銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第百二十四話:疑惑と信頼の狭間 宇宙暦797年6月22~23日 官舎~最高評議会議長公邸

 六月二二日の深夜。トリューニヒトと会う前日にも関わらず、自室の端末でクリスチアン大佐に託された動画を繰り返し見ていた。

 

「まずはフェザーンロビーだ。奴らはフェザーンの勢力均衡政策を担うエージェント。初代自治領主レオポルド・ラープ以来、フェザーン外交の至上命題は『帝国四八、同盟四〇、フェザーン一二』の勢力比を維持し、『恐怖されるほど強からず、侮りを受けるほど弱からず』という地位を確保することにあった。フェザーンロビーの金は、同盟と帝国の政界の隅々まで行き渡っている。我が国に積極策を採らせたい時は主戦派への献金を増やし、消極策を採らせたい時は反戦派への献金を増やす。これは誰でも知ってることだな」

 

 画面の中のクリスチアン大佐は、教育畑のベテランらしく基本的な事実の確認から入る。まるで講義を受けているような気分になる。

 

「だが、従来のフェザーンロビーの影響力は、決定的なものとはいえなかった。我が国にもロビー活動を展開する組織は多い。全国企業家連盟、全国農業者連合会、全国労働者会議、全国退役軍人協会、惑星環境保護ネットワークなどは、フェザーンロビーに匹敵する力がある。あくまで有力ロビーの一つだった。それが変化したのは六年前。アドリアン・ルビンスキーが五代目の自治領主に就任してからのことだ」

 

 動画の左下にフェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーの精悍な顔が映る。前の歴史ではラインハルトに反抗し続けた陰謀家として知られたこの人物は、現在はしたたかな政治指導者として同盟と帝国の頭痛の種となっている。

 

「ルビンスキーはダミーを通して経営難に苦しむ企業に多額の資金を投入し、密かに配下に組み入れていった。我が国を代表する企業の多くがフェザーンロビーのダミーとなった。不況の影響で全国企業家連盟や全国農業者連合会など有力ロビーの力が軒並み低下する中、フェザーンロビーは急成長を遂げて最大のロビーとなった」

 

 クリスチアン大佐はフェザーンのダミーが記されたリストを示した。フェザーンのダミーとしてはユニバース・ファイナンス社や投資集団ウォーターズ、ダミーに支配された同盟企業としてはサンタクルス・ライン社やレッドグレイヴ社などが名を連ねる。いずれもトリューニヒトの有力支援者だ。

 

「フェザーンロビーの最大の敵は、既得権益者の立場から外資自由化に反対する財界や労働界の既成勢力。主戦派最大勢力の改革市民同盟も反戦派最大勢力の進歩党も既成勢力との縁が深く、献金をしても限定的な効果しか得られない。そこでフェザーンロビーは既成勢力との縁が薄いトリューニヒト派と反戦市民連合に目を付けた。奴らの関心は安全保障と社会政策にばかり向いている。経済運営には興味を持っていない。だから、フェザーンロビーが求めるフェザーン企業の参入障壁撤廃、外国人投資規制の完全撤廃を何も考えずに受け入れた。文字通りの売国奴だな」

 

 恩人の口から語られる総選挙の水面下で起きたフェザーンロビーと既成勢力の争い。こんな話は前の歴史の本にも載っていなかった。主戦派系メディアも反戦派系メディアもフェザーン企業の活動規制撤廃を支持し、それに反対する財界や労働界の主流派を「既得権益にしがみつく悪党」と批判した。「フェザーンからの投資をもっと呼び込め」と主張する財界人は、改革派財界人と呼ばれてもてはやされた。だから、フェザーン企業の活動規制撤廃は善だと何の疑いもなく信じていた。

 

「昨年の敗戦で改革市民同盟と進歩党の支配力が揺らいだ隙に、トリューニヒト派と反戦市民連合はフェザーン資金を使って組織を急速に拡大し、総選挙で勝利した。フェザーンの金が大手を振って我が国に流れ込み、フェザーンロビーの手先が堂々と国政に口出しをする。そんな時代がやって来た。フェザーンの金無しに国家を運営することはできん。だが、フェザーンに国を売り渡すなど言語道断。祖国が経済植民地になるなど、見過ごしてはおけん。フェザーンロビーとその代弁者は何としても打倒せねばならん」

 

