零 生まれ落ちるは仮初の王
【『冥』の位を極めし魔術師 カーター・オルドラの自伝より抜粋】
世に、カンピオーネと呼ばれる存在が在る。
彼らは如何なる運命にあったのか、『まつろわぬ神』という天上の神を人の身で在りながら殺害し、神々のみが保持することを許された『権能』を簒奪せしめた者達の事である。
さて、ある呪法により永い時を生き永らえている私だが、何の因果か、とあるカンピオーネの保護者、もしくは後見人のような立場を強いられた。それも二人も。
しかし、どちらも性格に差はあるものの実に私好みの人間であり、また、彼らも私を慕ってくれていたので、私は彼らと彼らが大切に思っている者達を私の同胞、ひいては家族として迎え入れたのである。
では、ここから先は数奇な運命により共に道を歩む事となった、二人のカンピオーネについて記そう。
まず、欧州はフランスで勢力を張っている『神獣の帝』ことシャルル=カルディナル。私が彼と出会ったのは今から――
――(中略)――
次に、極東は日本のカンピオーネ。『流星の王』こと吉良 星琉。
彼はその特異性故か、二つ名が魔術結社によって違いがあるという不思議な特徴がある。
欧州の賢人議会、王立工廠、イタリアの七姉妹は『騎士王』と称し、五嶽聖教からはあの羅濠教主直々に『梅の王』の名を授けられ、アメリカのSSIからは『セイル・ユレイナス・キラ』と天王星を冠して畏敬され、日本では『陰陽王』と崇められた。
このように様々な二つ名を持つ彼だが、それは主に彼の精神性に依るものだ。
彼の気性は実に穏やかで理性的であり、通説としてのカンピオーネとは真逆の類のものである。その象徴として、彼はそれまでのカンピオーネとは全く異なった形でカンピオーネとなったのだから。
死の危機に瀕し、人間の持つ強い生存本能によって運良く神を殺せたわけでもなく、神をも超えるほどの純粋な力量によって殺したわけでもなく、神殺しの神具の力を以って殺したわけでもない。
――彼は、神と契約を交わし、神の死を幇助することによって、カンピオーネとなったのだ。
◇◆◇◆
「……気持ち良いな」
中東はオマーン、その首都マスカットを南東に下ったとある海岸に、その少年は居た。
歳は十歳くらいだろうか、まだまだ成長途中の幼い子供の容貌だ。
少年は目を閉じて、何かを受け止めるかのように両腕を広げて立っている。
少年は自然を感じる事が好きだ。それは例えば森林浴だったり、空高く飛ぶ鷹を撮影することや、今のように潮風を感じることなど様々である。
少年の夢はいずれ世界のありとあらゆる国を旅し、オーロラや滝に浮かぶ虹という自然の神秘を体感し、カメラに収めることなのだ。
さて、少年はこの地へ家族とやってきた日本人だ。父の仕事の関係でドバイ首長国の首都ドバイへ家族とやってきていたのだが、少年の要望で近隣諸国を巡っている途中、この地に立ち寄っていた。
地に立ち寄っていた。
そして少年は近くの海岸へ自分の未知の自然がないかとやってきたのだが、あまり期待以上のものは見つからなかったようだ。辛うじて背後に広がる荒野は大地の荒々しい生命力を体現していて少年の興味を引いたが、逆に言えばそれだけしかなかった。
何も見つからないよりはマシか、そう少年が感じ、家族の元へと帰ろうとした時、生き物を見つける。
「……?」
少年がどんな生き物か確かめるために駆け寄ると、それは白い蛇だった。自然が好きな少年は動物にも詳しかったのだが、荒野に現れる白い蛇なんて聞いたこともない。
どんな蛇なんだろうと少年が特徴を調べようとすると、少年は蛇が血を流していることに気づいた。どうも傷を負いながら這って来たようで、岩肌には蛇が流した血の跡が見える。
そして同時に、少年は蛇が酷く衰弱していることに気付き、命が長くないことを確信した。
白い蛇は確か吉兆の証だったはず、と少年はどこかうろ覚えの知識を思い出し、蛇を看取ることに決めた。
「ごめんね、君の傷を治してあげることはできないけど、せめて僕が君の最期を看取るよ」
『なれば、妾の願いを聞き入れてはくれぬか?』
「え?」
突然頭の中で響いた声に少年が驚くと、次の瞬間、蛇が見目麗しい女性へと変貌したではないか。
