今回、注意点が二つございます。
【ひらがなのみのセリフ】
【食人表現】
【R-18に抵触しない程度の性的表現】
二つ目と三つ目は、かなり表現を抑えてありますが、万が一気分を害された場合はすぐさまプラウザバックをお願い致します。
***
……これ、どうなってんの?
配点《【……前例皆無。お答えできません】》
***
なんだかなぁ……とため息を深く吐きながら、とにかく手と足を動かす。今はとにかく走るしかなかった。
IZUMO崩落の影響か、酷く不安定な空域上での航行で揺れる艦上ではあるが、その足取りが乱れることはない。武蔵在住歴の長さがその足取りからよくわかるだろう。
多摩から高尾を経由し、奥多摩へ。そしてそこで用を済ませて来た道を逆に、そのまま辿って再び多摩へと戻る。……集合場所は分かっているので問題はない。
いつもなら往復で一分と掛からない距離に何倍もの時間を掛けてしまったことに若干ゲンナリしていたが、こればかりはしょうがないとまたため息。しばらく走って……甲板上に集まっている一同を見つけて顔を綻ばせる。
雰囲気がおかしいが、まあ、仕方がないだろう。なにせ、総長が連れ去られたのだ。五日間は大丈夫とは言え、相手が相手だ。雰囲気の一つや二つ、おかしくなっても無理はない。
「あー、わるい。ちょっとおくれた」
「ん。
――……ん?」
一番近い直政にそう声をかけてから輪に加わる。話し合いならば、まあ自分の出る幕は十中八九ないだろうが――せめてなんの話しをしているのか、くらいは知っておきたい。
「はぁー、ふぅ。で、なおまさ、これいまなんのはなし……なおまさ?」
「…………」
深く
その直政は二度三度と瞬きし、眉間を揉む。再度凝視し、咥えていた煙管をポロリと落とした。
「……子供いるとか聞いてないよ。出遅れてるってレベルじゃないさねコレ」
「……ごめん。まじでなんのはなししてるのかわかんないや」
落ちてきた煙管を上手く拾ったのは黒い髪と黒い瞳の……まだ初等部にすら入ってないだろう、幼児とも言える少年だった。
人懐っこそうな顔は『元気と優しさが取り柄』を見事に体現している。舌ったらずな言葉使いがまたなんとも言えず愛らしい。……見覚えのあり過ぎる緋色の上着物が、かなりダボダボなのもまた『来るもの』があったそうな。
思考停止状態の直政からの説明を諦め、なにをしているんだろうと少年は観察をすれば、正純とネシンバラが各方面に忙しく指示を出している。……とりあえず『なにか』を探し出そうとしているようだ、とだけはわかった。
そうする中で周りが少しずつ少年に気付き始める。最初は迷子か? と訝しんだが……よくよく見始めた一同の雰囲気が、一変した。というよりも爆発した。
「……!? ちょ、ちょっと? ちょっと直政? あんたなにその子。あんたいつの間に……中等部? 中等部には仕込んで産んでる計算よねそれ!? カラスじゃなくて朱雀に掻っ攫われたわ……!」
「は、はぁ!? ちょっと待ちな喜美! アタシじゃないさね!」
「ちょっと喜美! マサも! 今真面目な話を……そりゃあ私の責任かもしれないですけど真剣にってぇええええええ!? マサ!? まさか、ちょ、まっ、ママ!?」
「いやだから、なってないさね! 人の話聞けよ!」
「……子供かぁ、いたらさすがに寝取りはでき……おっと降りてきたけどネタ神様、いまそれどころじゃないの。くぉらぁ直政! あんたねぇ! 自分の子供を否定とか、ふっざけんじゃないわよ! 子供の気持ち考えなさいよ! ……ちょっと抱っこさせてくださいお願いします!!」
「ふざけてんのはあんたらの頭だろうが! そろそろ朱雀でバコるさね!?」
「はい救助っと。いきなりでびっくりしちゃいまし……わー、わー。かぁーいぃですね〜。こんにちは、あ、お菓子食べます? いやいや、それにしても似てますねぇ。前に見せてもらった写真にそっくりで、父親に、父親、パパ似ににににい――……はふう」
「おかし……そういやいまおれってめしとかくえ……あでーれ? うしろむきにたおれるとあぶねぇぞ」
「確かに似ているな。ふむ――出産祝いと七五三祝いと、年齢分の誕生日と毎年のお年玉で……ハイディ。あとなんだ? 相場は幾らくらいだ? というより白紙の小切手を持っていないか?」
