両面鏡。
遠く離れていても、対をなす鏡に映った者と話をすることができる道具だ。例えるなら、マグルのテレビ電話が一番近いかもしれない。
この鏡をセレネとグリンデルバルドは持っている。リータがフクロウのようにイギリスとオーストリアを何度も往復するには金がかかってしょうがないし、すぐに質問することもできない。だから、秘密の部屋で埃をかぶっていたこの魔法道具を使うことに決めたのである。あの牢獄内で魔法を使えば瞬時に看守へ伝わってしまうらしいが、魔法道具は別らしい。
そのあたりの警備が、若干ぬるい気がする。
「ハリーに対して、あのような接し方で良かったのでしょうか?」
セレネはパイプを伝って秘密の部屋まで移動をすると、ふうっと大きく息を吐いた。
「いつもと大して変わりませんけど」
『まったく問題はない。あのように繊細な少年は、肯定されることを望んでいる』
「……まるで、ハリーみたいな少年を知っているような口ぶりですね」
セレネが指摘すると、グリンデルバルドは鏡の向こうで懐かしそうに微笑んだ。
『100年も生きていると、いろいろな人間と出会うものだ。
常に抑圧されている少年は、たとえ、相手が自分を見ていなかったとしても、望んだ言葉を囁きかければ簡単に踊る』
「……趣味が悪いですね」
『それを実践したお前もだ』
セレネの眉がピクリと動いた。
確かにその通りだ。自分はハリーに甘い言葉をかけ、ダンブルドアの配下から零れてきた情報を手に入れようとしている。ハリーみたいに騎士道精神の強い者であれば、絶対にやらない方法だ。
だが、現状はそれしか方法がない。服従の呪文をかけたり暴力を振るったり、はたまた、リータにしたように真実薬を使ったりと方法がなくはないが、どれもこれも自分に合わない。一番、自分に合う方法が、たまたま手八丁口八丁でハリーを騙す方法だっただけだ。
セレネは頭を振ると、再びグリンデルバルドに向き合った。
「ハリーの言っていた武器とは何でしょう?」
『それを推理するには、私も情報が足りない。推察はできるが……もう少し確定してから話すとしよう』
グリンデルバルドは指を組み始めた。
セレネはその話し方を聞いて、なんとなくホームズを思い出した。だが、彼は決して名探偵ではない。むしろ、ホームズはダンブルドアだ。どちらかといえば、彼はモリアーティ教授である。彼は椅子に座り、自ら動かない。さまざまな情報をもとに思考し、配下の者に作戦を与える。
そこが、快楽殺人鬼である蛇男との大きな違いだ。蛇男は死喰い人に任せることもあるが、自分から進んで殺しを行うことが多い。
『1点だけ確かなことがある。おそらく――ヴォルデモートが一喜一憂していたのは、その武器に関することだろう。その日前後の新聞を読み直した方がいい。なにかヒントが転がっているかもしれん』
「嘘っぱちな預言者新聞に?」
『嘘の中にも真実の欠片が混じっている。新聞記者は関係ないことだと思って載せた記事が、実は関係していたということもありえるのだ』
「……確かにその通りですね。分かりました。新聞を注意して読んでみます」
『そうするといい。……それよりも、報酬の件はどうなっている? そろそろ準備ができそうか?』
闇の魔法使いの目が怪しげに光った。
セレネは彼の目をまっすぐ見ると、ゆっくり口を開いた。
「あと1月はかかります。魔法薬はそろそろ完成するのですが、肝心の魔法の構築を解明するのに手間取ってしまっていまして」
『はやくしてくれ。私が死んでしまうぞ。最近、体調が悪い』
彼は、わざとらしく咳き込んだ。鏡越しにも分かるくらい肌艶は悪いが、無理して話している様子もなければ鼻水もたらしていない。おそらく、ただの冗談だ。この意地悪い老人は、自分が焦り慌てふためく姿を楽しみたいのかもしれない。セレネは平然とした表情のまま、鏡を見下した。
「そうですか、お大事になさってくださいね」
『年寄りを労わらないのか?』
「私は貴方を年寄りと思ったことはありませんよ」
『嘘はいけないぞ、嘘は』
「もちろんです。それでは、おやすみなさい。体調が悪いのでしょう? 夜更かしは健康に悪いですよ」
