スリザリンの継承者―魔眼の担い手―   作:寺町朱穂

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78話 雲泥の差

 セレネがリビングに足を降ろして、最初に目撃した人物はリータ・スキーターだった。

 

 どこか嬉しそうに微笑んだ彼女が緑の閃光に包まれ、後ろへ仰け反るように倒れていく。彼女の後ろには、恐怖で目を見開いた義父の姿があった。

 リータ・スキーターが死の直前に何を思ったのか、セレネには推測することができない。

 

 だが、自分の命令通り、命を賭して義父を守ってくれたのだ。

 それは嬉しくもあり、彼女の命を散らしてしまったことに対しての罪悪感が込み上げてくる。

 

 ただ、彼女の死を悼む暇はない。

 

 ヴォルデモートが、怯える義父めがけて再び杖を振ろうとする。

 どの呪文が来るかは、考える前でもない。セレネは自分のポケットに入っていた賢者の石を取り出すと、ヴォルデモートが呪文を唱える前に投げ飛ばした。

 

「『アバダケダブラ』」

 

 案の定、ヴォルデモートが放ったものは『死の呪い』だった。

 緑色の閃光が、固まる義父の心臓めがけて奔り出す。

 しかし、間一髪。セレネの投げた賢者の石が緑色の閃光に衝突した。パラケルスス版の賢者の石は死の呪いを吸収すると、ぱんっと軽やかな音を立てながら弾け消えた。

 

「こっちですよ、サイコパス!!」

 

 セレネは杖を引き抜くと、ヴォルデモートの背中に狙いを定めた。

 ここでようやく、サイコパスもセレネが到着したことに気付いたらしい。鼻のない顔はこちらを振り返ると、にたりと嬉しそうに笑っていた。

 

「ようやく御到着か」

「こんばんは、蛇男さん。ドアベルは鳴らしましたか? まさか、ずかずかと了承もなしに侵入したのではありませんよね?」

 

 セレネは平然とした口調で話しかけていたが、内心はかなり焦っていた。

 魔眼殺しを外し、直死の魔眼でヴォルデモートを見るが、死の線を視ることができない。つまり、まだ全ての分霊箱を破壊しきれていないということだ。

 

 破壊した分霊箱は三個。

 三個も破壊したのに、殺し足りていないと目の前の身体が言っている。

 

「それでは、まるで薄汚い押し入り強盗殺人ではありませんか」

 

 だから、殺せない。

 まだまだ、ヴォルデモートを殺すことができない。

 ここは、義父を連れて逃げるしかない。そのためには――……と、脱出の頼みの綱、ウィンキーにそっと目を配らせようとして、はたと気づいた。

 

 屋敷しもべ妖精の姿が、どこにも見当たらない。

 

「よくしゃべるではないか」

 

 サイコパスは口が裂けそうなくらい笑みを浮かべている。

 そのヴォルデモートの背後には、義父の姿が見える。真っ青に顔を青ざめながら、リータの頭を抱きかかえている。セレネとしては、今すぐにでも義父のところへ駆け寄りたい。だが、その目前にヴォルデモートがいる。ヴォルデモートは、セレネが通り抜けることを許すはずがない。 

 

「ここに来たのは愚かだったな。俺様にみすみす魔眼を渡しに来ようとは」

 

 どうにかして、隙を作らなければならない。

 

「それはこちらの台詞ですよ、ヴォルデモート」

 

 セレネは杖を構えたまま、ヴォルデモートに話しかけ続けた。

 

「クリスマス・イヴに私の義父を狙うなんて……パーティーには誘われなかったのですか? それとも、誘われなかったから人様のパーティーにお邪魔しようとしたのでしょうか?」

「貴様こそパーティーに興じていればよかったのではないか? 血の繋がりもない汚らわしいマグルを助けるなど、愚の骨頂ではないか」

 

 二人とも同じタイミングで笑った。

 そして、次の瞬間、互いの表情が真顔になり、ほぼ同時に杖から呪文が放たれる。赤い閃光と緑の閃光は中間点で激突し、四散した。

 

