『はいはい、ワロスwwwワロスwww ID真っ赤ですよ、モンブランさんwww
あ、そうそう、明日も早いんで、さっさと寝落ちしますね、それでは(てへぺろ)』
暗い室内に、千雨の独り言が静かに響く。
もはや日課となっている、掲示板のスレッド荒らしに対する応酬を一方的に終えた千雨は、ふう、とため息を吐いた。
誰に聞かせるというわけではなく、ただ掲示板にて書き込んだ内容をそのまま口に出していただけ。感情が高ぶると、ついついやってしまう千雨の癖である。
今日も今日とて同居人は帰ってくる様子も無く、いつものように千雨は快適な一人住まいを楽しんでいるというわけであった。
開け放たれた窓から、心地よい夜風が入り込んでくる。網戸越しに外を覗くと、さわさわと木々がざわついているのが分かった。
そんなざわつきすら、心地よくすら感じるのは、千雨の機嫌がいいからだろうか?
そう、千雨は機嫌が良かった。なぜなら、今日という日は、千雨にとって今までにないぐらい、ツイていた一日だったからだ。
期待せずに送っていた懸賞が当選したのを皮切りに、コンビニで買い物すれば、期間限定くじにて一等(コンビニ限定だが、商品券1万円分)が当たり、
何気なく自販機にてジュースを買えばもう一個出てきて、電気店へ下見に行けば、10万人目の客とかで10万円分の商品券を貰い、
極めつけは落ちていた食券を拾った(名前等は書いていなかったので、ネコババ。枚数は5枚)のである。千雨でなくとも、頬がにやけてしまうだろう。
新しいノートパソコンが欲しいと思っていた千雨にとって、願ったり叶ったりの一日であった。
親からの仕送りがあるとはいえ、そうほいほいと無駄遣い出来る程余裕があるわけではないのだ。
まあ、委員長こと雪広あやか、那波千鶴のような、実家が超お金持ちの両名(彼女までとは言わずとも、それなりに裕福な家は別)は別だろう。
なにせ、あの二人。ひと月のお小遣いが一般男性の平均年収よりも高いのである。
しかも、それは彼女自身がちょっとした小物(お菓子やジュースなど)を買う時用の小遣いだったりする。
つまり、別途でさらに小遣いを貰っているのである。あの二人は。
それだけでも妬ましくて仕方がないと思ってしまうのは、クラスメイトとはいえ、ある意味当然の反応なのかもしれない。
ただ、二人も千雨と同じように、ひと月に使える分のお金を制限しているという話も耳に入っている為、
そこらへんは千雨も好感を抱いている……が、それを差し引いても、羨ましいを通り越して、
凄く羨ましいと考えてしまうのは、果たして千雨が小市民であるからか。
ちなみに、千雨はお金に関してはそれなりにシビアである。
今月はここまで、と決めたらよほどの事情(怪我や病気、絶対に必要になる場合を除き)が無い限り、食費を減らしてでも切り詰めるぐらいに徹底している。
それは彼女の金銭感覚が為せることだが、それを抜きにしても、彼女は必要になるかもしれない、という判断で買い物は絶対しない。
基本的に今必要になる、後々絶対に必要になるものしか買わないし、お金の貸し借りも、極力行わない。
それは、お金というものが、友情を呆気なく打ち砕いてしまうものであるということを、ネットの情報から把握しているからだ。
……しかし、そんな千雨にもアキレス腱は存在する。それは、パソコンと衣服である。
パソコンと衣服だけは、千雨にとって別だ。無駄遣いしているじゃん、と言われればそれまでだが、
千雨にとって、パソコンは体の一部と言っていいし、衣服は自らの心の平穏の為には絶対必要なのだ。
文字通りパソコンに触れていることで安心感を得てしまう千雨にとって、パソコンは食事と同じくらい大切であり、
衣服は自らの存在を認めてもらうためには必要不可欠のものなのだ。
だからといって、既に所有している物を蔑ろにするわけではない。ディスククリーンアップや、
エアスプレーにて小まめに掃除を行い、ノートパソコンなどを持ち運びするときも、専用のPCカバーに収納してから行う。
他人には極力触らせようとはしないし、本人も触るときは汚さないように気を付けているぐらいなのだ。
衣服に至っては、一つ一つ丁寧に洗濯し、ビニールカバーを掛けてクローゼットにしまって、空気による劣化を抑える。
もちろん、虫予防の防虫剤はしっかり設置しておくのも忘れない。
それぐらい、千雨はその二つを大切にしているのである。
閑話休題。
カコカコと、千雨はリズミカルに指を動かしてキーボードを叩く……夜遅いという程遅い時間ではないが、
それでも騒いでいい時間ではないので、心もち指の動きはゆっくりと……。
先ほど楽しんでいた掲示板から、今度は千雨自身が運営しているブログへと移動する。
まだ新作は用意していないので、コメント等の確認と、設置した掲示板が荒らされていないかの確認だけしておく。
「今度の新作は何にしようかな……あらかたアニメのキャラ服はやっちまったし、ここらへんでオリジナル衣装にしておかないと、新鮮味がなくなるしなあ……」
ディスプレイ画面を前に、千雨は顎に手を当てた。画面には、バニー服やら派手な服に身を包んだ、千雨の姿が映し出されていた。
その下に設置されたコメント欄には『うは、カワユスwww』『ちうたん最高!!』『はぁはぁ、ちうたん!』等の、
何とも言えない書き込みがずらりと並んでいる。
言葉だけ見るなら、頬を引き攣らせてしまっても仕方がない。だが、千雨にとってはそれらの言葉は、
活力を生み出す魔法の言葉であり、自己顕示欲を満たすものであったりする。
現に、それらのコメントに目を通しながら、千雨はニヤニヤと頬を歪ませていたりする。はた目から見たら、怪しさ満点を通り越しているだろう。
そう、千雨が運営するブログとは、いわゆるコスプレした自分を撮影して掲載する、コスプレブログである。
そして、ネット上のアイドルとして不動の地位を誇る、『ネットアイドルのちう』こそが、千雨のもう一つの顔だったりする。
クラスメイトはおろか、家族にも一切知られていない、千雨にとっての秘密である。
衣服とは、コスプレ用の衣装ことである。それは千雨の趣味であり、生き甲斐でもある。
新たなファン(と言う名前の、信者)を獲得し、既存のファンを満足させる為には、定期的に新しいコスプレを披露する必要があるのだ。
椅子から立ち上がり、伸びをする。室内は暗く、ディスプレイの明るさに慣れた目では辛いはずなのだが、千雨には関係ない。
千雨の目は、太陽を直視した後でも、光一つ存在しない室内に置かれたジュースの配置を把握できるぐらいに高性能なのである。
ディスプレイ程度の明るさでは、千雨の目を眩ませることは出来ない。常人を超越した調節機能を誇る千雨の瞳は、
一瞬のタイムラグすら感じさせずに明暗を識別する。
今回も同様に、千雨の目には室内は昼のように明るく見えていた。なので、千雨は気にする様子も無く足を踏み出した。
途端、固い何かが、ごとり、ごとりと、地面を引きずる音と共に、かすかな抵抗感が腹部から伝わってきた。ハッと、千雨は足を止めた。
