むっとするような暑さで目が覚めた。体は汗でべたついている。寝ぼけまなこで窓の方に目をやると、カーテン越しからもはっきりとわかる強い日差しが部屋の中を照らしていた。ハイネセンの夏は蒸し風呂のような暑さだ。朝でさえこんなに蒸し暑いのだから、時間がたてばもっと酷くなるだろう。何年この街で過ごしても、この暑さだけは苦手だ。
隣ではダーシャ・ブレツェリが俺に背を向けて寝ている。喧嘩したとかそういうわけではなく、寝返りを打っただけだ。彼女は寝相が悪い。俺の上に乗っかってなかっただけでも良しとしなければならない。
「それにしてもおなかが空いたなあ」
冷蔵庫の中に入っている食べ物を思い浮かべてみる。冷凍食品やレトルト食品の買い置きは無い。お菓子も切らしている。ダーシャが昨日買ってきた特売のキャベツと豚肉しかない。俺は料理を作れない。ならば、答えは一つだ。
「ダーシャ、おはよう」
声をかけるけど、反応は返ってこない。
「ねえ、起きてよ。朝ごはん作って」
今度は彼女の右肩に手を掛けて体を軽く揺すってみたが、それでも反応はない。
「まいったな、あの手を使うか」
肩から離した手をダーシャのうなじにぴったり当てて、そこから背骨に沿ってすーっと背中を撫で下ろしていく。手のひらを通して伝わってくるなめらかな感触が心地良い。尾骨に差し掛かったあたりで体がびくっと動いた。彼女は背中が弱いのだ。
「起きた?」
返事はないが、脈はある。もう一度うなじに手を当てて背中を撫で下ろした。ダーシャの体がぶるぶると震える。
「そういうのやめてよね」
思いきり不機嫌そうな声が聴こえる。作戦成功だ。ダーシャは目を覚ました。
「おなかすいたんだ。朝ごはん作ってよ」
「やだ」
「なんでさ」
「太りたくないから」
本当の理由はわかっている。単に起きたくないだけだ。ダーシャは朝が物凄く弱い。本人はそれを恥ずかしがってるらしく、なかなか認めようとせずに、今のような言い訳を繰り返す。
「全然太ってないじゃん」
そう言うと、俺は自分の体をダーシャの背中にぴったりくっつけた。そして、右手を彼女の腹に当ててへそ周りを軽く撫でる。引き締まっていて、まったく肉が付いていない。どこが太っているというのか。寝言もたいがいにして欲しい。
「これから太るかもしれない」
ああ言えばこう言うとは、まさに今のダーシャだ。空腹というのは人間から自制心を奪う。だから、軍隊は補給を絶やしてはならないのだ。後方畑なのにそんな大事なことも忘れてしまったのか。
「変な言い訳しないの」
むっと来た俺はダーシャのへそ周りに当てた手を下腹部に移動して撫で回した。腹がこんなにまっ平らだったら、太る心配なんかいらないだろう。起きたくないというのはわかるが、もう少しマシな言い訳を思いついてほしいものだ。
「ああ、もう。わかったよ、わかったよ。作ればいいんでしょ」
物凄く嫌そうにダーシャは言った。俺を空腹にさせるということが、どういう意味を持つのか。それをわかってくれたらいいんだ。これで朝食にありつけると思うと、うれしくてたまらない。
二〇分後、俺とダーシャはキッチンで一緒に食事を取っていた。テーブルの上にはダーシャが作った豚肉とキャベツの炒め物に、俺がいれたアイスコーヒー。ダーシャはいつもココアを飲んでいるが、今日はたまたま切らしていた。
「せっかく作ったんだから、もっと味わって食べてよね」
「いや、だって。おいしいもん」
俺の食生活は質より量だ。できればいい物を食べたいが、お腹いっぱい食べたいという気持ちがそれに勝る。もともと雑な味覚に軍隊仕込みの食習慣が加わって、とにかく食べられたら何でもいい人になってしまっていた。それに加えて、今は空腹という最高の調味料がある。ダーシャが目の前にいる。何を食べたっておいしいに決まっている。
「しょうがないなあ、もう」
ダーシャは苦笑しながら細い肩をすくめて、立体テレビに目をやった。今は朝のニュースが流れている。最近は気が滅入る事件ばかりだったが、俺やダーシャぐらいの立場になれば、世情と無縁ではいられない。ニュースを見て、何が起きているかを把握しておく必要はあった。