「なあ、はいでぃ? これほんとうにしろ…… だめだ、はいでぃもはなぢだしてきぜつしてやがる」
「コミュニケーションはホライゾンにおまかせください。ええ、なにせ正純様とさえ友人関係になれたホライゾンです。幼い幼児など赤子の手を捻るようなものです。――はい。お手」
「……おれ、どれからつっこみいれるべきかなぁ……」
なお。ここまでの流れだが……驚くべきことに、誰一人としてふざけてはいなかった。
それほどまで似ている……いや、似過ぎている。現れた少年の顔は、血の繋がりは確実にあると断言できるほどに、彼――守り刀の止水の幼い頃に酷似していた。
……似過ぎていたからこそ、『失ってしまったかもしれない』――という不安を抱えて堪えていた女衆の感情が、変な方向に爆発したのだろう。
「母親は誰だ」から「なに、いないのか」を経て「じゃあ私がなる」「いやまて私だ」「姉は私が。――以上」と、睨み合いはすぐにでも大乱闘に発展しそうで、さらに混乱を加えて激化していく。
幼い少年がそんな擬音祭りに巻き込まれたらヤバイ、と判断したアデーレが俊足で拾い上げて離れたのだが……離れたそこでも何人かが壊れている。守銭奴の嫁は隠れ子供好きな旦那の姿にやられ、姫に関しては最早当方ではどうしようもない。
「ふむう、止水殿の幼少期を知らん拙者らにはわからんで御座るが、確かに似ているで御座るな。
――余談で御座るが、父と拙者はこれっぽっちも似てなかった故、父の友人らにことあるごとに父娘検査を促されたものに御座る」
「本気で余談ですね。……で、皆様冗談抜きのガチ混乱しているわけですが、あの少年は真面目に何者なのでしょうか」
「常識的に考えると他人の空似――なんでしょうが、あの人の弟か息子と言われる方がむしろ納得できるほどに似ていますね……ただ、彼の性格上そのような不義理をするようには思えませんし……」
立花夫妻と二代は比較的落ち着いていた。そして、二代はどうかわからないが、誾と宗茂は内心で「もしや――」という答えに至っていた。
……荒唐無稽過ぎる話だが、如何せんそれ以外の仮説の可能性が低すぎる。なにより、言葉で説明できないあれやこれやの前例がある止水だからこそ、その荒唐無稽がなによりも現実味を帯びていた。
抱き上げようとしてくる女衆をなんとか回避していた少年が、一瞬の隙を突かれて重力制御を用いた武蔵の腕の中に収まる。そこから撫でられ触られ、良い様に女衆に蹂躙されてジタバタしている少年に、苦笑を湛えた里見 義頼が……その答えを言葉にした。
「――随分と面妖な状態になったな、止水。何があったのか、の説明は、どうせないのだろう?」
と。
……その内容に呆然とする女衆の隙を突き返し、脱出。そのまま幼児離れした動きで距離を取り、女衆との間に義頼を挟むように逃げた。
「もうちょっとはやくとめてくれよ……それに、おれじしんわかんねぇことをどうせつめーしろと? ……いや、ま、『これかなぁ』ってのはいっこあるけどさ……」
――止水の幼少期によく似た少年は、偽りなく止水本人であると。義頼は欠片も迷うことなく、そう確信して話を進めている。
そして少年……止水もそれを肯定した。
――「つまり、合法ショタ? 『体は子供、頭脳は大人』ってどっかで聞いたフレーズよね」
――「……止水のおバカは『頭脳は大人』って言えるのかしら」
――「とりあえずナルゼは黙ってください。喜美も軽く失礼ですから。えっと、止水、ちゃん? そのわかることでいいから、おねぇちゃんたちに説明できますか?」
――「アサマチ、あんたが一番落ち着くさ。まず弓と矢しまえ。
「……おさななじみたちがいってることがなにひとつわからないばあい、おれはどうしたらいいのだろう」
「おそらく、まだ混乱しているのだろう。――私も軽く、養子縁組の手続きを、という思考が浮いたほどだ。それで、『一つあるなにか』とは?」
そんな義頼の慰め? に年齢――いや外見に似合わない重いため息を一つ。……一同の既視感は半端ではなかった。
なんかよしよりが『しかいしんこー』みたいだなぁ、と抜けた感想を抱きつつ気を取り直す。
止水であるという少年は、頬を軽く掻いて、苦笑した。
「【かんざし】のさ、"よぶたいみんぐ"を……まちがえたっぽい」