セレネはそう言うと、両面鏡を秘密の部屋の机にしまった。
本音を言えば持ち歩きたいが、まだグリンデルバルドを完全に信用しているわけではない。余分な情報――たとえば、ダフネやミリセントとの友人関係などを与えるつもりはなかった。
それに、ここに置いておくのが一番安全だ。
『アルケミー、留守をお願いね』
セレネは魔法薬の出来栄えを確認すると、いつもの施錠魔法をかけながら話しかける。バジリスクはするすると近寄りながら、不安そうに話しかけてきた。
『主、あのような者を信用していいのですか?』
『それしか手がないの。貴方の前の主人に勝つためには、方法は選べない』
自分には、ハリーと違い、ダンブルドアもシリウス・ブラックもいない。
グリンデルバルドはその代わりだ。契約で結ばれた関係で、いずれ報酬を支払わなければならない。だが、それでヴォルデモートを打ち負かすことができるなら本望だ。
『そういえば、主。例の試験勉強の話ですが、上手くいきそうですか?』
『ええ、法律の隙間を縫っていけそうよ』
セレネは悪戯っぽく笑った。
『その方法はね――』
「「試験対策クラブ?」」
ミリセントとダフネの声が談話室に響き渡る。
セレネは昨夜、考えたばかりの計画書を二人に手渡した。
「ええ。魔法省指導要領を読む限り、授業での実践は推奨されていませんが、基礎を応用する力を身に着けることは求められています」
「……でも、アンブリッジの授業では絶対に基礎を学べないよ」
ダフネが困ったように首を傾げる。
「その通り。ですが、あれが無理やり基礎であると定義します。では、どこで試験に必要な応用力を身に着けるのか。それは、もう自習しかないでしょう」
「だから、課外活動で学ぶってことね?」
ミリセントが計画書をめくりながら聞いてくる。
「ええ。名目は『試験の対策をするために、応用力を磨くこと』。ですので、カモフラージュとして変身術と呪文学の実技魔法も組み込んであります」
「あっ、だから消失呪文や呼び寄せ呪文があるんだ」
「でもさ、セレネ。これって、アンブリッジが許可してくれるの? あのガマガエル、なんとか尋問官っていうのに就任したんでしょ?」
「高等尋問官ですね」
セレネはテーブルの上に置かれた新聞を横目で見た。
一面には、アンブリッジの嬉しそうな写真が載せられている。彼女は同僚である教師の授業を視察し、しかるべき基準に達していないようなら停職させる権限が与えられたのだ。
だが、彼女に停職させられるような先生は、セレネの知る限り一人しか思いつかない。魔法生物飼育学のハグリッドくらいだ。そのハグリッドも、どういうわけか今学期始まってから一度も姿を見せていない。なので、おそらく彼女が先生たちの授業を査察して終わるだけだろう。
もちろん、高等尋問官殿の権限は、それだけでは終わらないと思うが。
「これは、魔法省指導要領に則った課外活動です。あの女が否定して来たら、それは魔法省を否定していることと同じになってしまいます」
「そっか! だけど、セレネ。それならOWL対策でも良かったんじゃない?」
「これには、NEWT試験も入ってるからです」
セレネは鞄の中からもう一つ、計画書を取り出した。
「聞けば、あの女……他の学年でも同じ授業をしているそうです。もちろん、教科書は違いますが、内容はほぼ同じでした」
「うわぁ……ワリントン先輩たちは可哀そうだね」
ダフネは7年生の先輩たちを憂いた。
あんな授業だけではOWLでも合格が難しくなってくるというのに、倍以上難しい最終学年で受ける試験、通称「NEWT試験」は悲惨どころではない。この間、セドリック・ディゴリーと廊下ですれ違ったときに、防衛術の授業の様子を聞いたところ、「みんな目が死んでるよ」と疲れたように笑いながら教えてくれた。
「先日、7年生のエイドリアン・ピュシーに『試験を合格できるように手伝って欲しい』と泣きつかれてしまいまして。そこで、どうせなら一緒にやってしまおうと『試験対策クラブ』と命名しました」
