エアバイクで山道を抜けた頃にはすっかり日が高くなっていた。目の前には平原が広がり、田畑と住宅が点在している。何の個性もない郊外の風景なのに美しいと思った。こんな気持ちで風景を見るなんて何十年ぶりだろうか。俺は逃亡者じゃない。そう思うだけで世界が光り輝いて見える。
さらにエアバイクを走らせると、どんどん田畑が少なくなって家が増えていく。やがて家も減ってビルが増え、気がついた頃にはビルばかりになっていた。この辺りがエル・ファシル市の中心街だろう。ほとんど人通りがないのは外出禁止令が出ているからだろうか。頭上で轟音が鳴る。見上げると軍用シャトルが列を成して飛び立っていた。思わず顔や腕を触り、目をこすった。確かに俺はここにいる。あの中に自分がいないことを確認してホッとした。
ここで重要な事に気づく。俺はエル・ファシルの英雄ヤン・ウェンリーがエル・ファシル市のどこにいるか知らない。
エアバイクを停めて、どうすればヤンと一緒に脱出できるか思案していると、中年の男が近づいてきた。なんだか凄い殺気を感じる。これは近寄っちゃいけない人だ。逃げようと思ってエンジンを掛けようとしたけど、男が俺に掴みかかる方が一瞬早かった。
「どういうことだぁ!!おらぁぁぁ!!」
夢の中でも俺は絡まれるのか?ていうか、こいつは何怒ってるんだ?
「ありゃどういうことだぁぁぁぁぁ!!説明しろぉぉぉ!!!」
男は空を指差す。その先には飛び立っていく軍用シャトルの列。ああ、あれに腹を立ててたのか。気にすることないのに。どうせあいつら逃げ切れないんだから。ヤンに着いて行けばあんたも俺も無事帰れるんだから。
「大丈夫ですよ。大丈夫ですから…」
「何が大丈夫だ!!!てめえのお仲間がみんな逃げてんだろがぁぁ!!!!」
「いや、ですから…」
男はますます逆上する。勘弁してくれと思った時に男女数人が走り寄って来た。ヤバイ、リンチだ…。逃亡者じゃなくてもそういう運命なのか?泣きたくなる。
「やめろよ。この子に言ってもしょうがないだろ」
「ここにいるってことは置いてかれたんでしょ?坊やだって被害者よ」
「泣きそうじゃないか。かわいそうに」
他の人達は口々に男をなだめる。なんか雰囲気が違う。ここって殴られる場面じゃないのか?これまでの人生になかった経験に戸惑っていると、人の良さそうなおばさんが声をかけてくる。
「大丈夫?」
「は、はい…」
「みんなびっくりしてるのよ。いきなり味方が逃げちゃうものねえ」
「まあ、そうですよね…」
なんか気の抜けた返事になってしまう。この人達と不安を共有できてないからだろうか。
「ごめんね。あなたも不安でしょうに」
「別に…」
「軍の人達も酷いよね。避難計画を若い中尉さん一人に押し付けるわ、ミドルスクール出て間もない子まで置いてけぼりにするわ」
いや、全然不安じゃないよ。あいつら捕まるから。あと、俺は六十二年前にハイスクール卒業してんだぞ。この夢の時間軸では二年前ってことになるけど。
「不安なんかないですよ。あと、ハイスクールとっくに出てます」
むっとして俺が言った言葉に空気が凍り付き、周囲の視線が一斉に俺に向く。まずい、変なことを言ってしまった。よく考えたら、この人達は未来の展開がわからないんだ。どうしよう、何とか切り抜けなきゃ。
「あ、いや、だからですね。ぼ、ぼ、僕は軍人なんです。市民の皆さんのふ、不安をなくすのが仕事、仕事なのに不安がってちゃいけないでしょ」
声が震えてるのがわかる。ところどころ言葉がつっかえる。皆の視線がまだ俺から離れない。俺は深呼吸した。
