「……ん」
空気が揺れる。それからわずかに間をおいて、高くも低くも感じられる汽笛が響いた。
短く、短く。時折長く、短く。長く、長く。気まぐれに鳴らしているようにも聞こえるが、音と音の合間に、必ず一瞬以上の間をおいている当たり、確かな意思が感じられる。
「……こ、これ、何かの、メッセ、ジ? おく、奥多、摩さん、よく鳴らしてる、けど」
「Jud. 奥多摩の汽笛を利用した通信です。現在、輸送艦との通神連絡は行えず、情報が途絶えているため、このような原始的な伝達方法を用いています。────以上」
「『マニュアルにはあるけど使ったことがない』って奴だねぇ。ま、かく言う俺も言われるまですっかり忘れてたんだけど。……今度いろいろ調べてみるかなぁ」
立てられた朱傘の下に座り、酒井が音を立てて茶をすする。緑系の渋い色合いの湯のみだが、中身は濃い琥珀色──英国産のお高いダージリンだ。
そして、傘の支柱を挟んで座っているのは鈴。ウサギの絵柄が描かれた湯飲みを両手で包んでいる。……汽笛の音がその場に届く前に反応できる感知能力の高さに、酒井がこっそり舌を巻いていた。
「私共も、この手法が使えるかどうか疑問だったのですが……幸いにもクロスユナイト様がご存知だったようなので。ええ。──特務とはいえ一学生が知っていて学び舎の長が忘れているとは。ええ。全く。────以上」
「……厳しいなぁ」
酒井は横目で鈴──そしてそのすぐ後ろにいる膝立ちの武蔵を視界に入れる。
鈴はいつも結っている髪をまっすぐに下ろしていて、その髪に武蔵が丁寧に櫛を通している。髪の色が似ているからだろうか、こうして並ぶと姉妹に見えなくもない。
なお、『母子』とは言わない。絶対に。思いもしない。──まだ、死にたくはないのだ。
髪をなでられるのが気持ちいいらしく、鈴は先ほどからずっと微笑んだままご機嫌だった。
「でも、あっち……輸送艦には汽笛、ついてなかったはずだけど。向こうからの応答はどうしてるの?」
「Jud. クロスユナイト様は当初、手旗信号を用いた連絡を行おうとしたのですが、トーリ様がなにを勘違いされたのか『赤上げて、白下げて、赤下げないで白投げる』という謎遊戯を慣行なさってしまい──投げた白旗が正純様の後頭部に直撃したために中止となりました。────以上。
今では、二つの照明を用いた信号でやり取りをしております。────以上」
「……トーリがあの時放送室ジャックして叫んでたの、ソレだったのか」
その時のことを思い出しているのか、鈴も苦笑している。──『シロ』ジロを投げんとする守銭奴被害者の会と、シロジロの白熱したバトルが確かあったはずだ。
「ひか、り?」
「Jud.原理は簡単でして、片方を子音。もう片方を母音として──」
「ボイ────ン!! ……お! なんかやんなくちゃいけねぇって思って来てみたらガクチョー先生と武蔵とベルさんじゃねぇか! 何だよ、三者面談的なあれか!? まあ確かに先生だと肉体言語に」
ぬっ、と下から現れたジャージ腕が、がしっ、と全裸の首をわしづかみにして引き釣り下ろした。
『地獄に引き釣り込まれた』と想像した酒井は、きっと悪くない。
──「ちょ、先生ツッコミ早ぇよ! まだ俺ボケきってねぇから! さびしいのはわかるけどよ、ちゃんと待っててくんねぇと……」
──べきょり、と。肉とか諸々が、いろいろ潰れる音がした。南無。
「……ほ、ホライ、ゾン、いないっ、から──ちょっと、空、元気だね。トーリ、くん」
「……俺にはいつもどーりのトーリにしか見えないけどなぁ……っていうか、まだ三日だろうに」
──効果でるの早すぎるでしょ、と呟きかけて。
……トーリと同様の事態に陥っている、武蔵を見た。
梳き終えた鈴の髪を、武蔵は普段のポニーテール風ではなく、ツインテールに結っている。その光景に少しも変なところはないのだが──艦の業務を除いた時間の全てを鈴のお世話に当てている、と前情報があったなら、話は別だ。
(ブラコンだなぁとは思ってたけど、まさかここまでとはなぁ……優先順位がほとんど同じくらいの向井さんがいてくれたからよかったものの)
