ことり。
ことり、ことり。
誰もいないはずの深夜の温室。
昼間はぴくりともしないはずの鉢植えが、なにやら怪しげに動いている。
アルバスは「あっ!」と声を上げそうになったが、すぐさまローズの手が伸びてきた。彼女はアルバスの口を掌で塞ぐと、目を鋭く細め「黙って」と訴えてくる。
アルバスはどうにか言葉を飲み込むと、怖い気持ちを抑えて鉢植えを凝視した。
そして、気がついてしまった。
「よいしょ、よいしょっと」
鉢植えは、誰かによって動かされている。
誰って?
深夜2時なんかに温室で作業をしている人は、アルバスの知る限り一人しかいなかった。
「ふぅ……つかれた」
ネビル・ロングボトム教授。
ハリー・ポッターたちの親友にして、薬草学の教授である。数年前に結婚し、幾分かふくよかになった身体を揺らしながら、月の灯りが差す場所へ鉢植えを移動させている。
「あれは、月下美人でしょうか?」
「ゲッカビジン?」
アルバスがエリザベスの呟きを拾う。なにそれ?と尋ねる前に、ローズが「そんなことも知らないの?」とばかりに説明を始めてくれた。
「メキシコのあたりの植物よ。マグルの世界でも知られているけど、そっちは魔法植物から品種改良された安全な種。いま、ロングボトム先生が取り扱っているものが本元ね」
「デルフィ―姉さんから聞いたことがあります。夕方から花が咲き、日が昇る前にしぼんでしまう……その姿から『月下美人』と名付けられたそうです。魔法薬やお酒の材料になるんですよ」
エリザベスもどこか得意げに付け足した。
「月下美人の隣に並んだ鉢は、たぶん悲嘆草ですね。エキスは解毒薬として有名なんですよ。私、アル様が再び毒触手に刺されてもすぐに治療できるように調合法を覚えたばかりなんです!」
「もう二度と毒触手に刺されたくないし、君の作った怪しげな解毒薬は飲みたくないかな」
アルバスがうんざりした口調で言ったが、エリザベスはどこ吹く風だった。
「怪しげではありません。ちゃんと姉さんから借りた上級魔法薬学の教科書に載ってました! まだ一度も作ったことはありませんが、怪しい薬ではないですよ?」
「いや、そういうわけじゃなくて……あー、ちなみに、月下美人だっけ? それはどんな効果があるの?」
アルバスはローズに話を振ることにした。
「月下美人の蜜は焼かれた喉を癒すことができるらしいわ。条件を整えれば、年に何回か開花するらしいの。きっと、ロングボトム先生は月下美人を何度も咲かせるための研究をしている最中なのだと思う」
ローズはそこまで言い終えると、つまらなそうに嘆息した。
「でも、これは七不思議にならないわ。まったく謎にならないもの」
「ローズの言う通りだね」
スコーピウスも同意するように、残念そうに力なく笑った。
「ホグワーツ功労賞を貰えるような怪奇じゃないな」
「ということは、今夜はこれでおしまい?」
「いや、もう1つ行こう。まずは、ここから離れないといけないし」
アルバスたちは目配せをすると、ロングボトム先生に見つからないように、抜き足差し足で温室から抜け出した。温室の灯りが遠ざかり、先生が月下美人の鉢を移動させる音も聞き取りにくくなったところで、アルバスは話し出した。
「たしか、残りの七不思議は……『禁じられた森の狼男』『首無しチェイサー』『地下牢の亡霊』『青のジャックオランタン』だっけ?」
どれも名前を聞いただけで、お腹が底冷えしてしまう。
特に、禁じられた森には入りたくない。狼男に偏見があるわけではないが、あの森には狼男以外にも猛毒の蜘蛛など恐ろしい怪物がうようよ生息すると聞いている。昼間ですら入りたくないのに、月の光すら差し込まないような夜の森になど、足を踏み入れたくなかった。
「スコーピウス、君はどれを探すの?」
「青のジャックオランタンは、ハロウィンの時期じゃないと出ないらしいんだ。だから、僕が次に狙おうと思っているのは、首無しチェイサーかな」
「うう、首無しチェイサーってことは、首がないチェイサーってことであってるんだよね?」
アルバスは確認しながら、背筋がぞわっと逆立つのを感じた。
「首がないのに、どうして飛んでいられるの?」
アルバスが無意識に首を触りながら尋ねると、エリザベスが「そうですね……」と口元に指を添えて考え込んだ。
「おそらくですけど、首無し騎士の亜種なのではないでしょうか。きっと、アイルランドのデュラハンの物語が元ネタなのでは?」
「『ほとんど首無しニック』がいるんだから、いまさら首がないチェイサーなんて怖くもなんともないわ」
