銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第四十一話:向き合うべき時 794年7月9日 ハイネセン市、地球教カーニーシティ教会近くの路上及び憲兵司令部

 七月九日にハイネセン第二国防病院を退院した俺は、その足で新しい任務を受けるべく憲兵司令部に向かった。ハイネセンの街並みに強い日差しが容赦なく照りつける。一歩歩くたびに俺の体にむわっとした熱気が絡みつき、汗が流れる。夏は一年で一番好きな季節だけど、蒸すようなハイネセンの暑気には辟易してしまう。それに比べ、故郷パラディオンの夏のなんと過ごしやすいことか。ハイネセンは良い街だが、やはりパラディオンには及ばない。

 

 スタンドで買ったアイスキャンディーを舐めながら、歩道をゆっくりと歩いていると、女の子がすいませんと言って近寄ってビラを差し出してきた。反射的に受け取って、ビラに目を通す。

 

『人はなぜ傷つけ合うのでしょうか?人はなぜ分かち合うことができないのでしょうか?』

 

 そんな見出しの後に、戦災遺族、非正規労働者、障害者、亡命者などの生活苦を訴える文章、社会保障費の削減額や失業率上昇や自殺者数の増加を示すグラフなどが並び、最後はこう締めくくられていた。

 

「人はすべて仲間です。仲間はお互いに助け合うことができるはずです。貧困と憎悪を追放するために手を取り合いましょう。子供に愛情を、若者に希望を、壮年に安心を、老人に尊敬を、すべての弱い者に保護を。人類は一つ、懐かしき地球から生まれた仲間 平等と平和のための地球教団主教委員会」

 

 地球教団の文字を見た瞬間、俺の周囲の空気が急に冷えたように感じた。

 

 地球教団は帝国・同盟・フェザーンの三か国にまたがる多国籍宗教団体だ。人類発祥の地である帝国領太陽系の第三惑星地球に総本山を置き、地球をシンボルとして全人類の精神的統合と平等を唱えている。ラグラングループ率いるシリウス軍の攻撃で荒廃して内戦状態に陥った地球を再統一した宗教勢力をルーツに持ち、宇宙暦開始以前から続く長い歴史がある。宇宙暦六〇〇年代後半から急速に帝国内で教勢を拡大し、三〇年ほど前から同盟に進出した。現在は同盟国内で一〇〇〇万人を超える信徒を獲得したと推定される。

 

 同盟国内の教会組織は億単位の信徒を擁する十字教や楽土教などの大教団とは比較にならないほど小さいが、強大な帝国内の教会組織からフェザーン回廊を経由して支援を受けることができるため、宣教力と資金力は相当なものだ。最近は地球の下の平等を旗印に掲げて広範な慈善活動を展開し、貧困層、亡命者、退役軍人などの社会的弱者を中心に勢力を拡大している。多少排他的な面はあるものの、他の宗教団体と比較して問題となるほどではない。

 

 地球教団はまっとうな新興宗教というのが同盟社会の一般的な見方だろう。しかし、俺は後に地球教団が歩んだ歴史を知っている。

 

 全宇宙の経済を支配するフェザーン自治領を隠れ蓑に同盟と帝国の勢力を均衡させて戦乱を長期化させるべく暗躍してきた地球教団は、獅子帝ラインハルトの征服戦争によって挫折を余儀なくされた。彼らはラインハルトの統一帝国を瓦解させるべく、帝国要人を標的としたテロ活動を展開する。宇宙暦七九九年から八〇一年までの二年間に地球教団が手がけた謀略はヤン・ウェンリー暗殺、三度にわたるラインハルト暗殺未遂、皇后ヒルデガルド暗殺未遂、新領土総督ロイエンタール元帥の反乱など多数にのぼる。帝国は公敵宣言をもって応じ、軍務尚書オーベルシュタイン元帥と憲兵総監ケスラー上級大将の指揮によって地球教団は根絶された。

 

 ヤン・ウェンリー暗殺に関わったことから後継勢力のイゼルローン共和政府とその後身のバーラト自治区政府与党「八月党」にも嫌悪され、地球教団は最悪のテロ組織とされた。ヨブ・トリューニヒトら同盟主戦派政治家に対する政界工作やサイオキシン麻薬密売関与なども取り沙汰されたが、討伐を受けた地球教総本部が自爆した際に資料が失われてしまい、オーベルシュタインやケスラーらが教団組織の壊滅を優先したことから捜査は行われていない。

 