もし鈴がいなかったら? ……決まってる。武蔵全艦の、全速によるお迎えが英国を強襲していたはずだ。
「? いつも、と、違……う?」
「Jud. 髪紐が二つありましたので、少々手を加えさせていただきました。大変お似合いです鈴様。────以上。
……話を戻しますが、子音と母音の双方の照明を、伝達する文字に合わせた回数明滅させるのです。『か』でしたら子音二回、母音が一回というように──」
「「ボ、イ────ん!! の数はふたぁぁああつ!!!!」」
全裸が、今度は姉を伴って再登場を果たした。 飛び上がるような登場から華麗に着地し──したかと思えば、トーリは再び、ぬっ、と現れたジャージ腕に以下略されていく。
「あっれ先生俺だけ!? 俺だけお持ち帰んのかよ!? や、やさしくしてネ……? 比喩とかじゃなくてコブシはらめぇ!」
メキョ、と潰れてはいけない諸々なものがいろいろと潰れた音がした。南無南無。
「強く生き残りなさい愚弟……! んふふふ。愚弟がなんかヒャッハーしてるから来てみたら、珍しい組み合わせね? 擬似アットホーム展開って感じ? おじいちゃんと孫娘二人的な!」
「おいおい、そこまで歳行ってないよ? 俺。せめて親父か、叔父さん辺りにしてくれないかなぁ」
そういう酒井だが、言うほど嫌がってはいなかった。むしろ、鈴ならばおじいちゃんも悪くない、むしろいいかも? と少なくない割合で考えているほどだ。
「否定しながらまんざらでもなさそうね学長先生。でもって女磨いてる鈴はパシャリ、と」
「ふ、ぇ!? き、喜美、ちゃん……! と、と撮っちゃ、だ、め! 消しっ、て……!」
「いいじゃない減るもんでもないわよ!? むしろ増えるわね金銭的な意味では……ああ、武蔵さん? ちょっとそこ代わってくれる? あと道具も借りるわね。シニョン作るからシニョン!」
「Jud. すばらしいご判断かと。────以上。ああ、酒井様、少々ご移動を。入ってしまいます。ツーショットはさせません。────以上。」
「厳しい上に、容赦ないなぁ……あ、見てるだけならいい? 見張ってるから、ほかの連中が来ないように」
姉二人掛りに良い様にされてしまってあうあうしている鈴を眺め──ここにも一人いたか、と苦笑する。
武蔵ほどわかりやすくはないが……それでも、『それ』を埋めようと誰かしらに構っている。
今は鈴であるため、安全だ。これが梅組のズドンや全裸ならば、危険なのだ。激怒したズドンの流れズドンは言うにあらず、全裸なら大切な何かしらを失いかねない。
「──『早く帰ってこい』……なんて言わないけどさ。せめて元気で、帰ってこいよ? 待ってる娘たちが、いるんだからよ」
輸送艦のほうを数秒ほど眺め、酒井は微笑を浮かべる。
……湯のみの茶は、そろそろ温くなりそうだった。
「……お! そういうのは初めて見るけど、可愛いもんだねぇ」
「でしょう!? なによわかるじゃない学長先生! こうなったらいろいろ新天地開拓してくわよ!」
「ちょ、ちょっと、まっ、あの、えうう?」
「……はい。はい、では鈴様。お顔をこちらに、そして首をコテン、と。ええ、Jud.いただきました。……ああ、この装備では力不足でしょうか。いえ、力不足ですね……奥多摩、大至急『決戦装備-甲の特型』をこちらに。────以上」
返答すらも手間だったのか、奥多摩が汽笛で吼えて応じる。
……良い様に発散先に選ばれてしまった武蔵の宝には、今しばらく、チヤホヤされていてもらうとしよう。
***
「正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純正純…………」
「ノブタン! き、気を確かに! あと病むんならご自分の家で病んでください! 巻き込まないでって、 あ" あ "あ" あ" あ" あ" ! ? 限定プレミアのフィギュアがぁぁあ!!!???」
────失礼。チャンネルを間違えたようだ。
***
打ち付ける水。少し痛覚を刺激するだけの勢いを持ったそれは、真上から頭を、肩を叩いて全身に流れていく。春になったばかりの陽気だが、大自然に在る水たちは冬の冷たさをまだ失っていないらしい。