ローズとエリザベスはうんうんと頷きあっていた。
最初は夜の探索をやや怖がっていた二人なのに、いまでは平気な顔をして考察を交わしている。アルバスにとって女の子とはもっとか弱くて庇護しないといけないようなイメージがあったが、自分の方が夜の探検を怖がっているのが、とても情けなく思えて仕方なかった。
「……そういえば、アルバス」
アルバスが悶々としていると、ローズが振り返った。
「貴方、透明マントは持ってないの? 透明マントがあれば、もっと簡単に先へ進めるわ」
「あれは、ジェームズのだから」
アルバスは肩をすくめる。
「グリフィンドール塔にあるんじゃないかな?」
ジェームズは父から愛されている。
だから、偉大なるハリー・ポッターの財産の一つを譲渡されたのだ。そのことを思うと、また心に薄暗い気持ちが広がってしまう。アルバスは、その気持ちから目を逸らすようにそっぽを向いて――はた、と気づいた。
「スコーピウス、ちょっと見て」
アルバスは禁じられた森を指さした。
かなり夜が更けているので、ハグリッドの小屋の灯りも落ちており、背後の鬱蒼とした暗い森と一体化している。そんな木々の隙間に、ちらっと燃えるような赤い髪をした少女が消えていくのを見てしまった。
「あれ、リリーだよね?」
アルバスがグリフィンドールに組み分けされた妹を見間違えるはずがない。
「まさか、リリーも七不思議を……?」
「ありえないわ!」
ローズがアルバスの予想をまっさきに否定する。
「だって、リリーは『七不思議なんて、嘘っぱちよ。興味がないわ』って……」
「ですが、リリーはこんな夜遅くに禁じられた森で一体なにをするんでしょう?」
「とにかく、あとを追いかけよう」
アルバスは考えるより先に言うと、禁じられた森へ足を向けた。
「まって、アルバス! 『首無しチェイサー』はどうするの?」
「ローズ一人で調べてきなよ。僕、妹を連れ戻さなくちゃ」
リリーは、まだ1年生。
たしかに、リリーはハリーの子どもたちのなかで、ハグリッドと一番仲が良く、無類の動物好きだった。休日になると、ハグリッドと一緒に森を散策しているという噂を聞いたことはあったが、おそろしい噂の絶えない「禁じられた森」に一人で行くなんて無謀すぎる。おまけに、真夜中ともなれば危険この上ない。兄としては、妹の危険な行動をどうしても見逃せなかった。
「アルバスに賛成。僕もいくよ。友だちの妹がアクロマンチュラの生き残りとばったり会って……ってことがないとは言い切れないからね」
アルバスが小走り気味に進んでいると、スコーピウスが追いかけてきた。
「す、スコーピウス! 怖いことを言うなよ! 毒蜘蛛なんて、僕たちじゃどうすることもできないじゃないか! 僕は妹が森に入って危険なことに巻き込まれる前に連れ戻さないといけないって思っただけで……」
「アル様、ご安心を。アクロマンチュラであれなんであれ、行く手に立ちふさがる脅威は私が一掃しますので!」
スコーピウスに続いて、エリザベスもアルバスの隣に並んだ。
「あー! もう! 分かったわ! 分かったわよ。私も行くわ。すぐに、リリーを連れ戻して、ついでに『禁じられた森の狼男』の謎も解いてみせるんだから!」
少し遅れて、ローズがどこか怒ったようについてくる。
リリーが木々の影に消えたところまで来たが、松明のような赤毛はどこにも見当たらない。暗く生い茂った木々の奥へと消えていく細い曲がりくねった獣道だけがある。
「リリー?」
ダメもとで名前を呼ぶが、かえってくるのは不気味な一陣の風のみ。
「行こう」
アルバスは覚悟を決めて歩き出す。
森はまっくらで、シーンと静まり返っていた。時々、枝の隙間から漏れる月明かりが世界を照らし出している。
「そういえば、『禁じられた森の狼男』ってどういう不思議なんですか?」
エリザベスが囁くような声でローズに尋ねていたが、その声さえ静かすぎる森のなかでは大きく響いて聞こえた。ローズは周りを警戒するように目を走らせながら、さらに小さな声で教えてくれた。
「最近、禁じられた森から狼の吼え声がするという話よ。禁じられた森には狼男が生息してるのだけど、基本的にはおとなしいの。頭も良くて人を襲うこともないのに、恐ろしい吼え声だけが最近頻繁に聞こえるらしいって」
「あのさ、でも……狼男って人だよね。テディのパパみたいに」
アルバスは率直な疑問を口にする。
「テディのパパは闇の魔術に対する防衛術の先生だったんでしょ? 普段は人間だけど、満月の日のみ狼に変身したらしいって聞いたよ。だから、今日は平気なんじゃないかな?」
