで少年の安否を確認し……思わず、千雨は腰が抜けそうになった。

 

 今回も、少年は生きていたのだ。千雨の無意識が、殺すことに忌避感を抱いたからなのだろう。むくりと身体を起こしてふらふらと飛行を始めたその少年を見て……千雨は、深々とため息を零した。

 

(良かった……近衛のやつも、桜咲のやつも無事だ……良かった、本当に良かった)

 

 同時に送られてくる二人の姿を見て、千雨は今度こそ耐え切れずにその場に座り……こむ前に洗面台の手すりを掴んで、もたれかかった。

 

「……はは、ひでぇ顔だ」

 

 鏡には、何とも様の無い酷い顔が映っている。鼻の頭は赤く、頬は緊張で強張っている。顔中に特大の汗が脂汗が浮かび、今にも零れ落ちそうな涙が目じりに溜まっていた。

 

 ああ、駄目だ。そう思った瞬間、胸中に渦巻いていた思いが喉元へとせり上がってゆくのが分かる。これを口にしたら最後、もう止められないと分かっていた……が、それでも、気付けば千雨は口走っていた。

 

「……んの、馬鹿野郎。頼むから、そういうことは私の見てないところでやってくれよぉ……」

 

 ああ、チクショウ。ツンと、鼻の頭が痛くなる。零れ出た涙を拭う指先が、眼鏡とぶつかってカチリと音を立てる。些か乱雑に眼鏡を外し……そこまでが、限界であった。

 

 観測粒子からの映像が途絶える。千雨の思考が、散り散りになったせいだ。立てなくなった千雨は、洗面台に頭を預ける様にしてその場に座り込むと、ぽろぽろと涙を零し始める。はっはっはっと過呼吸を始める身体に流されるがまま……千雨は泣き声を漏らしていた。

 

「そういうのは、アニメの向こうだけでいいんだよ……これ以上、変な心配をあたしにさせるんじゃねえよ……馬鹿野郎……!」

 

 それ以上、千雨は何も言えなかった。ただただ、怒りと安堵が入り混じる複雑な涙を流し、臓腑にまで至っていた不安を……吐き出す他、なかった。

 

 

 

 

 ……。

 ……。

 …………どのくらいの間、涙を流し続けていたのか。時計は持っていたが、はっきりとした時間は千雨にも分からなかった。

 

 ただ、それまで聞こえていたトイレの外の騒音が聞こえなくなっているのを考えれば、相当の時間、ここで蹲っていたのは分かった。

 

 ……ああ、早く出なければ。

 

 ようやく気持ちを落ち着かせた千雨は、そう思って立ち上がる。鏡に映った腫れぼったい目元を見て思わず苦笑し……次いで、深々とため息を零した。

 

 見ようによっては……いや、妙に鋭い所のある3-Aは、まず目元が腫れるまで泣いていたことに気付く。特に、『いいんちょ』のあやかはまず気づくだろう。

 

 暴走している時ならまだしも、平時の雪広あやかの頭の回転はさすがなお嬢様。千雨の頭では、誤魔化すなんて無理だ。泣いていた言い訳を考えておかなくてはならないことに、これまでとは別の意味で憂鬱になりそうであった。

 

 けれども、気持ちの上ではかなり楽であった。

 

 だって、クラスメイトの安否に不安を覚える必要がないからだ。あの、胸を掻き毟りたくなるような焦燥感と比べたら、たかが涙の言い訳を考えるぐらい、屁でもない……というのが、千雨の正直な本音であった。

 

 まあ、まず先に千雨が済ませておかなければならないのは……この腫れた目元か。

 

 そう思った千雨は、ポケットを探り……舌打ちをした。あいにく、借り衣装である巫女服では財布と携帯電話以外、何も持ち合わせていない。

 

 仕方なく、トイレットペーパーを何回か回して千切り捨て、新しく回して千切り取ったペーパーを濡らし、それを目元に当てる。思っていたよりも熱を持っていたようで、ペーパーの水気が思いのほか心地よかった。

 

(……そろそろ行かねえと、集合時間に遅れるな)

 

 そのまま、5分程。鏡に映る目元が大分マシになった辺りで時計を見やれば、思っていた通りいい時間だ。事前に決めていたことだが、千雨が所属する3班の集合場所は、シネマ村の中にある。

 

