セレネは冷めた目で、ハリー・ポッターを見据えた。
彼の手にあるのは、間違いなく自分の指輪である。
正確に言えば、指輪の中心に嵌められていた黒い石だ。先ほどハリーが零していた言葉の内容から推察するに、あれは最後の死の秘宝「蘇りの石」だ。
「……やっぱり、ズルいですね」
ダンブルドアは、セレネに断りを入れず、ハリー・ポッターに石を譲渡していた。
それも、死者を蘇らせる魔法の石だ。
「私だって、それを使いたかったです」
かつかつと靴を鳴らしながら、ハリーに向かって歩き始める。
「やっぱり、お母さんに会いたいのに」
たぶん、蘇りの石で彼女を復活させたところで、セレネのことを見てくれないだろう。
それでも構わないから、もう一度、セレネは母親に会いたかった。会ったところで絶望したとしても、それで自分の中に区切りがつく。
「せめて一言、口にして欲しかった」
胸の内に、静かな怒りが湧き上がってくる。
ダンブルドアに頼らなかった自分に非があるけど、それを差し引いても、ハリー・ポッターを贔屓し過ぎである。
セレネはハリーの中の「死」を直死しながら、ゆったりと杖を構えた。
「だから、死んでください」
口元にだけ微笑を浮かべると、私はニワトコの杖を軽く振った。万が一の抵抗をされないように、ハリーが握りしめた杖を弾き飛ばす。杖と一緒に飛んだ黒い石を呼び寄せると、そのままポケットにしまった。
「あっ……」
ハリーは呆然とした表情のまま、根が生えたように突っ立っている。
セレネは杖を構え、身を低くして、一息でハリーへと走り出した。
ハリーは戦う術を失い、杖を拾いに行こうともしない。
あまりにも、ハリー・ポッターは無防備だった。
行ける。
この直感は正しい。このまま一思いに、ハリーの中心に渦巻く黒い線の塊を突き殺すことができる。あと一歩、踏み出すだけで、ハリー・ポッターは人生の幕を閉じる。
そう思ったが――……
「……ッ!?」
セレネは視界の端に、こちらへ奔る赤い閃光の存在を捉えた。そのまま弾かれたように後ろへ跳ねる。セレネは赤い閃光を避けると、腰を低く構え、閃光が飛んできた方向に目を奔らせた。
「何をしている、ポッター! すぐに杖を構えろ!」
セブルス・スネイプが目くらましの呪文を解き、ゆったりと現れた。
ハリーへ意識を集中させるあまり、もう一人の伏兵の存在を見落としていた。セレネは唇を強く結んだが、すぐにスネイプ先生に意識を集中させる。
スネイプ先生は死喰い人でダンブルドアを殺した人物だ。しかし、この状況でハリーを助けたことから推測するに、実は味方だったのだろう。
「先生。ハリー・ポッターを殺さないと、ヴォルデモートは死にません」
セレネの口からは「どうして?」という疑問より、現状を説明する言葉が放たれる。一分一秒が惜しく、本当は焦るべき時なのに、セレネの冬の湖面のように静かで淡々としていた。
「信じてもらえないと思いますが、本当のことです」
「知っている。だが、ヴォルデモート本人の手によって殺されなければならん」
「ヴォルデモートのアバダケダブラで? それでは、ハリーだけが殺される可能性だってあります」
アバダケダブラが、ハリーの魂に寄生するヴォルデモートを殺せるのであれば良い。
だが、もし、アバダケダブラがハリーの魂の方だけを殺してしまったら?