「お父さんを侮辱するな、トム・リドル」

「人間もどき風情が粋がるなよ、セレネ・ゴーント」

 

 ヴォルデモートの杖からは再び緑の閃光が奔る。セレネも渾身の魔力を込めた失神呪文を放った。赤と緑の閃光は激突し、今度は四散せずに空中でせめぎ合っている。今までに経験したことがないくらいの圧力だった。何キロもある像に腕が押し潰されるような程の圧を感じる。それを懸命に押し返してはいたが、圧し負けるのは時間の問題だ。圧し負けたが最後――どうなるかは想像するまでもない。パラケルスス版賢者の石があれば話は変わってきただろうが、スラグホーンのパーティーに参加するつもりの服装だったので、1つしか持っていなかった。その1つも先ほど砕けたばかりである。

 

 つまり、死の呪文を防ぐためには、避けるか、直死の魔眼に頼るしかない。

 

「――ッう」

 

 緑の閃光が、少しずつ自分に近づいてきているのが分かる。

 もうそろそろ限界だ。閃光を断ち切らせ、横に跳ね跳んで躱すか、それとも――。と、セレネが考えを巡らせていた時だ。ヴォルデモートの背後に何かが光った。包丁だ。しもべ妖精のウィンキーが包丁を握りしめて、ヴォルデモートのうなじあたりを狙っている。

 

「旦那様と、奥様と、坊ちゃまの仇!!」

 

 ところが、あと一歩で首筋を断ち切るといったところで、邪魔が入った。

 ヴォルデモートの飼い蛇であるナギニがどこからともなく現れ、しもべ妖精に噛みついたのである。ウィンキーの悲鳴を聞いて、ヴォルデモートは呪文を消すと、後ろを振り向いた。

 

「しもべ妖精ごときが、俺様を殺せるとでも?」

 

 セレネはヴォルデモートの視線が自分から逸れた隙に、義父へと駆け寄る。

 

「セレネ……君は、いったい、どうして?」

「リータから連絡を受けました。早く逃げましょう」

 

 どうにかして、ホグワーツまで逃げればこっちのものだ。

 距離的にはロンドンの魔法省でも良いかもしれないが、あちらには死喰い人が潜り込んでいる可能性が高い。ダンブルドアの庇護下にあるホグワーツが一番安全だ。いま、ダンブルドアは留守にしているみたいだが、頼りになる教授陣が大勢いる。そこまでは、ヴォルデモートも追って来ることはないだろう。

 

「おまえが、いなければ……おまえが、いなければ、だんなさまも、おくさまも、ぼっちゃまも……」

「ああ、老いぼれクラウチのところのしもべ妖精か」

 

 ヴォルデモートは蛇に噛まれながら血を流すしもべ妖精に夢中だ。

 こちらに意識はさほど向いていない。セレネは義父の手を取ると外へ行こうとした。

 

「動くな、ゴーント」

 

 セレネの足元で失神呪文が爆ぜる。

 ヴォルデモートはしもべ妖精の頭を足蹴りすると、こちらに視線を向けた。

 

「俺様はお前に用があるのだ。そこのマグルはお前をおびき寄せるための餌にすぎん」

「……残念ですが、私の方は貴方に用がないんですよ」

 

 セレネは、義父を庇うようにヴォルデモートと向かい合った。

 

「それとも、ここで殺してほしいですか?」

「俺様は死なない。その眼で視えているのだろう? 俺様は死なないと」

「さあ、どうでしょう? この眼は規格外ですから」

 

 セレネは強がってみせたが、おそらくハッタリだとバレている。ヴォルデモートは余裕ぶった態度を崩さない。裸足の足元に蛇を侍らせ、優越感に浸ったような笑みを浮かべている。

 

 実力の差は明白。

 敵は、史上最低最悪の闇の魔法使いと大蛇。

 それに引き換え、こちらは学生とマグルの一般人。

 まさに、戦績も実力も雲泥の差だ。しかし、こちらが泥ならば泥らしく、精一杯足掻いて生き残ってやる。セレネは覚悟を強く抱いた時、耳元で義父の声が聞こえた。

 

 

「……セレネ」

 