 現在、千雨がいるこのトイレからそこへ向かうには、まあ15分ぐらいは掛かる。それまでに上手い言い訳を考えておかないと……そう、考えながら、千雨は多目的トイレを出た。

 

「――眩しっ」

 

 途端、差しこまれた夕暮れの光に思わず千雨は足を止め……貴重なトイレの一つを長時間潰してしまったことに、千雨は頭を掻いた。

 

 今更ながら、警備員を呼ばれなかったのは幸運であった。仮に呼ばれていたら、今度こそ修学旅行どころではなくなっていたところだ。

 

 とりあえず、今日は宿に戻ったらさっさと休もう。ああ、でも、その前にこの衣装を返しにいかねえとな。

 

 そう決めた千雨は、ほんのりと残る目元の熱気を何度も擦りながら、まずは貸し服屋へと歩き出した――のだが。

 

「――あれ、千雨ちゃん?」

「――ゲッ」

 

 歩き出して、すぐ。距離にしてまだ三分の一も歩いていない所で、千雨はネギ先生を含めた幾人かのクラスメイトと遭遇してしまった。ちなみに、「――ゲッ」は千雨の呟きである。

 

(よりにもよって、このタイミングでかよ……観測粒子を出しとくべきだったか……)

 

 内心の動揺を押し隠し、千雨はクラスメイト……ネギ先生をおんぶしている神楽坂明日菜、近衛木乃香、桜咲刹那、早乙女ハルナ、宮崎のどか、綾瀬夕映を順々に見やり……最後に、同じ班である朝倉和美へと視線を向けた。

 

 あえて、何も知らないクラスメイトの目で見る限りでは、ネギと明日菜が一緒に居るのは不自然ではない。日頃から仲良くしているのは周知の事実だし、合わせて、木乃香と刹那は先ほどのシネマでの出来事もあるので同じだ。

 

 ハルナたちはまあ、図書館探検部繋がりで一緒に行動しているのは分かる。しかし、そこに和美が混ざっているのは些か不自然だ。それほど仲良かったかと、クラスメイトであれば軽く首を傾げたことだろう。

 

「あーっと……その、さ、千雨ちゃん。悪いんだけど、私これから神楽坂たちと一緒に行く所があるから、いいんちょには後で戻るって伝えておいてくれない?」

 

 ……これから何処へ向かうかは知らないが、今から何処かへ行って、宿に戻るとなると確実に日は暮れる。いくら自由行動の日とはいえ、それを先生方は当然のこと、あやかとて顔をしかめることだろう。

 

 それが分かっているのか和美は両手を合わせ、この通りだと頭を下げ、妙に慌てた様子でお願いをしてきた。まあ、それもそうだろう。時刻は既に夕方だ。

 

 シネマ村内に点在する店の大半は閉まり始めているだろうし、開いている店といったって、お土産屋がほとんど。さすがにナイトショーなんてやってないだろうし、普通に考えれば不自然な話である。

 

 とはいえ、だ。

 

 それはあくまで一般人の視点であり、幸か不幸か魔法使い達の存在を知っている千雨にとっては、まあ……そっち絡みなんだろうなあ、という程度の話であった。

 

 今朝方の千雨であったなら頬を引き攣らせている所だが、すっきりするまで泣いたからだろうか。緊張感もなく佇んでいる彼女たちの姿に、ああもう本当に危険を乗り切ったのだなあ……と安堵の気持ちすら湧いていた。

 

「……遅れるってことは伝えてやるが、いつ戻るんだ? そんで、理由は何だ? さすがに理由も無しにだと大事になるぞ」

「え、あ、そ、そこは千雨ちゃんの機転にお任せして……」

「ふざけろ……つうか、そこでそういう言葉が出る辺り、まさか夜まで戻らないつもりか?」

「ああ、うん、それは……分からない……かな?」

「何でそこで言いよどむんだよ。いやまあ、それはそれとして、ネギ先生、ずいぶんと服が汚れていたり絆創膏だらけですけど、何かあったんですか?」

 

 当然といえば当然な千雨の質問に、ネギはもちろんのこと、ネギをおんぶする明日菜も慌てた様子で視線をさ迷わせる。「ああ、それね、何かちょっと派手に転んだらしいよ」返答は、二人の傍にいたハルナからであった。

 

 転んだ……転んだ、ねえ。

 

 思わずそう言い掛けた言葉を、千雨は寸での所で堪える。ネギの顔に浮かんでいる痣は、明らかに転んだものではない。医学知識ど素人の千雨ですら、それが分かるぐらいで……ハルナたちは、気付いていないのだろうか?