「あれ? ということは、これってセレネが全部教えてくれるんだよね? 大丈夫?」
「防衛術なら大丈夫です。それで、2人とも参加してくれますか?」
セレネが二人の方を見つめる。すると、ダフネは間髪入れずに頷いた。
「もちろん! 良かったー、セレネが教えてくれるなら安心だよ」
ダフネは手放して喜んでいるが、ミリセントは慎重だった。彼女は、うーんと唸りながら腕を組む。
「まあ、用意周到なあんたのことだから大丈夫だとは思うけど……本当に、アンブリッジの処罰の対象にならないわよね?」
「用心のため、まずはスリザリン生だけでやりたいと思います。アンブリッジは純血のスリザリン生に甘いですから。たとえ処罰するにしても、一度くらいは警告をしてくれるでしょう。
そこで、問題がなければ、他寮の生徒を入れても構いません」
「……たしかに。それは言えてるかも」
ミリセントはにやりと笑うと、セレネの手を握った。
「その話、乗ったわ!」
「ありがとうございます、ミリセント。それから、ダフネも。これで、メンバーは5人ですね」
「5人?」
ミリセントは眉間に皺を寄せると、指を折り始める。
「私でしょ、セレネでしょ、ダフネでしょ。それから、ピュシー先輩で4人じゃないの?」
「ああ、そのことですか。ノットにも入ってもらっています」
「ちょ、ちょっと待て。今の話、初耳だぞ?」
少し離れたところで、ブレーズ・ザビニと話し込んでいた少年が慌てて駆け寄って来た。熱心に話すふりをしながらも、こちらの話にしっかりと聞き耳を立てていたようだ。
「あら、一蓮托生ではなかったのですか?」
「それとこれとは話が別だ!」
ノットは、ちょっと怒ったような顔で見下してくる。
「だいたい、いままで聞いてないぞ。なんで、オレも入ってるんだ!?」
「では、いま言いました。貴方は、アンブリッジの授業だけで試験に合格できると思っていますか?」
「いや……それは、ありえないけどよ……」
「なら、入部しますね。はい、決まりです」
セレネがてきぱきと言うと、彼は「オレに拒否権はないのか」と項垂れている。その後ろから、ブレーズ・ザビニがお腹を抱えて笑いながら近寄って来た。
「セオドール。お前さ、ゴーントの尻に敷かれてるじゃないか。しかも、一蓮托生ってなんだよ。お前、そんなこと言ってたのか?」
「黙れ、ブレーズ」
「黙るかよ、こんな面白いのに。あー、ゴーント。そのクラブ、オレも追加で。構わないよな?」
「……ええ、問題ありません」
そう言いながら、セレネはザビニをじっと観察する。
これまで5年間、同じ寮で生活してきたが、あまり彼と話したことはない。金持ちの母親と一緒に暮らしていることと、高慢、やや女たらしであることくらいしか情報がなかった。親衛隊の集会に参加してないが、かといって、マルフォイ派でもない。適度に中立を保ちながら、互いの派閥争いを笑って見物しているような男だ。
正直、あまり信用できない。
しかし、彼もスリザリン生だ。それなりに家柄もいい。アンブリッジに目をつけられない生徒の一人である。彼を拒む理由はなかった。
「ねぇ、ドラコたちも誘うの?」
ダフネが尋ねてくる。セレネは少し考えるふりをした。
「そうですね。声はかけてみますが……彼ら次第ですね」
マルフォイとパーキンソンたち純血派閥が、セレネ主催のクラブに入るとは到底思えなかった。いくらアンブリッジの授業では試験に合格できないと分かっていたとしても、参加は絶対にしないだろう。
「じゃあ、私から伝えておくよ。とりあえず、パンジーに聞いてみるね」
ダフネはそう言うと立ち上がり、女子寮の方へ去って行った。ミリセントも立ち上がり、その後を追いかける。セレネはしばらくソファーに座っていたが、ぐうっと伸びをすると、「秘密の部屋」へ出かけるために立ち上がろうとした。
「おい、ゴーント」
セレネが談話室を去りかけたとき、ノットが呼び止めてきた。彼の手には、さきほどダフネに渡した計画書が握られている。
「これ、本当に試験対策なのか?」
「ええ、もちろん」
セレネは彼の目を見て話した。彼はしばらく探るようにこちらを見てきたが、やがて諦めたように首を横に振った。
