銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第八十話:解放区民主化支援計画 宇宙暦796年9月2日~6日 イゼルローン要塞

 ハイネセンやその周辺星域にある基地を出発した三〇〇〇万の遠征軍将兵は、総司令部が置かれているイゼルローン要塞で最後の整備と休養を行った後、帝国領に進入していく。ただ、一度に収容できるのは、艦艇二万隻と将兵五〇〇万人程度に過ぎない。ある部隊が数日間滞在して帝国領に出発したら、同盟領方向からやってきた別の部隊が入れ替わり、交代交代で要塞を使用していた。

 

 俺の所属する第一二艦隊が第七艦隊と入れ替わるようにイゼルローンに入ったのは、九月二日のことだった。三日間滞在して、六日に出発する。余裕のない日程だったが、第一二艦隊の次に入ってくる第九艦隊は、既にイゼルローンの手前のティアマト星域までやってきている。後続の第三艦隊、第五艦隊もあと三日でティアマト星域に入る見込みだった。彼らをあまり長く待たせるわけにはいかなかった。

 

 整備員が艦艇や艦載機の手入れに励み、補給員が物資を補充して、その他の者が装備の点検に精を出している間、戦隊司令官の俺は会議に追われていた。

 

 作戦計画とその実施に関しては、ハイネセンを出発する前に戦隊、分艦隊、艦隊のそれぞれのレベルで調整済みだった。変更を要するような材料も今のところは存在していない。本来ならイゼルローンでの会議は最終確認だけで済んでいた。それで済まなくなったのは、政治的な事情による。

 

 今回の遠征目的は、公式には「大軍をもって帝国領の奥深く侵攻する」という曖昧なものであったが、アンドリューから見せられた概要では「帝都オーディンを攻略して、同盟に有利な講和を強要する」と明記されていた。

 

 公式の文面がなぜ曖昧なものになったのかはわからない。しかし、主目的はオーディン攻略で、帝国領内の有人惑星は補給路として占領すべきものだった。帝国から同盟に寝返る予定の二六星系も現地指導者に統治を委ねる予定だった。ところが「帝国諸惑星の解放と民主化こそが今回の出兵の主目的だ」と主張する者が現れて、占領政策は根本的な修正を余儀なくされたのである。

 

 彼らは最高評議会にはたらきかけて、「解放区民主化支援機構」なるものを発足させた。占領統治と民主化プロセスを担当するこの機関が作成した民主化プランへの対応が会議の議題となっていた。

 

「なんですか、これは」

 

 苦々しさを隠し切れない俺が『解放区民主化試案』と題されたファイルを机の上に放り投げると、第一二艦隊の将官達は一斉に顔色を変えた。

 

「見ればわかるだろう」

 

 第一二艦隊参謀長ナサニエル・コナリー少将の呆れたような顔を見て我に返った俺は、慌ててファイルを拾い上げる。ここが第一二艦隊将官会議の席上だということをすっかり忘れてしまっていた。

 

「この案に何か問題があるのかね?」

 

 とげを含んだ声で問うのは、第一二艦隊副司令官ヤオ・フアシン少将。ヨブ・トリューニヒト嫌いを公言する彼は、トリューニヒト派の俺をあからさまに嫌っていた。第一二艦隊で最も避けて通りたい人ナンバーワンである。

 

「小官には素晴らしい案に見えるが、フィリップス提督には別の意見があるようだ」

 

 第一二艦隊にあってひときわ勇名高い実戦派提督に睨まれると、何も言えなくなってしまう。ヤオ少将と俺では、貫禄が圧倒的に違う。

 

「フォーク准将の案が公表された段階では、気が進まなかった。だが、目標がはっきりして、ようやく戦う気になれた。帝国の解放と民主化は、命を賭けて戦うに値する目的ではないか」

 

 第四四戦隊司令官セルヒオ・バレーロ准将の言葉に、出席者は「そうだそうだ」と声をあげる。

 

「これ以上に具体的で現実的な民主化プランは、そうそう無いと思いますよ。民主化支援機構の副理事長は元帝国内務省次官のハッセルバッハ氏、一二人の理事の中には、元帝国軍少将グロスマン氏、元反体制組織指導者のシェーナー氏、元門閥貴族のネルトリンガー氏といった有力な亡命者もいます。帝国の事情も十分に踏まえられてるはずです」

 

 ファイルをめくっている第一二艦隊後方支援集団司令官アーイシャー・シャルマ少将を見ながら、「違う、そうじゃない。民主化自体が間違いなんだ」と頭の中で一人つぶやく。

 