腰にまで届く煌びやかな星を思わせる長い銀髪、瞳は海を思わせる深い青色で、肌は白磁のように白く澄んでいた。ゆったりとした白のワンピースを着ているのだが、胸はふくよかに膨らんでおり、腰はくびれていて、正に絶世の美女と表現するに相応しい容姿と体型である。
しかし、体のあちこちにある傷から血が流れ出ていて顔面は蒼白。痛みを堪えていることを示すように眉間にシワを寄せていた。
突然蛇が人になった事と、その人があまりにも綺麗だったことに目を白黒させている少年に、美女は願うような、縋るような甘い声音で少年に呼び掛ける。
「妾の名はティアマト。大いなる太母神であり、全ての神の母なる神である。少年、其方の名を妾に聞かせてくれぬか?」
「えっと……吉良、星琉です」
「キラ・セイル……それが其方の名か。……黒き髪と
ティアマトは少年――星琉の名を聞くと、見る者全てが虜になるような微笑みを浮かべ、慈愛の眼差しを注ぎながら、愛しい者の名を呼ぶように星琉の名を確かめた。そしてまた、鈴の音のような美しい声で星琉に語りかける。
「では星琉よ、もう一度問おう。妾の願いを聞き入れてはくれぬか?」
「は、はい! なんですか!?」
少し緊張して、震えた声で応答してしまった星琉だったが、それも仕方なかった。何故なら彼は今、手負いとはいえ女神と対峙しており、その圧倒的な存在感に気圧されていたのだから。
「妾は直に死へ至るであろう。それもあの憎き《鋼》の天使、熾天使ミカエルの狼藉でな」
憎々しげ語る様子に恐怖を感じて、星琉はたじろいでしまう。
しかし、ティアマトの表情はすぐに痛みを堪える苦い表情へと変わる。死に至るほどの傷なのだ、その痛みは星琉の想像では決して思い至ることは出来ないだろう。
「星琉よ、其方の手で妾に引導を渡してくれぬか」
「それって……?」
女神の言葉の意味する所が分からず首を傾げる星琉に、ティアマトは厳かな雰囲気で言う。
「妾に……死を」
星琉は呆然とし我を失っている。この女神が何を言ったのか、理解できなかった。
だが、それも当然だろう。まさか自分を殺せ、などと頼まれることを一体誰が予想出来ようか。
しかしティアマトも至極真面目だ。この幼子に意味が解らずとも、確かにそれを為してもらわねばならない。
「かの熾天使に与えられる死と、其方に与えたれる死では大きく価値が異なる。優しき児よ。どうか妾の屍を越え、世に原初の平穏と静寂を与えて欲しい……」
星琉はティアマトの言葉を完全に理解することは出来なかったが、自分に殺されることが女神にとって重要であることだけは漠然と理解出来た。
だが、たとえ女神にとって重要であったとしても、星琉に殺す決断が出来るはずもない。ティアマトは星琉の心を見抜き、優しく言葉を続ける。
「案ずるな、いずれにせよ妾は死ぬ。それに妾は死ぬが、滅びるわけではないのだ」
気付けば、星琉は知らず知らずのうちに涙を流していた。まるで避けられない別れを惜しむかのように。
するとティアマトは星琉を抱き寄せ、まるで母親のように星琉の頭を優しく撫でる。星琉としても不思議な気持ちだった。このティアマトという女神とはたった今会ったばかりで、まだ半時間と経っていない。であるというのに、どうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろうか。
理由も分からぬまま、ただただ星琉は涙を流す。
「星琉、其方は妾の為に涙を流してくれるのか。優しい子だな」
ティアマトはそんな星琉に慈愛の笑みを浮かべ、止めどなく涙を流す星琉の目尻を拭うと、星琉の頬を両手で包み込み、口付けした。
「んっ!?」
突然の出来事に声にならない悲鳴をあげる星琉。
しかし、ティアマトから受け渡されているナニカを感じ取り、それを受け入れようとティアマトからの口付けを自分から享受していく。
十秒ほど続いた微かに淫靡な水音は、銀色の橋が二人を繋ぐことで終わりを告げた。
「其方に妾から加護を与えた。大いなる、母なる海が、其方の行く道を護るであろう」
ティアマトのその言葉も星琉はどこか上の空、ちゃんと聞こえているかは定かではない。