――切り落とした両腕を補うために用いた【釵】。四肢を失ってなお守る……その一族の信念の結晶。止水は両腕を切り落とし、新たに金剛の腕をもって人狼女王に挑みかかった。
……苦笑とともに告げた内容は、それだけ。頭のいい面々がそれを仮説と推測で補完していく。
「……そういえば」
止水へと言葉を届けるため通神を通していた正純が、当時の詳細を思い出す。
【釵】に続けて【鐚】。その二つの名を呼んだ止水は、未だ磔の状態……両腕を切り落とす前だった、と。
そして、正しいタイミングというのが、『欠損が生じた
「つまり――止水くん本人からすると欠損したのは『両腕』だけど……その両腕からしたら、欠損したのは『止水くん本人』ってこと? それで両腕が欠損を補おうとして……でもなんで子供の姿に……?」
「しらん」
「あ、うん。大丈夫。君がそう答えるのは九割九分予想してたから。でもまあ質量保存の法則でないことは確かだね。あの丸太腕一本よりもいまの君軽そうだし小さいし……」
「計測終了。……体格と体重が一致いたしません。現在止水ちゃんの体重は十kgもございません。――以上」
ぶつぶつと考察や仮説を立てていくネシンバラをよそに、冷静になった一同は改めて子供の状態になった止水を見る。
年齢的には初等部前……四歳ほどだろう。と、付き合い最古の幼馴染たちは確信している。
その頃は止水の母親である先代守り刀・紫華の落命という大事があったので、喜美と智はその頃の姿をはっきりと覚えていた。逆に、初等部からの付き合いである直政たちはこの止水を初めて見ることになるのだろう。
……話で聞いた限りでは、この頃から基本的に止水は一人で生活していたという。
少しずつ、一同の思考が落ち着いてくる。だからこそもうひと騒動あるだろうと確信したネシンバラが、その前に……一番重要だろう事を問う。
「止水くん……君の本体――って言ったら変だけど、人狼女王に連れて行かれた君がどうなっているのか、わかったりするかい? 葵くんもそうだけど……君は、無事、なのかな?」
「……わるい。とーりはわからない。けどおれは、ぶじ……とはいえねぇな。ぎんじゅうじこわしたところまではおぼえてんだけど……そのあと『あ、しんだ』っておもったら、こうなってたからさ」
……舌ったらずな言葉の、辿々しい説明を纏める。
1.本体の方は心肺停止状態らしい。……ただ、激戦で血液の大半を緋の流体で補填していたため、わずかな期間だが心臓が動かずとも呼吸ができずとも、酸素欠乏による所謂『脳死』という状態にはならないらしい。
2.止水の腕に関しても同様。磔に用いられた刀たちが幼止水の内にあって、微弱ながら流体供給が行われている。それが途絶えない限り壊死もしない。……幼い体はどういう原理なのかは不明。
3.本体が完全に死ねば、幼い方も消失する。契約者はあくまでも止水の本体の方なので、そちらが落命すれば付喪神たちとの契約も無効となるのだから、ある意味当然だろう。
……わかったことは大きく分けて、上記の三つ。止水がギリギリのところで辛うじて生きている、という事実がなによりも大きいだろう。
さらに点蔵たち奪還部隊が間に合えば、止水の両腕が元に戻る可能性も高くなる。
――手繰る糸は未だか細く、今にも千切れてしまいそうな儚さだが、その先は、確かに希望に繋がっているようだ。
「……一先ず、止水の件はクロスユナイトたちを信じて任せるしかない、か。それじゃあ、止水。お前は今から超説教されるから覚悟しておけ。私もこれからのあれこれが終わったら超するからな」
無事、という確固たる証拠が得られたからだろうか、武蔵に確保された幼い止水に向けられている視線の気配が変わる。
……具体的に描写すると、全体的にシルエットが真っ黒になり、目だけが白い丸で描かれている感じだ。ゴゴゴゴ、と効果音を付けるとなお良し。
「……これからのあれこれ、ってのに、おれ、いる?」
「『マクデブルク』って聞いて、なにかわかることあるか?」
「……はい。まさずみせんせー、わからないんで
よろしい――そう鷹揚に頷く正純は、しかしどこか嬉しそうだった。
「……あ」
「止水ちゃん? どうしました?」
「え? あー、うん。えっと、ちゃんづけにさ、ツッコミいれんのわすれてたなぁって……」
(……ちょっと、喰われた、かな?)