 治安作戦に従事した経験から言うと、現地人の協力を得るには風習を尊重しなければならない。どれほど愚かしく見えても、変えようとしてはならない。帝国の身分制度や事大主義的な文化を後進的と断じて、自由主義と民主主義を啓蒙しようという民主化支援機構のプランでは、帝国人の反発を買ってしまう。

 

 正規艦隊の幹部は実力、経歴ともにずば抜けたエリートがほとんどだ。第一二艦隊もその例外ではない。彼らのような人は、軍事では現実主義なのに、政治では理想主義に陥る傾向が強い。非凡な彼らにとっては、間違いは正されなければならないもので、他人は努力すれば変えることができる存在だった。

 

 民主化支援機構のプランは、一言で言うと「正しいハイネセン主義」である。市民の自由を最大限に尊重して、政府の権限や規模は最小限に抑える。経済活動の自由を最大限に尊重して、政府の経済介入は最小限に抑える。内面の自由を最大限に尊重して、政府の教育や文化への介入は最小限に抑える。市民が政府を監視するシステムを作って、不正や腐敗を防止する。政府の暴走を防ぐために、軍事力と警察力は最小限に抑える。民主化支援機構はそんなシステムを帝国領で構築して、国父アーレ・ハイネセンの理想を実現しようとしていた。

 

「アーレ・ハイネセンが唱える『自由、自主、自律、自尊』の理念は凡人には重すぎる」

 

 ヨブ・トリューニヒトはそう語ったことがある。だから、ハイネセンを国父と崇拝する同盟においても、ハイネセン主義は実現できなかった。

 

「正しい答えがわかっていれば、正しい選択ができる。正しい答えを人に伝えれば、人は正しい選択をしてくれる。そう信じている人を見ると、羨ましくなるね。さぞ幸せな人生を生きてきたのだろう。そう思わないかい、エリヤ君?」

 

 ヨブ・トリューニヒトはそう語ったことがある。正しい答えがわかっていても、人は正しく選択できない。正しい答えを他人に教えても、他人は正しく動いてくれない。

 

 民主化支援機構のメンバーも第一二艦隊の幹部と同じように非凡な人達なのだろう。彼らはアーレ・ハイネセンの理念の重さに耐えることができる。彼らは正しい答えを知っていれば、正しい選択ができる。それゆえに凡人との付き合い方がわからない。そんな人達が占領政策を担当することにどうしようもない不安を感じた。

 

 

 

 第一二艦隊将官会議が終わった後、俺は戦隊司令部に戻って参謀会議を招集した。解放区民主化試案は第一二艦隊に所属する全部隊の司令部に配布されていて、第三六戦隊の参謀達も一人を除いて全員読み終えていた。

 

「というわけで、俺としてはこの試案はまずいと思うんだ」

 

 そう言って全員の顔を見回したが、みんな俺の言葉に納得いかないようだった。

 

「我々は幼い頃から、アーレ・ハイネセンの理想を自明のものとして育ってきました。ですから、その理想を現実にしようとしている試案に、技術的な問題を超えた本能的な共感を感じてしまいます」

 

 最初に発言したのは人事部長のセルゲイ・ニコルスキー中佐だった。彼が言っているように、解放区民主化試案は同盟で生まれ育った者であれば、心の奥底で正しいと思ってしまう。違和感があっても、正面きっての反対はできない。そんな参謀達の気持ちを代弁しているかのようだった。

 

「しかし、帝国の人はそうではないんだ。アーレ・ハイネセンの理想を彼らに押し付けるのは良くない」

 

 参謀達がすっかり引いてしまっているのを見て、まずいことを言ってしまったと思った。ハイネセン主義に懐疑的なトリューニヒトと付き合ったおかげで、ハイネセン主義に対する懐疑を人前で示すのがどれほど危ういことか、忘れてしまっていた。

 

「確かに押し付けるのもハイネセン的ではないですね。自由は与えられるものではなく、自分の手で選択するものというのがハイネセンの教えですから」

「そうなんだ。自由を一方的に与えようとする。そんな態度はハイネセンの教えに反する。自由も自分で選んだがゆえに至上なんだ」

 

 教条主義者ではないニコルスキー中佐があえて教条主義的な言い方をしたのは、俺の発言を何とかしてハイネセン主義の枠に収めて、参謀達を落ち着かせようとする配慮だろう。

 

「そういう理由であれば、私も同意します」

「ありがとう)

 

 ニコルスキー中佐の言葉を聞いた参謀達は、ようやく納得したような表情になった。俺の意見を政治的に正しい言い方に翻訳することで、みんなを納得させつつ、試案に反対するために俺が用いるべきロジックを示してくれた。

 

