銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

51 / 146
第四十三話:フェザーンで甘味を食べながら 宇宙暦794年7月28日 フェザーン中心街

 宇宙空間は広大であるが、どこでも自由自在に航行できるわけではない。恒星風、恒星フレア、宇宙線、磁気嵐といった宇宙天気が不安定な宙域では、宇宙船の命とも言うべき計器類が不調を来たしてしまう。有人惑星から遠すぎる宙域では無補給の長期航行を強いられる。小惑星帯やブラックホールのある宙域では操船に苦労する。航路として使用できる宙域はそれほど多くなかった。

 

 特に同盟領と帝国領の間にはサルガッソー・スペースと呼ばれる広大な航行不可能宙域が広がっており、イゼルローン回廊とフェザーン回廊という二つの安全宙域のみが人類世界を二分する二大国を結んでいる。現在の同盟領に銀河連邦の衰退期に自立した植民星が多数含まれていることから、全盛期には他にも航路が通じていた可能性も指摘されているが、現時点ではこの二回廊を除く航路の存在は確認できていない。

 

 イゼルローン回廊にイゼルローン要塞が置かれ、同盟と帝国の軍事衝突が絶えることはない。もう一方のフェザーン回廊は中立国フェザーン自治領の支配下にあって、二国を結ぶ唯一の安全な交易路だった。

 

 フェザーン自治領は公式には帝国の傘下にあって、自治領元老院によって選出された一代領主の自治領主は公爵に匹敵する宮廷序列を認められる代わりに貢納義務を負う帝国諸侯ということになっている。数千に及ぶ帝国諸侯の中では自治領主は少数派ではあるものの、稀少な存在というわけでもない。

 

 ゴールデンバウム朝の初代皇帝ルドルフは皇室の藩屏たる世襲貴族はゲルマン系でなければならないという信念を持ち、非ゲルマン系の地方指導者を粛清してゲルマン系の貴族領主に入れ替えていった。しかし、さすがのルドルフも非ゲルマン系の地方指導者を粛清し尽くすことはできず、自治領主の肩書きと一代限りの貴族特権を認めることで妥協した。ほとんどの自治領は初代領主の死後に解体されて皇帝直轄領や世襲貴族領に編入されていったが、一部は寡頭制に移行して互選で自治領主を選出することを帝国に認めさせて自治権を保った。地球教総大主教の自治領となっている地球もその一つだ。フェザーン自治領の特異さは自治領という統治形態ではなく、その経済力にある。

 

 投資ファンド経営者として名を馳せた地球出身のレオポルド・ラープは、財政再建に取り組んでいたコルネリアス一世の経済諮問会議のメンバーとなって信任を得ると、フェザーン回廊に経済特区を設立することを提案した。同盟との交易を停滞している帝国経済のカンフル剤にしようというのである。

 

 賛同した帝国政府首脳はラープをフェザーン自治領主に任命して帝国通商代表を兼ねさせると、同盟との通商協定交渉にあたらせた。絶対悪である帝国との通商協定締結に難色を示した同盟政府に対し、ラープは帝国ではなくフェザーン自治領を協定の対象とするという妥協案を示して締結にこぎつけた。その後、ラープは両国政府と交渉してフェザーン回廊を通した経済活動に有利な法律を次々と制定させ、フェザーン企業は帝国と同盟の両方で経済活動を認められた唯一の存在となり、フェザーン籍を持つ者は帝国と同盟をフリーパスで移動できる唯一の存在となった。

 

 フェザーン回廊の排他的管理権と全宇宙における経済活動の自由を保障されたフェザーン自治領の将来性は誰が見ても明らかだっただろう。対外交易を望む同盟と帝国の企業は相次いでフェザーンに拠点を移し、投資家も先を争うように資金を投下した。大部分が岩砂漠に覆われた不毛の惑星の狭いオアシスはあっという間に人類世界の流通と金融の中心に発展し、帝国と同盟の政府が気づいた時にはフェザーン自治領の経済力は手が付けられないほどに巨大化していた。

 

 現在のフェザーン自治領は経済力を背景に二大国のどちらにも掣肘されない地位を保ち、中立の利を活かして外交交渉の仲介も行っている。現在は二年前に就任したアドリアン・ルビンスキーが自治領主を務めていた。

 

 フェザーンといえば、誰もが極端に自由化された経済と極端な功利主義を思い浮かべるだろう。しかし、俺が前の人生で読んだ歴史の本では別の顔が描かれていた。初代自治領主のレオポルド・ラープが経営していた投資ファンドは、地球教団の出資によって設立されたフロント企業だった。地球教団はラープを使ってフェザーン回廊に経済特区を設立して、経済界の覇権を握ることで帝国や同盟に対抗するつもりだったと言われている。