 俺個人の評価は現在の公式評価とも、歴史の評価とも異なる。地球教団はローエングラム朝とヤン・ウェンリー系勢力と敵対したが、一般市民を無差別に攻撃したわけではない。彼らのテロは指導者を対象とするに留まっていた。帝国と同盟の勢力を均衡させようと目論んでいたことに関しても、ローエングラム朝によって同盟が滅ぼされた後の社会的混乱で割りを食った俺が批判する理由はない。ラインハルトを不世出の覇王として尊敬はしているが、その治世が俺にとって住み良いものであったかどうかはまた別の話だ。

 

 ラインハルトの治世は政治改革と軍事行動に忙殺され、統一戦争によって家族や職を失った人々への救済は遅れがちだった。偉大な覇王であっても時間と資金の制約を逃れることはできない。救済が遅れたのはラインハルトの責任とはいえないが、膨大な数の失業者や戦災遺族が苦しむことになったのは事実だ。

 

 彼らの受け皿となったのが、旧同盟軍人や急進的共和主義者や宗教指導者などが結成した数々の反体制組織だった。地球教団もその一つに含まれる。早い段階で総本部を失った地球教が活動を継続できたのも失業者や戦災遺児の取り込みに成功したことが大きい。もともと、地球教団は慈善活動に優れた実績を持っている。ローエングラム朝の統一事業によって疎外された人間を拾い上げるのはお手のものだった。

 

 非合法化された地球教団がハイネセンの貧民街に構えた地下教会には、俺も何度と無く世話になった。彼らが提供する炊き出し、古着、無料医療などが無ければ、混乱期のハイネセンで生き延びることはできなかったかもしれない。恩義を盾に地球教団への入信やテロ活動への協力を求められたら、断ることはできなかっただろう。実際、世話になった別の組織が爆弾テロを行った際に協力したことはある。俺の立場から地球教団を非難すべき点があるとしたら、信徒にサイオキシンを使用していたことぐらいだが、世話になった身としては矛先が鈍ってしまう。

 

「どうかなさったんですか?」

「あ、いや、何でもないですよ」

 

 俺の回想はビラをくれた女の子の言葉によって中断された。年齢は一〇代後半だろうか。化粧っけのない顔に手入れされていない髪の毛。よれよれのTシャツを着て、色あせたジーンズを履いている。「地球に帰ろう、人類は一つ」と書かれたたすきをかけていた。言っちゃ悪いけど、いかにもこういう活動にのめり込みそうな感じがする。

 

「あ、もしかして、エリヤ・フィリップス少佐ですか?」

「ええ、そうですが」

「私、エル・ファシルの出身なんですよ。こんなところでエル・ファシルの英雄にお会いできて嬉しいです」

「あ、ありがとう…」

 

 声を弾ませる女の子に一瞬たじろいでしまう。自分が作られた英雄だという現実を突きつけられたからかもしれない。

 

「フィリップス少佐が義勇旅団を率いてエル・ファシルを取り返してくださらなかったら、故郷に帰れませんでした。本当にありがとうございます」

 

 俺はエル・ファシル奪還戦では何もしなかった。それなのに宣伝上の理由から活躍したことにされて、昇進と勲章を与えられた。彼女が礼を述べるべきは俺ではなく、実際に地上戦を戦って地獄を見た人達だ。彼女の純粋な憧憬の視線に耐え切れずに目を逸らしてしまう。

 

「今は近くの教会で奉仕活動をしながら、大学入学を目指して勉強してるんですよ」

「えらいね」

 

 冷や汗をかきながら辛うじて声を絞り出し、笑顔を作って返事をする。こんな真面目な女の子を騙している自分がどうしようもなく醜く感じる。

 

「あの戦いでエル・ファシルはすっかり荒れ果ててしまって、仕事が無いんです。教団が手を差し伸べてくれなかったら、一家全員死んでいるところでした」

 

 彼女の口から語られるエル・ファシルの現状に言葉を失ってしまった。エル・ファシル奪還戦の政治的価値を高めようとするロボス大将の画策は帝国軍の激しい抵抗を招いて、全土が焦土と化した。その後どうなったかはメディアでもほとんど報じられていなかったせいで知らなかったけど、そこまで酷いことになっているとは思わなかった。

 

 政治が不幸にした人々が宗教の差し伸べた手で生き延びる。前の人生のハイネセンで起きたことが今のエル・ファシルでも起きていた。

 

「ハイネセンの教会に住み込んで奉仕活動をしているエル・ファシルの人はたくさんいるんですよ。この近くのカーニーシティ教会にも。エル・ファシルの英雄がお越しになったら、みんな喜ぶと思います。時間があったら来てくださいね」

 

 そう言うと、彼女は懐から別のビラを取り出して俺に押し付けるように渡す。礼拝式の案内に教会の住所と連絡先が書かれていた。

 

