神典【流星の王】   作:Mr.OTK

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四 流星に願いを

 翌日、普段通りに学校生活を送った祐理は、真っ直ぐ七雄神社へと向かって、社務所で巫女服へと着替えていた。今日はまたあの書庫に行くが、同時にこの場所での仕事もあるからだ。

 

 そうしていると、聞こえてきたのはスマートフォンの着信音。発信者は甘粕だ。祐里は画面をフリックして応答する。

 

「もしもし、万里谷です」

 

『ああ、祐理さん。こんにちは、甘粕です。突然なんですが、私の方で野暮用が入りまして、送迎と案内に関しては代わりの者を向かわせました。今しばらくお社の方でお待ち下さい』

 

「分かりました。わざわざありがとうございます」

 

『いえいえ、これも必要な事ですから。それでは』

 

 

◇◆◇◆

 

 

 それから一時間後、つい先日訪れた青葉台の図書館前に到着する。

 

「では、一先ず私はこれで」

 

「ありがとうございました」

 

 祐理が頭を下げた後、彼女を送り届けた委員会の者が車を走らせて行く。それを見送ってから祐理は図書館の中へと入っていった。

 

 ……なんだか嫌に静かだと祐理は感じた。

 

 元々が図書館であるのだから、静かなのは当然だ。けれど、今この静寂というのは図書館の持つ穏やかな静寂ではなく、何か得体の知れないものが潜んでいるような、そんな不安を駆り立てるような静寂だ。

 

 受付のロビーに辿り着いた。ここには昨日、正史編纂委員会の職員が退屈そうに欠伸を噛み締めながら座っていたのを覚えている。部外者の入館を禁止し、時には実力行使で排除する為の門番のような役割を背負っているからだ。

 

 が、今ここにその職員の姿は無かった。休憩をしているのだろうかと祐理は思ったが、確か昨日は二人の職員が座っていたはず。二人ともが同時に休憩を取るとは少し考えにくい。

 

 違和感と焦燥感に駆られながら、それでも祐理は図書館の奥へと進んで行く。

 

 広い廊下、一階の閲覧室。行けども行けども人は見当たらない。

 

 ここで祐理はある事を思い出した。そういえば、甘粕は自分の代わりの案内人を用意してくれると言っていなかっただろうか。だが、祐理を出迎える人間は一人もいなかったはずだ。

 

 不安と孤独に締め付けられる胸の痛みから逃げるかのように、祐理の歩みは自然と足早になる。

 

 一階の本棚の木々の間を隅から隅まで巡る。けれど、それでも人の姿は全く見当たらない。

 

 階段を駆け上がって二階に向かい、また暫く探して漸く人影を見つけた。その事に安堵して声を掛ける祐理。

 

「あの、すみません。今日は一体どうなさったのですか? どなたの姿も見えませんでしたので、驚いて……しまい……」

 

 挨拶の言葉を述べていた祐理の口がどんどん窄んでいって、それに比例するように目は見開かれていく。

 

 祐理が見つけたその人物は文字通り真っ白で、まるで雪の彫像のようだった。顔も手足も胴も、身に着ている衣服でさえも、何もかもが。

 

 これは……塩だ。かつて神の怒りによって滅びた都を省みた者は、塩の柱と化したという。

 

 今、祐理が見つけた人物もそうだ。以前は三十代前後の男性だったはずの人間は、既に物言わぬ命無き塩の塊でしかないのだ。

 

 昨日と同じ……いや、それ以上の恐怖が込み上げ、見えぬ何かから逃げるように走り出した。

 

 入口へ、この図書館から抜け出して、そして――

 

「すまない、万里谷祐理……」

 

 そんな謝罪の言葉が聞こえた後、身体に衝撃が走り、意識が遠退いていく。

 

「助……けて……」

 

 気を失って倒れた彼女の身体をリリアナが持ち上げる。無論、ヴォバンの所へ連れて行くためだ。

 

 そんな彼女の表情は苦渋に満ちている。果たしてこれが、民草を守る『騎士』のするべきことなのだろうか、そう表れていた。

 

「《…………》」

 

 そんな中で誰にも気づかれないまま、一冊の本が静かに闇に融けて消えた。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「またな、星琉」

 

「また明日ねー!」

 

「うん、またね。正敏、御崎さん」

 