「あ、そうだ、忘れてた」
「やべえやべえ、壊れてないよな」と呟きながら、千雨は床に転がった携帯電話を手に取った。
開いて確認するが、特に壊れた様子も無く、本体脇に刺さった充電用ケーブルも異常は無い。充電も、完了している。
念のためケーブルを抜き差しするが、それも特に変わったところはない。千雨は安心してケーブルを抜いてテーブルに置いた。
そして、身にまとっているシャツの裾を捲り上げる。露わになった千雨の腹部には、充電器のコンセントが二つ、突き刺さっていた。
異様な光景である。滑らかな皮膚で覆われた腹部に、根元までしっかりと突き刺さったコンセントは、千雨の呼吸に合わせてわずかながらも動いている。
普通に考えれば、結合部分からは多量の出血と多大な激痛が発生しているだろうことは、想像するまでもない。
だというのに、千雨は全く気にした様子も無く手さぐりで腹部に突き刺さったコンセントを一つ掴む。
コンセントから伸びたコードが細いのを確認すると、千雨は一息に引き抜いた。
ぽっかりと開いた差込口からは、一滴の血液も流れる様子は無いし、痛みを覚えている様子も無い。
千雨はぽりぽりと脇腹を掻きつつ、もう一つのコンセントも引き抜いた。
「えっと、充電を始めてから、1時間とちょっとぐらいだから……まあ、それなりに充電されているか」
差込口の形に穴が開いた部分を、指先で確かめる。イメージを解くと、開かれた部分はあっという間に塞がり、見慣れた人間の腹部に戻った。
次いで、今しがた抜いたコンセントの先に接続されたノートパソコンを開く。
「……ふむ、ざっと5時間程度までOKか。まあ、それだけあれば、充分だろ」
手早くコードを纏めて、所定の場所へ戻す。ノートパソコンも専用のPCバッグに収納した。
そう。実は千雨、自らの肉体を使って、携帯電話とノートパソコンを充電していたのである。
常日頃、「もうちょっと色々な使い道がないか」と頭を悩ませていた千雨が見つけた、画期的な肉体活用法なのである。
大幅な電気代削減を果たした千雨であったが、そこで終わる千雨ではなかった。使えるものは出来る限り使うべき、
と考えている千雨にとって、無限の可能性を秘めた自らの肉体は、まだまだ未知の宝庫であった。
使用方法は簡単だった。体のどこの部分でもいい。コンセントの差込口を想像して、
電気を放出するイメージで差込口を形成し、差し込むだけ。このとき注意しなければならないのは、電気の出力である。
千雨の体はある程度大雑把なイメージでも目的の機能を発揮することが出来るが、そのかわり、あまり融通が利かないし、思った通りに働かない場合が多い。
それを、飛行練習の際に嫌と言う程身に染みている千雨は、まず最初に、コンセントの差込口を身体の部分に作ることから始めた。
これは『フォトン・レーザー』で慣れているおかげか、思いのほかあっさり達成出来た。
次に取り組んだのは、電気の放出である……のだが、これが第一の難関であった。
なにせ、レーザーのような目に見えて、アニメやら何やらで具体例を確認出来るものとは違い、電気は目に見えないのである。
千雨が必要としているのは、アニメのような電撃ではない。電気だ。それが厄介だった。
なにせ、電気のイメージが、電撃や雷のようなものしかないのだ。
これで千雨が電気工学に精通していたならば話は違っていたが、あいにく千雨は素人である。
その為、千雨はまず電気というものをイメージすることから始めた。とりあえず、“ブルブル痺れる”というイメージで集中する。
出来たのは、肩こりに効きそうな出力の『バイブ・ノック』であった。どうやら、ブルブル、という部分が駄目だったようだ。
次にイメージしたのは、パチパチと静電気を生み出すイメージ。これによって電気らしきものを体内で作り出す
(といっても、千雨自身はなんだか静電気が溜まっているな、という程度にしか感じていない)ことは出来た。
そして、第二の難関。電気の放出である。これには、千雨も頭を悩ませた。なにせ、電気を放出するというイメージが明確に出来ない。
なまじ、中途半端に存在する電撃の映像知識が、明確なイメージを阻害していた。電撃をイメージして行うと、充電器が壊れてしまうのだ。
『バック・ファイア』のような、モデルとなる映像(アニメのような)が無く、文章だけで想像出来ていたなら、こうも苦戦はしなかっただろう。
その為、千雨は電気を放出するために色々やった。“放出”のイメージから、陰部に差込口を形成して放出する
(失敗してコンセントをオシッコまみれにしたのは千雨にとって忘れたい過去である)
ようにしてみたり、口に咥えてやってみたり、思いつく限りのことをした。
それだけのことをしたのに、最終的には結局、コンセントを差し込むだけで自動的に充電が始まることが分かったときの徒労感を、千雨は忘れない。
あの宇宙人も言っていた通り、固定観念に囚われ過ぎていることを改めて思い知った千雨であった。
ちなみに、似たようなやり方で洗面台に溜めた水を温水に変えようとしたが、これも結局42℃前後に温まれ!
とイメージするだけで出来た。千雨、涙目である。
新学期である。観光スポットの一つでもある、麻帆良桜街道と呼ばれる桜の花びらが舞い散る桜道を、
幾人もの学生たちが、わき目も振らずに走り去っていく。新学期早々、授業に遅れないようにするためだろう。
春休みの中ですっかり昼夜逆転生活をしていた生徒たちは、皆一様に目を擦っている。
といっても、それは全体の一割程度で、ほとんどは平気な顔をしている。
千雨も前日はしっかり睡眠を取っていたおかげで、残りの九割に入ることが出来た。
麻帆良学園は基本的にどの学部もエスカレーター式であり、小学校から中学校、中学校から高等学校へと進学しない限り、
通う場所は変わらないし、学年が繰り上がるだけだ。
「おはようございます」と教室内に入ってきたネギ・スプリングフィールド先生が、
『中等部2年A組』と書かれた掛札を、『中等部3年A組』に掛け替えているのを、千雨は欠伸交じりに眺めていた。
全員の視線がネギ先生へと注がれる。さすがに視線に慣れてきたのか、ネギ先生は気にした様子も無く教壇に上がると、生徒たちへと向き直った。
「3年A組! ネギ先生――!!」
途端、クラスメイトの中でもテンションの高い数人が、声高に叫んだ。突然の叫び声に、思わず千雨は肩を跳ねさせた。
しかし、千雨の動揺を他所に、声に同調したクラスメイト(一部無反応だった生徒もいるが)が、合わせて口笛を吹いたり、拍手をしたりしていた。
自然、千雨は自らの頬が引き攣るのを自覚した。(こ、こいつら、新学期早々やってくれやがる!)。
始まってすぐに訪れた疲労感に、ネギ先生から視線を外す。
隣の席に座っている綾瀬夕映と目が合った。彼女は、千雨程とまではいかなくとも、このクラスでは珍しい、落ち着いた少女である。
席が隣同士ということも相まって、比較的会話をする回数が多い千雨は、彼女の心境が、痛いぐらいに良く分かった。
「……変わらんな、ここは」