「行きたいのはやまやまなんですが、忙しくて。申し訳ないです」

「フィリップス少佐のような偉い人は忙しいですものね。時間がある時にお願いします」

「う、うん」

 

 もはや、俺の羞恥心は彼女と相対することに耐えられなかった。軽く頭を下げると、早足で歩いて逃げるようにその場を去った。走らなかったのは人通りが多かったからに過ぎない。彼女と会う前に左手に持っていたアイスキャンディーはいつの間にかなくなっている。歩いて憲兵司令部まで行くつもりだったけど、こんな心理状況では街を眺める余裕もない。タクシーをつかまえて乗り込んだ。

 

 

 

 面会予定時間よりだいぶ早く憲兵司令部に着いた俺は、副官のユリエ・ハラボフ大尉を呼び出してその旨を伝えた。憲兵司令官への面会は必ず副官の取り次ぎを受けなければいけない。副官がスケジュール管理を担当しているからだ。ハラボフ大尉が現れた瞬間、ちょっと身構えてしまった。仕事に私情をまじえないのは常識だけど、それでも気後れするのは避けられない。

 

「司令官との面会は当初の予定通り、一三時からとなります」

 

 先日怒らせてしまったにも関わらず、何事もなかったかのような様子できちんと取り次ぎをしてくれた。表情にも怒りの様子は微塵もなく、柔らかい微笑みを浮かべている。二三歳の彼女は誰が見ても、無駄がないという印象を受けるだろう。すっきりした目鼻出ちに細くて長い手足。徒手格闘の達人らしく、体の動きにも無駄がない。作成する文書も簡潔明瞭で無駄な修飾は一切しない。だからこそ、手と耳が四つずつあると言われるような仕事が可能なのだろう。

 

「了解しました。ところで…」

 

 先日のことを謝ろうと声をかけようとすると、ハラボフ大尉は俺が言葉を続ける隙も与えずにクルッと振り向いて早足で部屋を出て行った。あまりに無駄のない動きに感嘆すら感じたが、謝れないままでいるのは困る。五分ほどすると、再びハラボフ大尉が待合室に入ってきた。手にはコーヒーとマフィンを持ち、傍らには副官付のエマ・バーモンド曹長を伴っている。

 

「面会までお時間がありますので、お茶を飲みながらお待ちください。おかわりなさる場合は、こちらの者にお申し付けください」

 

 ハラボフ大尉はコーヒーとマフィンをテーブルに置くと、バーモンド曹長を指した。一連の動作もまるで流れるような感じで、どんな鍛錬をしたらこんな動きができるのかと思ってしまう。

 

「ありがとう。ところでお見舞いに来てくれた時の…」

「私からはお話することはありません」

 

 微笑みは崩さないまま、ぴしゃりと鞭を打つような口調で俺の言葉を遮ったハラボフ大尉はまたクルッと振り向いて早足で部屋を出て行った。謝罪は受け付けないということか。さっきの地球教徒の女の子の件で沈んでいた気分がさらに深く沈む。

 

 心を落ち着かせようとコーヒーを飲むと、砂糖とクリームをたっぷり入っていた。何の注文もしていなかったのに、俺好みの味になっている。なかなかいい仕事するじゃないか。俺なんか意識する必要ないだろうに。

 

「バーモント曹長、ハラボフ大尉の仕事ぶりはどうだい?」

 

 彼女は俺が副官だった頃から副官付を務めていた。最も俺とハラボフ大尉を比較しやすい立場だ。

 

「頑張ってはいらっしゃいますが…。空回りしてますねえ」

「そうなの?」

「フィリップス少佐のスタイルを真似ようとなさってるのですが…。そんなことは誰にもできませんから」

 

 そんな大したことないと言いかけたけど、辛うじて押しとどめた。俺を真似ようとしてできなかったとしたら、あの言葉には傷つくだろうな。本当に申し訳ないことをした。

 

「着任された時はフィリップス少佐を尊敬している、近づけるように頑張りたいって張り切ってたんですよ」

「俺を尊敬?」

「そりゃあ、副官の仕事をする人なら誰だって少佐を尊敬しますよ。でも、日に日に表情が暗くなって、連絡事項以外の話はしなくなりました」

 

 後悔がどんどん胸の中に広がっていく。俺の存在がそこまで彼女を追い詰めていたなんて、想像もしていなかった。俺を尊敬していると言っていた子の自信を奪ってしまった。

 

「副官を交代するって話も出てるんですよ」

「だめだ、それはだめだ!」

 

 思わず大声をあげてしまった。バーモンド曹長は驚きの表情を浮かべて俺を見ている。

 