 翌日、星琉は校門前で正敏と綾に別れの挨拶をしていた。今日も何事もなく平和な一日だった。ある一点の異常を除けば。

 

「万里谷さん……どうしたんだろう?」

 

 万里谷祐理の欠席。それも、彼女の性格からは少し考えにくい無断欠席だ。

 

 もしかしたら連絡出来ない程に具合が悪いのかもしれないと思った星琉は、お節介かもしれないと思いつつも彼女の家を尋ねようと思い至った。

 

「……!!」

 

 だが次の瞬間、彼は空間の異常を感じ取って身構える。

 

 そうして目の前に現れたのは一冊の黒い本。星琉はその本に見覚えがあった。

 

「先生の魔導書……?」

 

 それはかつてのある日、先生と慕うカーター・オルドラが直筆で著したという、世界に数冊しかない意思ある魔導書。それが何故こんな所に?

 

 そんな風に疑問に思っていると、魔導書が独りでにそのページを開き、文字を浮かび上がらせて訴え掛けた。

 

 ――我が創造主の弟子であり、神殺しである吉良星琉よ。どうか我が見初めし主を救って欲しい――

 

「主……?」

 

 ――我が主の名は万里谷祐理。今は彼の古王、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンによって囚われの身となっている――

 

「なっ……万里谷さんが!?」

 

 魔導書がすいっと空中を滑って星琉の手に収まると、彼は何処とも知れない場所を幻視した。

 

 不気味な程静かな雰囲気の建物。照明の落とされた奥の場所。そこに、恐怖に震える彼女と、それを鳥籠の中の鳥でも見るかのような眼差しを注ぐ老人がいる。

 

 現実に引き戻された。星琉は手許の魔導書に目を向けて言う。

 

「道中の案内は任せた」

 

 ――承知――

 

 呪力を練り上げ、自らを強化し、隠蔽する闇夜の影を纏う。

 

 戦闘態勢に入った星琉は、やや曇り始めた空を睨みながら、力強くコンクリートの地面を蹴って空中を駆けた。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 ふわりと木の葉が舞い降りたかのように重さを感じさせない着地をした星琉。彼の目前には、祐理が囚われているという図書館がそびえ立っている。

 

 魔導書からの情報によれば、それは数多の魔導書が納められている事を除けば唯の図書館のはずだ。 

 

 だが、星琉は感じている。その異様な空気を……その圧倒的な存在感を……。

 

「……()るな」

 

 誰ともなしにそう呟く。その言葉にはただただ冷徹さのみが備わっており、或いはそれは、星琉が自身を奮い立たせるための、意識を切り替えるためのスイッチだったのかもしれない。

 

 星琉の心の変化に伴い、脳が彼の肉体を万全な戦闘態勢に整える。

 

 感覚を鋭敏に、感覚を愚鈍に。その場の状況を的確に把握し、最も必要な、最も適した存在へと肉体の構成を変化させる。

 

 これはカンピオーネとしての能力ではなく、天元流のごくごく基本的な業。天元流の者であれば誰しもが習得している技術。故にその精度の差によって実力が如実になる業。

 

 ――外界と適応する。それはつまり、自分自身(内界)に適応させるのと同値だ。お前のその異常な精度の高さは、ともすれば自己中心的ともいえる才能だよ。

 

 かつてそう星琉に言い放ったのは、彼の師であり、天元流当主の天原晃だ。彼の言うとおり、中でも星琉は外界に対する適応能力がずば抜けて高かった。

 

 故に理解出来る。把握出来る。この奥に居る存在がどれほど強大で、どれほど埒外で――どれだけ似通い、対等なのかを。

 

 視力や聴力の向上、体温を恒常的に保つなど、雨降る空の夜に十分適応した。

 

 《墜天》が漆塗りの鞘に納められた状態で星琉の左側の腰に現れる。対して右側には、白塗りの鞘に納められたファルシオンが現れる。

 

 戦闘準備は整った。能面のように表情を消し去った星琉は、確かな足取りで図書館の中へと入って行く。

 

「――っ!」

 

 一瞬だけ顔をしかめたものの、直ぐに無表情に戻る星琉。この図書館に侵入した瞬間、彼は此処が敵陣であると再認識していた。

 