 

(いや……たぶん、先生が子供だからか。まさか、子供が殴り合うようなことしているなんて、想像の中にすらないからだろうな)

 

 実際、千雨が今の身体に成る前、魔法使いのことなんて全く知り得ていなかったら、派手に転んだなというぐらいにしか思わなかっただろう。そう思えば、一概にハルナたちを責めるのは違うような気がした。

 

「……言いたくないのであればそれでも良いですけど、先生はまだ子供です。歩くのも辛いのでしたら、早く宿に戻って休まれた方が良いのでは?」

「え、ああ、まあ、そうなんですけど、あの……僕は……」

「……はあ。まあ、神楽坂がいるなら大丈夫でしょう。その『行く所』というやつが何処かは知りませんが……朝倉、余計な茶々を入れて引っ掻き回すなよ」

「そこで何でワタシなの!?」

「何だかんだ言いつつ、神楽坂はネギ先生と仲良さそうだしな。この場で一番余計な事を仕出かしそうなのが、お前だからだよ」

「くっ、ぐぐう、我ながら何も言い返せない……!」

 

 なので、千雨は素直に知らないフリに徹することにした。考えてみれば千雨のこの発言は些か不自然ではあるが、それよりも不自然な部分を抱えている明日菜達は、そこに気付くことなく千雨の話題転換に乗っかったのであった……と。

 

 

 『……なあ、兄貴。どうせなら、千雨の姐さんも仮契約(パクティオー)してもらって、戦力を増強しておいた方がいいんじゃねえか?』

 『……え、そ、そんなの駄目だよ、カモ君。千雨さんは魔法のことなんて全く知らないし、危険だよ』

 『……ちょっとそこのエロオコジョ! あんた、千雨ちゃんまで引っ張り込もうって言うんじゃないでしょうね?』

 『……いやいや、これはエロとか金の話じゃなくて、純粋な戦力の話だぜ、明日菜の姐さん』

 

 

 ――不意に。数キロ先に落ちた針の音まで識別することを可能とする千雨の超高性能イヤーが、子供とオコジョとクラスメイトの内緒話を捉えてしまった。

 

 

 『……今回の山場は乗り切ったわけだけど、実際の所、戦力に不安があるのは事実。悪いってわけじゃねえけど、のどか姉さんの能力は完全支援型だし、さっきみたいに明日菜の姐さんが足止めされると、兄貴一人になっちまう』

 『……そりゃあまあ、そうだけど……でも、分かっているでしょ。私だからまだ大丈夫だけど、千雨ちゃんは体育の成績だってあんまり良くないわよ』

 『……そうだよカモ君。それは僕の力不足が原因だし、宮崎さんだって成り行きから手助けしてくれたけど……アスナさんが例外なんだよ』

 『……兄貴、姐さん。忘れちゃあいないかい? 俺っちも人伝でしか聞いていないけど、千雨の姐さんは図書館島の危険な地下で兄貴たちを裏から助けてくれたって話じゃねえか。それなら、少なくとも相応に腕が立つってことだろ?』

 『……あっ、そっか! 言われてみれば、千雨ちゃんって一人であの地下まで入って一人で脱出したって話だったわね』

 『……い、言われてみれば確かに。あれ、もしかして長谷川さんって、実は凄腕の達人とか……なのかな? でも、それにしては体育の成績はあまり……』

 『……俺っちの考えでは、おそらく千雨の姐さんは目立ちたくないんだろうよ。自分の実力を見せたくないタイプってのは、どの分野にも少なからずいるってもんよ』

 

 

(……あっ、そっか! じゃ、ねえよ! 何を納得してんだ保護者その1! そしてガキんちょ! 言われてみれば……じゃねえよ! 人を勝手に達人扱いするんじゃねえよ!)