「つ~……ッ! や、やっぱりまだ冷たいな点蔵……!」
「ひょっ、ぬぉう、しかしこれも修行と思えばぁー!」
片や、腰から上の全てを取り払い、打ち付ける水に逆らうように全身を擦るようにして洗っている止水。そして片や、手を合わせ、どこかで見たことがある光景を再現している、同じく上半身裸の点蔵がいた。
輸送艦の墜落した下流でもかなりヒンヤリとしていたのでその上流にある滝ならば、より冷たいのは当然だろう。
「「へいっくしょッ!!」」
……ちなみに、現在の水温は凍る直前の2度。……心臓の悪い人でなくても入るのに絶対躊躇う数値なのだが、この二人は当然のように飛び込んでいる。若さゆえか、馬鹿ゆえかはわからないが。
「つぅ──……よし、慣れた」
「で、ござるな。……というより、自分たちこれより冷たい中で泳いだ経験あるではござらんか。ほら、高等部の一年のときにやった『氷張り寒中水泳』」
息継ぎの度に氷割ってたアレか──と遠い眼をして止水は思い出す。……ほかの参加者が15㎝ほどの厚みの氷を中々割れず、溺れかけていたのも懐かしい。
……慣れた、の言葉に偽りは無いようで、萎縮していたはずの体はほぐれ、今では冷たさを楽しんでいる節すらあった。
なお、一般人は絶対にマネしてはいけない。
「慣れたっていえば……皆もそれなりに、この状況に慣れてきたみたいだな。──正純とか、体調崩すかなぁって思ってたんだけど、今のとこは平気そうだし」
「Jud. まぁ、まだ三日目でござるが、幸先の良いのは確かでござろう。最低でもあと十日ほど……何事もなければよいのでござるが」
点蔵は相槌を返し、その上で、今後出てきそうな問題を考える。
考えて、考えて……。しかし、特に大きな壁は思い浮かばない。小さな案件は必ず起こるだろうが、起こってみなければわからないうえに、即日対応可能なものばかりだろう。
だから──。
((……あそこで隠れて見ているのは、何を考えているん
目前の、どーでもいいことに眼を向けた。
ポイントは二箇所。向かい合っている止水と点蔵のそれぞれの後方。その、少し開けた小道と、藪の中だ。
止水の視線の先には、森に紛れるような深緑の長衣を纏った人物が一人いる。隠れる気はあまりなさそうな上に、敵意や殺意といった害意も感じられない。
むしろ、止水の視線を感じたのだろうか、会釈すらしている。止水がそれを返せば、踵を返して去っていったが……。
点蔵の視線の先には、森の中にあって『隠れる気なんかないよ!』とばかりの豊かな金髪と金翼が、木の影に無謀にも隠れようとしている。
……当人はたぶん必死なのだろうが、点蔵は情け容赦なくガン見だ。
やがて、観念したのだろう。コソコソと困り笑い顔を覗かせるマルゴットは、口に人差し指を当てて『内緒』のサインを点蔵に送る。次いで──『内緒』の後に『お願い』のサインが交互に送られてきた。
直訳すれば、『お願いだから黙ってて』が妥当だろう。
そのサインに対し、点蔵は苦笑しながら、止水にバレない様にほんのかすかに首肯する。
(まあ、女子にはいろいろあるのでござろう。……取引材料一個ゲットにござる)
コイツも中々に外道だった。
……滝の中、去り行く長衣の背を見送る止水は、いまだ振り返る気配はない。今去れば、個人特定はされないだろう。
「……何しにきたんだ? あいつ……。で、おーいマルゴットー! お前は何してんだー?」
「も、もろばれてるの!? ちょっとテンゾー!?」
「じ、自分は無実でござるよ!? っていうか、さも『自分も共犯』みたいに言わないでほしいでござる!!」
自分無関係! と声高に宣言した点蔵だが、そこでふと考える。もちろん、彼女がわざわざここに来た理由だ。
まずもって、たまたま通りかかるような場所ではない。こんな修行場のような場所に水浴び、ということもないだろう。
……考えられるとするならば、止水か点蔵のどちらかに用があり、それを済まそうと探していたらたまたま二人の水浴びを見てしまい、恥ずかしさでつい隠れてしまった──というのが妥当だろう。