 『苦しい』と感じた。『憎い』と思った。『重み』を背負わされた。『辛い』と動悸がした。この世ならざる者達が、この図書館全体に犇いていると――星琉にとって敵である者達が蠢き潜んでいる事を敏感に察知したからだ。

 

「二人……」

 

 星琉が図書館のエントランスから少し奥に足を踏み入れてそう呟いた瞬間、擦り切れた着衣とターバンを纏い、片手に海賊刀を持った人影と、幅広の長剣を両手持ちにした鎧騎士が突如として現れ、星琉を襲う。

 

 しかし、星琉はそれを確と把握していた。そして彼らこそが、星琉が敵陣であると再認識した原因そのものでもある。

 

 ターバンを巻いた人物の顔は青白く、頬はこけ、瞳は茫洋としていた。つまり、死相を浮かべていたのだ。鎧騎士は兜で顔が隠れている為にその表情は伺えないが、恐らく同様のものであろうと星琉は推測する。

 

 彼らには生気や覇気、或いは『存在感』というものがあまりにも微弱で、かつ余りにも場違い(・・・)なように感じるのだ。

 

 無意識に下唇を噛み締め、力強く床を蹴り出す。

 

 

 ――疾式(としき)・『颶渦太刀(くかたち)』――

 

 

 襲撃者達が各々の武器を振り下ろし切る暇さえ与えず、星琉は彼らの脇を一瞬の間に駆け抜ける。――蒼黒の刀と黄金の剣を抜き打って。

 

 直後、塵芥と散る死者達。彼らの居た場所には小さな竜巻が渦巻いていた。

 

 星琉がした事は、ただ彼らの辺りの空間を斬り裂いただけ。彼らには触れてすらおらず、悪く言えば空振っただけだ。

 

 だが、その一閃によって起こった旋風を、星琉は霊気の操作によって竜巻の域にまで威力や風速を転換し、幾重もの風の斬戟へと昇華させて死者達を滅ぼした。

 

 これこそが『疾式・颶渦太刀』。自然現象である鎌鼬を参考にした、威力としてはそれの倍以上である剣術の一つ。

 

 ちなみに、この『疾式』という式は式人の証であり、『四元式』とは全く違う独自の式――特式の一つだ。星琉はこの式の正当な式人ではないが、当主である天原晃から教授され、会得している。その天原晃も『疾式』の式人ではないのだが……今は捨て置こう。

 

 先の戦闘、正確には死者達によって、星琉はこの先で待ち構えている人物を特定出来た。死者を操り、なおかつ自分(神殺し)と同等の存在となれば、該当者はたった一人。

 

 ――サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。通称『ヴォバン侯爵』。

 

 星琉を含めた九人のカンピオーネの中で最も『暴君』という言葉が当て嵌まる人物。死者を操る権能は確か『死せる従僕の檻』という名を冠されていたはず。

 

 他には……と星琉がヴォバン侯爵についての記憶を掘り起こそうとしていた時、死者達とは全く違う、生ある存在感を放つ者が目前に迫っている事に気付き、足を止めた。

 

 星琉の目の前に現れたのは、銀褐色の髪をポニーテイルにし、青の生地に黒の縦縞が入った戦装束を纏う痩身麗人だった。彼女は星琉に気付くと、恭しく一礼する。

 

 星琉はその少女の事を知っていた。何よりも青と黒(ネラッズーロ)の衣装が彼女の所属をよく示している。

 

「《青銅黒十字》のリリアナ・クラニチャールか……」

 

「わたしの名を存じ上げて頂けているとは……恐悦至極です、吉良星琉殿。ですが、今一度名乗らせて頂きたい。――お初にお目に掛かります。我が名はリリアナ・クラニチャール。誉れ高き《青銅黒十字》の大騎士であり、現在はヴォバン侯爵の付き人を勤めております」

 

「……それで、僕に何の用かな? 《神の招来》を経験したことのある君なら、僕が急いでいる事位分かるはずだ。邪魔をするというのなら、容赦はしないよ」

 

 そう言ってリリアナに冷めた眼差しを送る星琉。リリアナはほんの僅かに身体をビクリと震わせたが、すぐにそれを隠して星琉に言う。

 

「カンピオーネたる御身の邪魔立てなど滅相もございません。わたしはただ、御身をヴォバン侯爵の許へ案内する為に馳せ参じた次第でございます」

 