 横目で見ると、義父はまっすぐセレネを見ている。怯えの色は強く残っていたが、それを隠そうと努力しているようにも見えた。

 

「殺しは駄目だよ」

「今、ここで言うことですか!?」

 

 セレネは驚き、ヴォルデモートから目を離してしまう。

 まじまじと義父を見そうになったが、一瞬の隙が命取りだ。すぐにヴォルデモートに視線を戻す。

 

「お父さんの目は節穴ですか。あいつは私たちを殺そうとしているのですよ? 見ましたよね、あいつが何をしでかしたのか」

「うん、見たよ。全部見た。そのうえで、殺すのはいけないよ」

 

 義父はしっかりとした口調で言い放つ。

 それをヴォルデモートも耳にしたのだろう。小馬鹿にしたように笑い始めた。

 

「滑稽だ。殺すのはよくない、だと? ダンブルドアならいざ知らず、マグル風情がこの状況で口にするとは、人死にを目にした恐怖で頭がいかれたか?」

「いや、僕の信念さ」

 

 ヴォルデモートの見るものを恐怖させる赤い瞳に睨みつけられているにも関わらず、義父の声色はやや強張っていたが、恐怖で震えてはいなかった。

 

「君は暴力でしか己を支えられないのだろう? ならば、これから、よりよく生きるために努力することができる。

 もちろん、殺人は悪だ。罪には罰を受けなければならない。魔法の世界にも法はあるのだろう?」

 

 これには、皆が黙り込んだ。

 しん、と部屋が静まり返っている。蛇のナギニですら舌を出すのをやめ、馬鹿な物でも見るような目で義父を見ていた。

 

「貴様は……つまり、俺様に生き方を見直せと言いたのか?」

「もちろんだよ。だって、どんな理由があっても人を殺すのは駄目だろ?」

 

 義父は酷く真面目に言っている。

 否、違う。確かに真面目に言っているが、それは今言うべきことではない。むしろ、格下の者からの正論は、相手を逆上させる恐れがある。それは義父にだって分かっているはずだ。それにもかかわらず、ヴォルデモートを説き伏せるように語り続ける理由は、きっと時間を作るためだ。

 

「悩みごとを暴力で解決するのは紳士的ではないって、小学校で習わなかったかな」

 

 おそらく、セレネ・ゴーントを逃がすための時間を作るため。

 ヴォルデモートは「セレネに用がある」と明言している。だから、愛娘を逃がすために語り続けている。その証拠に、自分の方がセレネより前に出ようと歩み始めていた。

 

「人殺しを禁ずることが法律で定められているから、殺してはいけないって言う人もいるよ。それは当然のことだ。だって、法律とはみんなで守ろうと決めた約束事なんだ。約束を破ったらいけないってことも、きっと習ったと思うよ。 

 それとも……君たちの世界では、そんな初歩的なことも学ばないのかな?」

「随分なご高説だ」

 

 ヴォルデモートの額に筋が浮き上がってくるのが見える。ひくひくと口元が動いている。裸足ゆえに足の指に力が入る様子がよく見えた。

 セレネは無言であるモノを呼び寄せる。かちゃかちゃと音を立てながら、ドアの向こうで呼び寄せたものが近づいてくるのを感じながら、ヴォルデモートを睨み付けた。

 

「しかしながら、マグルの凡人。その法律とやらはマグル同士、もしくは魔法使い同士の間でのみ生じる約定だ」

 

 ヴォルデモートは怒りを押さえつけるように息を吐くと、嘲笑うように口を開いた。

 

「マグルよ、お前が大事に大事に守ろうとしている小娘にそれは当てはまらない」

「――ッ!!」

 

 セレネは反射的に呪文を放っていた。

 ヴォルデモートは杖の一振りで金縛り呪いを吹き飛ばす。ますます愉快そうに、笑みが深まっていくのが気に入らない。

 

「行儀が悪いぞ、小娘。図星だからといって、相手の口を塞ごうとするなど――……」

「『ペトリフィカス・トタルス‐石になれ』!」

 