……これが彼女の相棒であったなら、きっと、ここまで綺麗な理由は考察されなかったに違いない。
『全裸』には故あって見慣れているが、男子の
顔を赤くして、視線を向けたり逸らしたりで忙しなく……それでも、三対六翼で羽ばたき、滝つぼ付近まで飛翔する。そのころには完全に顔は横を向き──二人を視界に入れてはいなかった。
「(うう……あ、あとにすればよかったよぅ……!) あ、あのね? その、テンゾーでもしーちゃんでもいいんだけど……薬関係って、やっぱり持ち合わせとか、ないよね……?」
指先を合わせてモジモジと、声を落としてゴニョゴニョと。男二人が真剣な顔付になったのには、気付いていなかった。
「……Jud. 傷薬なら少々持ち合わせがござるが……症状のほどは?」
「え? えと、たぶん風邪? かなぁ、って──頭痛いとかはないけど、だるいというか熱っぽいっていうか……のどもちょっと痛いかな。
こっち来る前から、その……ちょっと無理してお仕事とかしちゃってたし、それが今になって来たのかなぁって……」
マルゴットの自己診断は風邪。その内容も、風邪の初期症状そのものだ。
白嬢が無く、郵送業を行えないナルゼの分も代行していたり、第四特務の実務業務もナイトが兼ねていたはずだ。疲労の度合いは、倍程度ではすまなかっただろう。
「……止水殿、近辺に薬草などは」
「軽く見た感じじゃ頭痛に腹痛、その辺りのしかないな……環境はいいから、念入れて探せばあるかもしれないけど。
……点蔵、マルゴット抱えて輸送艦まで戻ってくれるか? 俺、ここから戻りながら探してみるから」
マルゴットの中では、軽い風邪かもしれないからクスリない? 程度の、軽い考えだった。しかし二人はそう捉えていない。
点蔵の帽子眼は眉をキリリとさせているし、止水も真剣そのもの。このサバイバル生活が始まって、初めてのことだ。
「……いや、薬草探しは自分が受け持つでござるよ。この立地ならば、自分のほうが得意でござろう。止水殿がナイト殿を輸送艦まで。後、皆に説明も」
「ん。Jud.じゃあそっち、任せたぞ?」
正しくとんとん拍子の勢いで物事が決まっていく。
提案し、修正し、了承し……余計な茶々入れが無ければ、基本的に有能な連中だというのに。
「いやいやいや、待って! お、大げさだよー二人とも! ナイちゃん風邪っぽいってだけだし、ホラ、まだ全然動けるから運んでもらわなくったって!」
こぶのでない腕で力瘤を作り、いまだ羽ばたける翼で軽く上下に浮き沈みして元気をアピールするが、滝を出て身支度を整えている二人は止まらない。
「……大げさ、では決してないのでござる。今のようなサバイバル状況下において、現状一番怖いのは『獣や妖魔の類』でも、『飢えや乾き』でもござらん。
『病』でござる──体力などは大丈夫でござろうが、免疫力などは平時よりも下がっているのは確か。
そしてそれは、残念ながら、他の面々も同じことが言えるのでござるよ」
そこまで言われれば、マルゴットにもわかる。……自分のせいでバイオハザード(弱)が起きるかも知れないのだ。医者なんていない今、それは絶対に避けなければならない。
……唸るようにして黙るマルゴットをよそに、二人は流石男、と言われんばかりの早さでさっさと身支度を終える。そしてその動きの延長であるかのように、止水はマルゴットを捕獲。そのまま背中に収納していた。
マルゴットにしてみれば、『気付いたら背負われていた』という不思議現象だ。
「えーと……つまり、
「「 Jud. 」」
当たり前だ、とでも言わんばかりだった。
しかし──有無を言わせず、強引に。……そんな滅多にない止水たちの行動に、マルゴットが心拍を少しばかり上げたのは内緒だ。
「はぁ……いっつもそうなら、テンゾーだって少しはモテるとナイちゃん思うんだけどなぁ」
言い分が通らないのなら悔し紛れの一言くらい、という思いで呟かれた一言に、点蔵は気持ち悪いくらいに反応──ビクゥと跳ねてバッと振り返った。
「えっ!?