 星琉の目を見ながらそうはっきりと言うリリアナは、とても真摯で騎士然としていた。『暴君』足るヴォバン侯爵の付き人と言うには違和感を覚える程に。

 

「そう……なら、早速案内して欲しい」

 

「かしこまりました。では、こちらへ」

 

 本当ならば魔導書があるので案内の必要はないのだが、魔導書の意思が祐理の許へと向かいたがっていたのを受け取り、星琉は先に行くように意思を伝える。魔導書は、御意と一言だけ告げて、闇に紛れた。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 リリアナに連れられて階段を上り、星琉は二階の閲覧室へと案内された。そこには木製の椅子に座る、皺の一切ないスーツを着こなした背の高い老人と、いつもの白衣と袴の姿でいる祐理が。

 

 この老人こそがヴォバン侯爵。見た目こそ知性を感じさせ、まるで大学で講義を行う教授のような印象を受けるが、その本性は戦闘に飢えた獣に過ぎない。まあ、その獣という印象こそがカンピオーネの典型的な像ではあるのだが。

 

「クラニチャール、道中の『王』の案内、ご苦労であった。下がってよいぞ」

 

「はっ」

 

 ヴォバンの言葉を受け入れ、星琉から数メートル離れた場所に下がるリリアナ。どうやら彼を囲って逃げ道を断つ……という意味ではなさそうだ。

 

 リリアナが自分の言葉通りに下がったのを見届けると、ヴォバンは星琉を不遜な態度で眺める。その眼差しに込められた感情は、怠惰、侮蔑、それと……僅かな期待と懐古。

 

「随分と若いな。そういえば、私が『王』となったのも君ぐらいの歳頃であった……名乗り給え、少年。我が名は名乗らずとも知っていようが、私は君を知らぬ」

 

 気だるげな、しかし射抜くような眼差しを、虎の瞳を思わせる翠玉の眼を以って星琉に注ぐ。それに対して星琉は全く気負うことも、怯む事もなく、静かだが確かな力を持たせて言い返した。

 

「……如何に若輩とはいえ、僕も『王』の一人。同格の者に対しての礼儀を弁えない者に、名乗る名などない」

 

 この言葉にヴォバンはぴくりと眉を動かしたが、やがてニヤリと獰猛な獣を思わせる笑みを浮かべると、くつくつと星琉を小馬鹿にするように嘲笑う。

 

「くくく……同格? 私と貴様が? ……小僧、胡乱な事を言うのは止し給え。なるほど、確かに貴様と私は同様にカンピオーネであろう。だが決して同格ではない。貴様など、このヴォバンの権能を以ってすれば直ぐに灰と化すのだぞ」

 

 その言葉に含まれているのは絶対的な自信。星琉の事を歯牙にも掛けぬ程の裏付けされた年月、経験、権能を想起させる、王者としての言葉。不敬を働いた者に対する、審判を下す前の言葉。

 

 しかし、ヴォバンの機嫌は悪くはならなかった。むしろ活きの良い格好の獲物(・・・・・)を見つけたかのような、仄暗い喜悦を浮かべている。

 

「だがまあ、唯々諾々と従う軟弱な者よりは好ましい。……さて、我が名はサーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。魔術師どもは『ヴォバン侯爵』と呼ぶ。小僧、わざわざこの私が自ら名乗ってやったのだ。貴様も名乗り給え。礼儀は弁えているのだろう?」

 

「……吉良星琉だ。万里谷さんを返してもらう為、ここに来た」

 

 ちらりと星琉が祐理の方を見遣ると、彼女は明らかに憔悴の表情を浮かべていた。しかし、どこか傷付けられた様子も、魔術に侵された様子もない。星琉はそのことに安堵しつつ、何かを言い出そうとする祐理に微笑みかけ、首を振る。何も心配しなくていい、直ぐに助けるからと、視線に想いを乗せて。

 

「ふむ、その娘は貴様の家族か? 妻か? それとも愛人か? 貴様の所領へ無断で入り込んだ無礼は詫びよう。しかし、この娘は稀有な能力を持つ巫女であり、私の役に立つ。故に我が所有物、資産とするのだ。まあ、許せ」

 

 鷹揚に言い放つヴォバンに対して特に変化を見せない星琉。その様子に訝しがるヴォバンだったが、その理由は直ぐに分かる事となる。

 