 ヴォルデモートの言葉を遮り、セレネははっきり詠唱し、杖から鋭い閃光を放つ。

 今度こそ届くかと思ったが、ヴォルデモートに当たる直前にナギニが庇うように身を挺する。確実に金縛り呪いはナギニに命中した。けれども、ナギニは何事もなかったかのように平然と舌を出し入れしていた。この予想外の事態に、セレネの動きが止まった。

 

「嘘でしょ? 呪文が効かない!?」

「まったく理解が悪い小娘だ、いや……ホムンクルス」

「……ホムンクルス?」

 

 義父がヴォルデモートの言葉を呟き返す。 

 セレネは自分が金縛りの呪いにかかったような気がした。それを見たヴォルデモートは意地悪そうな笑みを浮かべたまま、蛇のような舌で真実を語り始める。

 

「そうだ。お前が十数年育てた奴はヒトではない」

「違う」

「メアリー・スタインによって作り上げられたホムンクルスだ」

「違う!」

「貴様が守る価値すらない、人もどきだ」

「私は人間だ!」

 

 セレネは叫びながら杖を振るおうとする。

 ところが、ヴォルデモートが杖を振ると口が縫い付けられたように閉じてしまう。『シレンシオ‐黙れ』を無言で放ったのだと頭で理解できていたが、無言で終了呪文を念じても解ける気配がない。セレネが呪文を解こうと悪戦苦闘している間にも、ヴォルデモートはねっとりとした言い方で真実を紡いでいく。

 

「メアリーの実子どころか、人造人間だ。

 マールヴォロの骨から生まれたホムンクルスと、どこぞのマグルの卵子から生まれた『フラスコの中の小人』だ。そいつは、お前を17年間騙し続けて来ていたのだ。

 しかも、そいつの眼を見ただろ? その眼は『直死の魔眼』といってな、人の死が見える恐るべき魔眼だ」

「……」

 

 義父のクイールは何も答えない。

 セレネはヴォルデモートを睨み付けることしかできなかった。真実を知った義父がどうするか分からなくて、怖くて彼の顔を見れなかったとも言える。 

 

「さて、マグルよ。俺様は歯向かう者は殺すが、無駄な殺しはしない。

 そこの詐欺師を俺様に渡せば、殺しはしないと約束しよう」

 

 ヴォルデモートは明らかにセレネを精神的に痛めつけようとしている。

 もちろん、反マグルのヴォルデモートがクイールを生かすわけがない。自分は手を下さず、ナギニ辺りに処理させるのだろう。

 

「ヴォルデモート卿は嘘は言わない。そこのホムンクルスと違ってな」

「……そうか、セレネはホムンクルスだったのか……」

 

 でも、今の自分が義父に何を言っても意味がない気がした。

 義父は真実を知った。

 セレネ・ゴーントにまつわる真実を知ってしまった。

 その彼が何を選択するのか、自分には口を挟むことができない。無論、セレネとしては最後まで彼を守るつもりだ。たとえ――……義父に捨てられたとしても、彼が今まで注いでくれた愛情には変わりない。むしろ、それに報いるために彼を守り切り、彼から罰を受けよう。

 

「だから、ずっと悩んでいたんだね」

 

 ところが、かけられた言葉は予想よりずっと優しい物だった。

 ぽんっとセレネの頭に温かな掌が乗る。セレネは目を見開いてしまった。おそるおそる義父の顔を覗き込むと、目じりを和らげて微笑んでいる。

 

「たとえ、君がメアリーの子ではなくても、ホムンクルスであっても、きっと、僕とメアリーとのつながりが偽りの記憶だったとしても、セレネが17年間育ててきた自慢の娘であることには変わらないよ。

 愛する娘を、君に差し出すわけにはいかない」

「……お父さん……」

 

 気が付くと、自分の口元が緩んでいた。

 目元が急に熱くなってくる。わなわなと自分が震え始めるのを感じる。

 

「捨てるわけないだろ、セレネ。大事な子どもを捨てる親がいるわけないだろ?」 

「……そうか、それが答えか!!」

 