 フェザーンによる経済植民地化。保守的愛国主義者のクリスチアン大佐には、耐え難いことであったろう。そして、リベラリストのグリーンヒル大将にも。一見、水と油のように思える彼らが手を組んだ理由が理解できる。

 

「次は保安警察グループ。奴らの仕事は反体制運動の監視。軍と比べるとはるかに規模が小さく目立たない存在であるがゆえに、過激分子の巣窟になってきた。すべての市民を監視下に置こうと企む者、一部政治家と結びついて政権批判封じに暗躍する者、極右勢力と結びつく者が後を絶たなかった。これも公然の事実だな」

 

 保安警察の過激分子の存在は、同盟市民であれば誰もが知っている。保安警察の歴史は、過激分子が引き起こした数々の不祥事で彩られている。極右組織との黒い関係が明るみになって処分される者が数年に一度くらいの割合で出るが、そんなのは定例行事のようなものだ。極右もドン引きするような国民監視法案を作ろうとしてすぐに引っ込めるということが十数年に一度くらいの割合で起きるが、これも定例行事である。保守的で過激派嫌いのクリスチアン大佐には、保安警察の過激分子は不快なはずだ。

 

「しかし、奴らは所詮闇に生きる者。表で力を持つことはできなかった。憲章擁護局が設立された時は、反共和思想取り締まりを名目に最高評議会すら監視下に置いた。だが、市民の支持を失って四年で廃止に追い込まれ、設立に関わった者もすべて失脚した。その後も憲章擁護局復活を求める動きは何度と無く起きたが、いずれも失敗に終わった。保安警察グループの組織や予算は、軍と比べれば遥かに少ない。それが保安警察グループの発言力増大を抑えた。市民は軍を国家の守護者と考えてきた。だが、ヨブ・トリューニヒトの台頭からそれが変化した」

 

 多種多様な出自の人々によって構成される自由惑星同盟は、ダゴン会戦以前は旧銀河連邦系ロストコロニー、以降は帝国からの亡命者という異分子を抱え込んできた。保安警察は自由惑星同盟が国民統合を成し遂げるための必要悪だった。しかし、必要悪はあくまで必要悪でしか無く、保安警察は一時期を除けば日陰者に過ぎなかった。それがトリューニヒトの台頭によって変化したと、クリスチアン大佐は述べる。

 

「世間一般では、トリューニヒトは主戦派とみなされる。口先で主戦論を唱えるという意味ではそうだろう。だが、奴と従来の主戦派には、決定的な違いがある。それは軍部の独立に関する考え方だ。従来の主戦派は介入はしても、軍部の独立を尊重する姿勢は崩さなかった。だが、トリューニヒトは軍部を支配しようとしている。トリューニヒトは憲兵と監察総監部を取り込むと、綱紀粛正の名のもとに軍内部に監視網を作り上げた。地方部隊を取り込んで、彼らの持つ情報網も手中に収めた。その背後には軍部を支配しようと目論む保安警察グループの過激分子が控えている」

 

 トリューニヒトの軍部支配の陰謀。これは多くの者が公然と指摘するところだった。軍部がこれまで政治と対等に近い立場にあったのは、軍中央や正規艦隊に勢力を張る軍部エリート集団の力によるところが大きい。しかし、トリューニヒトが取り組んだ軍運営の透明化は、彼らの権力基盤を掘り崩した。トリューニヒトが自ら軍内部に派閥を結成したことによって、政治が直接軍運営に関与するようになった。「軍の要望が政治に届きやすくなった」と歓迎する者は多いが、「政治に軍を乗っ取られてしまう」と危惧する者も多い。

 

「保安警察グループの究極の目的は、憲章擁護局復活と警察国家建設。トリューニヒトの軍部支配強化は、ここ数年の活発な治安立法、憂国騎士団の強大化と同一線上の動きなのだ。去年の帝国領敗戦で軍の威信は地に落ちた。トリューニヒトは戦犯断罪を大義名分に警察と憂国騎士団を動かして、軍を攻撃させた。総選挙で勝利したトリューニヒトは、警察出身代議員を国防委員として大量に送り込むはずだ。警察出身のネグロポンティも国防委員長に留任する。遠からず軍はシビリアンコントロールの名のもとに保安警察グループの手に落ちる」

 