それでは、まったくもって意味がない。下手したら、ヴォルデモートが空っぽになったハリーの肉体を奪い、闇の帝王が二人に増えてしまうことだってあり得る。
「そんな危険、私なら犯せません」
セレネはスネイプ先生と睨み合う。
互いに譲らないと直感する。きっと、いくら言葉を並べて説明しても、スネイプ先生は首を縦に振らないだろうし、逆に説得されても、セレネは受け入れない。
セレネは杖を手の中で回した。
「仕方ありません。セブルス・スネイプ。あなたを排除することにします」
「やれるものなら、やってみたまえ」
スネイプは言葉を言い終えないかのところで、信じられないほど素早く動いた。その杖が空を切り、眼にもとまらぬ速さで呪文が飛ぶ。セレネは敏速な盾の呪文を展開し、その呪文を押し返した。スネイプは僅かに体勢を崩したが、周囲の瓦礫を鉄の鎖に変え、投げ縄のようにこちらに向かって飛ばしてくる。
セレネは縄を蛇に変身させると、自分の周囲に控えさせた。
セブルス・スネイプ。
セレネ・ゴーントの名付け親。
否、名付け親だった人であり、名付け親にさせられた人だ。
推測に過ぎないが、彼は彼自身の意志で名付け親になったのではない。
おそらく、セレネの母親が「最高傑作のホムンクルス」をヴォルデモートの魔の手から安全に守護するための保険として、近所に住まう魔法使いの男の記憶を改ざんしたのだ。そうでもなければ、元死喰い人でマグルと関わりを持たない男が、生粋のマグルである義父と親しくしているはずがない。
ここ数年の、セレネに対して一歩引いた余所余所しい態度から考えるに、そのことを彼自身も気づいているのだろう。
故に、彼の杖捌きには余計な感情が入っていない。
もっとも、卓越した閉心術の使い手という事実もあるのだと思う。
『襲え』
セレネは蛇たちに命令すると、そのままニワトコの杖を大きく振り上げた。
周囲の風を巻き上げ、砂塵でスネイプの視界を奪う。これで、彼はどこから蛇が飛んでくるのか分からない。
『コンフリゴ‐爆発せよ』
ところが、スネイプは爆発呪文を唱え、周囲の空気を一斉に爆散させる。その風圧に巻き込まれ、蛇も宙を飛び、セレネも後ろに飛ばされそうになった。足に力を入れ、踏み止まる。が、そうこうしている間にも、スネイプの攻撃が畳みかけてくる。セレネは向かってくる閃光を防ぐべく、盾の呪文を前方に集中させ、なんとか身体を防御する。
ニワトコの杖でなければ、この防御は間に合わなかっただろう。
セレネは落下する蛇を煙へと変化させた。そのまま煙を粘土のように丸め、あっという間に青々とした宝石へ姿を変える。
スネイプが一瞬、眩い光を醸し出す宝石に目を奪われた隙に、セレネは地面を蹴り飛ばし、急速に接近する。
「『エバネスコ‐消えろ』」
スネイプの杖めがけて、消失呪文を唱える。
単なる武装解除では打ち負かされてしまいそうなので、杖だけを消してしまうことにした。
「――っ、『エンゴージオ‐肥大せよ』!」
だが、やはり一筋縄ではいかない。
スネイプは間一髪で手近な石を蹴り上げ、大きな盾のように肥大させる。消失呪文は石に激突し、石が空気に溶けるように消えていった。石の盾が消えるか消えないかのところで、スネイプは貫くように呪文を告げた。
「『セクタムセンプラ‐切り裂け』」
それは、一際鮮烈な光だった。
詠唱ありの呪文は鋭く、セレネはステップを踏むように避けていく。今まで自分の立っていた地面に刻まれていく爪痕じみた裂傷。あまりにも鋭い一撃に、セレネは頭の片隅で「あれを真面に受けたら死ぬな」と確信した。下手な失神呪文を受けるよりも質が悪い。
「宝石で目を逸らさせるとは、らしくない」
「ええ、物真似ですから」
魔眼蒐集列車で共に戦った女の子を思い出しながら、セレネは次の呪文の準備をする。
あの子みたいな格闘戦は、自分には難しい。華麗に優雅に見惚れるまでのプロレス技を披露できるとは思えず、それが大の男であるスネイプに通じるとも思えない。直死の魔眼と組み合わせた純粋な格闘技をするには、それ相応の目逸らしが必要になってくる。
だから、そのことは一旦、棚に置くことにした。
けれど、宝石というのは、我ながらに良いアイディアなのではないかと思った。
「それっ!」