「……変わりませんね、相変わらず」
二人顔を合わせて、ふう、とため息を吐いた。言葉には出さなくとも、互いが同時に(バカばっかり)と思ったことを、お互いは知る由もない。
朝から疲労感に襲われている二人を他所に、ネギ先生は出席確認を行っていく。
最後の一人まで出席確認が終わったと同時に、開け放たれた教室の出入り口が、ノックされた。
千雨の視線がそこへ向かう。そこには、涼しげなノースリーブを身にまとった、指導教員のしずな先生が立っていた。
騒がしかったクラスメイト達が、少しだけ静まる。
わずかながら静かになったのを確認した、しずな先生は、にこやかな笑みを浮かべた。
「ネギ先生、今日は身体測定ですよ。機材を持ってきますんで、3―Aの皆さんも、急いで準備してくださいね」
その言葉に、ネギ先生の顔色が変わった。
「あ、そうでした!」
どうやら、すっかり忘れていたようだ。幸いにも出席確認は済ませているので、後は生徒たちが着替えるだけである。
だが、まだまだ定外の事態に対して弱いネギ先生は、慌てて「それじゃあ、みなさん、身体測定ですので、今ここで脱いでください!」と声を張り上げた。
……結果、ネギ先生はいつものようにおちょくられて教室を後にすることになった。
「ありゃりゃ、千雨ちゃん、もしかして、ちょっと痩せた?」
突然掛けられた言葉に、体重計の順番待ちをしていた千雨は振り返る。視線の先には、下着姿になった朝倉和美であった。
同じ中学生とは思えない、見事なプロポーションである。ちなみに、千雨も下着姿である。
「あ、やっぱり、なんか前に見たときより、腰回りが細いよね」
そう、和美は呟くと、千雨の脇腹を指でつま……もうとして、出来なかった。途端、和美の目に炎が揺らめくのを、千雨は見たような気がした。
「え、ちょっと待って」
ぷにぷに、と和美の指先が脇腹をくすぐる。抓もうとする指先が、何度も千雨の脇腹を這い回る。
しかし、いっこうに和美の指先が千雨の脂肪を掴むことが出来ず、皮膚の上を舐めるように滑っていく。
もどかしい感触に振り払おうと思うものの、『痩せた』という言葉がそれを押し止めた。
千雨とて、体重は気にしているのである。決して、『痩せた』と言われたことが嬉しかったわけではない。
「千雨ちゃん」
抑揚のない和美の言葉と共に、ピタリと、和美の指が止まった。嫌な予感が背筋を走っていくのを千雨は知覚した。
静止しようと唇を開いた時には遅く、「なんじゃこりゃ!」と和美の叫び声が教室内に響いた。
その声に反応して、一人、また一人、クラスメイトの視線が和美……の傍にいる千雨へと集まっていく。
いよいよもって嫌な予感を覚えた千雨は、さっさと体を隠そうと制服を手に取ろうとして……間に合わなかった。
「やばい、千雨ちゃんのお肌、超すべすべ!」
「え、本当?」
和美が発したプライバシーを確かめるように、神楽坂明日菜は千雨のお腹へ手を伸ばした。
この時点で、千雨はもうなすがままになる覚悟を決めた。
そして、二、三度、掌が腹部を摩ると同時に、明日菜は親友である木乃香に叫んだ。
「ちょっと、木乃香。千雨ちゃんのお肌、超なめらか!」
「ええ、本当かえ?」
半信半疑の眼差しで、木乃香は明日菜に促されるがまま、千雨の素肌を遠慮なく撫でまわす。
時間にすれば数秒、千雨にとっては数分。ゴクリと、クラスメイトの喉が鳴る。
何とも言えない緊張感の中、木乃香は静かに撫でていた肌から手を離すと、顔を上げて千雨を見つめた。
「千雨ちゃん、スキンケア、なに使うてるか教えてぇなー」
いつのまにか無音になっていた室内に、木乃香の声が響いた。と、同時に、千雨の下へクラスメイトが殺到した。
「うおお、すげー、超すべすべだ!」「うわあ、長谷川さん、凄いですぅ、凄いですぅ」と興奮した面持ちで、
千雨の太ももを撫でまわす鳴滝姉妹。もちろん、二人も下着姿だ。
「ちょっと待って、え、ちょっと待って、なにこれ、なんなのこれ?」と呟きながら、
千雨の左腕に頬擦りしている早乙女ハルナを始め、宮崎のどかと綾瀬夕映の二人も、「次は私!」とハルナを静止している。
他のクラスメイトも、思い思いに千雨を肌を撫でまわしたりしており、はっきりいって、千雨は逃げ出したくて仕方が無かった。
(今ここで『バック・ファイア』を使えば、逃げられるかな)と半分本気、半分現実逃避的な気持ちで考えていると、
ズイッと千鶴の顔が眼前いっぱいに広がった。
「うお!?」
思わず身じろぎした千雨に、足元にまとわりついていた鳴滝姉妹から不満が零れた。
「うるせえ、いいから離れろ!」と言ってやりたかったが、がっちりと掴まれた両肩の痛みがそうさせなかった。
「は・せ・が・わ・さ・ん」
珍しく開かれた眼に浮かぶ血走った瞳のそれは、はたして怒りか、別の何か、なのか。
鬼気迫る、というのはこのことだろう。かつて感じたゴーレムの威圧感以上の何かに、千雨は「な、なんだよ?」と聞き返すことしか出来なかった。
「スキンケア、なにをどうしているのか、教えてくれないかしら?」
「……え?」
思わず聞き返した千雨を、責めてはいけない。微笑みながら、そのくせさらに迫力を増した千鶴の姿にクラスメイトたち
(足元にまとわりついていた鳴滝姉妹も同様である)が一歩離れたことも、責めてはいけない。
誰だって、自分の身は惜しいのである。それは、クラスメイトとて例外ではない。
「隠したって、為にならないわよ?」
声だけは、まるで天女の羽衣のようにふわふわで優しい。だというのに、冷や汗が止まらないのは何故だろうか。千雨には分からなかった。
ごくりと、千雨の喉が鳴る。下手に嘘を付くと、下手な結果に繋がることを悟った千雨は、正直に告げた。
「と、特に何もしてねえよ」
「あら、謙遜?」
ぶわっと、背筋に鳥肌が立ったのが分かった。千鶴の背後から、おどろおどろしい瘴気が湧き上がっているのが見える。
出来ることなら本気で逃げ出したいが、とてもではないが逃げ出せそうにない。
「い、いや、マジだって。せいぜい、寝る前にコラーゲン配合の化粧水しているぐらいだよ……一本900円ぐらいで700ミリリットルぐらいの安いやつ」
「……その言葉、誓って真実かしら?」
こくり、こくり。大げさなぐらい、大きく首を縦に振る。
おそらく肌が滑らかなのは、宇宙人から貰った肉体の副産物なのだろうが、そんなこと言えるわけがない。
少しの間、重苦しい沈黙が教室内に充満する。麻帆良四天王を他称される武闘派4人組に視線を向けると、
一様に視線を逸らされた。どうやら、彼女たちも今の千鶴を相手にしたくはないらしい。
「……ふう」
ビクッと、千鶴を除いた全員の肩が跳ねる。
全員の視線が千鶴へと向けられる。千鶴はゆっくりと千雨の肩から手を外すと、頬に手を当てて微笑んだ。
途端、千鶴の体を渦巻いていた瘴気が四散した。
それに合わせて重苦しかった室内の空気も正常化し、クラスメイトの誰かが安堵のため息をもらした。
「あらあら、ごめんなさい。ちょっと驚かせちゃったわね」
ちょっと、どころじゃねえよ!!!