──いっつもそうだから、テンゾーはモテないんだヨ。
しかし、それは言わない。マルゴットは可哀想な動物を見る眼でテンゾーを眺めるだけに留め……ようとして。ふと考える。
「…………」
「な、なんでござるか?」
マルゴットは自身の長い髪を掴み、観察。……白がやや強いかもしれないが、まあ、金色といって問題ない色合い。つまりは金髪だ。
そして、わずかに身を起こし、直下を見る。『並』と『巨』がどこで区切られるのかはわからないが、梅組で上から数えたほうが早いのは確かだし、それなりの自覚も肩こりもある。
以上を踏まえ、先ほどの点蔵の発言と照らし合わせ──出ていた頭を、止水の身で隠す。
「……あー、ごめんね? ナイちゃん、その……好きな人、いるから」
「なんで告ってもないのにフラれているでござるか自分!? っていうか、ナイト殿は異族属性もあるでござるから自分的には範囲外でござる!!」
「あ、そーいうこと言っちゃうんだ!? それならナイちゃんだって『犬くさい忍者』なんかいやだよーだ!!」
「犬くさっ……ナルゼ殿情報にござるな、それ!? だいたい──……」
なにをー!? なんでござるか!? と数分。
小等部低学年にも劣るようなやり取りな上、興味関心のかけらもない話題であったため──止水は我関せず。ボヘーっと待つことにした。
────しばらくお待ちください。────以上。
「はぁ、はぁ……」
「ふぅ、ふぅ……けほっ」
「──気ぃ、すんだか? そろそろ行くぞ?」
息も絶え絶えの中、決着は後日つけようとだけ決め──点蔵は消える。止水もそれを見届けマルゴットを背に走り出した。
山道。決して走りやすいとは言えず、平らなところなどほとんどない悪路にもかかわらず、背に乗るマルゴットが負担を感じることはほとんどない。
その事実に驚嘆しながら、そして、二人っきりという状況にいまさら気付きながら……マルゴットは赤ら顔で顔を寄せる。
「いまさらだけど、特訓の成果だねー。山の中走ってるなんて、ナイちゃん思えないよ。……ベルさんいいなぁ」
「はは、そういや『背負い』の始まりも、確か鈴だっけか。……最初のころは、鈴が乗り物酔いっぽい感じになっちゃってさ、それをどうしたらいいかーって善鬼さんに相談したら『お玉の中に割った卵入れて武蔵爆走しろ』って。
……だんだん、ハードルが上がってったなぁ……うん」
お玉に生卵が終われば、その状態で屋根の上『だけ』を走れ、となり。
……それも頑張ってこなしたら、なんとお玉が両手に増えた。しかも生卵代は全額自腹である上に掃除もしなければならないとあって、それはもう必死にやった。
しばらくしてから武蔵の住民が眼下で大きな器を持って待ち構えていたときには、意地でも落としてやるものかと躍起になったものだ。
そして、もう大丈夫だろうと口にすれば、『どうせなら極めろ』と何故かお玉の数が倍。
──おかげで、今ではどんな悪路でも上体が一切揺れることなく走り抜けられる自信ができたと止水は語る。……絶対凄いはずなのだが、やっていたことは運動会競技の延長線上でしかないので、やや気恥ずかしげだ。
「……しかし、マルゴット背負うのも随分久しぶりだな。っていうか、高等部に入って初めてか?」
「んー、Jud. ナイちゃんもガッちゃんも空、飛べるからねぇ。むしろ運ぶ側じゃないかなぁ。……ねぇしーちゃん。初めてナイちゃんのことおんぶした時って、覚えてたり、する?」
覚えていてくれたら、いい。覚えていてくれますように。
そんな──どちらとも取れる想いを込めて、問う。
返事は早かった。