セレネは落下した宝石をキャッチすると、そのままスネイプめがけて投擲する。
セレネの放った宝石は空中でナイフへ変化し、スネイプへ襲いかかった。当然、その程度の攻撃がスネイプに通るわけがない。スネイプはナイフを杖一振りで弾き飛ばすと、数本のナイフと瓦礫を固め、岩のゴーレムを鋳造した。
ゴーレムは重厚な剣を携え、セレネに向かって地響きをたてながら近づいてくる。
その背後から、スネイプが散弾のように失神呪文を放ってきた。セレネはゴーレムに向かって駆けだす。
「っ……!!」
失神呪文が肩を掠めた。
気絶させるほどの痛みが左肩に白熱する。
だけど、足を止めるわけにはいかない。とはいえ、あれほどのゴーレムを変身させたり、ニワトコの杖で破壊するための魔力がもったいない。
「ったぁ!!」
セレネは痛みから立ち直り、すぐに攻撃を仕掛ける。
目前に迫る凶器に奔る線を、セレネはニワトコの杖で一気に切り裂いた。
重厚な剣の一部が崩れたが、まだ全部の線を切り裂いたわけではない。残った部分で圧し切ろうとしてくる。だが、攻撃を止める程度には十分だった。
剣の風圧がセレネの黒髪を浚ったが、攻撃までには至らない。
「これで、どうです!」
セレネはゴーレムの懐に潜り込むと、全力で線の中心めがけて杖を突きあげた。
ゴーレムは崩壊の音を木霊させながら、セレネの頭の上で崩れ落ちる。ゴーレムの残骸をセレネは雨に変え、自分に当たる直前で、雨の雫を全て前方に集中させる。
セレネの眼前に、ぷかりと水の球が浮かび上がった。
水の球を意識しながら、別の呪文の準備をする。
「『ネビュラス‐霧よ』」
スネイプの周囲一帯が薄らと霧で覆われる。
こんどは爆風で飛ばせる量でもなければ、その程度の質でもない。
セレネは左手をポケットに突っ込むと、いつも持ち歩いている例の石を数個取り出す。その間、ニワトコの杖を操りながら、水の球を水流へと変化させた。
「それっ!」
セレネは水流に石を向かって投げると、石の数だけ水流は分裂し、さながら東洋の龍のようにスネイプの周囲を回り始める。
水龍は、それぞれ一匹につき一人ずつセレネ・ゴーントの姿を映し出し、スネイプにセレネが分身して周囲を囲まれたかのように錯覚させた。
スネイプは、セレネが龍の外側から見ているということも知らず、幻影に呪文を放っていく。失神呪文、妨害呪文、武装解除の呪文――……
「……そういうことか」
スネイプは、先ほどの強烈な切断呪文で幻影の一つを切り裂いたとき、納得したような声を上げた。
どうやら、トリックがバレたらしい。もともとたいして時間は稼げないと思っていた。セレネがそんなことを考えながら外側から眺めていると、次の瞬間、スネイプは飛んだ。黒いマントを蝙蝠のように羽ばたかせながら、空高くへと舞い上がる。彼は霧も水龍もついてゆけないほどの速度で飛び上がると、下に向かって
「『フィニート‐終われ』!」
強烈な終了呪文をかました。
セレネの生み出した霧も水龍も一斉に吹き飛ばされ、あたり一帯が水たまりになった。セレネが水龍に組み込んだ石は、からんと音を立てて地面に転がった。
「『アクシオ‐来い』」
セレネは石を手元に集めると、夜空を背に浮かぶ先生に視線を向けた。
「お見事です、先生。もう少し、解くのに時間がかかるかと思いました」
「その魔法の本質は、霧に取り組んだ敵を攪乱させ、同士討ちをさせるものだろう?
我輩1人相手に使う呪文ではない」
「……確かに、そうかもしれませんね」
セレネは不敵な笑みを浮かべた。
敵の代わりに、自分の姿を反射させたが、あまりにも動かず、敵対行動を示してこなかったことが、仇となったのだろう。
まあ、それでも構わない。
当初の目的は達成できた。セレネは懐からナイフを取り出した。
「さて、まだやるかね?」
ヴォルデモートが指定した時間が迫っている。
スネイプとしても、ここで終わらせたいところなのだろう。セレネに引かせようとしているのは、彼にわずかに残った名付け親としての恩情なのか、それとも別の何かなのか。
「君自慢の魔法はことごとく敗れ去った。我輩と戦うのは時間の無駄ではないのかね?」
スネイプはとんっと地面に足を付ける。
このまま空中戦へと洒落込むのは、時間の無駄だと両者ともに理解していた。