 ヴォルデモートの赤い瞳は、怒りで燃え上がっているように見えた。濃厚な殺気という剣を、一気に鞘から抜き払ったかのようだ。肌でぴりぴりと刺すような威圧を感じる。

 どうやら、泣くのは早いらしい。セレネは嗚咽を無理やりねじ伏せると、杖を構えなおした。

 

「ならば二人まとめて死ね!!」

 

 ヴォルデモートが呪文を放つ。緑色の死の閃光を、セレネは杖先で切り裂いた。死の閃光は、存在自体が死だ。他の魔法よりも、少し触れただけで殺すことができる――が、後ろに大切な義父を守りながらでは、防ぐのも数度が限界だろう。

 

「お父さん」

 

 セレネは義父にあることを耳打ちをすると、彼の返事も待たずにヴォルデモートに杖先の照準を定めた。

 

「リドル、あまり怒り過ぎると血管が切れますよ! 『グレイシアス‐氷河になれ』!!」

 

 セレネは杖から氷河のような氷が濁流のように流れだし、ヴォルデモートに襲いかかる。

 無論、ヴォルデモートがただで受けるわけがない。怒り狂った様子で杖を振り、すべて水へと変換させる。ヴォルデモートの身体は氷ではなく水に濡れ、しっかり磨かれた床まで水浸しだ。ヴォルデモートは水をびしゃりと踏みしめると、自分の体を乾かさずに、唸るように杖を振るった。黒い縄が幾本も出現し、蛇のように宙を動きながらセレネの腕を捕まえようとする。

 

 セレネは直死の魔眼で、縄の死を視た。

 杖の先で死の線を切り刻んでいく。黒い縄は二つに裂かれ、次々と地面に落ちていった。だが、そのうちの一組が、まるで意思を持ったように足元から迫ってくる。

 

「しまった!!」

 

 セレネの両手は縛られてしまった。ヴォルデモートが楽しそうに嗤っている。

 

「あっけない幕切れだな、ホムンクルス。そこで、マグルが死ぬのを見届けるがいい」

「そう、簡単に殺されるものですか!」

 

 セレネが叫ぶのと同時に、窓ガラスを破ってあるモノが飛び込んでくる。

 先ほど、呼び寄せておいたものだ。いまの自分にはつかみ取れないが、代わりにクイールが受け取ってくれる。クイールは飛び込んできたものをキャッチすると、すぐにプラグをコンセントに差した。

 

「いけ――ッ!!」

 

 クイールはソレの電源を入れると、ヴォルデモートめがけて投げる。

 おそらく、ヴォルデモートはソレの正体を知らなかったが、武器の類を警戒したのだろう。手で払うように、クイールの投げた物を打ち落とす。

 

 クイールの投げた物――ドライヤーは熱気を出しながら、ぱしゃんっと水浸しの床に落ちた。

 

 水は電気をよく通す。

 そして、電気が人体を通ったとき、電流の大きさ次第では障害を負ったり死に至ったりする場合もある。人を感電死させるには、約50mAあれば事足りるらしい。

 

 さて、いま床はヴォルデモートを中心に水たまりが広がっている。

 しかも、ヴォルデモートは先程の氷河を水に変えたときに、水で身体が濡れている。もっといえば、素足だ。彼の素足はドライヤーが落ちた水に浸かっている。

 

「水に落ちたドライヤーは漏電。かくして、240ボルト以上の電圧が襲いかかるというわけです」

 

 セレネが縄抜け呪文で脱出したとき、ヴォルデモートは感電し、両足が砕けたように座り込むところだった。そのせいで、さらに電気の奔る水に両手が触れ、ますます電流が蛇男の身体を苛んでいく。きっと、ヴォルデモートにとって感電は未知の痛みだったのだろう。そのまま水の中へ倒れ込んでしまう。その行動が、さらに自分を苦しめることになるとは気づきもせずに――。

 

 だがしかし、ここで勝利の余韻に浸る時間はない。

 セレネは義父の手を取ると。外に向かって走り始めた。

 

「ねえ、本当にあれで死なないの?」

「死にません。あいつは、あの程度で死にません!」

 