***
……時間を少し遡り、武蔵から離れた……深い深い森の中。
間隔の短い呼吸は忙しなく、逸る気持ちを抑えて、疾走する一つの影がいた。
――急ぎ過ぎず、しかし急いでいた。
背中に鎖巻の一人の少年を背負い、両腕に両腕を失った青年を抱えて森の中を疾走する彼女――テュレンヌは、とにかく急いでいた。
森に住む獣たちが圧倒的捕食者である彼女の存在を察知し、諦めたように身を伏せる。それを無視して、人狼女王の力をできる限り使って、森の中を駆けていた。
――早過ぎると背中の武蔵総長が耐えられない。五日後に喰うデザートなのだ。今死んでしまえば色々と勿体無い。だからこそ、テュレンヌは全力で走りたいのに、全力で走れないでいた。
(早く、早く……!)
ちらりと、腕に抱えた青年を見る。……短時間とは言え、自分と対等の戦いをやって魅せた青年。名は確か、止水と言っていたか。
その心臓は止まっている。呼吸もだ。両腕を失い、傷だらけの身体だが……驚くべきことに、彼はまだ死んでいなかった。
死んだその瞬間から細胞の崩壊が始まり、そこから腐敗が始まる。しかし、この青年の身体からはその腐敗臭が少しもしないのだ。
「はっ……はっ……!」
逸れば逸るほど呼吸が早くなる。早くなった呼吸が腕に抱いた極上の香りを嗅いでしまい、本能を猛烈に刺激してくる。そしてまた逸り……と、テュレンヌは見事な悪循環に陥っていた。
『ふう。矜持など捨ててしまえばいいですのに。野外というのも、また乙ではありませんか』
――お黙りなさいな。この子のこの『香り』、気付かない
自問自答。
濃密で濃厚で、芳醇な肉の香り。戦いの最中で、幾度口内を唾液で満たし、そして幾度飲み込んだだろうか。
抱き抱え、その至近でその香りを嗅いだ時……優れた狼の嗅覚は、ある事実も嗅ぎ取ったのだ。
(見えましたわ……!)
拠点……というにはファンタジーが過ぎる。森の奥深くにぽつんとあるその家を見た者、誰もがそう思うだろう。
――『お菓子の家』。かの有名な童話を再現した、本物のお菓子で出来た家だ。
板チョコの扉を荒く開け、ウェハースの床を急ぎ、ビスケットの敷居を越えて、マシュマロのソファーベッドに背中の鎖巻きと腕の彼を優しく投げる。
「……!? い、今起きた事をありのままに」
「まだちょっと出番先ですので寝ていてくださいな?」
「はなっ……すやぁ」
早い話が首トン。目覚めたトーリの意識を有無を言わせず刈り取り、再び夢の世界へ旅立たせる。飴で出来た小物入れから、お菓子ではないガラスの瓶を二本取り出す。
その一本を開け、常備のハンカチに染み込ませ、今しがた意識を刈った少年の口と鼻に軽く当てる。……気絶から、穏やかな深い眠りへ落ちていった。これで、武蔵総長は短くとも半日目を覚ますことはないだろう。
……これで、邪魔は入らない。
「はぁ、はぁ……!」
(……まだよ、まだ。落ち着きなさいテュレンヌ。びーくーる。びーくーるですわ)
深い呼吸を繰り返し、トーリをそのままに再び止水を抱え、居間から寝室へと移動する。
夜にはまだ早いが、室内は十分に暗い。……その暗さが、これから行う行為の背徳さをさらに刺激した。
――大きなベッドに止水を仰向けに寝かせ、テュレンヌ自身も止水に馬乗りになるように乗り込む。
そして、残る一本の小瓶の中身を口に含み――
「んっ……」
一瞬のためらいもなく、止水の唇に自分の唇を合わせた。舌で噛み合った歯をこじ開け、口に含んだ『薬』をゆっくりと流し込む。
嚥下が出来ないせいで口から溢れた液体が流れるが気にしない。問題ない。一滴でも胃に届けばそれで効果を発揮する。
ゆっくり、ゆっくり。舌を伸ばし、道を作り、喉の奥へと流していく。ピチャピチャと否応なく淫靡な行為を想像させる水音がしばらく続き……
――ドクン!!