クラスメイトの突っ込みが、教室内に響いた。
「あ、しまった、ジュース買い忘れた」
身体測定から半日が過ぎた。時折感じる千鶴からの視線に戦々恐々としつつ、授業を終えた千雨は、いつものように自室にてネットサーフィンをしていた。
風呂上りであるためか、千雨の素肌はほんのりと桃色に色づいている。上半身裸のまま頭を拭いていた千雨は、
今しがた使用していたタオルとは別の、新しいタオルを手に取って、髪に残った水分を拭き取っていた。
拭き残しがあっても千雨の髪は全く痛むことなくサラサラなのだが、なんとなくしっかり拭き取っておかないと、
気になって仕方がないので今も変わらず続けている。
新学期初日からとんでもない目にあった千雨だったが、のど元過ぎれば何とやら。
大浴場を独り占めしてゆっくりと気持ちを切り替え、ネットをする程度の気力を取り戻していた千雨は、
いつものようにジュースを飲もうと冷蔵庫を開けて、そう呟いた。
ぽりぽりと頭を掻く。時計に目をやれば、特別遅すぎという時間ではなかった。今から部活動帰りの生徒とすれ違う、そんな時刻であった。
(さて、どうしようか……ジュースは飲みたいけど、コンビニまで買いに行くのは面倒だけど、一度に安く大量に買える。
かといって自販機で買うと手っ取り早いけど、その分高くつく……ううん、悩むなあ)
プチプチと腹部からコンセントを抜きつつ、脳内天秤に面倒臭さと実益を掛ける。今のところ、心もち面倒臭さが優勢である。
普段の千雨なら面倒に思いながらも財布を手に取っていただろうが、今宵の千雨はいつもとひと味もふた味も違う。悪い意味で。
今日の千雨は、普段とは比べ物にならないぐらいに疲れていたのである。それは休み明けの学校初日であったこともそうだが、
なにより休み時間ごとに「千雨ちゃん、ほっぺた触らせてー」と詰め寄ってくるクラスメイトたちが原因であった。
さすがに千雨が鬱陶しいと感じているのが分かっているのか、2回か3回、千雨に触れれば満足して帰ってくれる。
それだけなら千雨もここまで疲労はしなかったのだが、なにせそれが二十名以上である。
休み時間はもちろん、放課後の帰る直前まで離してくれなかったのだから、千雨のフラストレーションはそうとう溜まっていた。
ゆっくりパソコンと睨めっこしたい千雨にとって、今日一日は久しぶりに感じた、気だるい一日だったのだ。
なので、千雨は面倒だな、と思って冷蔵庫を閉めた。しかし、満たされかけた欲求が直前で焦らされてしまうのは、実に気分が悪い。
お茶でも飲んでいればよいと言われればそれまでだが、千雨の舌は甘味料を求めている。
千雨の脳裏に黒い液体が、美味そうに気泡を立てている光景が浮かぶ。思わず、千雨は唇を舐めた。
「……ちくしょう、こういうときのコカ・コーラは反則だろ」
天秤が実益に傾いた瞬間であった。「ああ、もう!」と千雨は苛立ち気味に部屋着を脱ぎ捨てると、手早くカットジーンズを履く。
「あ、ブラジャーどうしよう」
千雨の視線が、ベッドに置かれたブラジャーに注がれる。体を拭き終わってから着けようと思った派手な色合いのそれは、先日買ったばかりの新品である。
寝間着に合わせて買った着心地を最優先したやつだ。その分だけ(千雨の好みから言えば)見た目は、一言で言えばババ臭い、という代物である。
さすがに、これを着て出歩く勇気は無いな。ていうかこれ、どう着ても裏映りするよな。
「別に見せびらかすこともないけどな」と千雨は独り言を呟いて、ブラジャーを収納しているタンスを開く。
「うお、しまった、そういえば、まだ洗濯していなかったんだった」、千雨は思わず頭を叩いた。
ここ数日曇り空が続いたのも相まって、後で纏めて洗おうと思っていたのが災いした。
急ぎ足で洗面所へ向かって脱衣カゴを覗くと、こんもりと膨らんだ洗濯用ネットがあった。
チャックを開いて確認すると、中にはしっかり持っているブラジャーが全部入っていた。
(しまった……これも朝のうちに洗っておくべきだった)
はあ、と千雨は洗濯機の前で膝を抱えた。そっと一つを手に取って臭いを嗅ぐと、想像通り、自分の汗の臭いがした……ような気がした。
この体になってから自身の体臭を感じなくなった千雨だが、臭いがしないとはいえ、気持ちの良いものではない。
千雨は眉根をしかめて、ネットを元に戻した。風呂に入っていなかったら、このまま適当なやつで済ませていただろう。
けれども、タイミング悪く、既に千雨は入浴を済ませている。身綺麗にした状態で使用済みのブラジャーを着けるのは気が引けるし、
着けた後、また入浴するのは面倒だし、そのままでいるのは気持ちが悪い。
チラリと、千雨は洗面所から顔を覗かせて、ベッドを、正確にはベッドの上に置かれたブラジャーを見つめる。
かといって、あんなダサいブラジャーを着て外出するのは論外だ。
ジャージでもあったらそれを着ていくが、あいにくジャージは既に洗濯済であり、乾いていない。
濡れたままでも千雨の体は平気だが、千雨が着ている下着は別だ。寝間着はまだ替えがあるが、ブラジャーには替えが無い。
新しいブラジャーを着ていけば、それが濡れてしまう。
はあ、と千雨の口から、先ほどよりも大きなため息がこぼれた。
「……まあ、ちょっと出かけるぐらいなら、平気だよな」
そう、考えを決めた千雨は、シャツと、その上に薄手のカーディガンを羽織って、財布を手に取った。
コンビニ店員の、気の抜けた挨拶を受けて、千雨は店を後にした。
もののついでに雑誌を立ち読みしたせいで、薄暗かった空は、すっかり漆黒のような夜空になっていた。
等間隔で取り付けられた街灯にも、明かりが灯っている。ぽつん、ぽつん、と照らされた桜並木が、不思議な色合いで千雨の視界に映っていた。
少し不用心かな、と千雨は思ったが、この時間でもけっこう出歩いている学生はいることを思い出し、さっさと歩き始めた。
ぶらぶらとのんびり家路に着く。気持ちとは不思議なもので、あれほど飲みたいと思っていたコーラも、
いざ買って手元に置いたら、途端にそれほど飲みたいものでは無くなってしまっていた。
飲みたい気持ちはあるが、別に無くてもいいんじゃね? というやつだ。
ちなみに、もうこの時点で千雨はノーブラでいることにすっかり慣れていたりする。
部屋を出た当初は気になって仕方なく、不必要なぐらいに周囲の視線を気にしていたというのに、この変わりよう。
別に、千雨がそういった趣味に目覚めたわけではない。ただ、千雨が思っているより、
周りは千雨のことを気にしていないということに気づいたからである。なにせ、このコンビニへ行く途中、
散々桜の陰でイチャつくカップルを目撃したのである。
そいつらは一人恥ずかしがる千雨に目もくれず、ひたすらお互いのことしか目に入っていない。
もはや、恥ずかしいやら妬ましいやら、考えるのが馬鹿馬鹿しくなった、というのが正しい。