 本当なら玄関から表通りに出たいが、そちらへ逃げたくても水浸しで自分たちも感電してしまう。

 裏口から外に出て、小さな森を抜けた向こうの通りに出るしかない。だが、分厚い雲が夜空を覆い、森の中は当然、電灯などありはしない。下手に「ルーモス」など唱えるものなら、追跡してくる敵の目印になってしまう。

 

 わざわざ、それをするくらいなら――……

 

「『アクシオ‐箒よ来い』!」

 

 セレネはリータ・スキーターの箒を呼びよせる。

 裏口を蹴り破るように外へ出ると、ちょうどリータ・スキーターの箒「コメット260号」が膝当たりに浮かんで待っていた。

 

「乗ってください、早く!」

 

 セレネは箒にまたがった。後ろに義父が乗り、ぎこちなくセレネの腰に腕を回したことを確認すると、空高くを目指して急上昇した。あっという間に自分の家は小さくなり、ミニチュアか何かのように見えた。さらに高く昇れば、夜の闇も相まって、どの家がそれなのか見分けがつかなくなっていた。まるで地面と夜空が逆転して、自分の足元に星空が広がっているようだった。

 

「このまま『姿くらまし防止呪文』がかけられていない範囲まで飛びます!」

 

 とりあえず、灯りのない森の方へと飛び始める。

 森さえ越えれば、なんとかなるように思えた。そこまで広範囲に「防止呪文」がかけられているとは思えない。少なくとも、この森を越えてしまえば、あとはどうにかなる。未成年の「姿くらまし」は禁じられているが、理論は知っているし、いまは緊急事態だ。難しそうであれば、最悪、このままホグワーツまで飛んでいけばいい。

 

「大丈夫、追いつかれないかな!?」

 

 セレネが森の上を飛んでいると、クイールが話しかけてきた。セレネは前だけ見つめ、吹き付ける風に負けないように叫んだ。

 

「問題ありません! あの男は箒を持っていませんでしたし、いずれにしろ、空にいる者を地上から狙うのは困難です!」

 

 暗い森を灯りという格好の目印を携えて逃げるより、夜空を飛んだ方がずっと逃げ切れる自信があった。

 

「確かに、この高低差だと戦闘機を銃で撃ち落とそうとするようなことかもね!」

 

 セレネは義父の声を背中に感じながら、ぐんぐんと速度を上げていく。ぶつかる風は一段と強くなり、箒の房が雨に打たているような音を立て始めた。

 あと数秒で森を越えることができる、という瞬間だった。

 

「右に避けてッ!!」

 

 義父の叫びが耳を貫いた。

 セレネが慌てて右に身体を背けると、数センチ向こう側を緑の閃光が奔っていくのが見えた。

 

「まさかっ!?」

 

 セレネは後ろを振り返る。

 ヴォルデモートが風に乗った煙のように飛んでくる。箒にも、セストラルにも乗らずに飛んでくる。蛇のような顔が真っ暗な中で微光を発し、白い指が杖を上げるのが見えた。

 

「最、悪ッ!!」

 

 完全に算段が狂った。

 セレネはジグザグに飛びながら「死の呪い」を躱し続ける。この状況では、森の上空を抜けても「姿くらまし」の理論に集中することなんてできるわけがない。

 そもそも、自分は単純に飛ぶことしかできない。クィディッチの選手ほど箒の扱いに熟練していない。飛ぶことに集中していれば、魔法の方が疎かになってしまう。

 たとえ、ホグワーツまで飛び続けようとしても、途中で二人とも落とされてしまう可能性の方が高い。

 

 それならば――……

 

「お父さん、手を!!」

「うんっ!」

 

 セレネは後ろに左手を伸ばす。義父の冷たい指先が硬く握りしめられたことを確認すると、ゆっくり呼吸をする。今この瞬間にも、敵は自分たちに死の照準を定めている。迷っている時間はない。

 

 セレネは覚悟を決めた。

 

「『ヴォラート‐飛べ』!!」

 

 思い切って箒から飛び降り、開発中の飛行呪文を唱える。

 自分で組み立てた魔法理論を頭で構築し、足元に魔力を固めるイメージを強めた。ふわりとスカートが持ち上がったのは一瞬で、その直後、ジェットコースターみたいに急速に落下する――が、急ブレーキをかけたように身体ががくんと止まった。随分と乱暴な停止の仕方だったが、その場に留まることができた。