 画面の中のクリスチアン大佐の表情が一段と険しくなった。軍隊を家族だと考えている彼にとっては、保安警察グループの軍部支配は絶対に許せないのであろう。グリーンヒル大将やエベンス大佐のような軍部リベラリストは、政治の軍部介入を嫌う。警察国家建設など言語道断であろう。ここでもクリスチアン大佐とグリーンヒル大将は手を組みうる理由がある。

 

「小官は自由惑星同盟という国を愛している。愛する祖国が経済的には外国に支配され、政治的には警察に支配される。そんな未来など見たくもない!断固として奴らの陰謀と戦う!」

 

 急にクリスチアン大佐の声に熱がこもり、バーンと大きな音がして画面が揺れた。興奮してカメラを置いたテーブルを叩いたのであろう。クリスチアン大佐は感情の量が人よりもずっと多い。人情家であり、激情家でもある。知り合って間もない頃の自分がクリスチアン大佐の激情を恐れていたことを思い出し、少し懐かしくなる。

 

「貴官は甘い男だ。親しいトリューニヒトがこのような陰謀に加担するなど、小官の言葉だけでは信じるまい。小官も最初に話を聞かされた時は信じられなかった。だが、ある人物が示した証拠が真実を教えてくれた。陰謀と戦い続けてきた勢力が数年の時をかけて集めた証拠だ。貴官が我が陣営に投じた時にそれを見せよう。投じるつもりが無いのであれば、それはそれで構わん。貴官ならば、いずれ真実にたどり着く」

 

 俺が敵に回っても、揺るがぬ信頼をクリスチアン大佐は示してくれる。何度動画を見ても、この場面では胸が締め付けられるような思いがする。だが、たとえトリューニヒトが陰謀を企んでいたとしても、俺はやはりクーデターを鎮圧しようとするだろう。俺はトリューニヒト個人のためではなく、市民が選んだ政府を守るというルールのために戦ったのだ。

 

「我ら以外にも陰謀と戦う者は少なくない。仮に我らが敗北したとしても、その者達が志を引き継いで必ずや祖国を守り抜くだろう。貴官もその中に加わる日が来ることを信じる」

 

 力のこもった言葉。堅苦しい敬礼。見ているだけでクリスチアン大佐の気迫が伝わってくるようだった。これが見たかった。トリューニヒトと対峙する勇気をクリスチアン大佐に吹き込んで欲しかったのだ。

 

 動画が終わった後、手元にある本を開く。題名は『憂国騎士団の真実―共和国の黒い霧』。大物反戦派ジャーナリストのヨアキム・ベーンが憂国騎士団の背景を徹底的に追跡した力作だ。この本の元の持ち主だった婚約者ダーシャ・ブレツェリの顔を思い浮かべながら、ページをめくっていった。

 

 憂国騎士団は今でこそ誰もが知る有名組織だが、台頭してきたのはほんの三年前。それ以前の歴史はほとんど知られていなかった。ベーンは徹底的な取材によって、憂国騎士団の草創期を明らかにしていく。

 

 ペーンによると、憂国騎士団の設立届は、六年前にシヴァ星系の惑星ミトラ第二の都市ラジャバラヤンで提出された。設立者はイグナート・スクリプチェンコという一介の歴史教師。団員の数は三〇人を超えることがなく、その大半が籍だけ置く幽霊団員。団費を滞納する者も多く、年四回の機関誌を発行する資金にすら事欠く有様。スクリプチェンコはすっかりやる気を失くしてしまい、設立から二年過ぎた頃には定例会議も開かれなくなった。

 

 開店休業状態の零細政治サークルに過ぎなかった憂国騎士団の躍進は、三年前に団長がスクリプチェンコから実業家ベルトラン・デュビに交代した時に始まる。デュビは独立系放送局を買収すると、二十四時間体制で愛国思想を宣伝する番組を流させた。他の極右組織の番組とは比較にならないほどに質が高い憂国騎士団の番組は、あっという間に極右層の心を掴んだ。また、デュビは退役軍人や元警察官を雇い入れて行動部隊を結成し、反国家的な言動をした有名人や反戦組織を襲撃させた。これらの派手な活動によって、憂国騎士団の知名度は一躍高まった。

 

 団費収入や寄付が増加して憂国騎士団の財政が安定するまでは、デュビがポケットマネーで宣伝放送や行動部隊の経費を負担していたとされる。しかし、ペーンは綿密な調査の末に、デュビの資産の大半が粉飾によって計上された架空資産に過ぎないことを証明。デュビの豊富な資金が別の場所から出ていると結論づけた。