ていうか、ジャージ姿の巨乳(ジャージの上からでも分かるナイスバディ)のお姉さんに負けたときには、正直ネットアイドルとしての自信を無くしかけた。
それに、クラスメイトには自分と比べるのも馬鹿馬鹿しいやつがいるんだから、皆そっちに視線を向けるんじゃね? ということを、千雨が悟ったのも大きい。
(よくよく考えたら、シャツの上にカーディガン羽織っているんだから、ノーブラに気づく奴なんているわけねえよな。
そもそもそこまで胸でかくねえし、道だって薄暗いし、これで気づけたらどこのサイボーグだよ)
ペットボトルの詰まったビニール袋を片手に、のんびりと帰り道を歩く。水滴の浮かんだボトルを揺らさないよう気を付ける。
さすがに蓋を開けた瞬間、気泡が噴き上がってくるのは勘弁だ。
てくてくと桜が降り注ぐ並木道を歩く。絶えず降り注いでいる桜の花びらが、月明かりに照らされて、千雨の目を楽しませる。
学校と寮の間にある桜通り程まではいかなくとも、それなりに目を見張るものはある。
少しコンビニで立ち読みしていて、時間が経ちすぎたせいだろうか。普段なら多少の人通りがありそうなものだが、
周囲には千雨の他に人の気配は感じない。時折吹いてくる横風以外、千雨に訴えかけてくるものはない。
来る前には舌打ちしてしまいそうなぐらいにいたカップルたちも、今は一人も見かけない。
(あんだけ鬱陶しいと思っていたカップルも、いないと逆に寂しくなるな。あれか、無いよりはマシってやつか)
立ち止まって、桜を眺める。ふわりとそよぐ夜風が心地よい。冬にはない、少し湿気が混じった気持ちの良い風だ。
やっぱり私は、こうやって静かに眺めているのが一番性に合っているかな。
そう、改めて思った千雨は、頭を振って苦笑した。
……ふと、千雨の耳に先ほどまで無かった異音が耳に届いた。
ハッと我に返って周囲に視線を向けるが、それらしいものは何もなく、ただ静かに桜の花びらが散っているだけだった。
「……なんだ?」
少しずり下がったメガネの位置を直して、辺りの様子を伺う。変質者か、それともいつものバカ騒ぎか。
変質者が出たという話はネットでしか聞いていないが、可能性は否定できない。
千雨には判断が付かなかったが、変質者と頭に思い浮かんだせいで、もう千雨にはそうとしか思えなかった。
とりあえずいつでも対処できるように、思考を集中する。
変質者なら『フォトン・レーザー』で済むし、バカ騒ぎなら取り越し苦労。後者なら大歓迎。前者なら、逃げた後に一閃。
小走りでその場を後にするが、異音は千雨の耳から逃げることはなく、それどころか心もちはっきり聞こえてくるようになってきている。
(……? 近づいてきている?)
テレビで聞いたような、この耳で聞いたような、妙に聞き慣れたそれは、次第に大きくなっていく。
どくり、どくりと心臓の鼓動が高まっていくのを、千雨は感じていた。
(落ち着け、落ち着くんだ、私。大丈夫、これぐらい大丈夫さ。あのときより、まだ状況は悪くない。
大丈夫、私ならやれる。集中を維持さえすれば、何時でも逃げ出せる。大丈夫、大丈夫さ)
立ち止まって、千雨は荷物を地面に置いた。手先が震えているせいで、思いのほかずさんに放ってしまったみたいで、ペットボトルが袋から零れてしまった。
けれども、千雨は気にせず、いつでも走り出せるように前掲姿勢を取った。
自然と、右の脇を閉めて、左手を右腕に添える。『フォトン・レーザー』を発射するときの構えだ。
右手には痴漢撃退用である催涙スプレーの、『超浸透撃退スプレーまほらちゃん』を握りしめておく。万が一、素性がばれないようにするための工作だ。
以前、クラスメイトから進められて購入したやつだ。使うことはないだろうと高を括っていたが、まさか使うことになるとは……。
異音はさらに音量を上げ、もはや少しうるさいぐらいだ。滲み出てくる冷や汗が頬を伝っていく。千雨の緊張感も、次第に高まっていく。
「なんだ、誰かと思えば、長谷川千雨じゃないか。こんなとこで何をしているんだ?」
来るなら、来い! そう覚悟を決めた千雨が『フォトン・レーザー』を発現させようと意識を集中する直前、その声は響いた。
肩が跳ねるのが分かった。突然の変化に、すっかり冷静さを失った千雨は、頭をあげて周囲をぐるりと見回した。
「だ、誰だ?」
千雨の声が桜並木に響き渡る。けれども、目的の人物はどこにもおらず、ただ桜が舞い散っている光景しかなかった。
「……気のせい?」
「気のせいじゃないぞ。どこを見ておる、上だ、上」
頭上から降り注いだその声に、首を傾げていた千雨は慌てて頭を上げた。途端、千雨の口が呆けたように開かれた。
「……は?」
視線の先には、二人の女性がいた。いや、正確に言えば、一人は幼い少女で、一人は背の高い少女である。
もう少し詳しくするなら、その二人は千雨のクラスメイトであり、普段会話らしい会話をしたことがない相手であり、
背の高い少女は絡繰茶々丸(からくり・ちゃちゃまる)、背の低い少女はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという名前である。
二人は月を背に、優雅に千雨を見下ろしていた。横に伸ばした茶々丸の腕に座っているエヴァンジェリンは、そんな千雨の姿を不満げに見つめていた。
見れば、茶々丸の背中と両足から、僅かな光が放たれているのがうかがえる。
千雨の場所からは茶々丸の背中は見えなかったが、僅かに見える噴射炎を覗き見て、千雨はこの異音の正体を悟った。
絡繰茶々丸。普通の女子中学生として、千雨のクラスメイトに属しているが、千雨から言えば、断じて茶々丸は普通の女の子ではない。
どこから見てもロボットな、そんな女の子である。
どこの世界に、後頭部にネジまき着けている女子中学生がいるのかというのが、千雨の感想であったりする。
途端、千雨の肩から力が抜けた。額に浮かんだ汗を拭って、はあ、と千雨はため息を吐く。
胡乱げな眼差しで二人を見つめると、エヴァンジェリンの目じりが吊り上った。
「は、とはなんだ、は、とは。もう少しリアクションというものをだな」
「マスター、長谷川さんは驚いております。」
「馬鹿者。それぐらい分かっているさ。ただ、もう少し、こう、大げさに驚いてもいいんじゃないか?」
「発汗量、心音、血圧、その他の観点から、長谷川さんはこれ以上ないぐらいに驚いているかと思われます」
「いや、だからそういうことではなくて、だな」
擬音にすれば、シュオオオォォォ……ォォォ……ォォ、だろうか。
茶々丸の背中から聞こえてくるジェット音が次第に小さくなっていくと共に、ゆっくりと二人の高度が下がっていく。
そして千雨の眼前に着地してすぐ、それは完全に消えて、辺りに静けさが戻った。
「ところで、お前はこんなところで何をしておるのだ?」と、茶々丸の腕でふんぞり返るエヴァンジェリンの姿に、頭痛を覚えた千雨は頭を振った。
「……とりあえず、それは私の言葉だと思うが」