 何度も練習し、開発に励んだおかげである。

 

 下手に一発本番の危険な呪文を試すより、同じ危険度でも何度も練習した呪文の方が遥かに安全だ。

 

「せ、セレネ。これ、大丈夫なのかい!?」 

「……お父さん、必ず迎えに行きますから、待っててください」

 

 セレネは義父の手を振り払った。

 魔法で浮いている自身はともかく、彼は魔法を使うことすらできない。

 

「セレネッ!?」

「『モリアーレ‐緩めよ』『アレスト・モメンタム‐動きよ、止まれ』『プロテゴ・マキシマ』!!」

 

 目を見開いたまま落下していく義父に、セレネは落下速度軽減の魔法とクッション呪文、そして万が一のための守りの呪文をかける。義父の姿は豆のように小さくなり、暗い森の闇へと消えていった。

 

「マグルを逃がしたか、愚かなホムンクルス」

 

 ヴォルデモートの狙いは自分だ。

 ならば、義父は一旦逃がし、再度ヴォルデモートを無力化する方法を考えた方がいい。殺すことは不可能だが、一時的に動きを止める程度のことはできる――かもしれない。

 セレネはバランスを保ちながら、ヴォルデモートを強く睨み付けた。

 

「まさか単独で飛ぶことができるとはな。その才能、やはり潰すには惜しい」

「あら、見逃してくれるのですか?」

「ヴォルデモート卿は正当に評価する。俺様の手下になれば――……」

「それは断ります」

 

 セレネはきっぱり断る。

 ここまではっきり敵対しているのだ。どうせ、直死の魔眼を摘出され、殺されるのがオチだろう。さもなくば、服従の呪文を使って死ぬまで文字通り人形扱いされるかだ。

 

 それは、自分の理想とは程遠い。

 

 痛いのは苦手だ。苦しいのも嫌だ。

 もちろん死にたくない。『』に満ち溢れた死の世界に落ちるのは、怖すぎてまっぴらごめんだ。

 だけど、ヴォルデモートの言いなりになって生き延びたくもない。

 セレネは、大好きな義父と一緒に生きていきたい。自分のことをメアリーの実子どころかホムンクルスだと知った上で、愛してくれる世界でたった一人の大切な人と一緒に、これからも幸せな時を過ごしていきたいのだ

 その理想を叶えるためには、ヴォルデモートと敵対し、なおかつ、生き延びねばならない。多少、苦しい思いも覚悟の上だ。

 

「そろそろ白黒つけましょうか、サイコパス!」

 

 セレネは一気に高度を上げた。いつの間にか、髪留めが解けていたのだろう。冷たい夜風が、黒髪を吹き抜けていくのを感じた。

 

 安定感はないが、速度だけはヴォルデモートより自分の方が上だ。

 否、ヴォルデモートが面白がって様子見している可能性もなくはない。だとしても、今のところは、自分の方が速く動き回れている。もっとも、この呪文はまだ未完成だ。飛んでいるだけで息が上がるし、どんどん魔力が身体から失われていくのが分かる。

 義父を助けに戻る時間を考えると、あまり猶予は残されていない。

 

 セレネは眼下のヴォルデモートに狙いを定めた。

 

「『フルガーリ‐閃光』!!」

 

 眩いばかりの光が眼前に炸裂する。

 さすがのヴォルデモートも瞬間的に目が潰れること間違いなしだ。その隙に、セレネは次の魔法を準備する。

 

「『エイビス‐鳥よ』」

 

 何匹かのカラスが杖先から飛び立っていく。 

 セレネはカラスを従えたまま、ヴォルデモートがいる場所に急降下した。もちろん、ヴォルデモートもすぐに対応してきた。いまだ閃光が収まっていないというのに、幾本もの赤い閃光がこちらに襲いかかってくる。セレネはカラスたちとそれを避けながら、ヴォルデモートめがけて突貫した。

 風が巻き起こり、重圧で身体がひび割れそうになる。無論、その程度で速度を落とすわけにはいかない。

 