 

 反射的にぶつけかけた怒声を、千雨はギリギリのところで呑み込んだ。幸いにも、千雨はネギ達から顔を背けていたので露見することはなかったが、その頬は傍目からでも分かるぐらいに引き攣っていた。

 

 図書館島の件は、アレだ。

 

 3-Aの間で公然の事実という扱いになっている、バカレンジャーを裏から手助けしていたというやつの話だ。

 

 事実は全く違うのだが、訂正しても信じて貰えず、『影の実力者()』とかいう不本意この上ない称号が付いたらしい、アレだ。

 

 おかげで、あの後は大変だった。古菲などが手合せを申し出て来たり、何故か学園の至る所から視線を向けられる回数が増えたり……まあ、それもしばらくして無くなったのだけれども、とにかく、だ。

 

 何だろう……この身体になってから余計な誤解というか、余計な心労ばかり抱えるようになった気がする。いや、確実に抱える量が増えた。

 

 単純なスペックだけを考えれば、己の生活はもっと過ごし易いモノになっているはずなのになあ……そう、千雨は遠い眼差しに成ること止められなかった……と。

 

「――そうだ、この際千雨ちゃんもきなよ。木乃香、一人ぐらい増えてもいいよね?」

「うん、ええよ。せっかくやし、千雨ちゃんも一緒に行こうな」

「え、ちょ、朝倉さん!? お嬢様!?」

「ええやんか、せっちゃん。もう暗くなるし、千雨ちゃん一人も危ないやん? やったら、ウチらと一緒に行く方が安全やんか」

「そ、それはそうですが……」

「それに、ハルナたちは連れて行って、千雨ちゃんは駄目ってのはウチ、仲間外れみたいで嫌や」

「お嬢様……仕方ありませんね」

 

 ……え、何で微笑ましい顔して私が行くことを了承してんの? 私、一言も行くとは言ってないよね? 何で私も付いて行く空気になってんの? ていうか何処へ行くの? 何がどうなってそうなったの?

 

 ――そう、言いたかった。

 

 心からそう言いたかったが、「それじゃあ、千雨ちゃんも行こっか?」満面の笑みで手招きする木乃香を前に……行かないと首を横に振るには、些か千雨は彼女たちに関わり過ぎてしまっていたのであった。

 

 

 

 

 

 そうして、何処へ向かうのかと内心緊張していた千雨の前に姿を見せたのは……近衛木乃香の実家(明日菜曰く、いいんちょの実家並に大きい)であった。ぶっちゃけ拍子抜けしたが、合点がいったというのが千雨の正直な感想であった。

 

 そうして、ただっぴろい広間に通された後、出て来たのは木乃香の父親((おさ)と呼ばれているらしい)であった。

 

 あまり顔色がよろしくないようだが、まあそれはいい。ハルナたちは分かっていない(多分、魔法関係に関しては説明していないのだろう)ようだが、千雨には分かってしまった。

 

 どうやら、ネギが大事にしていた『親書』は、彼に渡されるものだったようだ。どことなく誇らしげな笑みを浮かべて木乃香の父に『親書』を手渡すネギの顔を見て、人知れず千雨は頭を掻いた……そして。

 

 ――衣装は明日、お店に持っていくので大丈夫。今から帰るとなると日も暮れますし、皆様方も今日は御自宅だと思ってここに泊まっていきなさい。

 

 木乃香の父からそう言われたので千雨は好意に甘え、用意された着物に着替えるのを手伝って貰って、豪華な飯に、豪華な風呂。そして、全員が大の字になっても余裕なぐらいに広い部屋に、ふっかふかの布団。

 

 現金なものだが、身体も綺麗になって腹も満たされ、眠気が沸々と湧き起こってくる頃にはもう、あれだけ落ち込んでいた千雨の機嫌はだいぶ良くなっていた。

 

 他の先生方には、ネギ先生より連絡はしておくそうだからもう気にする悩みは一つもない。最後が良ければ良しというか、何というか。まあ、機嫌が良くなる理由はなにも、それだけではない。

 

 千雨の機嫌を一番改善方向へと持って行かせているのは、木乃香の実家……つまり、この豪邸ともいえる広い屋敷が、絶対に安全な場所であるということをネギたちの会話から盗み聞いたからであった。

 

「……やべぇ、付いて来て良かったと思っている自分が情けなくて涙が出そうだ」

「ん? 千雨ちゃん、何か言った?」

「京料理はすっげぇ美味かったなっていう独り言だよ」

 

 口に出して誤魔化したが、実際、夕食に出された京料理は美味かった。味が薄いとかそんなことはなく、純粋に美味かった。もう、これだけで今日の苦労が報われたと思ったぐらいで、何時もの1.5倍の量は食べたと自覚したぐらいであった。