「分かった。オレも参加してやる。お前が危険なことをしないように、見張るためにな」
「ずいぶんと信用されていないのですね」
「当たり前だ、この腹黒女」
彼は吐き捨てるように言うと、ザビニの方へ歩いて行った。
さすがは、親衛隊隊長だ。セレネは少しだけ感心した。彼は、これが単に善意のための企画でないことを見破っている。
セレネは廊下を歩きながら、この企画の真意について思いを馳せる。
もちろん、ダフネたちのために試験の対策をしようと考えたのは本当だ。自分は今、この瞬間に試験が来ても合格できる自信がある。だが、おそらく彼女たちは不可能だ。このままずるずるとアンブリッジの授業のみで防衛術を学び、自分一人だけ合格するのは、なんとなく気が引けた。
それが、表向きの理由。
本当の理由は、彼女たちの防衛能力を実践的に高めるためだ。
自分と仲良くしている以上、彼女たちもヴォルデモートに狙われる可能性がある。せっかく自分が半人間と知りながらも、今までと同じく慕い続けてくれる人たちだ。セレネとしては彼女たちをヴォルデモートの魔の手から守りたいが、いかんせん数が多すぎる。セレネが一人一人を直接守れるわけではない。
つまり、最終的に彼女たちを守るためには、個々の防衛能力を向上させる必要があった。
これは試験対策と称して、実践的に多種多様な呪文を身に着けさせる絶好の機会だ。
しかも、試験対策として何の試験か限定していない。きっと、頭のいいカロー姉妹あたりはすぐに気づくだろう。おそらく、明日辺りには聞いてきそうだ。
『ゴーント先輩。このクラブは、期末試験も含まれるのでしょうか?』
と。
カロー姉妹を受け入れれば、きっと他の親衛隊隊員たちもこぞって参加してくる。あっという間に親衛隊全員が参加する巨大クラブになるだろう。隊員の誰もが試験のために、そして、セレネから直接魔法を学びたいがために入部する。
そして、多種多様な呪文を練習する。
闇の魔法使いたちと渡り合うための防衛呪文を。
さながら、一個の軍隊のように。
無論、アンブリッジからしてみれば看過できない問題だ。
なにしろ、魔法省大臣はダンブルドアが怪しい動き――魔法省を潰すために、生徒たちで私設の軍隊を作っているのではないかと考えている。だから、実践的な防衛術を排した教育カリキュラムを実践しようとしているのに、その真逆のクラブが誕生するのだ。
ところが、そのクラブの所属員はすべてスリザリン生。しかも、ダフネたち「聖28族」に名を連ねる純血一族が数多く所属している。クラブ自体が法律違反になるようなことでもなく、むしろ、指導要領に則った活動だ。無理やり処罰することはできない。
やっている内容も本当に試験対策だ。事前に作成した試験対策のカリキュラム通りに活動を進めていく。たまに時間が余り、「おまけ」と称して、敵に対抗するための戦闘方法や魔法を教えるかもしれないが、それはアンブリッジたちの目がない時にやればいいだけだ。
懸念事項があるとすれば、セレネが三校対抗試合でヴォルデモートを目撃していることに目をつけて
『セレネ・ゴーントが、純血の末裔をたぶらかしているのだ!』
と言われる可能性があることだろう。それを回避するためには、最年長のエイドリアン・ピュシーを書面上のリーダーにすれば問題ない。セレネ・ゴーントはあくまで一介の所属員だ。少なくとも、表向きは。そうなると、もうアンブリッジが付け入る隙は無い。
万が一、ピュシーがリーダーを嫌がれば、そのときは仕方あるまい。他の人選を考えよう。最悪の場合は、親衛隊隊長にリーダーの座を押し付ければいい。余計、アンブリッジはクラブを解散させにくくなるに違いない。
セレネがそんなことを考えながら、3階の廊下の角を曲がった時だった。
「せ、セレネ!!」
廊下を貫くような声をかけられる。
セレネが振り返ると、そこにはジャスティン・フィンチ‐フレッチリーが恥ずかしそうに俯きながら立っていた。こうして、直接対面するのは久しぶりだ。ほとんど1年ぶりである。
だから、セレネは驚いてしまった。