「君から見たら、ハラボフ大尉は仕事はできるかい?俺との比較じゃなくて」

「ええ、できる人だと思います」

「気配りは?」

「とても細かいです」

「努力は」

「心配になるほど頑張ってらっしゃいます」

「じゃあ、辞める必要ない。仕事、気配り、努力が全部できる人ってそんなにいないよね?」

「まあ、そうですよね」

「俺が戻ってきて副官をやるわけにはいかない。だから、彼女が自分と俺を比べないで済むように気を使ってくれるとうれしい」

「わかりました」

「これは彼女には言わないでね。言ったら傷つくから」

 

 うなずくバーモンド曹長に俺もうなずき返した。しばらくすると、ハラボフ大尉が部屋に入ってきて面会時間が来たことを告げる。いつかこの真面目で繊細な人が自信を取り戻してくれたらと思いながら、立ち上がって後についていった。

 

「貴官が退院してくるのをずっと待っていたのだぞ」

 

 ドーソン中将は上機嫌で俺を迎えてくれた。執務机の横に貼ってある六月のカレンダーは一日から昨日までばつ印が付けられ、今日の日付には退院と書かれて二重丸で囲まれていた。地球教徒の子とハラボフ大尉の件で弱っていた俺の心では、胸の奥から込み上げてくるものを抑えきれない。

 

「長い間、お待たせして申し訳ありませんでした」

 

 涙をこらえながら、背筋を伸ばして敬礼をする。ドーソン中将も立ち上がって敬礼を返す。三か月ぶりの憲兵司令官のオフィスは書類がきちんと整頓されていて、掃除も行き届いていた。物の配置も良く考えられている。ハラボフ大尉がどれだけ頑張っていたかは一目瞭然だ。彼女を傷つけてしまったことに改めて心が痛む。

 

「怪我は完全に治ったか?」

「はい。後遺症も残らずに済みそうです」

「そうか、それは良かった」

「実はお話が…」

 

 嬉しそうにうなずくドーソン中将にハラボフ大尉のことを話した。バーモンド曹長に話したのと全く同じ内容だ。

 

「閣下は真面目な部下はお好きですよね?」

「うむ」

「無駄口を言わない素直な部下もお好きですよね」

「そうだな」

「であれば、ハラボフ大尉は得難い人材であると思います。長い目で見ていただけないでしょうか」

「うーむ、しかしだな…」

 

 ドーソン中将は口髭を触りながら唸っている。

 

「閣下に長い目で見ていただいたおかげで今の小官があります。同様の御配慮を彼女にも頂ければ幸いです」

「貴官がそれほどに言うのなら、そうしよう」

「ありがとうございます」

「頭を上げたまえ。そんなに下げなくても貴官の気持ちは十分伝わった」

 

 困ったような声が聞こえて、頭を上げる。ドーソン中将はまいったなあという顔をしていた。

 

「まあいい、次の任務の話に移ろう」

「ハラボフ大尉からは重要任務とだけ聞いておりました。詳細は閣下が口頭で伝えると」

「うむ。貴官でないと務まらない任務だ」

 

 ドーソン中将の表情が急に引き締まる。どれほど重要な任務だろうか。体中に緊張が走る。

 

「任務の内容を伝える前に、貴官に我が国と帝国の憲兵隊の合同捜査の結果を伝えておこう」

 

 秘密捜査だったから、憲兵司令部の外で経過を話すわけにはいかない。だから、入院している俺のもとには情報がまったく来なかった。中央支援集団司令部メンバーが拘束されて三か月、関与している他の将官が拘束されて二か月。取り調べは一段落しているに違いない。結果ということは、そろそろ軍法会議に告発するのかな。

 

「先に結果だけを言うと、捜査は打ち切りになった。今回の件に関しては、軍事法廷も刑事法廷も開かれない」

「ど、どういうことですか、それは!?」

 

 信じがたい結果に上官の前ということも忘れて、声を荒らげてしまった。軍隊を使って麻薬取引をしていたような連中が告発されないなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるか。

 

「小官だって悔しいのだ。だが、最高評議会の決定は覆しようがない」

「最高評議会ですか…」

 

 自由惑星同盟の最高行政府である最高評議会。それがストップをかけてきたら、憲兵司令部がいくら頑張っても手も足も出ない。民主主義国家であるかぎり、シビリアン・コントロールは絶対なのだ。

 

「貴官には今回の件の事件の幕引きをしてもらう。任務地はフェザーン」

 

 最高評議会の次はフェザーンだって!?。話がとてつもなく大きくなっていく。一体何が起きているんだろうか。捜査結果の詳細を説明し始めたドーソン中将の話を聞きながら、自分が容易ならざるものに足を踏み込んだような気分になっていた。


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