 そして、ヴォルデモートの丁度頭の上に差しかかった時、セレネは夜空に響き渡るような大声で叫んだ。

 

「『エクスパルソ‐爆破』!!」

 

 カラスの一団がヴォルデモートの頭、耳元、目の前で爆発する。

 ヴォルデモートは盾の呪文を展開したのだろうが、あまりにも目の前過ぎて間に合わなかった。当然、セレネも爆風に巻き込まれる。安定性のない飛行呪文は爆風を受けて留まることができない。セレネの小さな身体は、風に吹き飛ばされ落下した。

 

「『フルーマ―羽になれ』」

 

 最後の力を振り絞り、自分に変身呪文をかける。

 セレネの身体は爆風にあおられながら、一枚の黒い羽根になった。周囲の羽と同化すれば、さすがのヴォルデモートも追うことはできないだろうし、運が良ければ義父を守るために自爆したように見える。

 セレネはカラスの羽になり、小さくて、軽くて、風に乗って前後に揺れながら、他の羽と一緒に、ふわりふわりと地面へ落ちていく。

 

 空一面に花火のような爆発が見えた。

 煙の合間から何か白い物が抜け出し、悪態をついているのが見える。いらつきながら辺りを見渡し、なにかを探しているようだった。

 

 

 カラスの羽には脳がない。

 セレネは自分がちっぽけになって、すぐに考えることすらあやふやになっていった。

 

 あの白いものは、なんなのか。

 自分は誰のために戦っていたのか。

 自分はどうしてここにいるのか。

 そもそも、自分は誰なのか。

 セレネは小さく、小さくなっていく思考を手放さないよう必死になりながら、ふわりふわりと暗い森へと落ちていく。

 

 

 幸運なことに、途中で魔力が尽きた。

 

 木々の合間に落ち、空が見えなくなった頃、思考の有無とは関係なしに元の姿に戻ることができた。

 最初に両手が徐々に現れ、肩から腕が延び、足や顔が飛び出し、しまいには落下の寒さに凍り付いた体が現れた。

 おかげで、消えかけていた意識が少しずつはっきりしてきた。

 

 ところが、不幸なことに、羽から元に戻ったせいで、落下の速度は増した。

 

 風の音なのか、それとも、耳鳴りなのだろうか。よく分からない轟音が聞こえる。さらに、羽の時は感じなかった息苦しいまでの重圧が、セレネに襲いかかっていた。

 セレネは杖を振るおうにも、もう力尽きて指一本たりとも動かせないし、魔法を呟くことすらできない。通り過ぎていく木の枝を捕まえようと、指を伸ばすことすらできない。

 おまけに、視界に広がるのは、薄気味悪い死の線ばかりときた。

 

(まったく、こんな時に限って役に立たない魔眼ね)

 

 

 セレネは心の中で悪態をつきながら、数秒後に迫る衝撃を想い、目を瞑った。

 

「――ッ!!」

 

 誰かの鋭い声が聞こえる。

 セレネが驚いて目を開けると、そのまま熱い腕の中に飛び込んでいた。セレネは横抱きにされながら、力なく笑った。

 そこにいたのは、到底信じたがい人物だったのだ。

 

「……まさか、あなたに、助けられる、なんて」

「私も君を助けるなんて、思っていなかった」

 

 

 ぼさぼさの黒い髪を犬のように振るわせながら、その人物――シリウス・ブラックはにやりと笑った。

 

 

 

 

 

 

 




 シリウス・ブラック、戦線復帰。
 そして、リータ・スキーターとウィンキーが退場。
 長い長いクリスマスイブは、次話で決着します。

 
 以下、本作オリジナル魔法です。


『ヴォラート‐飛べ』
 セレネが作った飛行呪文。
 大量の魔力を使う割には、飛行時間が5分程度。今後、セレネの努力次第で改善されるかもしれない。

『フルーマ―羽になれ』
 羽に変身させる呪文。
 基本的には物質を変身させるための呪文だが、今回はセレネ自身に使用した。
 習得難易度的には、ホグワーツでは2年生程度で可能。



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