そんな音が聞こえてきそうな程の強さで、2メートルの巨体が寝具の上で跳ねた。次いでゴパ、という音と共に、口を満たしていた薬が逆流してくる。
……テュレンヌが口移しで飲ませた液体は、超強力な強心作用のある劇薬だった。
『無理矢理に心臓を動かす薬』と言えば、緊急用の応急処置に用いられそうなものだが、断じて医療目的の薬ではない。その利用方法・製法が世に知られれば、禁薬指定間違いなしの劇物だろう。
――人狼女王の一族に代々伝わる製法で、生涯に一度しか作らないその薬。母が子に、製法と共に渡す。止水に飲ませた薬は先代……つまりテュレンヌの母が作ったものである。
「『生きたまま喰らいたい相手がいたら使うように』――お母様、謝りますわ。わたくし、出会えましたわよ」
まずいないでしょうけれど伝統的なアレですので、と言って作りたての薬を雑に放り投げてきた母を思い出して笑う。そして、仮初めの鼓動が戻ったことでさらに強くなった香りに、『二つ』の本能がついに決壊した。
……ボロボロに、真っ赤に染まった上着を左右に引いてトドメを刺す。夥しい傷跡と生々しい傷が晒され、濃い血と肉の香りが一気に沸き立った。その香りに眼を潤ませ、テュレンヌも自らの服を散らかすように脱ぎ捨てる。
成熟を終え、完成した美しい裸体を惜しげもなく晒し、無抵抗な青年の身体を抱き締める。
首もとに顔を埋め――その香りを確認した。
「ふふ、ふふふ。ネイトったら、こんなに『しるし』をつけておきながら手を出さないなんてっ……母がいただきますわねっ? いいですわねっ?」
首――耳のすぐ側から、殆ど肩と言える位置にまで。時間の経過と濃い様々な匂いによって薄れているが、人狼特有の唾液に含まれるフェロモンを嗅ぎ取り、またそれがネイトのものであるとテュレンヌは確信する。
『これは自分の獲物だ。だから手を出すな』と、縄張りを主張するようにお気に入りに甘噛みする人狼の習性だ。テュレンヌがネイトに教えた記憶はないが、きっとどこかで聞いたかどうかしたのだろう。
甘噛んだ回数はその独占欲の強さだが……ここまで主張しておきながら手を出さない娘が悪い。だから母は悪くない。そもそも先に目をつけたのは八年前だし、先約はこっちのはずだ。
――『娘の想い人を奪う』という背徳感。しかもその上、この青年はいまだ『女を知らない』。これだけの雄を放置しているなど、実娘も含めて武蔵の女子は何をしているのだろうか。
「でっ、でもでも、薬のもう一つの効果はまだ少し時間がかかりますしっ、その、そう! 味見が必要ですわよねっ」
虚空に告げる言い訳に、当然なにか答えが返ってくる訳もない。
『そこ』を尻に敷いているので、 その効果が現れればすぐにわかる。――袴の脱がし方は流石に知らないので、そうなった時に脱がしても遅くはないだろう。
……理性は、とっくに焼き尽くされていた。
「だから、だからっ。それじゃあ――」
金の瞳。そのさらに濃い金の瞳孔が縦に細く、獣に寄る。
小さく開いた口から伸びた舌が、娘の匂いを自分のもので塗りつぶしていく。念入りに、執拗に。娘の残り香など、微塵にも残さぬとばかりに上書きしていく。
(コレは、もう、ワタクシのモノですわ)
「――いただき、ます」
唾液に濡れた首の一部に吸い付く。歯を剥き出して噛むなど行儀の悪いことなどせず、吸いついたまま顎を開いて人狼女王は噛み、犬歯を突き立てる。そして、ゆっくりと力を込めて嚙み切っていき……ブツン、と音を立てて、上下の歯が噛み合った。
――止水を、食った。