「いえ、無駄な時間などありませんでした」
セレネはナイフと石を軽く投げる。
スネイプはすぐに盾の呪文を展開したが、その必要はない。セレネは石もナイフも、自分の顔の高さまで放り投げた。そして、それらが宙に留まっている隙に、ニワトコの杖を振るう。
「『リクェチェームス‐溶けろ』」
セレネの呪文と共に、石がナイフの刀身に溶け込んでいく。
セレネが作り上げたパラケルスス版の賢者の石。
不死の力を与える石ではなく、魔力や呪文を吸収する程度の効果しかない石だ。否、それこそが、パラケルススが生み出した賢者の石の神髄だ。
この賢者の石は確かに、ニコラス・フラメルのように不死性を与えることもできなければ、黄金を生み出すこともできない。
だがしかし、この石は、敵対者の放った魔力を即座に解析、対応、侵食し己の物として奪い取ることができる。さすがに、死の呪いを吸収したら容量オーバーで割れてしまうが、それ以外の呪文なら耐えて、石の内部に溜め込むことが出来る。
「さて、これで終わりにしましょうか」
セレネはナイフを右手でキャッチする。
ただのナイフは、これでちょっとした魔法の礼装へと変化を遂げた。発動の鍵は、本で知っている。あとは、その呪文を詠唱するだけだ。
スネイプの前で、賢者の石を披露したことはない。
彼にはセレネが何をしようとしているのか、理解することさえできないだろう。だが、セレネが勝利に辿り着く何かをしていることは察したらしい。
スネイプは盾の呪文を解くと、周囲の瓦礫を片っ端から浮き上がらせ、一斉にセレネめがけて打ち放ってくる。セレネに避ける暇はない。避ける時間も盾を構築する時間も惜しい。
セレネはナイフを前に突き出すと、ありったけの魔力を込めて叫んだ。
「真なるエーテルを導かん。我が妄念、我が想いの形――ッ!!」
パラケルススの想いを込めた賢者の石を取り込んだナイフ。
それは、きっと彼の思い描いたものとは雲泥の差。実戦で使うのは初めてだし、練習だってしたことがない。ぶっつけ本番、やっつけ仕事の礼装で、とにかく魔力をこめただけの一撃。間違いなく、真作の100分の1にも満たない贋作だ。
だがしかし、雑な贋作とはいえ、一応は設計図通りの品物だ。
真作の100分の1の力を発揮することはできる。
魔剣と化したナイフの周囲に五色の弾が浮かび上がり、目を疑う速度で回り出す。
そして、セレネは瓦礫が目前に迫った次の瞬間、
「『元素使いの魔剣』!!」
贋作礼装の名を力いっぱい叫んだ。
五色の弾が刀身の先で纏まると、強烈な光をスネイプめがけて発射する。彼の繰り出した瓦礫は光の前で塵となり、スネイプが慌てて展開した盾は貫かれた。セブルス・スネイプの身体は哀れにも、そのまま城の方まで弾き飛ばされた。スネイプのちっぽけな身体が城壁に激突し、そのまま動かなくなるのが見える。
「……ごめんなさい、スネイプ先生」
セレネは淡々と謝罪を口にする。
セレネの目が確かなら、激突する直前、わずかに杖を動かすのが見えた。たぶん、クッション呪文で衝撃を緩和させたのだ。だから、きっと息はあるのだろうが、あの勢いで激突したのだ。前線復帰は困難だろう。
その様子を遠目から確認していると、くらりと視界が揺れた。
「ッ、……思ったより、吸われた……」
セレネは地面に膝をつく。
吐き出す息が荒い。残り魔力はわずか。
初めて創り出したパラケラススの神秘は、セレネからごっそり削るように魔力を吸い取っていった。ナイフの刀身から力を失った賢者の石が、ころころ地面に転がり落ちる。
つまり、贋作の宝具はただのナイフに戻ったというわけだ。
さすがに、贋作とはいえ、無茶な技をしたせいか、刀身に少しヒビが入っている。
ただのナイフをポケットにしまうと、次の戦闘に思考を切り替える。
「さて、次は貴方の番ですよ」
セレネはハリーがいた方向に目を移しながら、失神呪文を放った。
あっけなく倒れるかと思ったが、ハリーはすぐに右へよけ、赤い閃光を放ってきた。
セレネは、軽々と彼が放った赤い閃光を弾き飛ばすと、ハリーを睨み付けた。
そこにいるのは、先ほどまでの虚無感を漂わせた弱弱しい姿ではない。ハリーは鋭くこちらを見据えている。その表情は、戦士と言っても過言ではない。
「セレネ、僕は君に殺されるわけにはいかないんだ」