ジャスティンは記憶にあるより一回り痩せていた。否、痩せているというより、やつれている。ふっくらと健康的だった頬がこけ、肌艶も良くない。そのくせ、見ているこちらが心配になってくるほど肌が赤く染まっている。
「あの、ジャスティン――」
「ごめんなさい!!」
セレネが体調を尋ねる前に、ジャスティンは勢いよく頭を下げた。
「セレネが卑怯な真似をしてまで、ゴブレットに名前を入れるわけないって、僕は知っていたのに。あんな、あんな最低ないじめに加担してしまって……本当にごめんなさい!!」
「え……?」
「ゆ、許してもらえるなんて、思っていないです。そんな都合のいいこと、あるわけがないって分かってます。だ、だけど、僕――もう一度だけ、チャンスが欲しいんです!」
ジャスティンの目には涙が滲んでいた。頬をほろほろと大粒の涙が流れ落ちていく。セレネは驚きを通り越し、唖然としてしまった。まさか、彼がそこまで気にしているとは思っていなかったのである。確かに、あのとき――ジャスティンがセレネアンチのバッジをつけていた時、ショックを受けたことは事実だ。それなりに仲良くしていた相手からの不意打ちは、セレネを少しだけ惨めな気持ちにさせていた。
だが、それだけだ。
もうあれから1年近くが経とうとしている。あの時以降、ジャスティンがバッジをつけている姿を観なかったし、ハンナ・アボットからは「ジャスティンが反省している」という言葉を聞いていた。それで、もう十分だった。
セレネはあの一件以後、ジャスティンのことをそこまで気に留めていなかった。
第一、ジャスティンと仲良くしていたのは、彼がマグルの富豪出身だからだ。魔法界だけでは得られないコネクションを手に入れようと利用していた面が多い。クリスマスパーティーなんて、その最たるものだ。
だから、セレネは彼がここまで思い詰めていたとは考えもしていなかった。
「ジャスティン、私は……」
「僕、もっと貴方と一緒にいたいんです!」
ジャスティンはセレネの言葉を遮るように、宣言した。
「セレネと仲良くしていたいんです!
だから、本当にごめんなさい!! 許してくれるなら、僕、なんでもします。セレネの気持ちが、それで晴れるなら」
「……なんでも、ですか」
セレネの脳裏に、いくつか考えが浮かび上がる。
ヴォルデモートが復活した以上、マグルの財界と繋がることは重要になる。なにしろ、魔法界の物価はマグル世界より遥かに安い。なにしろ、1ガリオンがたったの5ポンドしかない。1ポンドあれば、ハンバーガーが1つ買える。裏を返せば、1枚の金貨で、マグルのハンバーガーが5個しか買えないのだ。ホグズミード村などで売っているハンバーガーが銀貨1枚で購入できる事実を考えれば、物価の違いが良く分かるだろう。
つまり、魔法界の財界を味方につけるより、マグルの財界を味方に付けた方が、ヴォルデモートに対抗するための豊富な資金源になる。
マグル世界の金銭を大量に魔法界に持ち込み、換金すれば潤沢な資金を調達できるのだ。
他にもマグルの政治家や官僚と繋がれば、上手く魔法界を隠蔽し続けるための協力を得ることができるかもしれない。
また、ヴォルデモートがマグルに対し悪事を働いたとき、預言者新聞より早く正確に情報を手に入れることだってできる。ヴォルデモートがハリーに敗れる以前の預言者新聞に目を通したことはあったが、マグルが襲われたことに対する情報が少なすぎた。セレネの命と同じくらい大事な義父がマグルであり、ヴォルデモートの標的になる可能性がある以上、あの快楽殺人鬼がどうやってマグルを殺すのか、その情報を少しでも集めたい。
ジャスティンに頼みたいことは、いくらでもある。
脳の冷静な部分が素早く演算し、最適解を編み出そうとしていた。
「1つ、条件があります」
セレネが静かに口を開くと、ジャスティンは少しだけ顔を上げた。視線は若干俯き気味だが、こちらへ向けられた。彼の瞳の奥には、不安と期待が入り混じっている。どちらかといえば、期待で目を輝かせている。天国から地獄に落ちてきた糸を見つけたかのように、死んだようだった目が光を帯び始めていた。