「ヴォバン。お前が許しを請う必要はない。何故なら――」

 

「えっ!?」

 

「何っ!?」

 

「これは!?」

 

 瞬間、祐理の目前に魔導書が現れ、驚く間もなく閃光弾もかくやという程妖しく強烈な金色に光輝き、室内を明るく照らし出したかと思えば、彼女は自分の影に呑み込まれていた。これにはヴォバンも後ろに控えていたリリアナも驚愕する。

 

「万里谷さんはもう返してもらった。再び奪われるつもりもない。諦めてホテル暮らしの旅を続けた方が賢明だぞ、狼王(老翁)

 

「小僧ッ!! 貴様ァ!!」

 

 ヴォバンが自身の体を半ば狼に変化しながら吼えるが、既に遅い。星琉もまた闇に紛れ、図書館から姿を消した。後に残されたのは、ただただ刺々しい静寂のみ。

 

「舐めた真似をしてくれたな……!!」

 

 怒り心頭のヴォバンは、その握力で椅子の腕を握り壊した。やがて緩慢な動きで立ち上がると、今はいない星琉と祐理に向かって高らかに宣言する。

 

「よかろう! 貴様を我が獲物として認めてやる! どこにでも往き、どのようにでも身を隠すがいい! 貴様の命と娘の体を奪い取る為、私は貴様を地の果てまで追いかけ、狩り立てる事を誓うぞ!」

 

 

◇◆◇◆

 

 

「万里谷さん、大丈夫? 寒くない?」

 

「そ、それは大丈夫ですけど……」

 

 ヴォバンと舌戦を繰り広げ、出し抜き、祐理を奪還した後、いつの間にか夜となった東京の建造物の群れの上空を、星琉は祐理を横抱きにしながら『天日の翼と日輪の星剣』の翼を以って翔けていた。

 

 翼の数は二対四翼。残りの一対二翼は球体となって二人の周りを包み込んでおり、外側は先程から降り出した豪雨を蒸発させ、暴風を受け流し、内側は晴天の暖かさを与えている。

 

 星琉が祐理を奪還する為、また自身が逃走する為に使用したのはもちろん『転移』の魔術だが、祐理に使用された魔術はその中でも更に高度な『転位』の魔術である。

 

 『転移』の魔術が相当に高位――魔女の血を引く者にしか扱えないのは常だが、その魔女達でも離れた相手に対して、『転移』と同等の効力を発揮する『転位』の魔術というのは至難のものだ。

 

 そもそも、『転移』の魔術とはどういうものなのか?

 

 『転移』の魔術を行う際には、必ず別概念の媒体が不可欠となってくる。それは例えば呪力と魔法陣であったり、火であったり、水であったり、風であったり、今回の祐理と星琉のように影であったりだ。

 

 この媒体概念は、前提条件として『転移の始点と終点に存在』し、『使用者を大きく超える』『無形かつ天然自然の概念』でなければならない。何故なら、この概念の質量が少なかったり、人工のものであったりすると、そこから自身の『存在』への還元が不完全なものになってしまう可能性が高いからだ。

 

 世界は霊気によって構成されており、つまりはこの世の森羅万象は根源的な部分で同一なのである。その表現方法が『無形の現象』であったり、『有形の生命』であったりと違うだけで。だからこそ、『転移』という魔術は成り立っている。

 

 『転移』の魔術を使用すると、まず使用者の『存在』が霊気となり、無形の媒体概念に変換される。その後にまた、別の場所で無形の媒体概念から使用者を構成する分の霊気を抽出し、有形の『存在』へと還元される。これが『転移』の魔術の正体だ。

 

 では、何故『転位』の魔術がより高位な魔術なのか。それは、有形の生命を構成するものが関係している。

 

 我々が霊気という部分で同一であるというのは前述の通りだ。しかし、細かく見るのであれば当然差異は存在する。それは美醜や健康などの肉体の差異であり、自らの思考回路の大元である精神の差異であり、我々を構成するより根源的な要素である魂魄の差異である。

 

 少し話は戻るが、『転移』の魔術によって無形から有形へと還元される時、一体何を以って使用者は使用者としての形を得るのだろうか? どうして有形から無形へと変換された時、その無形の概念に呑み込まれたりしないのだろうか?