「あー、初等部の二年の、頭くらい、だっけ。……放課後に凄い土砂降りがあった時だよな」
その記録的な土砂降りの雨で翼が、水に浸した布団のようになってしまい……マルゴットはその重さで身動きが取れなくなってしまったのだ。
雨が止んで……しかしすぐに乾くわけもなく。どこぞの店の軒下で途方にくれていたら、止水が店の中からヒョイと現れたのだ。その店が青雷亭で、たまたま止水が手伝いに拉致され──コホン。来ていたらしい。
「エヘヘ……そうそう。そうしたらしーちゃんが『家どこだよ?』って言って、ナイちゃんのことおんぶしてくれたんだよねぇー。……羽が泥で汚れちゃわない様に、地面に付かない様に、してくれたっけ」
いつものニコニコ顔が、その日のことを思い出してか……それとも、その思い出の共有にか、さらにニコニコと幸せそうに笑みを彩る。
当時……重かったはずだ。早い話が水を大量に吸った布団一式を背負うようなものなのだから。
しかし、止水は文句も、弱音すら吐くことなく──そして、マルゴットを一度として降ろすことなく、彼女を送り届けた。
もちろん、それがきっかけで好きになった、とまでは言わない。精々が『優しくて力強い男の子』くらいの認識だった。
その優しい男の子──あのころはふら付いていた。大人と比べれば当然、頼りない背中でもあった。
……その面影は、今はもう、どこにもない。
(……大人に、なってるんだなぁ。あー……ごめんね、ガッちゃん。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、独り占めさせて?)
心の底で相棒に謝罪し──肩に添えていた手を、前へと滑らせる。
(──風邪。そうだよね、ナイちゃん今、風邪引いてるんだもん。起きているよりも寝ているほうがいいよね。
……だから、うん。これも当然当然)
背中は、先ほどまで冷滝に打たれていたとは思えないほど暖かく……。
……マルゴットが本当に眠ってしまうまで、さほど時間は掛らなかったそうな。
── オマケ ──
「おーい、マルゴット。平気か? 止水から風邪引いたって聞いたんだが……」
「あ、セージュン。うん。軽い感じだから大丈夫ー。……その、迷惑かけちゃって、ゴメンね」
「マルゴット。正純から聞いたんだけどアンタ、風邪引いてぶっ倒れたんだって? しばらくおとなしくしてないと駄目さね」
「お、大げさだよーマサー。すぐによくなるってこんなのー」
「マルゴット!? 貴女大丈夫ですの!? そんな、倒れるまで我慢するなんて駄目ですわよ!」
「ちょ、ミトッつぁん落ち着いて! ホラ、ナイちゃんならヘーキだから、ねっ。気にしないで」
「……マルゴット殿。拙者、貴殿が大病を患っているとは露知らず……!」
「……えと、あ、うん。大丈夫だから、ね?」
「……なんか、ほかの連中がマルゴットが今にも死ぬ系の病気に苦しんでるって話してたんだけど、なんか知ってるか?」
「……しーちゃん。実はそれ、ナイちゃんが一番聞きたいんだ。あとお願い。治りづらいから説明してきて」
「さぁー、マルゴット殿ぉーオクスリの時間にござるぞー? この点蔵、行動許可範囲ギリギリ限界まで探しに探してきたでござる。これを飲めば、一週間不眠不休で働ける上に五感が鋭くなったり、あとついでに風邪とか治ったりするでござる。
効能の分、自分でも「あ、ヤバイ」って思うほどの苦味とエグミになったでござるが、気にせずぐぐーっと!」
「いけるわけないよ!? クスリって色してないよヤクって色だよそれ! し、しぃぃちゃぁぁん!!! へるぷみぃぃぃいい!!!!」
読了ありがとう御座いました!