セレネは彼の瞳を見たとき、ジャスティンが許して貰えるなら、本当に何だってする気なのだと悟った。
いま自分が考えている作戦も聞き入れてくれるだろうし、死ねと言えば死にそうな勢いを感じる。
「セレネ、なんでも言ってください。こんな僕を許してくれるなら、本当に何でもします!」
ジャスティンの澄んだ声が廊下を貫いた。
セレネは少し悩んでから、やがてゆっくりと口を開いた。
「……また、前みたいに話しかけてください」
セレネは小さな声で、しかしはっきりと彼に要望を告げる。
ジャスティンは口を半分開けて、呆けたようにセレネを見つめていた。
「それだけで、いいのですか?」
「ええ」
「僕のことを気が済むまで叩いたり、魔法の練習台にしたりしてもかまいませんよ?」
「そんなことしませんよ」
彼に頼みたいことは山のようにある。
だが、彼の真っ直ぐな謝罪に付け込み、策を講じるなど、今の自分にはできそうになかった。
「もちろん、あの時は少し悲しかったですけど……もう過去のことです。また、以前のような友だちに戻れるなら、それで構いません。それに……」
セレネは少しだけジャスティンから目を逸らした。
「私だって、貴方に謝ることがあります。
ダンスパーティーでは貴方から貰ったドレスを着ていたのに、貴方と一度も踊らずに終わってしまいました」
セレネは内心、申し訳なく思っていたことを白状する。
ジャスティンの母から3年生の時に貰ったドレスは、あのミリセントが夢中になるほど素晴らしい品だった。マグルでも有数の高級ブランドである。本来なら、絶対に手が出せない代物だ。それをジャスティンからタダで貰っていたのに、肝心の彼とは一度も踊らずに終わってしまった。これは、かなり薄情な仕打ちである。
「せめて、一声かけるべきでした。ごめんなさい」
「い、いいえ。それは気にしていません。いや、気にしていないといえば嘘ですけど……その、しかたないこと、でしたし、うん」
ジャスティンの顔がますます赤く染まっていく。顔から湯気が出て、ヤカンのように音が出そうだ。彼の視線はあちらこちらに泳ぎ、あたふたと言葉を探している。
「むしろ、僕が謝りに行かなかったのが駄目なのであって、セレネは悪くありません。あの時の僕は、君の誘いを受けるにふさわしくない男でしたし……。
だから、その……お詫びとしては、あれかもしれないですけど、次の休日、一緒にホグズミードでお昼を食べませんか? 僕、全部奢りますから」
ジャスティンは声を上ずらせながら提案して来た。
「も、もちろん、セレネが誰かと約束しているなら、僕は構わないです。セレネも都合があると思いますから」
「いいえ、特に予定はありません」
病気や借金以外なら、貰えるものは貰っておく。
次の休日は1つだけ予定は入っていたが、それは一瞬で終わる予定だ。特に問題ないだろう。
「ですが、大丈夫なのですか? 貴方、体調が悪そうですけど?」
顔を赤くしているのは、きっと恥ずかしいからだ。熱ではないことくらい分かる。
だが、それ以外は酷い有様だ。肌の艶、げっそりと痩せた頬、落ち窪んだ瞳は、食事に人を誘うだけの余裕があるのかと不安になってしまう。
「あー、うん。問題ありません。ちょっと、その、痩せた方がカッコいいかなーなんて思っただけでして」
「無理な減量は身体を壊しますよ」
セレネの身近にも、ひょろりと痩せている人物はいるが、あれは生来持った体質だ。ジャスティンのように、無理な減量で痩せているわけではない。セレネは呆れたように息を吐いた。
「自分の健康を第一にするべきです。いくら女性が群がる身体つきになっても、体調を崩して命を落としたら意味がありませんよ」
「……そうですよね」
ジャスティンは照れくさそうに頭を掻いた。
「セレネは前と同じですね。ちょっと安心しました」
「私は私ですよ。ジャスティン、貴方が貴方であるように」
「……そう言うところ、変わらないですね」
ジャスティンが嬉しそうに微笑む。他に話すことはなさそうだ。さっさと秘密の部屋へ向かうことにしよう。