「結論から先に言いますと、私は司令官に賛成ですねえ」

 

 後方部長リリー・レトガー中佐は、いつものような間延びした声で俺に対する同意を示した。

 

「理由は?」

「このプランだと本来想定していた懐柔作戦より、ずっと多くの物資を遣うんです。本格的に統治したら、うちの部隊の輸送力では間に合わなくなりますよ。進軍速度が半分以下になります」

 

 物資消費量が多くなれば、後方から追加補給を受ける必要が出てくる。追加補給を待つ時間だけ、部隊の足が遅くなる。そうなれば、作戦が長期化してしまう。前の歴史における帝国領侵攻作戦では、帝国軍は焦土作戦によって、そういう状態を意図的に作りだした。

 

「輸送部隊を倍増するって書いてるよ」

「敵地の中では、戦闘力のない輸送部隊はあてに出来ませんよ。そのままでは前線に到達できませんし、護衛を付ければ輸送速度が遅くなりますし。結局、うちの部隊の輸送力が頼りです」

「なるほど。考えてみるよ」

 

 レトガー中佐の言葉に俺は深く頷いた。輸送力への懸念を示して、このプランに反対することも可能かもしれない。

 

「圧政からの解放、自由と権利といった大義名分は、帝国人にとっては何の意味もありませんな。帝国人は同盟人と違って、自由の無い生活を圧政とは思っていません。自由と権利がない暮らしを五〇〇年近く経験していれば、さすがに慣れます」

 

 亡命者の情報部長ハンス・ベッカー中佐の意見は、前の人生でローエングラム朝によって銀河が統一された時代を経験した俺にもうなづけるものだった。旧ゴールデンバウム朝領出身者は自由がないことを不満に思わない。

 

「彼らにとって意味があるのは、何だと思う?」

「金と名誉です。庶民は安い税金と物価、公正な裁判を望みます。ブルジョワや下級貴族は出世や金儲けのチャンスを望みます。門閥貴族は権力と家門の繁栄を望みます。それらを満たさない政治が帝国人にとっての圧政です」

 

 これも同意できる意見だった。旧帝国領出身者は金と名誉へのこだわりが強い。ローエングラム朝の初代皇帝ラインハルトの治世が善政とされるのは、安い税金、公正な裁判、出世の機会、ビジネスの機会を与えて、金と名誉を求める旧帝国人の欲望に応えたからだった。

 

 ローエングラム朝はゴールデンバウム朝より自由な体制ではあったが、民主主義の自由惑星同盟と比べると大きく制限されていた。もともと持っていた物を失うことほど、腹立たしいことはない。地球教をはじめとする反ローエングラム勢力が旧同盟領で支持を得た背景には、権利を失ったことに対する旧同盟人の不満があった。

 

「ベッカー中佐がまだ帝国に住んでいると仮定したら、この試案にあるような統治を歓迎できる?」

「税金は安く済みそうですね。裁判も帝国よりは公正になるでしょう。出世やビジネスのチャンスもありそうです。一見すれば、悪くないように思えます」

「一見と言ったね。限定的な言い方をした理由は?」

「はい。俺が話したのは軌道に乗った後の話です。それまでは試行錯誤が必要になるでしょう。我が国は財政難、そしてプランを進めるのは遠征中ときています。金も時間も足らんのじゃないでしょうか。同盟人なら自由のためと我慢もできるでしょう。何年も緊縮財政を支持しているような人達ですからな。ただ、帝国人はそうではありません」

「相手の気質を無視して占領政策を進めるのはまずいよね。情報部長の言う通りだ」

 

 同盟人は自由のためなら我慢できるが、帝国人はそうではない。両国人の気質の違いから、試案を評価するベッカー中佐の意見は興味深かった。参謀達も俺と同じように思ったらしく、言葉や身振りで同意を示した。

 

 それから他の参謀達も発言したが、概ねニコルスキー中佐、レトガー中佐、ベッカー中佐の三人が示した論点に沿ったものだった。

 

「帝国人の自主性に対する配慮。確保できる輸送力。資金と時間の余裕。その三点において、第三六戦隊司令部は、解放区民主化試案に懸念を示すということでよろしいでしょうか?」

 

 意見が出尽くしたところで参謀長チュン・ウー・チェン大佐がまとめに入る。俺は大きく頷いて納得の意を示した。参謀は発言権は持っていても、決定権は司令官に属する。俺の同意によって、初めて参謀会議の議論は実効性を持つのであった。

 

 

 

 次の日、解放区民主化試案を受け入れる前提で進んだ第一二艦隊と分艦隊の会議に出席した俺は、戦隊司令部でチュン大佐相手に愚痴をこぼしていた。

 