しかし、それが真実であることを示すように、星琉の右手の甲に見慣れない文字が輝き、消えた。
ティアマトがそれを見届けると満足そうに頷き、虚空から何かの爪を呼び出して、同時にティアマトと星琉を閉じ込めるかのように魔法陣が浮かぶ。
「太母神ティアマトが契約の祝詞を告げる。人の子、吉良 星琉よ。汝、妾と契約を交わせ。さすれば妾は其方に妾の子らを託し、其方を王へと至らせん。だがそれは仮初の位。其方が我が仇敵である《鋼》の熾天使より権能を簒奪せし時、完全なものとなるであろう」
呼び出した爪を星琉に握らせ、誘うように腕を大きく広げる。
星琉は何か言おうとするが、グッと言葉を飲み込み、顔を伏せた。そして……。
「契約……します」
一言告げて、星琉はその爪でティアマトの胸を突き刺す。すると同時に、星琉は自分の中に何かが流れ入ってきているのを感じていた。
その時、ティアマトが星琉の後ろを見遣り、誰かに向けて言葉を発する。
「現れたか、魔女パンドラよ。些か稀な事態であったから現れぬ可能性もあると見ておったが、杞憂に終わったようだな」
星琉が振り返ると、そこにはピンクブロンドの長い髪をツインテールにして背中に流している少女がいた。
……いや、少女という表現は的確ではないか。決して豊かではないその身体であるが、少女では決して醸し出すことの出来ない、異性を捕らえて離さない蠱惑的な色香がある。
「お初にお目にかかりますわ、ティアマト様。確かにこのようなことは初めてではあるけれど、他ならぬ女王様自身がそれを認めていらっしゃるんだもの。こちらとしては願ったり叶ったりだわ。それにしても良かったのかしら? 女王様はご自身で敵となる者を作ってしまったのよ?」
「構わぬ。妾が妾自身で決めたこと。そんなことよりも、憎き《鋼》に嬲られ屠られるよりも、妾のような者に涙を流す、優しき幼子に看取られる方が余程好い。さぁパンドラよ、妾ももう時間が無い。疾く転生の儀を始めよ」
「うふふ、とっても解りやすい理由ね。共感出来るわよ、ティアマト様。それで、あなたが私の新しい息子ね? へぇ、あの子とそう変わらないじゃない」
そう言って無邪気な笑顔を星琉に向けるパンドラ。そんな彼女の様子に、星琉はティアマトと感じたものとはまた別の動悸を感じた。
「さあ皆様! 祝福と憎悪をこの子に与えてちょうだい! 中つ東の地より生まれし七人目の魔王。神と契約を交わし、神の死を幇助することによって生まれた異端の魔王に、聖なる言霊を捧げてちょうだい!!」
「吉良 星琉よ! このティアマトが神殺しとして新生する其方に祝福と慈愛を授けん! 其方は妾が授けた権能により、神々と争う運命を課せられた。されど案ずるな、必ずや妾の子らが其方を慕い、守護するであろう。故にあらゆる敵を屠り、その骸の上で王の威光を知らしめ、やがては妾を悪魔へと貶めた憎き熾天使を地に這い蹲らせよ!!」
宣言すると同時に、塵となって消えるティアマト。その死顔は、どこか満足そうでもあった。
「あら、あの子だわ。残念、もう少しあなたとも話がしたかったのに……」
何かに気付き、風のように消えゆくパンドラ。しかし、また別の声が星琉に掛けられる。
「おー、いたいた……っと、生憎間に合わなかったか。ティアマトはもう殺られた後みたいだな」
少し高い声、変声期を迎えていない少年の声だ。星琉が振り返ると、そこには自分より背も歳も上だと思われる白髪の少年がいた。
「貴方は……?」
訝しげに尋ねる星琉とは対照的に、少年は楽しくて仕方がないという風に答える。
「君の同族。神を殺し、その権能を簒奪した人間さ。――さて、色々状況は呑み込めてないだろうが、取り敢えず着いて来るといい。順を追って説明するには、場所が場所だからね」
少年はそう言うと、星琉という存在を見透かすかのように目を細め、告げる。
「という訳で、ようこそ、神と人間の戦場へ。歓迎するよ、何も知らない新人君」
これが、後の『 』であり『 』――その原型である『流星の王』が誕生した瞬間である。
魔王への転生 それは闘争による栄華と零落への扉ではなく、只々昇華の為だけのものである