 

 しかし、巨大化したフェザーン経済は自治領主とそのバックにいる地球教団のコントロールできる範囲を遥かに超えていた。フェザーンのビジネスマン達は国境を超えてひたすら己の利益を追求し、自由競争という名のカオスがフェザーン社会を支配した。

 

 地球教団にできることは自治領主に命じて帝国と同盟の勢力均衡を図り、両国の和平を考える者を排除することぐらいだった。自治領主はダミー企業を使って同盟と帝国の経済に影響力を浸透させていったが、市場においては自治領主ですらプレイヤーの一人でしか無い。フェザーンの企業は同盟と帝国の国債を購入し、軍需物資を売りつけることで巨大な経済的利益を得たが、彼らが統一された意思のもとに動くことはない。それが経済を武器とするフェザーン自治領主の限界だった。

 

 やがて、ラインハルト・フォン・ローエングラムの台頭によって地球教の勢力均衡政策は破綻し、五代自治領主ルビンスキーは帝国の銀河統一を促進することでフェザーンの生き残りを図ったが失敗に終わる。ラインハルトの手でフェザーン自治領は解体されて、ローエングラム朝の帝都となった。経済を武器にして策謀を弄んだが、大勢を動かせなかったというのが歴代の自治領主とその背後にいる地球教団に対する一般的な評価になるだろう。

 

 前の人生の俺は一度もフェザーンに行ったことがない。強いて繋がりを見出そうとしたら、宇宙暦八〇一年のルビンスキーの火祭りで大火傷を負ったことぐらいだろう。しかし、これはルビンスキーの個人的なテロであって、フェザーンとはまったく関係ない話だ。一般的な評価以上のことを知らない俺の目には、フェザーンはどのように映るのだろうか。

 

 宇宙暦七九四年七月二八日午前六時、俺は生まれて初めてフェザーンの土を踏んだ。

 

 イアン・ホールデンの偽名を名乗っている俺は、憲兵司令部から派遣されてきた三人の護衛とともに家族旅行の名目で入国した。四四歳のフヴァータル大尉がホールデン一家の父親役、三八歳のヴァシリチェンコ中尉が母親役、二二歳のモンテス曹長が姉役を務め、俺は末っ子ということになる。俺より年下で老け顔でもないモンテス曹長の弟役という設定は気に入らないが、これも任務だから仕方がない。それよりもっと重大な問題があった。

 

 フェザーン中心街のホテル・メルキュール。そのクローゼットの前で俺は呆然としていた。

 

 鏡の中に写っている俺の顔はオレンジ色に染めた髪を女の子みたいなふわふわした感じにセットされ、眉毛は細く整えられ、マスカラを付けられたまつ毛はきれいにカールし、目元にバッチリ付けられたアイシャドーはただでさえ大きな目をもっと大きく見せ、薄い唇はリップとグロスでぷっくりつやつやしている。

 

 服装も酷いものだ。上半身は白と灰色の淡いボーダーのカットソーに薄いベージュの七分袖ニットカーディガンを羽織り、下半身にはオリーブ色でふくらはぎの真ん中辺りまでの長さのクロップドパンツを履いている。足にはくるぶしまでの長さしか無い短い靴下。用意されている靴はコットンのサマーシューズ。なんていうか、さすがにこれは酷いんではなかろうか。涙が滲んでくる。

 

「似合ってらっしゃいますよ」

 

 顔のメイクを担当したお姉さん役のモンテス曹長は俺の気持ちも知らずににこにこしている。似合っているかどうか以前の問題だということをわかっていない。

 

「フィリップス少佐だとわからないようにという目的は達してるよな。出回ってる画像はみんな爽やかスポーツマンぽいから」

 

 お父さん役のフヴァータル大尉の呑気な論評に皆が頷く。

 

「服を選んだのってハラボフ大尉でしたっけ。あの人らしく、ちゃんと計算されていますね」

 

 お母さん役のヴァシリチェンコ中尉が言うとおり、この服装は全部ドーソン中将の副官のハラボフ大尉が買い揃えたものなのだ。どういう名前の服かも知らなくて、全部モンテス曹長に聞いて知ったほど、俺とは無縁な種類の服だ。髪型やメイクもハラボフ大尉の指示。俺とわからないようにするという目的は確かに達しているかもしれない。しかし、こんなふわふわした格好にする必要がどこにあるのだろうか。彼女が俺に抱いている怒りの大きさを痛感させられる。