 

 憂国騎士団はデュビが団長に就任した二年後の七九六年には、一般団員二四万、行動部隊四〇〇〇を擁する大組織に成長した。極右組織の中では統一正義党系に次ぐ規模。過激ぶりでも飛び抜けた存在だ。それなのに驚くほどに逮捕者が少ない。国家保安局の監視対象からも外れている。保安警察と憂国騎士団の蜜月関係は、誰もが知る公然の秘密である。

 

 反戦派は「保安警察は極右に甘い」と言っているが、ベーンはそれを否定する。保安警察を統括する国家保安局の白書によると、極右最大勢力で一時は国政の第三党だったこともある統一正義党系列の有力六団体は、国家保安局の重点監視対象に指定済み。これらの団体の幹部はしばしば別件逮捕の対象となり、事務所もしばしば家宅捜索される。保安警察は極右に甘いのではなく、憂国騎士団にのみ甘いのだとベーンは言う。

 

 一般的には、国家保安局OBのヨブ・トリューニヒトが憂国騎士団を保護しているとされる。しかし、ベーンはその定説にも異論を唱えた。国家保安局時代のトリューニヒトは、エリートとは言っても副課長に過ぎない。かつての上司や同僚にも国家保安局の中枢に入っている者は少なく、トリューニヒト個人の影響力で保安警察を動かすのは困難。政治家としても、主戦派の有力政治家の一人に過ぎなかったトリューニヒトの力で保安警察ほどの大組織を抑えるのは難しい。トリューニヒト個人の権力では、憂国騎士団を保安警察から守れない。

 

 では、誰が憂国騎士団の保護者か。ペーンは国家保安局こそ憂国騎士団の保護者ではないかと推測する。憂国騎士団はトリューニヒトの手で保安警察から保護されているのではなく、保安警察の頂点に立つ国家保安局が自ら保護しているというのだ。ベーンは憂国騎士団行動部隊と国家保安機動隊を詳細に比較。戦術や装備の面において共通する点が多く、前者が後者の支援を受けている可能性が高いと指摘した。

 

 統一正義党の指導者マルタン・ラロシュは、激烈な社会批判によって不満分子の支持を得た。そのため、系列の極右組織は反体制色がきわめて濃い。それに対し、憂国騎士団は体制に親和的であり、政府に批判的な者も襲撃対象とする。アスターテ会戦の戦没者慰霊祭でトリューニヒトに反抗的な態度を取ったヤン・ウェンリーも憂国騎士団の襲撃を受けた。憂国騎士団とは、国家保安局が極右組織を隠れ蓑として作り上げた白色テロ部隊なのではないか。ペーンはそう推測する。

 

 さらにペーンは議員立法に注目した。資料を徹底的に分析して、ここ六年間で治安関連の議員立法が急増したこと、その七割に一〇人の保安警察出身代議員が関与していることを突き止めた。最も多くの立法に関わってたのはヨブ・トリューニヒト、その次はトリューニヒト派重鎮のユベール・ボネ。第三位のジョージ・オールポート、第四位のロレンシオ・エレロもトリューニヒト派。第五位にようやく非トリューニヒト派のネストレ・カヴァレラの名前が現れるが、第六位から第一〇位まではトリューニヒト派。総選挙以前のトリューニヒト派の勢力を考慮すれば、異常といえる。

 

 非合法部隊の憂国騎士団を使って反体制的な者を弾圧し、トリューニヒトら保安警察出身代議員を使って有利な法的環境を整備する。そうやって、誰にも気付かれないように、権力を手中に収めていく。最終的な保安警察の目標が警察国家の建設ではないかというベーンの結論は、クリスチアン大佐と全く同じであった。

 

 帝国領遠征の戦犯断罪に活躍した保安警察と憂国騎士団の評価は大いに高まった。三月総選挙では、多くの保安警察出身者が国民平和会議から立候補して代議員となった。四月クーデターでは、反戦市民連合のデモ鎮圧を命じられた保安警察系部隊は出動を拒否し、憂国騎士団は市民軍に参戦して、救国統一戦線評議会打倒に貢献。クーデター後に発足した第二次トリューニヒト政権の評議員一一名のうち、議長を含む四名が保安警察出身者。評価が落ちるところまで落ちた軍に対し、保安警察は我が世の春を謳歌している。

 