「国防委員長ファンクラブの白頭巾がまたやらかしたんだって」
ダーシャの声には、あからさまな不快感が漂っていた。同盟議会テルヌーゼン区補選で起きた選挙妨害事件のニュースが流れている。反戦市民連合のジェシカ・エドワーズ候補の公開演説会に、極右過激派の憂国騎士団が殴り込み、重傷者三人を含む二二人が負傷したという。国防委員長ファンクラブの白頭巾とダーシャが揶揄する通り、国防委員長ヨブ・トリューニヒトと憂国騎士団の関係は公然の秘密とされていた。
「これだけ暴れても、逮捕者無しだって。警察が主戦派に味方してるんだよ。エドワーズさんが当選するのが怖いんだね」
テルヌーゼン区の補選には、トリューニヒト派の元警察官僚が立候補していた。それに対し、反戦派最左翼の反戦市民連合はジェシカ・エドワーズを擁立している。
輝くような美貌、火を吹くような弁舌を持つエドワーズは、四月のアスターテ会戦で戦死したラップ少佐の婚約者である。戦没者慰霊祭でヨブ・トリューニヒトを糾弾したことから、イゼルローン攻略で高揚する主戦論に歯止めをかける存在として、反戦派に期待されていた。
一方、ヨブ・トリューニヒトはテルヌーゼン補選を自派の力だけで戦い抜いて、来年の総選挙に向けて弾みを付けたいと考えている。反戦市民連合、トリューニヒト派のいずれにとっても、負けられない選挙であった。
ルールの中で正しく戦え、そうやって得た信頼が力になる。トリューニヒトはお好み焼き屋「ヨッチャン」でそう語った。ドーソン中将とともにサイオキシン麻薬組織を帝国憲兵隊との合同捜査によって壊滅させようとした人が、暴力集団の憂国騎士団を使っていることに、割り切れないものを感じてしまう。トリューニヒトのような良い人でも、政治に手を出したら、手を汚さざるを得ないのだろうか。
そう考えると、クリスチアン大佐の言うとおり、政治に近づかないのが正しいようにも思える。
俺の周囲には、憂国騎士団に同情的な人が多い。憂国騎士団の行動部隊には、緊縮財政と組織の合理化によって職を失った退役軍人や元警察官が大勢在籍している。白頭巾で暴れ回る行動部隊の中に、明日の自分や同僚を見ているというわけだ。前の人生で極右組織にさんざん迫害された思い出がある俺は、憂国騎士団をあまり好きになれなかったが、エル・ファシルで見た地方部隊の惨状を思うと、同情的とはいえなくても嫌いになるのは難しい。憂国騎士団に何のためらいもなく厳しい評価を下せる軍人は、ダーシャやチュン大佐のような反戦派寄りの人ぐらいだろう。
「エドワーズさんには頑張ってほしいなあ。士官学校時代はあんまいい思い出がなかった人だったけど」
ダーシャは士官学校で風紀委員を務めていた関係上、ヤン・ウェンリーを取り巻く人脈とは仲が良くない。ジェシカ・エドワーズとは、戦史研究科廃止反対運動をめぐって、いろいろあったのだそうだ。しかし、リベラルなダーシャは個人的な確執より、反戦派のイデオロギーを優先するつもりらしい。
「そうかな。政治家にならない方が幸せな気がするよ」
俺はジェシカ・エドワーズが前の歴史でたどった運命を知っている。テルヌーゼン区補選で勝利して代議員になった彼女は、帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」が無残な失敗に終わり、厭戦気分が漂う中で急進反戦派の指導者として台頭した。七九七年総選挙では、反戦市民連合が第三党に躍進する立役者となっている。過激主戦派のマルタン・ラロシュが失墜し、穏健反戦派のジョアン・レベロ率いる進歩党が大きく議席を減らした後は、ヨブ・トリューニヒトに唯一対抗できる指導者と言われたが、クーデターを起こした救国軍事会議によって殺害された。
今の歴史が前の歴史と同じ展開をたどるとは思えないが、最近はそうとしか思えないような事件が続いている。不安を感じずにはいられない。