「残念だったな、こういうのは早いもの勝ちだ……まあ、隠す必要も無いので言うが、
私は帰る途中でお前を見つけて、声を掛けただけだ。こんな時間に珍しいやつがいるな、と思ってな」
それ言うなら私も同じだよ。そう思った千雨だが、今の千雨に言い返す気力は無い。
さっさと地面に転がったペットボトルを拾って、袋に詰め直した。
「見てわからんか、ジュースを買って帰る途中だよ。誰かさんが紛らわしいことしてくれるから、帰るのが遅くなったけどな」
「そうか、それは気の毒に。今度会ったら、懲らしめておこう」
「そうしてくれ。『桜通りの変質者』が出たのかと思って、こっちは冷や汗ものだったから。それじゃあな」
「ちょっと待て、茶々丸、止めろ」
「はい、マスター」
踵を返して帰ろうとする千雨の手を、茶々丸が掴んだ。思わず眉根をしかめて茶々丸を見つめると、「申し訳ありません」と謝られた。
試しに何度か振り払おうとするが、びくともしない。
それでいて、全く千雨に痛みを感じさせない力加減に、さすが麻帆良製のロボットだ、と千雨は内心感嘆した。
「なんだよ、何か用か? ていうかいいかげん降りろよ、絡繰の上から」
「その『桜通りの変質者』というのはなんだ?」
無視の上に、なんでそんなことを聞くんだ、と千雨は思ったが、エヴァンジェリンの異様とも言っていい形相に、千雨は口を噤んだ。
口元を引き攣らせ、目じりには怒りの色が浮かんだそれは、見た目とは裏腹の迫力があった。
エヴァンジェリンからすれば、千雨の話す『桜通りの変質者』など、侮辱以外の何者でもなかったからだ。
なぜならば、それとは別の噂を立てたのは彼女であり、それは実際に彼女が行った真実であったからだ。
エヴァンジェリンの正体は、普通の女の子ではない。数百年以上の時を生き長らえている、吸血鬼の真祖にして頂点。
魔法使いの間ではもはや絵本に出てくるぐらいのビッグネームとなっている、伝説の賞金首『エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル』。
それが、彼女の真の姿である。
金髪の北欧美少女と言っていい彼女と、ほとんど会話をした記憶が無い千雨にとって、ある意味、表情を変えている彼女の姿は新鮮だった。
「なんだ、エヴァンジェリンは知らないのか?」
「私が知っているのは、『桜通りの吸血鬼』だ。断じて『桜通りの変質者』ではないぞ」
そう、千雨は知る由もないが、その『桜通りの吸血鬼』の正体こそ、エヴァンジェリンである。
ここに来る前にも、魔法使いとしてのネギと一戦交えてきたばかり(横やりが入って撤退したが)なのである。
そんな彼女だからこそ、それ相応の誇りというものがある。
悪党だとか、悪魔だとかは言われ慣れているが、断じて変質者と呼ばれるようなことをした覚えはない。
我知らず口調が荒くなるのを、エヴァンジェリンは抑えられなかった。
そんなエヴァンジェリンの質問に千雨は、ああ、と頷いた。
「それは姉崎が言っていた、表の噂話だ。私が言っているのは、ネット上の裏話だよ」
「ネット?」
「マスター、インターネットです」
「それぐらい分かっておるわ、バカたれ!」
スパン、と茶々丸の頭を叩いたエヴァンジェリンは、憎々しげに千雨を見下ろした。その姿に思うところはあったが、千雨は空気を読んだ。
「それで、その裏話とはなんだ?」
「裏話って程でもないけど、黒いボロ布を纏った小汚いチビのオッサンが、小学生の女の子の首筋を舐め回すっていう内容だぞ」
「なんでそうなるのだ!?」
エヴァンジェリンから言わせれば、まさしくなぜそうなるのか? である。
何をどう間違ったら、吸血鬼から変質者に変わるのか。エヴァには全く理解出来なかった。
それは千雨も同様で、「知るか、そんなこと」、と一言で切って捨て、なぜかショックを受けて項垂れているエヴァンジェリンに、
千雨は「まあ、そういう話なんだよ」と、答えた。
「マスター、大丈夫です。マスターは小汚いオッサンではございません」とフォローしている茶々丸の頭を、エヴァはもう一度叩いた。
なぜエヴァンジェリンとオッサンを関連付けたのかは知らないが、茶々丸の頭を叩いたことには千雨も納得せざるを得ない。
「くそう、くそう」とエヴァンジェリンは茶々丸の上で地団太を踏む。
踏むと言っても地面に足が付いていないので、その様子は茶々丸の上でジタバタしている女の子にしか見えない。
(つーか、こいつなんでこんなに怒っているんだ? もしかして、こいつが噂の吸血鬼なのか……まあ、考え過ぎか)
茶々丸とエヴァンジェリンの会話から、なんとなく千雨はそう思う。実は大正解である。
けれども、今のように癇癪を起しているエヴァンジェリンの姿に、その想像を否定されるような気がしてくる。
というより、小学生のような自分の発想に、千雨は胸が掻き毟られるような気持ちすらあった。
ここに二人がいなかったら、今頃千雨はもだえ苦しんでいただろう。
「ところで、私からも聞いていいか?」
「くそう……ん、なんだ?」
茶々丸の頭を叩いていたエヴァンジェリンが、手を止めた。
「さっきから絡繰が、マスター、マスターって言っているけど、それはエヴァンジェリンのことか?」
「そうだ」
「なんでマスター? あとなぜ下着姿?」
「理由を言う必要があるのか?」
「いや、無いよ」
そう言い終わると同時に、千雨はエヴァンジェリンから一歩身を引いた。正直なところ、千雨はエヴァンジェリンのことを良く知らない。
ただ、クラスのバカ騒ぎに便乗しない、貴重な存在であるということは分かっている。
可もなく不可も無く、千雨の評価としては、限りなく中間に近い位置に属していたエヴァンジェリンであったが、それはたった今変わった。
そして今、そこに、新たな二文字が追加されたのである。『変態』、と言う名の二文字が。
少なくとも、下着姿で夜中に出歩くやつは、千雨の論理から言えば変態である。それが幼い子供なら話は違うが、相手は女子中学生だ。
弁解の余地は無い。よくよく見れば、エヴァンジェリンも茶々丸も、少し身だしなみが乱れている。これはもう、疑問を挟む余地が無い。
目は口ほどに物を言うとあるが、エヴァンジェリンにも千雨の様子が変化したことに気づく。
次いで、その瞳に浮かぶ感情に、エヴァンジェリンは首を傾げる。
はて、長谷川に何か怖がられるようなことをしただろうか? と記憶を思い返している中、千雨は恐る恐る口を開いた。
「い、いくらなんでも、同級生にご主人様呼ばわりさせるのは、さすがの私でも引くわ」
「……はあ? お前はいったい何を言っ」
聡明なエヴァの脳裏に、式が浮かぶ。茶々丸がエヴァをマスターと呼ぶ。マスターは訳すと主人。
普通に考えれば、同級生をマスターと呼ぶ奴はいない。つまり、エヴァンジェリンは普通ではない。
はた目から見れば、エヴァンジェリンは茶々丸にマスターと呼ばせている。
それってつまり……そういう趣味な人って思われている?