 フェザーンへの依存度も高まった。トリューニヒトは従来の緊縮財政を積極財政に改めて、大型国債発行によって資金調達する方針を明らかにした。堅実な同盟の投資家は、高利の同盟国債などには見向きもしない。ここ数年、同盟国債はリスクを恐れないフェザーン人投資家向けの金融商品と化していた。そして、トリューンヒトはフェザーンからの投資を呼び込んで景気刺激を目指すとして、外国投資規制の全面撤廃を打ち出した。

 

 クーデター鎮圧後の政局は、まさにクリスチアン大佐やベーンが危惧したとおりに動いた。強引な戦犯断罪以降、俺はトリューニヒトのやり方に疑念を感じつつある。特に国家救済戦線派に対する待遇には、納得いかなかった。トリューニヒトの人柄にほだされずに、自分の意見をちゃんと言うには、心の中に疑念を抱えておかなければならない。グリーンヒル大将と対峙した時には、彼に対して疑念を抱いていたおかげで取り込まれずに済んだ。トリューニヒトとしっかり対峙するために、俺はこの世にいないクリスチアン大佐の力を借りたのだ。

 

 

 

 六月二三日の午後九時。最高評議会議長公邸の応接室に入った俺を待っていたのは、両手を広げて出迎えるトリューニヒトの笑顔だった。

 

「久しぶりだね、エリヤ君。こうして二人きりで会うのは一月以来かな」

「ええ、五か月ぶりですね」

 

 俺もつられて笑顔になる。

 

「もうそんなに経ったのか。最近は時の流れが早く感じるようになった。一か月や二か月はあっという間だよ」

「色々ありましたからね」

「そう、色々あった。エリヤ君にも私にも」

 

 トリューニヒトはゆっくりと噛みしめるように言い、それから右手を差し出した。俺も右手を差し出して、トリューニヒトの手を握る。

 

「しかし、何があっても私と君は友人だ」

 

 右手で俺と握手を交わしながら、トリューニヒトは俺の左肩を親しげに叩いた。心の中がじわじわと暖かくなっていく。「俺は本当にこの人が好きなんだなあ」と改めて思う。

 

「先にかけたまえ」

「お気遣いをいただき感謝いたします」

 

 俺はトリューニヒトの勧めに遠慮なく従い、ソファーに腰掛けた。俺が腰掛けてから、トリューニヒトも腰掛ける。来客を迎える際は、必ず客の後に着席するのが彼の流儀なのだ。

 

 俺の前に置かれているのは、コーヒーとフィラデルフィア・ベーグルのドライフルーツ入りマフィン。トリューニヒトが用意しないなんてことはあり得ないが、それでもいつもと変わらぬ気配りが嬉しい。トリューニヒトの前には、いつものように紅茶とチョコクッキー。

 

「今日も疲れただろう。コーヒーとマフィンを用意させた。口に合うかな?」

 

 トリューニヒトに勧められて、コーヒーを口にする。砂糖とミルクでドロドロになっていて、俺の口に良く合う。フィラデルフィア・ベーグルのマフィンも本当においしい。思わず顔が綻ぶ。

 

「おいしいです」

「それは良かった」

 

 太陽のようなトリューニヒトの笑顔は、疑念で曇った俺の心をたちまち明るく照らし出す。慌てて頭を横に振った。今日はトリューニヒトにちゃんと意見を言わなければならないのだ。

 

「君が私のやり方に不満なのはわかっている」

 

 表情をいつもの微笑みに変えて、静かにトリューニヒトは言った。俺の心を読んだかのようなタイミングでの言葉に、思わず動揺してしまった。

 

「君は人の絆を大事にする。共に戦った者にあの待遇では、決して納得がいかないだろう。それがわかっていたから、君を呼んで話をしようと思った」

 

 トリューニヒトは俺が言いたいことを先に言って、完全にペースを掴んでしまった。だが、このまま押し切られる訳にはいかない。必死に自分を励まして口を開く。

 

「でしたら、アラルコン少将やファルスキー少将ら国家救済戦線派幹部の昇進を……」

「それはできない」

 

 俺が言い終える前に、トリューニヒトはきっぱりと否定した。

 

「どうしてですか?信賞必罰は軍隊の根幹。彼らの功績に報いなければ、誰も国家を信用しなくなってしまいます。過激思想の持ち主を昇進させる危険より、国家が信用を失う危険が大きいと俺は考えます」