 

 それは『自己』という存在の情報全てを理解しているからだ。肉体の情報、精神の情報、魂魄の情報、これら全てを正確に把握しているからだ。この情報を以って使用者は無形から有形へと再構成することが出来、無形の概念に呑み込まれたりすることもない。

 

 人間は、無意識の領域で『自己』という存在の全てを正確に理解し、把握している。しかし、それ以外の有形無形問わずの存在を理解し、把握することは決して不可能ではないが、それに極めて迫っている。

 

 だからこそ、『転位』の魔術は――『他者を自分の手で転移させる』のは至難の技なのだ。何せ、『自己』ではない『他者の存在』を理解しなければならないのだから。

 

 この『転位』の魔術を使用できるのは通常、絶対隷属の契約を交わした人間や己が使い魔など、自らの『存在』全てを曝け出した人間、あるいは自分が一から作り上げた『存在』にしか使用出来ない。

 

 では何故、星琉はこの『転位』の魔術を祐理に対して使用する事が出来たのだろうか。

 

 彼がカンピオーネだからだろうか? 魔術において強烈なアドバンテージを得る権能『闇夜に眩き月星も唄』を保持しているからだろうか? 或いは、祐理が星琉に対して絶対隷属をいつの間にか誓っていたか、知らぬ間に誓わされていたからだろうか? ……そのどれもが正しくはない。

 

 残念ながらと言うべきか、当然と言うべきか、星琉は『万里谷祐理』という存在を十全には理解し、把握出来てはいない。如何に魔術においてアドバンテージを持っていようとも、絶対の規則から、定められた過程から逃れることは出来ない。

 

 星琉が『転位』の魔術を行使出来た理由。それは、あの魔導書のお陰だ。

 

 あの魔導書――『霊典・幽現目録』は、その閲覧者を選ぶ意思ある魔導書だ。

 

 これは、著者である『冥』の位を極めし異端の魔術師、カーター・オルドラのある思いが込められているが故、その条件に当て嵌まるかどうかを裁定する為に、意思を持つように書かれたのだ。

 

 そして、祐理はその条件に見事当て嵌まり、正当な所有者として先日、本人の与り知らぬ所で認められていた。その際、魔導書は裁定の為に、『万里谷祐理』という存在を全て記録(・・)していたのだ。

 

 よって、星琉はこの魔導書に記録された『万里谷祐理』の存在の情報をまるまる抜き出して利用することで、『転位』の魔術を行使し、祐理を奪還する事に成功したのである。

 

 さて、こうして祐理を図書館の入口近くに『転位』させ、同様に自分もその場所に『転移』し、こうして逃走劇を繰り広げているわけだが、それも長くは続けられないだろう。

 

 ヴォバンの事は、伝聞ではあるもののある程度の性格を把握している。それを参考にするのであれば、彼の王が自分の言う通りに引き下がったりはしないだろうと星琉は考えていた。彼は今、どこで迎え撃つべきかと場所を探しているのだ。

 

 そんな中、祐理が再び口を開く。

 

「吉良さん……どうして、どうして私なんかを助けに来たのですか! あんな、侯爵を敵に回すような真似をしてまで……!!」

 

 祐理は、泣いていた。それが何に起因したものかは星琉には分からなかったが、少なくとも彼女にとって本当に余計な事をした、という事ではなさそうだ。

 

 ――今だって、ヴォバンに対する恐怖でこんなにも震えているのだから。

 

 それでも祐理は気丈に言葉を続ける。隠し切れていると思っているのかいないのか、星琉の行動を否定するような言葉を続ける。

 

「私が侯爵の許にいれば、全て丸く収まるんです! あなたがわざわざこんな危険を犯してまで、私を連れ出す必要はなかった!」

 

 祐理の言葉を、星琉は言われるがままに受け止める。彼女の言葉はある側面では正しいからだ。

 

 ヴォバンが祐理に求めるのは、『神の招来』を成功させる為の巫女としての資質。それさえ手に入るのならば、彼の王は積極的に東京を戦場とすることはなかったかもしれない。少数を切って多数を生かす事を善しとするのならば、星琉の行った事は悪しとすべき事だろう。

 

「あなたと侯爵が争えば、また大きな被害が出るに決まっています! それに、吉良さんの身にだって危険が――」

 

「けどそれは、万里谷さんだって同じことでしょ?」

 