 

 京料理の何がそこまで千雨を喜ばせたのか。それは、単に夕食に出された牛肉が美味かったからだった。

 

 ……京料理はあっさり味の薄味というイメージがあって意外と誤解されがちだが、実は京都は食肉の文化が根強い。特に牛肉文化は古く、日本各地の中でも牛肉に関してはうるさい人が少なくないとされる場所なのである。

 

 そんなわけだから、夕食に出された牛肉の美味さと来たら、一口食べた瞬間に思わず箸を止めたぐらいだ。千雨の短い人生の中では文句なしでトップにランクインされる美味さであり、少しばかり腹が落ち着くまで無言のままに箸を進めたぐらいなのだから、如何に千雨が感動していたかが窺い知れよう。

 

「あー、美味しかったよね。特に、あのお肉……まさか京都に来てすき焼きが出てくるとは思わなかったなあ」

「ほんと、あの肉美味しかったよねー。口の中で脂がとろけるってやつ? あれ、スーパーで買おうと思ったら100グラム1000円ぐらいはするんじゃないの?」

「いやいや、1000円じゃあんな肉は無理だって。あれは最低でもその三倍は出さないと食べられない味だったよ」

 

 千雨の感想は、どうやら和美やハルナたちの感想でもあるようだ。まあ、当然だろう。千雨もそうだが、ハルナたちも何時も以上の量を食べたらしく、部屋に戻ってからしばらく動けなかったぐらいなのだから、どれだけ喜ばれたかが想像できるだろう。

 

(はぁ……美味かったぁ、ほんとに美味かった。久しぶりにカロリーを気にする間もなく貪ってしまった……反省しねえとな)

 

 きゃいきゃいと嬌声をあげてトラップに興じる和美やハルナたちを他所に、千雨はぼんやりと天井を眺めていた。安心しているせいか、眠気が強い。ふわあ、と大きな欠伸を零した千雨は、眼鏡を外して枕元に置いた。

 

「……今日も疲れたから、私はもう寝る。私に気にせず、トランプでも何でもしてくれ」

「了解。少し照明は落としておくから、眩しかったら言ってね」

 

 ハルナたちに千雨がそう言えば、「お休みー」彼女たちは一斉に手を振ると、少しばかり薄暗くなった中で再びトランプの世界へと戻って行った。「ああ、お休み」とりあえず返事だけはしておくと、千雨は布団の中に……潜ろうとして、「――どうした?」部屋を出てゆく和美に目をやった。

 

 ただ出て行くだけなら、千雨も声を掛けたりはしない。声を掛けた理由は、和美の手にカメラが握られていたからで。まさかとは思ったが、「ん? ああいや、ネギ君の写真を撮っておこうかなってさ」案の定であった。

 

「ネギ先生の写真なんて撮ってどうするんだ? もう色々と撮っているんだろ?」

「それとは別に、プライベート……まあ、気が緩んだ時に出る、ネギ君の素を撮りたいわけよ」

「どうするんだよ、そんなの」

「嬉しい事に、3-Aにはそういう写真に高値を付けて根こそぎ買い取ってくれる上客がいるんだよね」

「……言っておくが、一線は越えるなよ」

 

 自然と、自分の声色が低くなったのが分かった。顔にも、内心が露わになっていたのだろう。「分かっているって。千雨ちゃんもけっこう過保護だよね」和美はにへらと笑うと、小走りに廊下へと飛び出して行った。

 

 ……しばしの間、千雨は呆然と和美が出て行った後を見つめていた。まん丸に見開かれた瞳をそのまま、ぼんやりと天井へと視線を戻した千雨は……ゆっくりと、己が頭に手を置いた。

 

(私って……過保護か?)

 

 いや、それだけは有り得ないだろ。それだけは天地がひっくり返っても有り得ない評価だろ。

 

 そう己に自問自答をしつつ、千雨は悶々とした思いを枕に埋めると、眠気のぶっ飛んだ頭を無理やり眠りの世界へと押し込めるのであった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………が、そのまま千雨が眠りにつくことはなかった。何故なら、眠気がふわりと千雨の意識を攫いそうになった、その瞬間。まるで頭の中に爆発が起こったかのような、強い感覚が走ったからであった。

 

(――えっ!?)