「我が軍では往々にして忘れられがちだが、階級は功績ではなく、能力に対して与えるものだよ。優れた佐官が優れた将官になれるとは限らない。昇進させたがために、かえって長所を殺すこともある。君の部下のガーベル君がその典型だ」

 

 第三巡視艦隊所属の戦隊司令官ナディア・ ガーベル准将の名前を出されて、思わず納得しそうになった。同盟軍史上でも五本の指に入ると言われる名艦長のガーベルは、第五次イゼルローン攻防戦において、たった一隻で三〇隻の敵艦を戦闘不能にするという空前の戦果を挙げた。帝国軍に「イゼルローンのラグナロク」と恐れられ、当時の宇宙艦隊司令長官ツァイス元帥は五〇万帝国マルクの懸賞金を掛けたと言われる。二九歳の若さで将官に昇進したガーベルだったが、提督としては二流以下だった。失態続きで第一線から外され、ここ二年は前線に出してもらえなかった。

 

「まあ、確かにガーベル提督は大佐のままでいた方が良かったですよね」

「そうだろう。彼女の功績には勲章で報いて、艦長に留めておくべきだったのだ。功績があったからといってふさわしくない者を昇進させてしまっては、本人にとっても軍にとっても大きな損失だよ」

 

 トリューニヒトの言うことは、いちいちもっともだ。しかし、ここで問題になっているのは、ガーベルのように明らかに資質に欠ける人物のことではなかった。本来の話題に戻さなければならない。

 

「アラルコン少将もファルスキー少将も中将たるにふさわしい力があります。俺が中将なら、彼らが中将でもおかしくないと思います」

「私から見れば、彼らは君に遥かに劣るけどね」

「お世辞は勘弁して下さい。統率力、用兵能力、運用能力、管理能力。どれ一つとして、俺は遠く及ばないですよ」

「指揮官としては、確かに彼らの方がずっと上だろう。しかし、軍人としては必ずしもそうではない。彼らは忠誠心に欠ける。軍人の仕事は戦いに勝つことではなく、国家を守ること。国家を守れない勝利は無意味だ」

 

 トリューニヒトは信頼を何よりも重んじる。忠誠心を問題にすることは予想の範囲内。十分に反論できる。

 

「彼らは四月のクーデターで見事に国家を守りました。十分に忠誠心を示したと考えます」

「国家に対する忠誠心ではないだろう。君に対する忠誠心、あるいは好意か」

 

 トリューニヒトは穏やかな表情をまったく崩していない。それなのに放たれる言葉は恐ろしく鋭い。警戒されているのだろうか。背中に冷や汗が流れる。

 

「まさか、俺みたいな頼りない司令官に忠誠心なんて……」

「彼らの理想は軍事独裁。君の中に理想の指導者を見たのではないかな?」

「俺が理想の指導者だなんて、まさか……」

「君は私が期待して育てた指導者だ。彼らがそう思ったとしても無理は無い」

「冗談はよしてくださいよ。俺はそんな大したものじゃありません」

 

 どんどん話が危険な方向に進んでいるような気がする。まるで首筋に刃物を当てられているかのようだ。いつもよりトリューニヒトの姿がずっと大きく見える。

 

「冗談ではない。君がクレメンスの副官だった時から、私は君の指導者たる資質に期待していた。クレメンスの短所を矯正せずに、長所を活かそうとする発想。決して人を批判せず、司令部の融和に務める姿勢。嫌いな者に対しても、なるべく良い面を見出そうとする公正さ。私の考える指導者たる資質を君はすべて持っている。だから、あらゆる立場での思考を理解できるよう、様々な任務を経験してもらった。期待通り、いや期待以上に君は良い指導者になってくれたよ。そして、今言っていることも私が期待した通りだ」

「指導者ですか……」

 

 トリューニヒトが俺に期待していたのは指導力。その事実に驚きを感じた。てっきり忠誠心に期待しているものとばかり思っていた。

 

「君の昇進を後押ししたのも功績ではなく、能力を評価したからだ。君は自分の功績が足りないことを気にしていたようだが、より高い階級にふさわしいと考えたからどんどん昇進してもらった。功績なんて後からついてくる。もはや、君が高い階級にふさわしくないと考える者はどこにもいないはずだ」

 

 冗談を言っているのでないことは、目を見ればわかった。

 