瞬間、エヴァの頬が紅潮した。ぱくぱくと開閉する唇からは、息がこぼれるだけで、声が出てきて来ない。
そんなエヴァンジェリンの反応にさらに身を引いた千雨は、腕を掴む茶々丸に声を掛けた。
「な、なあ、絡繰。そろそろ私は帰りたいんだ、手を放してくれないか?」
千雨の言葉に、茶々丸は腕に乗せたエヴァンジェリンへ顔を向けた。茶々丸自身は、離れたがっている千雨の腕を解放してあげたいが、
主であるエヴァンジェリンの命令がある限り、千雨の腕を自由にするわけにはいかないからだ。
「マスター、どうしますか?」
ビクッとエヴァンジェリンの肩が震えた。千雨の肩も震えた。
「あ、その、なんだ、とりあえず、長谷川、誤解はするな。これには理由があるのだ。断じて、お前が考えているようなことではないぞ」
「マスターの言うとおりです。マスターは決して長谷川さんが考えているような方ではありません。とっても優しい方です」
「や、優しい、そ、そうか、優しいか」
何を想像したのだろうか。千雨の頬がほんのり赤くなった。それを見て、エヴァンジェリンもますます頬を赤らめた。
「ちょ、おま、茶々丸、お前は少し黙っておけ。余計誤解されるだろうが!」
「はい、黙りますが、その前に、長谷川さんの腕は放してもよろしいでしょうか?」
「とりあえず放すな。あと、私の事はエヴァと呼べ」
「了解致しました、マスター・エヴァ様」
「なんだ、そのライトセーバーを使いそうなジェダイの騎士は!?」
茶々丸は首を傾げた。
「お気に召しませんでしたか?」
「お気に召す箇所が見当たらないわ、ぼけ! 普通にエヴァと呼べ、エヴァと!」
「了解致しました、ノーマル・エヴァ様」
「お前、おちょくっているのか? 私をおちょくっているのか、なあ?」
茶々丸の後頭部に付けられたネジまきに手を掛ける。
「あ、あれってやっぱり巻けるんだ」という千雨の言葉を他所に、エヴァは荒々しくネジを巻き始めた。
「ああ、ノーマル・エヴァ様、そんなにネジを巻かないでください、ああ、後生ですから……」
「ええい、とにかく少し黙っておけと言うのが分からんのか!」「ああ、激しい……」
「……いいよ、もうそれでいいから、とにかく口を閉じていてくれ……頼むから。あと、もう手を放していいぞ」
なにやら疲れた様子で茶々丸の頭にもたれ掛るエヴァンジェリンを他所に、どこか茶々丸はスッキリした様子だ。
千雨はと言えば、自由になったことと、目の前で行われた寸劇にすっかり嫌悪感も薄れ、
なんとなくバカ騒ぎを起こすクラスメイトと似たような空気を茶々丸に覚えたりしていた。
恐る恐る、千雨はエヴァンジェリンへ声を掛ける。
「なんだか、エヴァンジェリンも大変だな、色々と……」
「……分かってくれるか?」
のそりと顔を上げたエヴァンジェリンを見て、千雨は何となく、彼女に親近感を覚えた。
それはエヴァンジェリンも同じだったのか、先ほどよりもどこか柔らかな笑みを浮かべていた。
「理由は知らんが、私の誤解だったようだな……ほら、『午後の紅茶』をやるから、元気出せ。まだ冷えているから飲めると思うぞ」
差し出されたペットボトルを、エヴァンジェリンは礼を言って受け取った。
「……なんだろうな、こんな些細なことなのに、妙にうれしく思っているぞ、私は。これでお前が男だったら、ちょっとときめいていたかもしれん」
「ノーマル・エヴァ様、同性愛は障害が多いかと思われますが……」
エヴァンジェリンは黙って茶々丸の頭を叩いた。
「『午後の紅茶』で惚れるって、ずいぶんと安っぽいやつだな、エヴァンジェリンは」
「エヴァでいい。恋は何時だって唐突なものさ。たった一度情けを掛けられただけで、
どうしようもない駄目男に惚れてしまう女がいるんだ。紅茶で惚れるなんて、洒落ているじゃないか」
ジュース、ありがたく頂くぞ、とエヴァンジェリン……エヴァが告げたので、千雨は頷いて了承した。
カシュ、と蓋を開けて紅茶を飲み始めるエヴァを見て、千雨も袋からコーラを出して、蓋を開ける。
途端、噴出してくる気泡に片手がベトベトになる。
すっかりそのことを忘れていた千雨は、慌ててペットボトルを遠ざけると、茶々丸からハンカチを差し出された。どこにでもある、安っぽいハンカチだ
「ジュースのお礼だ。くれてやるから、好きにしろ」とエヴァが言うので、千雨はありがたくそれを受け取って、ペットボトルに口づけた。
「ふーん、そんなものか」
「そんなものさ。茶々丸の上でスマンが、勘弁してくれ。靴を履いていないのでな、足を汚したくないんだ」
「大丈夫です、ノーマル・エヴァ様。汚れた足は、私が綺麗にします」
再び、エヴァは茶々丸の頭を叩いた。「もうマスターに戻せ」と命令すると、茶々丸は素直に了承した。
「……いつも、こんな感じなのか?」
「……いつもって程ではないが、時折歯車が狂ったように、とんちんかんなことになる。
葉加瀬にもメンテナンスしてもらっているが、どうもこれが正常のようだ」
葉加瀬とは、千雨のクラスメイトである、葉加瀬聡美のことである。なるほど、彼女は女子中学生でありながら、
大学のロボット工学研究会に所属している天才である。その彼女が言うのだから、茶々丸は本当に正常運転なのだろう。
なんとまあ。千雨は呆れてため息を吐いた。
「大丈夫か、このロボットは」
「いや、これで優秀なんだぞ、茶々丸は。炊事洗濯に始まり、たいていのことはプロレベルでこなす万能だぞ……って、ちょっと待て」
飲んでいた紅茶から、口を離す。エヴァンジェリンの視線に気づいた千雨も、それにならって唇を離した。
「お前、茶々丸のことをロボットだと思っているのか?」
「え、ロボットじゃないのか?」
「え?」
「え?」
……沈黙がお互いの間を流れる。その沈黙を破ったのは、千雨が先だった。
「いや、だってお前、あんなロボットっぽく空とんで、ロボットっぽい耳飾り着けて、それでロボットじゃないっていうのが可笑しいだろ」
「……あ、うん、そうだな。うん、そうだ。確かにそうだが……おい、長谷川千雨、ちょっとこっちに来い」
ちょい、ちょい、と手招きされる。特に気にせず、千雨は促されるがまま茶々丸へと近寄ると、
エヴァは手を伸ばして千雨の頭に手を置いた。他人に頭を触られる経験が無い千雨は、そのことに妙なくすぐったさを覚えた。
(なんだ?)
「おい、これは何の意味があるんだ?」
「『マギステル・マギ』を知っているか?」
ピクリと、茶々丸の肩が動いた。けれども千雨は気づいた様子も無く、「まぎ……なんだって?」と、エヴァに聞き返していた。
「『マギステル・マギ』だ。この言葉に聞き覚えはあるか? あるいは、似たような言葉に聞き覚えはあるか?」
「はあ? そんなのいったい「いいから答えろ」……知らねえよ。聞いたことも無い。早口言葉か何かか?」
ジッと、目を瞑って自身の頭に手を置いているエヴァに、千雨は尋ねる。だが、エヴァは千雨の声がまるで聞こえていないかのようだった。
「なぜ、茶々丸をロボットだと思った?」
また質問である。少し苛立ちを覚えたが、思いのほか真剣なエヴァの表情を見て、千雨は黙って従うことにした。
「なぜって言われても、私にはロボとしか思えなかっただけだよ」
「どうしてロボと思った? あのようなアクセサリーを付けた女性だとは思わなかったのか?」
「……質問に質問を返すようで悪いけど、あれで普通の人間の女性に見えるやついるのか?