 

 どくん、と。焦燥感とは違う強烈な何かが背筋から脳天へと突き上げる。その衝撃は饒舌にし難く、意識にへばり付いていた眠気という名の鉛が一瞬にして弾け飛ぶ程であった。

 

 半ば、布団を跳ね除けるように千雨は飛び起きる。と、同時に室内に目をやれば、「――あれ、なぁにボク、どうしたの? 御屋敷の子かな?」誰かが来ているのだろうか。ハルナが、廊下の向こうに居る誰かへと話しかけていた――いや、駄目だ!

 

「早乙女、そいつから離れ――」

 

 そう叫んだ時にはもう、遅かった。ぼわっ、と、「げほっ、えほっ!? なに、この煙?」白煙が室内へとなだれ込んだ直後、まともに白煙を浴びたハルナは……咳き込んだ姿勢のまま、石像へと成り果てていた。

 

 そう、石像だ。今の今まで息をして笑っていた人間が、そのままの姿で石になる。まるで出来の良いCGを見ているかのように、早乙女ハルナは物言わぬ物体へと姿を変えたのであった。

 

 きゃああ、と。悲鳴が上がった。かたん、とテーブルより零れ落ちたお茶が飛び散り、布団を茶色に染める。けれども、誰もそれに目を向けることはなく、突然の異変から目を背けられなかった。

 

「……君のアーティファクトは少々面倒だ。眠っていてもらおうか」

 

 その言葉と共に、白煙を舞い上げて室内に押し入ってきたのは、白髪の少年である。「――っ!」視線を向けられたのどかが、懐より何かを取り出す素振りを見せ――たが、それよりも早く叩きつけられる白煙によって、宮崎のどかという人間は石像へと変えられ――くそったれ!

 

 ――逃げろ、綾瀬! 誰でもいいから助けを呼べ!

 

 反射的に、一番近くにいた夕映を引っ張り込み、後方の部屋へと逃がす。「――長谷川さん!?」驚いた夕映を隠すように、少年に気付かれないように大きく手を広げた千雨は、立ちはだかるように少年へと握り締めた拳を――叩きつけるよりも早く、叩きつけられた白煙によって無力化された。

 

 ……静寂が、訪れた。

 

 後に残されたのは、咳き込んだ姿勢のまま石となった早乙女ハルナ。懐に指先を差したまま石となった宮崎のどか。大きく腕を振りかぶったままの形で石となった長谷川千雨。その三体の間を抜けるようにして室内を進む少年は――。

 

「さて、来てもらおうか、近衛のお嬢様」

「ひっ……あっ……」

 

 ――部屋の隅。青ざめた顔で腰を抜かしている木乃香の前に立つと。「なに、危害を加えるつもりはない。大人しくしていればすぐに済むさ」そっと手をかざした。途端、木乃香は悲鳴一つあげる間もなくスーッと眠るように気絶したのであった。

 

 無言のままに少年が指を鳴らせば、空間より滲み出るようにして姿を見せたのは、2メートル近い異形の怪物。そいつは宝物を抱えるかのように優しく木乃香を抱き上げると、ふわりと廊下へと出て、夜空の向こうへと飛んで行った。

 

「……どうやら、この場で仮契約が成されているのは君だけだったようだね」

 

 こつん、と。少年がのどかの石像を突けば、ふっ、と。まるで室内に訪れた静寂につられたかのように照明が落とされる。物音一つしなくなった室内から出た少年は、振り返ることなく夜の闇へと姿を隠してしまった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま時間にして、十数分程が過ぎた頃。

 

 つい少し前まで賑やかだった室内は真っ暗で、静まり返ったそこには白煙が立ち昇って命の息吹を途絶えさせている。無機質の冷たさだけが、まるで静寂を後押しするかのように張り詰めていた……その、中で。

 

 ――一人だけ、動いている者がいた。

 

 いや、それはもう、一人という数え方は不適当だ。手足は冷たく、固く、重く。一体の物言わぬ石へと成り果てた少女……長谷川千雨という名が付いていたその石像は、落ち着かない様子できょろきょろと室内を見回した後。

 

「……いや、これは予想外だわ。我ながら出鱈目な身体過ぎるだろ」

 

 どうやって声を出しているのか、自分でもよく分からない。人間であった時と同じ声色で千雨はそう呟くと、気持ちを落ち着かせるかのように、石になってビクともしなくなった髪を固い指先でごりごりと掻いたのであった。

 

 

 

 


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