「わかったかね?彼らは市民に選ばれた政府に忠誠を誓うという発想を持っていない。彼らの忠誠は国家ではなく、優れた指導者に向けられる。そして、忠誠というのは一方的なものではない。良い指導者は部下の期待に応えようと努力するものだ。そして、君は良い指導者だ。彼らが君に政府に対する反逆を期待した時、君はそれに応えずにいられるだろうか?」

 

 難しい質問だった。俺はできる限り部下の期待を裏切らないように心がけてきた。反逆を期待されたらどうなるのだろうか。

 

「自信がありません」

「だからこそ、私は彼らを軍から排除しなければならない。君という腹心を失わないためにね」

「そういう場合って、普通は部下じゃなくて指導者を排除するものじゃないんですか?」

「政治家を動かすのは支持者だと、私はいつも言っているね?」

「はい」

「部下の言葉に良く耳を傾ける指導者は、部下によって動かされる。それは政治家も軍人も同じだよ。悪い政治家がいるとしたら、それは悪い支持者の責任だ。悪い政治家を排除したところで、悪い支持者は別の政治家の元に集まる。そして、その政治家を悪い政治家にする。だから、排除すべきは悪い支持者だ」

 

 支持者を主、政治家を従とするトリューニヒトの政治家論は、いつ聞いても独特だった。彼はフェザーンロビーと保安警察グループを良い支持者と思っているのどうか、ふと気になった。だが、あえて波風を立てる必要もないと思い、言わないでおくことにした。今の俺が言うべきことは、他にあるのだ。

 

「俺の下に着かないとしても、やはり彼らの昇進は認められませんか」

「そうしたら、他の者を指導者と仰いで反逆を期待するだけのこと。彼らには予備役になってもらう。私は誰も失いたくない」

 

 トリューニヒトは食い下がる俺を突き放すかのように断言した。

 

「だが、彼らの功労は認める。ハイネセン記念勲功大章、五稜星勲章など五つの勲章を授与。予備役編入時に中将に名誉昇進させて。中将相当の年金を支給する。予備役編入後も裕福に暮らせるはずだ。不祥事があったとはいえ、功労者が困窮しては市民も納得しないだろう。国家救済戦線派幹部の中で不祥事があった者もこれに準じる待遇をしよう」

 

 どんな表情をすればいいか、俺にはわからなかった。些細な不祥事をつついて彼らを軍から追放しようとするトリューニヒトの手法には違和感を覚えるが、追放後の生活や名誉に対する配慮は彼らしい気配りに満ちている。なんか複雑だ。

 

「もともと一時金と年金で十分裕福に暮らせるだけの勲章は与えるつもりだった。名誉昇進は、まあ君に対するサービスかな」

 

 トリューニヒトは悪戯っぽく片目をつぶり、軽くウィンクした。

 

「あ、ありがとうございます」

「これが最大限の妥協だよ。彼らは軍には残しておけない。アラルコン君の場合は、非戦闘員殺害疑惑という爆弾もある。反戦派がそこに火を付けてきたら、軍のイメージがさらに悪くなる」

 

 国家救済戦線派を抑えこもうとするトリューニヒトの意思が強固なことを改めて思い知った。これ以上、俺が食い下がれる余地は無かった。

 

「わかりました」

「君は甘いが、それは悪いことではない。君が甘ければ、私やクレメンスが厳しくすればいい。私が厳しすぎれば、君が甘くすればいい。そういう役を君に期待していると思ってもらいたい。君の甘さによって生きる者も多いだろうからね」

 

 俺は甘い。それはクリスチアン大佐がいつも言っていたことと同じだった。そして、クリスチアン大佐と同じように、トリューニヒトも俺の甘さに肯定的だった。決して相容れなかった二人が同じことを言っているのに、不思議なものを感じた。

 

「シェリル・コレット君、エリオット・カプラン君、ユリエ・ハラボフ君。他の者の下では生きなかったが、君の下に来て初めて生きた者達だ。それに加えて、エドモンド・メッサースミス君。この四名の二階級昇進は、私の期待を示したものと思ってもらいたい。君が彼らをどこまで引き上げられるか、彼らが君をどこまで押し上げられるか。私は楽しみにしている」

「やはり議長閣下のお声がかりでしたか」

「凡人も英雄になれる。君の市民軍はその可能性を示してくれた。コレット君やカプラン君のように期待されなかった者、ハラボフ君のように挫折した者、メッサースミス君のように愚直な者も英雄となった。凡人から生まれた英雄の部隊。まさに私の理想とするところだ。君にはその実現を託したい」