「幸せってなに?エリヤが決めること?」
ダーシャの言葉に微妙なとげを感じた。いい加減なことを言うわけにはいかない。真面目に答えなければ。
「争わずに穏やかに生きること。おなかいっぱい食べること。たっぷり眠れること。仕事に困らないこと。誰にも馬鹿にされないこと。体をこわさないこと。そして…」
ダーシャの前でこれを言うのは、とてもこっ恥ずかしい。しかし、真面目に答えると決めたからには言わざるを得ない。
「好きな人と一緒にいること、かな」
「やだなあ、なに赤くなってんのよ。ほんと、可愛いなあ」
大きな目を輝かせて笑っている彼女は、俺が今の言葉に込めた気持ちに気づいているのだろうか。いや、気づかれたら困るな。恥ずかしくなって、顔を合わせられなくなる。
「いや、まあ、それはともかくさ。自分の人生を楽しんだらいいんじゃないかって、俺は思うんだ。他人の運命まで背負っていく生き方って大変そうだよ」
「世の中には二つの考え方があるの」
いきなりダーシャが真顔になった。俺の体を緊張が走り、無意識に背筋がぴんと伸びる。
「一つは好きな人が殺されたら、憎しみが晴れるまで戦おうという考え方。もう一つは好きな人が殺されたら、誰も失いたくないと思って戦いをやめようという考え方。どっちが正しいかなんて、私が決めることじゃないけど。でも、私は誰も失いたくないと思うよ」
ダーシャの言葉に考えこんでしまう。俺が好きな人はみんな軍人だ。好きな人が誰かに殺された経験が無かったのは、単なる幸運に過ぎない。好きな人が殺された時、俺は何を望むのだろうか。
「俺にはわからないや。経験が無い。経験もしたくないよ」
「想像できない?」
「想像したくないと言ったほうが正解かな。好きな人が誰かに殺されていなくなるなんて、考えるだけで恐ろしくなっちゃう」
アンドリュー、クリスチアン大佐、イレーシュ大佐、そして目の前のダーシャ。この中の誰か一人でも殺されてしまったら、俺はどうなってしまうんだろう。前の人生の俺は、誰にも好かれず、誰も好きになることがなかった。俺の目の前で死んでいった人はたくさんいたけれど、辛いと感じたことはほとんどなかった。いや、花言葉の…。あれは関係ない。今となっては、どうでもいい話だ。
「そうだよね。たぶん、エドワーズさんもそう思ってた。でも、その恐怖に向き合うしか無かったんだよ。向き合って、もう誰も失いたくないと思った。だから、戦争を止めるために立ち上がったんじゃないかって」
「誰も失いたくないって気持ちはわかるよ」
ダーシャの言葉を聞いて、初めて反戦論を唱える人達に共感を覚えたような気がする。彼らの主張がそれなりに理屈の通ったものであることは、これまでの経験でわかっていた。戦時体制下で莫大な軍事費が経済を疲弊させていることを思えば、反戦論にも一定の理屈がある。しかし、誰かが死ぬから戦争をやめようという主張には感情を動かされなかった。
平和な時代だって、人間は病気や事故であっさり死ぬ。ラインハルトが銀河を統一した後の時代を生きた俺は、平和の中の貧困が人を殺した例を嫌というほど知っている。しかし、好きな人をこれ以上失いたくないというのなら共感できる。
「主戦派も反戦派も理屈じゃないんだよ。もちろん、理屈は大事だけど。でも、根っこは感情。理屈だけで主戦論や反戦論を言う人は信用出来ないな」
「俺なんて感情しかないや」
理屈にも偏らず、感情にも偏らず、バランスの取れたダーシャと比べると、俺は自分の感情ばっかりだ。だから、ヨブ・トリューニヒトを支持している。前の人生の記憶や今の人生の経験から生まれる感情を彼の言葉は揺り動かしてくれる。でも、ダーシャはそんな俺を面白く思ってないんだろうな。トリューニヒトのことも嫌ってるから。
「だから、好きなんだよ」
「そうなの?」
「トリューニヒトは胡散臭くて好きになれないけどさ。でも、トリューニヒトを好きなエリヤは好きだよ」
「どういうこと?」