「みんなその気になってしまってて、俺が口を挟める余地がまったく無いよ」

「多くの人が正しいと思っているのに、さまざまなしがらみから同盟国内では実現できないハイネセン主義の理想が、あのプランの中には詰まっていますからね」

「民主化支援機構の連中は、国内のしがらみに縛られない帝国領をハイネセン主義の実験場にするつもりなんだ」

「実験場ですか。閣下らしくもない過激な言葉ですね」

「地方にいた時に、非凡な人達の理想主義が平凡な人達の生活を踏みにじる現実を目のあたりにした。地方の荒廃を招いたのは、中央のエリート達の理想主義だった」

 

 人々に我慢を強いるのは、権力者のエゴであると言われることが多い。それは事実だ。たとえば、イオン・ファゼカスの帰還作戦もロボス元帥とアルバネーゼ退役大将という二人の権力者のエゴによって引き起こされた。理想によって権力者のエゴを抑えれば、我慢を強いられることがなくなるかもしれないと、昔は思っていた。

 

 しかし、エル・ファシルの復興を遅らせ、地方部隊を荒廃させたのは、権力者のエゴではなかった。国家の未来を真剣に考えた末に、緊縮財政と行政機構縮小を推進した理想主義者の情熱だった。

 

 確かにこのままではいずれ同盟財政は破綻する。しかし、緊縮財政を続ければ財政は破綻せずとも、同盟社会が破綻してしまうのではないか。荒廃した地方の現実、エル・ファシル動乱の経験は、そんな恐怖を抱かせるに十分だった。

 

「民主化支援機構の主要メンバーには、改革派の官僚や学者が名を連ねていますね。彼らが何のしがらみもない状況でどれだけ腕を振るえるか、興味が無いといえば嘘になります。私が指揮官であれば、その興味が先行していたでしょう」

「昨日の会議で最後まで発言しなかったのも、そういうことだったんだね」

「どうやら、私は理想主義者であることをやめられないようです。理想と現実のどちらかを選べと言われたら、迷わず理想を選びます。それが私の限界でしょう」

 

 チュン大佐の言葉には、彼らしくもない照れが含まれているように感じた。前の歴史の彼が、民主主義の理想に殉じるために、軍事の天才ラインハルト率いる大軍に挑んで散っていった英雄であることをあらためて確認させられる。

 

「理想を選べないのが俺の限界とも言えるよ」

 

 理想主義者は強い。正規艦隊のエリートが勇敢なのは、自分の命より理想を躊躇なく優先できるからだ。このような指揮官に率いられた部隊は強い。俺はそんな指揮官にはなれない。だから、ヤオ少将のような人には、敵わないと思ってしまう。

 

「閣下は理想を選べない自分に開き直ろうとしません。それで十分です」

「小心なんだよ、俺は。建前が気になって、格好を付けたくなってしまう」

「本気で理想を信じたら、後に引けなくなります。だから、私は参謀しかやらないことに決めているのです。理想に部下を付き合わせるわけにはいきませんから」

「参謀長は用兵を良く知っていて、胆力もリーダーシップもある。俺なんかよりずっと指揮官に向いてるはずだ。それなのに参謀をやっているのがずっと不思議だった。ようやく理解できたよ」

 

 強すぎる指揮官の下では、弱い部下は生き残れない。勇将の下に弱卒なしと言われるのは、強くならないと死んでしまうからだ。チュン大佐は自分が強すぎることを知っている。「私の限界」というのは、そういう意味だった。

 

「民主化支援機構の理想に帝国人を付き合わせるわけにはいかない。閣下はそうお考えなのでしょう」

「そう、それが俺の言いたかったことなんだ」

「最高評議会のバックアップを受けて、艦隊司令部レベルでも賛同者の多いこのプランを覆すことは困難です。ただ、第三六戦隊の占領地域では、閣下が責任者です」

「そうだね、俺の権限の及ぶ範囲内で最善を尽くそう」

 

 チュン大佐の言葉を聞いて、光明が差したような思いがした。全体の流れは変えられなくとも、自分の目の届く範囲は変えられるかもしれない。部下は民主化支援機構のプランに共感しつつも、俺の思いに理解を示してくれている。

 

「総司令部の顧問を務める帝国情報の専門家の一人がこのプランに強く反対しているそうです。お会いになりますか?」

「プロの視点からの反対意見は参考になるかもしれないね。会おう」

 

 チュン大佐からその専門家の名前を聞いた俺は、さっそく副官のシェリル・コレット大尉を呼んで、アポイントメントの取り付けを指示した。


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