 

 トリューニヒトの目に熱っぽい光が宿る。凡人が団結して市民軍を結成し、非凡なエリート集団の救国統一戦線評議会に勝利する。トリューニヒトにとっては、自分の凡人主義が肯定されたように感じたのであろう。

 

 そして、俺の次の任務も見えてきた。部隊を作れということは、正規艦隊か方面管区の司令官だろう。

 

「次の俺の仕事は、どこかの部隊の指揮官でしょうか?」

「しばらくゆっくり休んでもらって、それから正規艦隊編成に携わってもらう。編成完了後は君が司令官だ」

「俺が正規艦隊司令官ですか?」

 

 正規艦隊司令官という言葉を噛みしめるように口にする。俺が同盟軍の最精鋭を率いるなんて、夢のような話だ。いきなり第一一艦隊司令官になれるとは思っていなかったが、実績を積めばいずれはなれる日も来るだろう。ルグランジュ中将との約束を果たすためにも、これから率いる艦隊で用兵の腕を磨いておかなければならない。

 

「第八艦隊、第九艦隊、第一二艦隊の残存戦力。解散する辺境総軍と第一一艦隊の戦力。宇宙艦隊直轄部隊の一部。これに新造艦を合わせた六万隻で五個艦隊もしくは六個艦隊を編成する。一年後が目処だ」

 

 目が点になった。辺境総軍と第一一艦隊を解散するというのは、一体どういうことだろうか。百歩譲って辺境総軍はいい。しかし、第一一艦隊が解散してしまったら、約束を果たせなくなるではないか。

 

「第一一艦隊と辺境総軍を解散するのですか?」

「どちらもクーデターに加担した。そのまま残しておくわけにはいかないさ」

「いや、しかし、第一一艦隊の首脳部はみんな自決したじゃないですか。今はもうすっかり政府に忠実な部隊ですよ」

「評議会が解散した後も彼らは抵抗を続けた。政府ではなく司令官個人に従うような部隊は忠実とはいえないな」

「いや、しかしですね。せっかくの精鋭です。バラバラにして新しい艦隊を作るより、今の形を保ったままの方が戦力になります」

「第二第三のルグランジュ君が現れてはたまらないからね。私は政府の指導者だ。やはり、政府に対する忠誠心を第一に考える」

 

 忠誠心を持ちだされては、反論のしようがない。第一一艦隊がルグランジュ中将に従って最後まで抵抗したのは事実。信頼重視のトリューニヒトには、「信頼できないが、力があるから使う」という選択肢は存在しない。

 

「同盟軍はしばらくの間、国内治安と艦隊再編に取り組む。帝国領遠征とクーデターの反省を生かして、真の市民の軍隊を作るべき時だ」

「ルイス提督の出兵案はどうなさるおつもりですか?」

「彼は去年のロボス君よりたちが悪いな。ロボス君には背負うべき支持者がいた。同意はできなかったが、理解はできた。だが、ルイス君は何も背負っていない。それなのにやたらと状況を動かしたがる。アスターテでも帝国領遠征でもそうだった。クーデターの際も賢しら顔でグリーンヒル君がクーデターを起こすと噂を流すだけで、止めようとしなかった。引っかき回して自分の力を誇示したいだけではないか。そんな戦争屋の案など、検討の余地もなく却下だ」

 

 トリューニヒトは強い口調で言った。出兵が実現する可能性は低いと思っていたが、それでも最高責任者の口から直接否定する言葉を聞けて安心した。

 

「私のやり方を強引すぎると感じることもあると思う。私が自由を奪おうとしていると言う者、独裁をしようとしていると言う者もいる。だが、凡人は放っておけばいがみ合う。信頼と忠誠なくして、凡人のための政治はできないのだ」

 

 彼が自分で言っているように凡人のための政治をしようとしているのか、あるいはクリスチアン大佐やベーンが言うように同盟を警察国家にしようと企んでいるのかは、俺にはまだ良くわからない。

 

 だが、政権を取ってからのトリューニヒトが、明らかに以前と違っているのは理解できた。信頼を重んじるあまり、信頼できない者を排除しようとする傾向が強まっていないか。凡人の期待に応えようとするあまり、強引になりすぎているのではないか。そんな危惧を覚えた。


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