「たしかに、今日は満月じゃない。だけど、この森に住まう狼人間は常に狼の姿なんだよ」
スコーピウスも声を潜めながら答えてくれた。
「『新説ホグワーツの歴史』に書いてあったよ。でも、ローズの言う通り、とても賢くて人を襲うことなんてなかった狼人間の一族なんだよ。だから、そんなに凶暴な吼え方をするなんてこと自体が信じられない」
「いきなり凶暴化したってことになるのかな?」
「だから、その謎を解決するの。もちろん、リリーを見つけたあとだけどね」
木々の葉がかすれるような声で話し合いながら、リリーの赤毛が見えないか目を凝らす。
「突然変異か、はたまた、なにか理由があるのか。ハグリッドがグロウプを森に連れてきたとき、禁じられた森の生態系が一部変化したって聞いたことがあるけど、新たな巨人が森に来たなんて聞いたこともない」
「ハグリッドが密かにドラゴンを飼っている可能性もありますよね」
「それはないとは言い切れないけど……すぐにマクゴナガルや他の先生方にバレるんじゃない?」
「だけど……」
エリザベスが何か言いかけた、そのときだった。
獣の吼え声が夜の森を振る合わせた。それと同時に、少女の金切り声がアルバスたちの耳を貫く。
「リリーの声だ!」
アルバスは考えるより先に、悲鳴が聞こえてきた方へ走り出していた。後ろから、スコーピウスたちの声が聞こえてきた気もするが、走り出した足を止めるのも惜しい。
「リリー!!」
アルバスは力の限り叫ぶ。すると、前方からちらちらと赤毛が揺れるのが見えた。
「アルバス!」
リリー・ポッターだった。
彼女は顔に汗を浮かべながら、金色の獣を抱えて走ってくる。
「に、にげて! すぐ、にげて!」
リリーが走りながら、息も絶え絶えに叫んでいた。リリーがどうして「にげて」と叫んでいるのか、尋ねる前にリリーの背後から巨大な青白い塊が現れる。
「な、なんだよ、あれ」
アルバスは青白い塊から目が離せなくなった。
狼人間のわけがないし、毒蜘蛛でもドラゴンでもない。いままで魔法生物飼育学でも習ったことがなかった。それは優にハグリッドの小屋を潰してしまうほどの巨大な生物で、たとえるならロブスターだ。だが、尻尾はサソリみたいに細く吊り上がっており、そのさきに木の幹ほどの太さもある針が光っている。
「逃げろ、アルバス!!」
スコーピウスの悲鳴に近い警告が後ろから貫く。
「僕の予想が正しければ、それは――っ!」
スコーピウスの言葉は、巨大不明生物の尻尾先の針から火花が飛び散る音によってかき消される。火花が飛び散るといえば簡単に聞こえるかもしれないが、ちょっとした花火がさく裂したような爆発音だ。その音を聞いたとき、アルバスは先ほどの轟音は獣の吼え声なんかではなく、目の前にそびえ立つ巨大不明生物が発した爆発音だと理解する。
「きゃっ!」
そんな巨大生物が放った大粒の火花は、リリーをまっすぐ狙っていた。彼女が間一髪、爆発音に驚いてその場でしゃがみ込んでいなければ、火花は彼女の頭を貫通していたに違いない。だがしかし、直撃は避けられたとはいえ、爆発の余波から生じた風がリリーの小さな身体を吹き飛ばした。
「り、リリー!」
アルバスは転びそうになりながらも、必死になって妹のもとに駆けつけた。リリーは地面に叩きつけられ、すっかり気を失ってしまっている。
「リリー! リリー!」
アルバスは妹を必死にゆすってみたが、まぶたがわずかに動いた程度。しかし、呼吸が乱れている様子はなく、命に別状はないようだ。瞼は開けなかったが、頑なに金色の獣を庇うように抱えている。アルバスが見たことのない小さな獣は子どものようで、お腹のあたりに赤い傷がはしっていた。
「この傷は……?」
金色の獣も意識がなく、眠りこけているように動かない。とはいえ、こちらも死ぬほどの怪我を負っているようには見えず、アルバスはひとまず肩を落とした。
「アルバス、すぐに逃げろ!」
アルバスがほっとしたのもつかの間、スコーピウスたちが杖を構えて叫ぶ姿が視界に入った。彼らに答えようと顔を少し上げ、頭上から見下ろす巨大生物の頭に気づいた。目がどこにあるのかも分からぬのっぺりとした顔面なのに、アルバスはけたけたとあざ笑う笑うように見下ろされているように感じてしまう。
「な……」
リリーを背中で隠すように手を広げてみるも、恐怖で歯がかちかち鳴った。あまりにも間近に死の臭いを感じる。そんな彼の耳に届いたスコーピウスの叫んだ事実は、さらに彼の意識を絶望に追いやるのだった。
「そいつは、『尻尾爆発スクリュート』の生き残りだ!!」