「それでは、次のホグズミード。楽しみにしていますね」
セレネは彼に別れを告げると、秘密の部屋へと急いだ。
ただ、心なしか歩調が軽くなっている気がした。
ジャスティンとの一件は今までたいして気にも留めていなかったが、どこか重く感じていたのかもしれない。そのわだかまりが解消でき、心がすっきりしている。
相手に誠心誠意謝ってもらい、自分も謝ることができた。以前のように話すことだってできた。
「……そっか。仲直りって、こういうことなんだ」
セレネは口の中で小さく呟いた。
距離があるときは悲しくなるが、胸のつかえがとれる感覚は心地よい。だから、こんなにも身体が軽く感じるのだろう。
だが、この気持ちを細部まで味わうのは後回しだ。
なぜなら、今日は気持ちを引き締めてやるべきことがある。
グリンデルバルドと結んだ契約のために、するべきことが――。
休日の残り、そのすべてを秘密の部屋で過ごした。
すべての神経を集中させ、あるモノを作り上げる。自分が今まで培ってきた錬金術や変身術の理論を総動員させて行った大規模魔法、その結果――月曜日、セレネは猛烈な眠気に襲われていた。
魔法薬学の時間、つい転寝をしてしまい、薬を焦がしかけるほどに。
ダフネが肩を揺らしてくれなければ、あやうく不合格になるところだった。
その後の古代ルーン文字学の授業でも、間違えて錬金術のノートを開いていた。しかも、そのことに気づいたのは、ハーマイオニー・グレンジャーに指摘されてからだった。
「『水35リットル、アンモニア4リットル、炭素20キログラム――』……これ、何のノート? マグルの化学?」
「え……はっ、す、すみません。これは錬金術のノートでして」
セレネは文字の羅列を隠すようにノートを閉じると、急いで古代ルーン文字学のノートを取り出した。
「セレネ、大丈夫? 物凄く眠そうよ?」
「あー、はい。ちょっと、昨日は眠れなくて。面白そうな魔法を見つけて、それの実践をしていたら、つい……夜更かしをしてしまって」
セレネは重い瞼と戦いながら、ハーマイオニーに説明をした。
魔法を実践したことは、嘘ではない。それが原因で眠いことも嘘ではなかった。セレネは欠伸を噛み殺すと、眠い目をこすった。
「あのね、眠い時にごめんなさい。実は、セレネに頼みたいことがあるの」
ハーマイオニーは周囲を軽く見渡すと、声を潜めて「ある提案」を持ち掛けてきた。
「私、自主的に闇の魔術に対する防衛術を学ぼうと考えているの」
「……それは、自習ですか? 試験に備えての」
セレネの眠気が少し薄くなった。
まさか、ハーマイオニー・グレンジャーも自分と同じ結論に達していたとは思わなかった。しかし、ハーマイオニーは首を小さく横に振った。
「自習と言うより、自分を鍛えるためね。つまり、外の世界で待ち受けている存在に対しての準備よ」
「……快楽殺人鬼に対しての?」
「ええ、あの人と直面するということが、どういうことなのか。それに対する真の防衛術を身に着ける必要があると思うの。でもね、肝心な教師役をしてくれる人がいなくて」
ハーマイオニーは囁き声だったが、顔は迸る情熱で輝いていた。
セレネはなんとなく嫌な予感がした。
「教師役ですか……先生に頼んでは? マクゴナガル先生が適任かと」
セレネは口を開いた。
今のハーマイオニーのような純粋な熱を当てられるのが、正直苦手である。なにしろ、断ることが難しい。これが殺人とか負の面に傾いた熱だと断固拒否できるのだが、まっすぐ自分に向けられた好意的な熱は否定したり、利用したりすることが難しい。
セレネはその事実を自覚し始めていた。
「アンブリッジの目から逃れるのは難しいわ。それに、この活動に先生たちが了承してくれるとは思えないの」
そうなると、教師役は必然的に学生になってくる。
ハーマイオニーたちが外部講師を頼めるとは思えないし、外部講師に頼んだところで、生徒たちが外出できる時間はかなり限られている。防衛術とは、そのような短い時間で容易く身に着けられるものではない。
そうなると、学生で魔法の使い方が上手く、ヴォルデモートと対面した人物は、セレネの知る限り3人しかいない。