 祐理の言葉を遮って、星琉はそう告げる。彼女を差し出す事など、彼に出来るはずがないのだ。

 

「確かに、万里谷さんを差し出せば事なきを得るだろう。けど、それじゃあ君が危険に晒されたままだ。ミカエルと争って死に掛けた時、僕は君に命を救われた。だから今度は、僕が君を救う番だ。……いや、これもちょっと違うかな」

 

 助けられたから助ける。救われたから救う。星琉の祐理に対する感情は、そんな損得勘定や等価交換のようなものではない。もっと自分勝手で、独り善がりで、感情的なもの。

 

「万里谷さんに居なくなって欲しくない。だから僕は君を連れ出した。それだけだよ」

 

「そんな……」

 

 微笑みながら掛けられる星琉の言葉に絶句する祐理。その表情に込められた感情は、驚愕と困惑。そして、少しばかりの不審。

 

「吉良さんは、その力を……力なき人々を守る為に使うと……そう、仰られていたではありませんか……あれは、嘘だったのですか……?」

 

 先程とは打って変わり、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で言葉を紡ぐ祐理。そんな彼女に対し、星琉は表情を引き締めて言う。

 

「嘘じゃないよ。僕は人々守る為に力を振るう。けどね、万里谷さんが思っているよりもずっと、僕は感情的な人間なんだ。だから、万里谷さんを切り捨てるような真似は出来ない。さっきも言ったように、君に居なくなって欲しくないから」

 

 そうして更に、その眼に決意を込めた様子を見せつつ、少しだけ唇を歪めて言い放つ。

 

「それに、僕がヴォバンを追い払って、誰も、何も傷付かない最高の結末が待っているかもしれないじゃないか。それを目指すことは、悪い事じゃないでしょ?」

 

 今度こそ、本当に祐理は言葉を失った。星琉の言葉のどこにも、強がりも嘘もなかったからだ。

 

 目の前の少年が本気で、誰も傷付かない未来を目指していると痛感したから。

 

「そんなの……無理です」

 

「大凡の考えはもう頭の中にあるよ。緻密とは言い難いけどね」

 

「吉良さんと侯爵では、権能の強さも数も違います……」

 

「僕は侯爵の権能の大体の能力も知っているし、あちらは僕に関しての情報は殆どないはずだ。どうにかやりようはあると思う」

 

「生きてきた年数が、経験が、潜り抜けてきた修羅場が違います。吉良さんでは、侯爵に勝てません……」

 

「格上の相手だなんていつもの事さ。それをどうにか引っ繰り返してしまうのも、カンピオーネっていう存在だしね」

 

「あなたは……馬鹿です」

 

エピメテウス(愚者)の落とし子だから、それは正当な評価だと受け止めるよ」

 

 そのまま少しの間、言葉を交わさなくなった二人。しかし、星琉がどうしてもという雰囲気を醸し出して、祐理に訊ねる。

 

「……ねぇ、万里谷さん。君の気持ちを聞かせて欲しい。僕は君を助けたい。けれど君は、人々の為に生贄となっても構わないと、そう思ってるのかな?」

 

「……そう、です。だから――」

 

「本当に?」

 

 祐理の息が詰まる。一時、飛翔を止めて、空中に滞空する星琉。彼は祐理の顔を不安げに覗き込み、少しだけ腕の力を強める。そうされる事で、彼女はより一層星琉の存在を感じてしまった。

 

 だから、どうしようもなく思い出してしまったのだ。短い間だけれども、星琉と過ごした何ら特別な事のない、穏やかな日々を。

 

 

 

「君の、本当の気持ちを聞かせて? そうすれば、僕は全力でその気持ちに応えるから」

 

 

 

 暖かな眼差し。彼の黒い眼は、優しく包み込む闇のようで……けれど、そこに恐怖はなくて――

 

 

 

「わた……しは――」

 

 

 

「うん」

 

 

 

 柔らかな声。私の耳朶を打つ深い声音は……どうしようもなく私の心を慈しんでいて――

 

 

 

「私は――!!」

 

 

 

「教えて、万里谷さん。君は、何を望むの?」

 

 

 

 だから、私は――

 

 

 

「たす、けて……ください……せいるさん――!!」

 

 

 

 ――彼と離れたくなくて、狂おしいほどの気持ち()が溢れた。


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