懐かしい人の血と、肉の味。しかし、テュレンヌが生涯で幾度か口にしたモノとは比べようもない極上の美味が全身を駆け抜ける。全身に鳥肌が立ち、震えた。はしたなくもその快感に絶頂すら齎され――
――ありがとう――
「え……?」
声――否。
音――否。
……それは、意思。
――ありがとう。ありがとう――
快感の余韻は掻き消された。幾千幾万、幾億もの数の膨大な意思。それが、止水の内からテュレンヌへと渡ってくる。意思たちは、本心からの感謝で埋め尽くされていた。
――この子の代わりだ、背負ってくれるのだろう? ずっと、ずっと心苦しかったんだ――
意思が重なる。老いたモノも若い通り越して幼いモノもいる。大多数の女の中に男が数人。意思が総じて、同じ思いを投げつけてきた。
――私達の願いを――
――我らの悔いを――
人狼女王テュレンヌは……恐らく。生まれて初めて、全身を恐怖で震わせた。
自分の体内、そこに大量に流れ込んでくる異物。守れずに絶え、慟哭を上げ、血涙と共に果てた幾億もの、もはや怨念と言っても過言ではない意思たちが、濁流のようにテュレンヌの内側へと流れ込んでくる。
(こ……こんなものを、私はこれから背負っていかなければいけないの?)
億の次の単位はなんだっただろうか。そんな思考を浮かべる間もなく、胃と食道が逆流作用を起こし、今食ったばかりの血肉を吐き出した。
大量の唾液と胃液とともに血肉は吐き出されるが、流れ込んでくる意思は止まらない。……ほんの僅かにだが、すでに緋の流体が取り込まれてしまったようだ。
「だめ、いや……っ!」
……削らなければ。そうだ、取り込まれた緋色が全身へ至るその前に。口と喉、消化器系を抉り削ろう。いや、その前に心臓だ。血の巡りをまず止めなければ――
「……ぉい、こら」
錯乱したように――いや、実際に錯乱しているのだろう。鋭い爪と強大な力を、今まさに自らの胸に突きたてようとしていたテュレンヌの手が止まる。
……聞こえたのは、掠れきった声だ。聞き取りづらい上に濁りが多いが、それが聞こえたのと同時に意思の奔流が止まった。
まさか、そう思いつつ、恐る恐る視線を下す。そこには、二度と開けられることはないだろうと思われた男の目が、僅かにだが――しっかりと開かれているではないか。
その目は真っ直ぐテュレンヌを見上げている。だが、しかし一切テュレンヌを見ていない。テュレンヌを越して、その先にいる何かを見据え捉えている。
口が震えるように開き閉じを繰り返す――肺が機能していないのだろう。呼吸に頼らない発声ゆえに途切れつつ掠れつつだが、しかし強く、なによりも強い意思を叩きつけた。
「な、に――ひとさ、まに、迷惑かけ、てんだ――……っ!
その感情は、怒り。激怒憤怒では到底表し足りない強い感情の燃焼が、テュレンヌの内に流れ込んだ意思たちを根こそぎ奪っていく。全てが消えるまで睨み続け……最後の一つが止水へ戻り、フッと脱力する。
「……あ」
「――……悪、ぃ。迷わ、かけた」
呆然と止水の上で尻餅をつくテュレンヌは、また初めての体験をしていた。
――
そうと気付いたのは色々と終わった後で、気付いて悔しそうに唸るのだが、それはまた後日。
開けられた眼がまた光を失っていき、再び意識を手放した止水を見て、人狼女王は最悪の予想を浮かべる。
もし……止水が本当に死んでしまったら、今度こそあの意思たちが自分に宿るのではないか? と。
人狼女王は、この日。初めて自分の全力を持って行動する。
……テュレンヌの長い1日は……まだ終わりそうにない。
読了ありがとうございました!