セレネは逃げ道を探すように、一人の人物の名前を挙げた。
「そうなると、教師はセドリック・ディゴリーですね。人望もありますし、第三の課題でサイコパスの復活を目撃しています。なによりも、魔法の運用法が上手です」
「そうね。私も同意見よ。これから、セドリックにも声をかけるつもり。だけど、教師は多い方がいいと思うの。それに、セドリックは1度しか『あの人』と顔を合わせていないわ」
「では、ハリーもいいですね。ハリーとディゴリーなら、2人とも教師に相応しいと思います。特に、ハリーは3度も蛇男を退けています。
これで、問題はありませんね」
セレネは話はこれでおしまいとばかりに切り上げようとしたが、ハーマイオニーはそれを許さなかった。
「私はね、セレネにも教師役をやって欲しいの」
「ハリーたちで十分でしょう。それに、貴方の親友は私が入ることを認めないのでは?」
セレネは、ハーマイオニーの言葉を交わすように問い返す。
正直、試験対策クラブとの掛け持ちは難しい。
むしろ、試験対策クラブの方へ比重を置きたい。これから、クラブには自分を慕う者が多く在籍するであろう。それに対し、ハーマイオニーが企画する課外活動は、おそらくその多くがアンブリッジに嫌われているグリフィンドール生が所属している。
ハーマイオニーの企画する自習に参加してしまったが最後、完全にアンブリッジに目をつけられてしまう。
セレネはクラブが潰れる原因になりかねない活動に参加したくなかった。
「たしかに、ロンは反対するでしょうね。でも、私は貴方にも引き受けて欲しいの」
しかし、ハーマイオニーは話を進めてくる。
「セレネだって、3度も『あの人』と対峙しているわ」
「直接、あれと戦ったのは、ハリーです」
「でも、セレネもその場に居合わせた。しかも、貴方は『あの人』に敵愾心を持っているって聞いたわ。魔法の腕だって上級生と渡り合えるほどだし、『あの人』に抵抗するための先生としては、ぴったりじゃない?」
「確かに、あの蛇男のことは大嫌いですけど……」
「なら、決まりね。詳しい場所と日程は決まり次第知らせるわ」
ハーマイオニーはてきぱきと言い放つ。セレネは反論したかったが、ちょうどバスシバ・バブリング教授が入ってきてしまった。ルーン文字学の授業が始まり、抗議することができなくなってしまう。
「……私に拒否権はないのですか?」
セレネはバブリングの目を盗み、ハーマイオニーに囁きかける。
「もちろん、断ってもいいけど……貴方が断る姿が思いつかないの」
彼女は黒板に浮かび上がった文字を写しながら、セレネの問いに答えた。
「ハリーが、いつも言ってるもの。セレネは『あの人』を強く憎んでいて、戦う術を常に考えているって」
「ハリー……」
セレネは少し項垂れた。
ハリーの気持ちがかなり自分に向いていることは認知している。会話をすれば分かることだし、そうなるように仕向けている。これは、その弊害だろう。
ここで、この申し出を断れば、ハリーは自分に対する態度との違いに違和感を覚えるはずだ。
セレネはしかめ面のまま、ハーマイオニーに言葉を返した。
「……第一回だけです。あとは、その時の様子を見て考えます」
「ありがとう、セレネ」
ハーマイオニーは少し嬉しそうに言うと、やりかけのルーン文字の模写に戻った。
第一回目の活動に出れば、その後はどのような活動なのか推測がつく。
集まる生徒たちや習得する防衛術にも興味があった。その活動に集まった人たちは、基本的にヴォルデモートやアンブリッジに対して悪い印象を持っている者たちだろう。つまり、自分とは敵対しない者たちだ。その人たちを、ぜひとも把握しておきたい。セレネはスリザリン内の人間関係には詳しかったが、他寮の人間関係について、ほとんどと表現していいほど無知だった。
いざというとき、今回集うメンバーが他寮の協力者として役に立つかもしれない。
だから、少しだけ――セレネは会合を楽しみにすることに決めた。
第一回目の場所が、ホグズミード村の寂れたパブ「ホッグズ・ヘッド」だと知るまでは。