「イデオロギーや政治的立場に関係なく、好きという感情を優先できるところが好きってこと。トリューニヒトと私をどっちも好きでいられるって、エリヤは気づいてないかもしれないけど、凄いことだよ」
「それ、普通じゃないの?」
「でもないよ。友達同士が政治の話で喧嘩別れするなんて、そんな珍しくもないじゃん。あと、自分が好きな人の悪口を言われて、喧嘩になるとか」
言われてみると、俺はダーシャと政治のことで喧嘩したことはない。政治的にはリベラルなダーシャと主戦派寄りの俺では全然考えが違う。俺はトリューニヒトのことが大好きだが、ダーシャは嫌っている。正反対なのにまったく喧嘩していない。
「政治なんかでダーシャと喧嘩したくないよ。もちろん、トリューニヒトともね。みんなと仲良くしたいよ」
「私がエリヤのことを可愛いっていうのもね。そういうとこだよ」
にっこりと笑うダーシャの笑顔にドキッとした。こういう関係になっても、好意をまっすぐにぶつけられると、恥ずかしくなってしまう。
「可愛いって言われる提督って何なんだろうね」
「可愛いから提督になれたんじゃないの?」
「そういう冗談、やめてくれないかな」
「いや、わりと本気だけど」
弱りきってる俺に、ダーシャはどんどん切り込んでいく。
「エリヤは上にも下にも可愛がられるタイプだからね」
「ちょっと傷つくなあ、それ」
その評価は今の俺には、ちょっとどころではなく突き刺さる。あちこちでヤンと比較されたあげく、「大した功績もないのに、トリューニヒトに可愛がられたおかげで提督になれた」という評価が定着しつつあるのだ。俺は用兵の才能もスタッフワークもヤンには遠く及ばない。実務能力もおそらくはヤンの方がずっと高い。
アスターテ星域の会戦で負傷した司令官に代わって、第二艦隊の指揮権を引き継いだヤンは、密かに用意していた作戦案をコンピュータに打ち込んでいたという。その場しのぎのとっさの策は一人でも思いつけるが、艦隊運用の詳細も含めた作戦案というのは、普通は数人の作戦参謀がチームを組んで作るものだ。しかし、ヤンは他の参謀の協力を得ずに一人で必要な分析や計算を行って、戦術コンピュータの回路を開いた第二艦隊麾下の部隊がすぐ行動に移れるほどに、きっちりした作戦命令の体裁まで整えてしまった。
聞くところによると、第六次イゼルローン攻防戦でラインハルトの分艦隊を追い詰めた作戦案も全部一人で作ったそうだ。膨大なデータを分析して、一万隻の配置図まで自分で作成した。数人の優秀な参謀がチームを組んで行う仕事を、ヤンは一人でやってのけてしまう。実務の天才としか言いようがない。エル・ファシル脱出作戦の時もそうだったが、ヤンはやろうと思えば何でも一人でできてしまう。提督として俺が勝てる部分なんて一つもない。
「そう?ダンビエール少将の受け売りだけど」
最悪じゃねえか。ダンビエール少将って言えば、第三次ティアマト会戦で俺が面子を潰してしまった人だぞ。本人は気づいてないだろうけど、第一一艦隊参謀長から転出したのは俺の差し金だ。俺を恨んでも許される人物のベストファイブに間違いなく入る。今は第一〇艦隊の第二分艦隊司令官を務めていた。ダーシャはその副参謀長である。
「あの人、俺のこと嫌ってるでしょ」
「そんな感じ、全然なかったけど?」
嘘だ、絶対に嘘だ。俺がドーソン中将の自尊心をくすぐる言葉を吐いた時、ダンビエール少将がどんな顔をしていたか良く覚えている。彼は自分に取り入ろうとする部下には、例外なく最低の勤務評価を付けると噂されるほどの硬骨漢だ。あの時の俺の行為を許すはずもない。
「いや、だって。二年前のティアマトでいろいろあったからさ」
「参謀としては認められんが、終わってみれば必要な措置だったと思うって言ってたよ」
俺がドーソン中将に何を吹き込んだか、ダンビエール少将はダーシャに教えてたのか。最高にかっこ悪いから、あまり人には知られたくなかった。特にダーシャには。
「参謀人事も評価してたね。トリューニヒト派に嫌われてるチュン大佐を参謀長にして、他の参謀も派閥色が薄い人で固めたのは偉いって」