 

「仕上げはこれね」

 

 モンテス曹長は嬉しそうな声で俺の頭に大きめの帽子をかぶせる。これはキャスケットというのだとさっき知った。だめだ、こんな格好で外に出るなんてあってはならないことだ。俺の私服はジャージかTシャツが基本で、季節によってTシャツの袖が長くなったり短くなったり、上にジャンパーを羽織ったりする程度の変化しか無い。アンドリューに「ハイスクールの運動部員」と言われたことがある。

 

「ホテルに入るまでの格好でいいんじゃないかな。こういう任務は目立っちゃいけないって言うでしょ?ほら、パーカーとジーンズって目立たないし」

「普通の格好でしょ」

 

 必死の懇願はモンテス曹長にあっさり却下される。すがるような目でフヴァータル大尉とヴァシリチェンコ中尉を見るも、助け舟は出なかった。しかし、外に出ないわけにはいかない。面会前日の今日はフェザーンの下見をしなければならないのだ。すべてを諦めた俺は力なくうなずいた。

 

 

 

 ホテルの外に出た俺達四人はフェザーン中心街をゆっくりと歩く。人が多すぎて気を抜くと流されてしまいそうになる。ハイネセンの中心街も人が多いのが嫌で滅多に行かないけど、この街はそれよりひどい。やはり、俺には故郷のパラディオンの中心街ぐらいがちょうどいい。人混みのせいでこの格好があまり人に見られずに済むのは唯一の救いだ。

 

「それにしても凄い街だね、父さん」

「宇宙で一番賑やかな街だからな。何度来てもこの街はいい」

 

 親子という設定になってるのでフヴァータル大尉のことを父さんと呼んでいる。親子の会話みたいなものは六〇年以上やっていないから、ついぎこちなくなってしまう。

 

「ファッションの都だもんね。おしゃれな人ばっかりで面白い」

 

 モンテス曹長は声を弾ませてフヴァータル大尉に話しかけた。彼女はファッションが好きらしく、客船の中でもずっとファッション誌を読んでいた。そんな人の目から見たら、おしゃれな人が多いのかもしれない。

 

 しかし、俺から見たら、とんでもない色彩の服、遠い過去からタイムスリップしてきたような服、デザインが奇抜すぎて服としての機能が果たせなさそうな服、未来に知己を求めた方が良さそうな服など、本当に変な服装の人ばかりだ。これに比べたら、俺の格好なんてそんなに変じゃないような気がしてきた。このファッションの多様性も自由惑星同盟より自由と言われるフェザーン自治領の気風の現れかもしれない。

 

 かねてからの予定通り、フェザーンで一番うまいスイーツを食べさせてくれると言われているカフェレストラン「ジャクリーズ」に入る。フェザーン出発が決まった当日にドーソン中将に頼んで予約を入れておいてもらった。

 

 フェザーンは何々の都という称号を千個以上持っていると言われるような街で、スイーツの都の称号も持っている。かのユリアン・ミンツは街を歩いて電子新聞を読んだだけでフェザーンの豊かさを理解したと言われるが、やはり俺は俺なりのやり方で理解したい。

 

「ケーキ、一番上から五番目まで。あと、オニオンスープとボイルドソーセージ三本とピラフ」

「え…?」

 

 俺が注文すると、フヴァータル大尉とヴァシリチェンコ中尉とモンテス曹長は驚いたような表情を浮かべて顔を見合わせる。

 

「どうしたの?」

「それ、全部食べるの…?」

「母さん達の分も一緒に頼むわけ無いじゃん。自分で食べる分は自分で頼まなきゃ」

 

 ヴァシリチェンコ中尉は俺の返事を聞いて首を傾げていた。首を傾げたくなるのは俺の方だ。何が不思議なんだろうか。注文の品が来ると、さっそく口をつける。まずはラズベリーケーキ。うまい。あっという間に全部平らげてしまった。その次はモンブラン。うまい。さすがはフェザーンだ。オニオンスープをすする。甘さの余韻が残る舌にしょっぱい味が染みわたる。最初に頼んだ品を食べ終えると、今度は六番目から一〇番目のケーキを注文した。他にピザ二枚とポタージュ。それを食べ終わったら、一一番目から一五番目のケーキとトーストとグラタンとオニオンスープを注文する。

 