「残念。私は貴方を殺さないといけません」
ハリーはスネイプとの戦いを見て、心に火が付いたのかもしれない。
だが、所詮は、ハリー・ポッターに過ぎない。セレネは呆れたように笑いかける。
「今の戦いを見て、私に勝てると?」
「やってみないと分からないだろ? 『エクスペリアームス‐武器よ去れ』!」
ハリーは馬鹿の一つ覚えみたいに、武装解除の魔法を放ってくる。
セレネはニワトコの杖を軽く振って弾き返すと、何もない所から縄を出現させた。呪文を唱えることなく、生まれたばかりの縄をハリーに向かって奔らせる。
「『インセンディオ‐燃えろ』」
ハリーは縄を炎で燃やした。
彼が変身術で瞬時に物を変身させることができないのは、よく知っている。つまり、彼の行動はセレネの思う壺だ。セレネはその炎を操り、火の縄のように彼の周囲で回転させた。
「5年生の時を思い出しなさい。貴方は、私に絶対に勝てない」
そう言いながら火の輪を狭め、ハリーの身動きを封じにかかる。
ハリーは苦しそうに顔を歪めたが、それでも、緑の瞳に闘志を宿したまま杖を振った。
「『インペディメンタ‐妨害せよ』!」
ハリーは火の輪を吹き飛ばし、すぐにセレネへ杖を向けてきた。
瞬間、セレネのくるぶしが見えざる手に捕まれ、強制的に浮かび上がる。
どうやら、ハリーは無言呪文で身体浮遊の魔法を使ったらしい。
「これで、勝ったつもりですか?」
セレネは笑みを浮かべたまま、反対呪文で地面へ舞い降りる。
ハリーが無言呪文を不得手にしていることは、授業でも明らかだった。身体浮遊は成功したが、他はどうだか分からない。
「終わりです」
「ハリー!!」
セレネが呪文を放とうとすると、誰かの叫び声が耳を貫いた。
素早く目を奔らせれば、遠く離れた城の入り口から、ちっぽけな影がわらわらと飛び出してくる。スネイプが城壁にぶつかった衝撃で、外で戦闘が行われていることに気付いたのかもしれない。
「さすが、ハリー・ポッター。悪運が強いですね」
おそらく、城から出てきた援軍は、セレネに味方してくれない。十中八九、ハリーに加勢し、こちらに敵対してくるだろう。
もっとも、加勢してくるダンブルドア軍団程度、一人で十分相手に出来るが、その隙にハリーが禁じられた森へ走っていく可能性があった。
ハリーに逃げ出されては困るし、今はダンブルドア軍団や大人の魔法使いを相手にしている時間が惜しい。
ヴォルデモートが指定した刻限が迫っている。
その前に、この戦いを終わらせたかった。
ハリーは運だけは強い。
それを覆すには、自分の何かを捨てる必要がある。セレネは覚悟を決めるように、深呼吸をした。
「セレネ、引いてくれ」
「では、これで最後にしましょう」
セレネはハリーに向かって駆けだした。
どうせ、ハリーを殺すには、彼に蔓延る線を斬らないといけない。杖を持っていようとなかろうと、接近する必要があった。
「――ッ、『エクスペリアームス』!」
この期に及んでも、ハリーは未だ武装解除を放ってくる。
馬鹿の一つ覚えとはこのこと。本当に哀れな雑魚だ。世界最強のニワトコの杖を前にして、2年生の決闘クラブで習った程度の勝ち目があると思っているのが不思議である。
「ハリー!!」
そろそろハリーと接敵するという時に、ハーマイオニーの鋭い声が飛んできた。
その声を合図に、雨嵐と言わんばかりの魔法が降ってくる。ハーマイオニーの強力な呪文を一瞥し、その方向に限定して、盾の呪文を展開する。
そう、その一瞬。
わずかに気を逸らした、一瞬だった。
「『エクスペリアームス』!!」
ハリーの放った赤い閃光が、セレネの右手に直撃する。
「……えっ?」
セレネの思考が、空白に染まる。
呆けたように口を開き、宙を舞う杖を視界の端に収めた。
「セレネ、君の負けだ」
ハリーが勝利を宣言する。
ニワトコの杖は、セレネの手から失われた。
あと、数歩のところで、杖が消える。
セレネは唇を血が出るほど噛みしめ、諦めずに足を踏み出した。
「……油断大敵、ですよ!」
ムーディの口癖を叫び、右手でしまったばかりのナイフを、そして、もう片方の手で使い慣れた沙羅の木の杖を引きずり出す。
「『フリペンド‐撃て』!!」
セレネの放った衝撃呪文がハリーの胸に直撃する。