「ぐ、軍人の仕事って市民を。市民を守ることでしょう?当たり前の。当たり前の仕事をするだけなのに。どうして不安になるんですか?」
エル・ファシルにいることに不安がないのは本当だ。捕虜交換で帰った後に経験した迫害の数々を思い出す。人格を根底から否定する罵倒。そこにいるからという理由だけで振るわれた暴力。それに比べたら恐ろしいことなんかない。仮にエル・ファシルの英雄がいなかったとしても。帝国軍から逃げられなくて死んでも、逃げて生き残るよりはマシだ。
「逃げた人達の方がずっと不安じゃないですか?だって、市民を守らずに逃げたって一生言われるんですよ?それに比べたら、ここに残るなんて全然不安じゃないですよ」
「もしかして、君は自分の意志で残ったの?置いて行かれたわけじゃないの?」
「はい。逃亡者になりたくないから残りました。胸を張って帰るために残りました」
「良く言った!」
「えらい!」
おばさん達の拍手が鳴り響く。歓声が飛ぶ。この騒ぎを見て人が集まってくる。おばさん達が興奮気味に説明するたびに「おお!」と歓声をあがる。逃亡者と言われるのはやだって正直に言っただけだぞ。なんでこんなにみんなはしゃいでるんだ。居心地悪いなあ。
皆が次々と俺に握手を求めては褒めそやす。笑顔で握手してる手をブンブン振る女の子もいた。俺なんかと握手して気持ち悪くないのだろうか?捕虜交換で実家に帰ったら、俺が触った場所すべてに妹が消毒スプレー噴きかけてたんだぞ。それぐらい気持ち悪い奴なんだぞ、俺って。
人混みの中から三十歳前後の大柄な男が現れて握手を求めてくる。俺が手を差し出すと、男は分厚い手で力強く握りながら話しかけてきた。
「君もこれから星系政庁に行くんだろ?私達は住民代表でね。今から行くところなんだ。君も一緒に行かないか?」
「星系政庁?」
「そうだよ。君も戦災対策本部に行くつもりだったんだろ?」
知らなかった。適当に話を合わせる。
「え、ええ。そうです。何か役に立てないかと思って」
「あの若い中尉も苦労してるだろうからね。きっと力になれるよ」
「なんて人でしたっけ?」
「中華系っぽい名前だったなあ。なんだったか」
「ヤン…?」
「それだ!ヤン中尉だ!」
やはりエル・ファシルの英雄がいたのか。本当にあの時のままだ。心の底から喜びが沸き上がってくる。逃亡者にならずに帰れるんだ。あんなみじめな思いはしなくて済むんだ。
「どうするんだい?」
「行きます!」
「ありがとう。私はこういう者だ」
男は名刺を差し出す。
『進歩党 エル・ファシル市議会議員 内科医師 フランチェシク・ロムスキー』
市議会議員でお医者さんか。若いのに先生って呼ばれる仕事を二つもやってるなんて凄いな。こんな偉い人にいきなり声かけられるなんて夢みたいだ。まあ、夢なんだけど。
「エル・ファシル星系警備艦隊所属、エリヤ・フィリップス一等兵です!」
偉い人に失礼のないように精一杯胸を張って敬礼する。「元気だね」とロムスキー先生は目を細める。周りの人達もクスクス笑う。張り切りすぎて痛い奴と思われたかな。
「照れてる。かわいいー」
「エリヤくんていうんだー」
そんな女の子達の声も聞こえてくる。なんなんだよ、本当は気持ち悪いとか思ってんだろ。わかってんだぞ。六〇年前だってハイスクール行ってるような子にかわいいって言われるような年じゃねえぞ。だから、人前に出るのやなんだよ。勘弁してくれよ。
「ははは、人気者だね。行こうか」
ロムスキー先生はのんきに笑うと歩き出した。彼の仲間と思しき数人がそれに続く。俺もその後を追う。目指すは星系政庁。そこにエル・ファシルの英雄ヤン・ウェンリーがいる。