「派閥意識が強い人って、刺々しい感じがして苦手なんだよ。だから、トリューニヒト派もあまり入れなかった」
「誰だって最初から地位にふさわしい実力があったわけじゃない。みんな、地位を得てからそれにふさわしくなるように努力していった。若くして出世したのは幸いだ。力をつける時間がたっぷりあるということだ。焦らずに頑張ればいいんじゃないか。力はいずれついてくる」
励まされる言葉だ。そういえば、アンドリューもロボス元帥の司令部に入った頃は、仕事についていけずに悩んでいたものだ。それが今では腹心中の腹心だ。ロボス元帥の抜擢を受けてから、自分がそれにふさわしい存在になれるよう成長していったのだ。
「ありがとう、ダーシャ」
「これもダンビエール少将の受け売りだけどね。私にはこんなかっこいいことは言えないよ」
あれだけ酷い目にあわせたのに、ダンビエール少将は俺のことを嫌ってないのか。嬉しいけど、なんか居心地が悪いな。何ていうか、一方的に借りを作ってしまったみたいな。
「ダンビエール少将っていい人なんだなあ。なんか、申し訳なくなっちゃうよ」
「士官学校時代の教官だったんだけど、本当に公正な人だったよ。ドーソン提督とは大違いでさ」
「ああ、あの二人、同じ時期に教官やってたんだ」
「どっちも規則にうるさいけど、仲は良くなかったね」
「そうだろうね」
ドーソン中将は規則を守ること自体に意義を見出すタイプだが、ダンビエール少将は規則の裏側にある理念を守ることに意義を見出すタイプだ。うまくいくわけがない。
「エル・ファシルで逃げたリンチ少将の娘さんの受験を認めるか認めないかで、教官の意見が割れた時も対立してたよ」
「ああ、どっちがどういう主張してたか、だいたい想像付いた。たぶん、ドーソン中将は体裁があるから認めるなって言ったんでしょ」
「うん、まあね。当時はエル・ファシルで逃げた人らへのバッシング激しかったからさ」
当時、英雄と持ち上げられることが怖くてたまらなかった俺は、新聞もネットもテレビも遮断した生活を送っていた。だから、どんなバッシングがあったのかは良く知らない。知ってたら、かなり気分悪かったはずだ。
「士官学校でも受験生の誰がリンチ少将の娘なのかって噂で持ちきりでね。何人かの名前が流れてて、みんなで推理してた」
ダーシャの士官学校最終年度は、リンチ提督がエル・ファシルから逃亡した年に重なっている。そして、母方の姓に変わったシェリル・コレットが士官学校を受験した年にも。
「そうそう、エリヤの副官やってるコレット大尉の名前もあがってたよ。私は違う人だと思ってたけど。今思えば、あの時の私は最低だったよ。コレット大尉みたいな子が叩かれるとことか想像したら、ぞっとする。過熱する前にシトレ校長が禁止してくれて良かった」
「彼女のこと知ってるの?」
「受験の時に案内係やったからね」
「どんな子だった?」
「見かけによらず、凄い方向音痴でね。受験する教室があるB棟と正反対の方向のF棟に迷い込んでたの」
見かけによらずというか、見かけ通りのような気もするが、その迷子っぷりはさすがに酷い。いや、見かけ通りなんて言ってはいけないな。鈍そうなのは見かけだけで、仕事はテキパキしている。見かけによらず、で正しい。
「想像付かないなあ」
「キリッとした子だもんね」
「えっ?」
「背高いでしょ」
「まあ、高いよね」
「ダンスやってるだけあって、姿勢がすっごくいいのよね。それであの顔だから」
ダンスやってた?姿勢がすごくいい?キリっとした顔?今とは全然別人じゃねえか。俺の副官になってからは、忙しく動きまわってるせいか、妹のアルマを彷彿させる病的な太り方ではなくなっている。不快感はほとんど感じなくなったが、それでもキリッとした感じとは程遠い。人と目を合わせようとしないのは相変わらずだ。一体何があって、今のようになったんだろうか。
「いろいろ苦労したのかな」
「ああいう子には、あまり苦労してほしくないなあ。ほら、エリヤみたいに苦労が似合う子はいいけど、コレット大尉は涼しい顔して乗り切る感じだから」