彼との距離は、十歩とない。ハリーは防ぐことが出来ず、仰向けになって倒れた。
その間も、セレネは走った。
なにをするべきなのかは、十分すぎるほどわかっている。セレネはハリーに駆け寄って、その無抵抗な身体に圧しかかった。セレネは馬乗りになって、ナイフを振り上げる。
「……セレ、ネ……」
緑の瞳が、セレネを映している。
殺す。
ここで、殺す。
ハリー・ポッターを殺さないといけない。
彼を殺さないと、ヴォルデモートの不死性は取り除かれない。
ハリーと紡いだ記憶が、蘇る。
最初は無関心。
あのマグルの公園で出会ったとき、こんな長い付き合いになるとは思ってもいなかった。
彼を利用しながら戦って、5年生の時は肩を並べて戦って、つい数時間前だって、一緒にグリンゴッツを攻略したし、必要の部屋でレイブンクローの髪飾りを壊した。
不必要な会話は、たぶんなかった。
だいたいどれも会話の内容といえば、ヴォルデモートのことばっかり。
ああでも――……
一緒に、ハンバーガーを食べた。
一緒に、スラグホーンのパーティーに行った。
あの一瞬は、少し楽しかったかもしれない。
心が微かに弾んだような気がする。
これといって、そこまで悪い思い出なんか、1つとしてなかった。
『―――ッ!!』
臓腑を抉られる葛藤に追い打ちをかけるように、大切な人と交わした言葉が耳の奥で蘇る。
そう、大切な人。
セレネ・ゴーントにとって、大切な人たちとの約束が頭で響き渡っている。
ずっと心に背負ってきた願いが消えることなく、永遠に木霊している。
「……うん、だから私は……」
いつかの約束に答えるように、セレネは呟いた。
大切な人との約束は、絶対に守りたい。
けれど、大切な人たちがヴォルデモートに殺されるのは絶対に嫌だ。だから、ヴォルデモートを殺そうと決めたのだ。
そのことを想起するだけで、心がナイフで幾重にも引き裂かれたように辛い。いっそのこと、狂ってしまえば悲しみを忘れることが出来るのかもしれない。だが、心を彼岸へ連れて行ったとしても、きっと大切な人たちを失った悲しみは癒えることなく、自分を苛み続けるはずだ。
だから、大切な人たちを護るために、その約束を破却する。
「貴方を殺します」
もう、躊躇いはしない。
これ以上、立ち止まる時間はない。
彼との思い出は、これっきりすべて忘れる。
ヴォルデモートの魔の手から大切な人たちを守りたい。そんなエゴイズムのために、友だちだったハリー・ポッターを殺す。後悔も、懺悔も許されない。後悔しても足りないのではなく、その考えを抱くこと自体が許されないのだ。
人を殺した時点で、もう人として死ぬことはできない。
その罪は一生ついて回り、罰を受けるときが必ず訪れる。
後悔したことで、喪ったものは戻ってくることはなく、これまでのように生きていけるはずがない。常に自分を責め続け、全身を剣で貫かれる以上の苦しみを背負うことになるだろう。
ああ、それでも――……そのおかげで、大切な人たちを護れるというのなら……自分が、喪ったもの以上の煌めきを手にすることが出来なくなったとしても、惜しくはない。
「さようなら、ハリー・ポッター」
いつか、人を殺すと決めたあの時より、ずっと心は静かだった。
あの時に感じていた狂うような熱はもうない。
セレネは彼のうちの「死」に狙いを定め、重い腕を迷うことなく振り下ろした。
自分の静かな哀しみと胸を抉る辛さの先に、きっと大好きな人たちの希望があると信じて。
「……」
抵抗はなかった。
きっかり一撃で、セレネはハリー・ポッターの命を止めた。
次回更新予定は7月12日0時を予定しています。
本作オリジナル魔法
『リクェチェームス‐溶けろ』
物体を溶かす魔法。
文字通り固形物を溶かす他、固形物を液体にして、別の固形物に溶かし入れることもできる。
〇パラケラススについて
リメイク版を構想し始めた当初、蒼銀Fateはこの世に出ていませんでした。
だから「ニコラス・フラメル側じゃなくて、こっちから賢者の石を作ることもできるんじゃない?」という浅はかな考えで書き始めたら、Fateに登場したものだから我ビックリ。
空白期間の間に練り直し、なんとかもっとこの設定を活かせないかなと考え、最終的にこのシーンまで辿り着きました。
後悔はしていない。