「イアン…」

「どうしたの、姉ちゃん」

「いや、どうしてそんなに食べられるのかなあって…」

「俺はケーキと一緒に必ず温かいものを頼んでるよね。それがコツなんだ」

「えっ?」

「ずっと甘い物ばかり食べてると、舌が甘さに慣れちゃうでしょ。そうすると、せっかくのスイーツがおいしくなくなっちゃう。だから、ときおりしょっぱい物や脂っこい物を食べて、舌から甘さを消すわけ」

「そ、そうなの?」

「舌に甘さを残さないことが大事なの。いつも、新鮮な気分でスイーツを口に入れたいでしょ」

「は、はい…」

「姉ちゃんもやってみたらいいよ。あんま食べてないでしょ」

 

 ベイクドチーズケーキを口の中でもぐもぐさせながら、モンテス曹長の疑問に答えた。あまり納得してもらえていない感じなのはどうしてだろう。俺にしては珍しく役に立つことを言ったつもりなのに。

 

「そんなに食べたら太らないか?」

「平気平気、スイーツは別腹だから太らない」

「だが、スイーツ以外でも結構食べているだろう」

「でもないよ。父さんは気にしすぎじゃない?」

 

 フヴァータル大尉は何を疑問に思っているのだろうか。俺の体格を見たら、一目瞭然だろうに。ピザにかじりつく俺を見て、ヴァシリチェンコ中尉は目を細めた。

 

「その格好、似合ってるねえ」

「母さん、いきなりどうしたのさ」

「いや、似合ってるって思って」

「変なの」

 

 噛み合ってない気がするけど、家族の会話ってこういうものなのかな。まだ家族と仲が良かった頃もあんま会話噛み合ってなかったもんな。父は微妙に空気読めてなくて、母はやたらと心配性で、姉のニコールは言葉がきつくて、妹のアルマは脳天気に物を食べてばかりだったっけ。

 

 あれ、なんで家族のことを懐かしく思い出したんだ?彼らが俺に何をしたのか、忘れるはずもないのに。特にアルマ、俺が焼いたアップルパイを目の前でゴミ箱に捨てられたことは忘れないぞ。食べてもらえたら、許してもらえると期待してたんだ。二度と料理できなくなるぐらいショック受けたんだぞ。

 

「大丈夫、イアン?」

「何が?」

「どうして泣いてるの?」

 

 モンテス曹長に指摘されて、自分の目から涙が流れていることに気づいた。ナプキンで拭いても拭いても流れてくる。遠い昔の悲しみを今の甘味で忘れようと思って一心不乱にスイーツを食べ続けた。

 

 二二種類のケーキを食べ終えた俺は他の三人とともに店を出た。メニューを制覇したいという俺のわがままに付き合わせてしまったことは申し訳ないが、しかしこれはフェザーンを理解する上ではどうしても必要なことだったのだ。

 

 スイーツというのは一種の嗜好品である。スイーツが凝っているかどうかは、フェザーン社会の経済的・精神的余裕を示すバロメーターになる。スイーツを食べている客層も社会を分析する上で参考になる。フェザーンにおいてスイーツを楽しむ余裕がある階層は、フェザーン経済において最も有力な消費層を形成しうるはずだ。

 

 三人にそう説明すると、目の付け所が違う、さすがだなどと感心された。もちろん、全部後付けである。フェザーンはスイーツの都に恥じない街だということがわかったのは収穫だったといえよう。

 

 帰りはバスか無人タクシーを使おうと思って店から五メートルほど離れた場所にあったバス停を見ると、ホテル・メルキュール前に停まるバスがあるようだ。時計と時刻表を見比べたら、今から五分後に到着することになっているらしい。一〇分遅れの一五分後に到着したら御の字だと思って待つ。遠くからバスが近づいてくるのを確認した時、意外な早さに驚いて時計を見たらちょうど五分で到着していた。バスが時間通りに到着するなんてことがあるんだ。

 

「凄いね、父さん」

「何が凄いんだい?」

「だって、時刻表通りにバスが来るんだよ」

「フェザーンではそれが当たり前さ」

「バスやリニアカーが時刻表通りに到着するなんて、ネットのジョークネタだと思ってた」

「時刻表通りに到着しない同盟のバスやリニアカーの方がジョークかもしれんよ」

 

 フヴァータル大尉の答えになるほどと思ってしまった。フェザーンの公共交通が凄いんじゃなくて、同盟がおかしいという見方か。まあ、確かに必ず遅れてくるなら時刻表の意味ないもんな。国が違えば常識も違う。当たり前だけど、それだけに大事なことだ。明日は帝国の使者との面会。常識の違いを肝に銘じないといけないと思いながら、バスに乗り込んだ。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。