そこまで言われるなんて、士官学校入る前のコレット大尉はどれだけかっこ良かったんだろうか。そんな彼女が今のようになってしまった理由はあまり考えたくない。
「そうだね、苦労は良くない」
前の人生でエル・ファシルの逃亡者として迫害されていた時のことを思い出しながら、噛みしめるように言う。ダーシャもうなずいたところで、インターホンが鳴った。ディスプレイには宅配便の制服を着た男性が映っていた。
「すいません、ちょっと待っててください」
そう返事すると、慌ててハーフパンツを履き、Tシャツを着て玄関に向かった。そして、サインをして荷物を受け取ると、部屋の奥に戻った。
「何の荷物?」
「ダーシャが楽しみにしてたやつだよ」
俺は包みを開けて、中に入っていた本を取り出してダーシャに見せた。表紙には「憂国騎士団の真実―共和国の黒い霧」と書かれている。熟練労働者不足問題を扱ったパトリック・アッテンボローの「老人が端末を操り、少年が荷物を運んだ時、青壮年はどこにいたのか」と今年上半期の反戦ジャーナリズム大賞を争ったヨアキム・ベーンの力作だ。
「ありがと」
「俺の部屋なのに、君が出るわけにはいかないしね」
「早く同じ官舎に住みたいね。一戸建てがいいなあ」
「ま、それは君のご両親に会ってから。近いうちにハイネセンに戻ってくるんでしょ?」
「うん。お兄ちゃん達も休暇取って、こっちに来るって」
「どんな人達なんだろう。楽しみだなあ」
ダーシャと知り合ったのは、三年前の初夏だった。あの頃の俺はヴァンフリート四=二基地の戦いで負傷して、ハイネセン第二国防病院に入院していた。俺もダーシャも少佐だったのに、今の俺は准将、ダーシャは大佐。権限と責任は飛躍的に大きくなっている。そして、俺達の関係も一歩先に踏み出すべき時だった。
「私もエリヤの家族に会うの、とても楽しみ」
「あ、いや、そっか。そうだよね」
ダーシャの前では家族の話はぼかしているけど、そろそろ向き合わなければいけないのだろうか。前の人生で起きたことを思うと、とても気が重い。前の人生の記憶はどこまでも付きまとう。
「エリヤは家族の話、全然しないからさ。気になって気になって」
気にしないでくれという俺の願いが通じたのか、寝室に置いてあるダーシャの携帯端末が鳴り出した。ダーシャが走って行くのを見て、胸を撫で下ろす。
「ごめんね、バイバイ」
寝室から申し訳無さのかけらもないような声が聞こえてきた。大した用じゃなかったんだろうか。まるで俺を追及から逃がすためだけにかかってきたようだ。通信を入れた主に感謝しなければならない。そんなことを思っていると、ダーシャは憤然とした表情で戻ってきた。
「どうしたの?なんかあった?」
「例の話。成り行きで属してるだけなのに、冗談じゃないよ。いっそ、ロボス派やめちゃおうかな」
最近、ロボス派の若手高級士官グループがハイネセンで盛んに動き回っていた。現在、シトレ派、ロボス派、トリューニヒト派の三派が要塞司令官職を巡って争っていた。イゼルローン要塞を手中に収めた派閥は、対帝国戦の主導権を握ることができる。失脚寸前のロボス元帥は自ら要塞司令官を兼ねて、遠からずやってくる帝国のイゼルローン奪回軍を迎え撃って、評価を取り戻そうとしているともっぱらの噂だった。ダーシャとしては、そんな工作の協力なんか御免こうむるということなのだろう。
俺が第三六戦隊司令官になって、まだ二か月程度しか経っていない。だいぶ形になってきたとはいっても、俺が用兵に慣れるのはまだまだ先だろう。
俺の所属している第一二艦隊は、去年のエルゴン星域会戦で大打撃を受けて再編の途上にある。最近になってようやく定数を回復したばかりだった。ダーシャの所属している第十艦隊もやはりエルゴン星域会戦で打撃を受けて再編中である。次に出兵があるとしたら、しばらく戦っていない第三、第七、第八艦隊あたりが動員される可能性が高い。個人的には平和な時がしばらく続きそうだった。