絡繰には悪いけど、やっぱり人間には見えないし、ロボだろ」
チラリと視線を茶々丸へ向けるが、茶々丸は特に気にした様子も無く、エヴァを担いだまま佇んでいた。少し、気まずい思いだ。
「茶々丸のことは気にするな。分かっているな、茶々丸」
「はい、マスター。長谷川さんの言わんとしていることは、十分に把握しております」
目を瞑ったまま、エヴァと茶々丸はそう千雨を慰めた。なんというか、立場が逆である。
「……最後に、もう一つ……いや、やめておこう」
エヴァは静かに千雨の頭から手を外すと、ふう、とため息を吐いた。
「すまんな、どうやら私の早とちりのようだ。お前は正真正銘、普通の女子中学生のようだ」
(普通以外の女子中学生に見えたのか、私は)身に覚えがあり過ぎる事実に、千雨は思わず頬を引き攣らせる。
自らの秘密を口にするつもりはないが、なんとも釈然としないのも事実である。
「いきなり人の頭に手を置いて、言うことがそれかよ。意味が分からん」
「それは重畳。分からなくて正解だ。分かっていたら、私にとっても、お前にとっても少々面倒なことになっていただろうな」
なんだよ、その面倒なことって。
その言葉が喉元まで出かけたが、千雨は寸前で呑み込んだ。
千雨の第六感が、尋ねるべきではないとアラートを鳴らしている。好奇心よりも、千雨はこの身の平穏を選んだ。
ペットボトルを傾けて、エヴァは残った中身を飲み始めた。こくり、こくりと喉を鳴らして中身をすべて飲み干すと、はあ、と息をついて唇を離した。
「いやあ、初めて飲んだが、意外と美味いな、これ」
「ん、紅茶飲むの初めてか? 見た目からして、普段から紅茶を飲んでいるようなイメージがあるんだが」
そういうわけじゃないのだが、とエヴァは苦笑して首を横に振った。
「お茶全般は好きでよく飲むのだが、あいにくこういった紅茶はほとんど飲んだことがなくてな。
以前、茶々丸がメンテナンスの時に、一度だけパックの紅茶を作って飲んだことはあるが……不味くてな。
これは、紅茶としては失礼に当たる味だが、ジュースとして飲めば思ったより美味い。飲まず嫌いをしていたことが、少し口惜しく思う」
「良かったじゃないか、嫌いなものが一つ減ったぞ」
エヴァから空になったペットボトルを受け取り、袋に入れる。千雨も残っていたコーラを全部飲み干して袋に入れる。
さすがに二本も減れば、はっきり分かるぐらいに軽く感じられた。
ふと、気になって携帯電話で時計を確認する。表示された現在時刻に、千雨は眉根をしかめた。
「思ったより話し込んでいたみたいだな。あんまり遅くなると、明日が辛い。私はもう帰るよ」
「あ、ちょっと待て」
携帯電話をポケットに仕舞って、踵を返す千雨を見て、エヴァが慌てて手を伸ばす。
しかし、当然のことだがとどくはずも無く、バランスを崩しかけたエヴァを茶々丸が支え、即座に空いた手で千雨の服の裾を掴んだ。
今度はなんだ、と振り返る千雨をしり目に、エヴァは「茶々丸、抱き上げろ」と従者に命令する。
「了解致しました。失礼します、長谷川さん」
従者である茶々丸は、反射的に逃げようとする千雨を無理やり片手で抱き上げる。
腕の細さは千雨とそう変わらないのだが、それからは考えられないぐらいの力で千雨を軽々と肩に抱えた。
見た目通り軽そうなエヴァは別として、平均程度はある千雨の体重を、いとも簡単に持ち上げるあたり、さすがはロボットと言うべきか。
人一人抱えたというのに、ピクリともたたらを踏まない。
「きゃあ!」と自分の口から出たとは思えない甲高い悲鳴を上げて、千雨は茶々丸の頭にしがみ付く。
「きゃあ、とは、可愛い悲鳴だな」と笑われた千雨は、頬を赤らめてそっぽを向いた。
抱き上げられるなど、千雨にとっては物心がついてから初めての経験である。慣れているのか、エヴァは特に茶々丸に捕まることなく平然とした様子だ。
そうなると、右腕にエヴァを、左腕に千雨を乗せているという、はた目から見れば三人は不思議な構図になった。
「よいしょ」っと、年寄り染みた掛け声と共に、エヴァは両手を伸ばす。片手が服の裾を掴むと同時に、一気にへそが見えるぐらいまで捲り上げた。
「えっ?」っと、千雨が反応するよりも早く、残った片手がそこへ滑り込む。そのままシミどころか汚れ一つない綺麗な腹部を撫でまわした。
突然のエヴァの行動に、呆気に取られるしかない千雨をしり目に、エヴァの手は縦横無尽に素肌の上を踊った。
「おおう、神楽坂明日菜が口にしていたとおり、凄い滑らかな肌だ。まるで赤ん坊……いや、それよりも肌触りがいい」
むにむに、むにむに、と腹の肉を抓まれる。「ふむ、余分な脂肪がいっさいない。だというのに、実にさわり心地がいい」と、
妙に嬉しそうに蹂躙作業を続ける彼女を見て、千雨の脳裏に、ようやくながら理解の色が滲んでくる。
そういえば、と、エヴァがまだ一度も自分の肌に触れていなかったことを、千雨は思い出す。
なんだか見られているような気はしていたけど、もしかして触りたかったのだろうか。
(……まあ、いいか。クラスメイトだし、知らない相手じゃないし、同性だし……お腹の肉を抓まれるぐらい、どうってことはないだろう)
けれども、もうちょっと事前に了解を取れよ、と千雨は思ったり。おかげで千雨は、あげなくてもいい悲鳴をあげて、
しなくてもいい醜態を晒してしまったのである。晒したといっても、ただ悲鳴をあげただけだが、千雨にとっては醜態である。
しかし、喜んでいる同級生に水を差さない程度には空気が読める千雨は、内心ため息を吐いて満足するまでさせることにした。
(…………あれ、ちょっと待て)
時間にして一分程経ったあたりだろうか。ふと、千雨はあることを思い出した。
同時に、少しずつ撫で摩る位置が上がっていた小さな手が、鳩尾の上まで滑り上がっていく。
(……あれ、あれ?)
思い出した事実が思考に広がっていくにつれて、千雨の全身に冷や汗が浮かび始める。
爆発的に膨れ上がった羞恥心が、千雨の全身を紅潮させる。目を見開いて唇を戦慄かせる千雨の様子に気づいた茶々丸が声を掛けるが、
それどころではない千雨には全く届かない。
(そういえば、私って、今は……)
エヴァの手が千雨の膨らみを掴むのと、ナッシングブラジャーであることを千雨が完全に思い出したのは、ほぼ同時であった。
「あ?」
おや? っという具合に目をぱちくりさせるエヴァの頬を、千雨の渾身の平手が直撃したのも同時であった。