これは、有り得てしまった未来の話である。
一人の青年が居た。
どこにでもいるような、世界に絶望した青年だ。
自分の命を自ら捨てるほどではなかったが、自分の命に執着するほど、彼の絶望は甘くなかった。
「では、その命を私がいただきましょう」
彼のような人間はたくさん居る。
故に、少しぐらい世界からいなくなったとしても、毎年の行方不明者の中にカウントされるだけで、世界は何も変わらない。ただ、世界に絶望した青年が居なくなって、少しばかり世界が広くなっただけだろう。
そして、神隠しの主犯たる八雲紫が、その青年に与えた役は『生贄』、あるいは『食糧』だった。彼女が管理する幻想郷という楽園。その楽園に住まう人食いの妖怪たちへ、配給代わりに『死んでもいい人間』を送っていた。青年はその中の一人にカウントされたのである。
そして、青年は――
「あぁあああああああっ!!」
荒々しい口調と共に、特殊合金のナイフが振るわれる。
梵字で『淀みよ、去れ』と刻まれたそのナイフは、低位の妖怪を切り裂き、吹き出る鮮血が、彼の体を赤く染めた。
「死んでたまるか、死んでたまるか、こんなことで……」
青年は必至の形相で、生存を望んでいる。
これは、八雲紫の誤算だった。珍しく、彼女は人間の中身を読み違えた。青年は確かに死にたがりに等しいほど、自分の命に執着してないが……それ以上に、『理不尽』嫌う性質を持っていたのである。
だから、彼に『神隠し』なんて理不尽を与えてしまえば、当然、こうなってしまう。なまじ、外の世界で幻想を駆逐する掃除屋に就いていた青年は、低位の妖怪ぐらいなら排除し、生存を可能とする能力ぐらいはあったのだ。
「――あ?」
「わはー♪」
しかし、その戦闘力については八雲紫の計算通りだった。
ただ、殺されるままに殺される人間より、ある程度抵抗した人間の方が、幻想郷の法則にとって糧となるのだから。
妖怪を恐れる人と、退治されることを恐れる妖怪が両立するからこそ、この幻想郷という楽園は存在しうる。だから、青年が必死に抵抗するのはむしろ、八雲紫にとっては願ってもいないことだった。
「くそっ、この幼女がぁ!」
加えて、青年は妖怪と戦う手段をもっていたとしても、超人ではない。ただの人間だ。いきなり、闇を操る妖怪に視界を奪われ、不意を打たれれば負傷もする。
右腕を、食われたりもする。
「わはー♪ やっぱり活きの良い人間の肉は格別なのかー!」
闇の中から、ぶちり、ぐちゃりと、青年の肉を食らう音が聞こえる。
食い破られた部分から、青年の体の血が噴出する。
「くそ……」
致命傷だ。
青年は助からない。
むしろ、右腕を食いちぎられた時に、ショック死しなかったのが奇跡なのだ。奇跡は二度も起きない。
「お肉っ♪ お肉っ♪ お肉っ♪」
闇を纏う妖怪が、鼻歌交じりに青年へと迫る。
「――はっ、上等だ。こんな理不尽で俺を殺そうってんなら、ああ、わかったよ」
「わはー、いたたきまーす!」
妖怪の牙が、青年の鎖骨を砕いで肉を貪った。
「こっちも手段は選ばないぜ?」
その隙を、自身が死ぬ僅かな間隙を縫って、青年は残った左腕を動かす。
「わは?」
「ははっ」
闇の中に居る妖怪を、青年は抱きしめ――――『それ』を唱える。
「我が身は全て、御身の糧とならんことを」
神に捧げられた生贄が唱える言葉を、妖怪の魂へと刻み付けた。
●●●
それは異変というにはあまりにも些細過ぎた。
「最近、人里の雰囲気が悪いような気がする」
人里に住む半妖が、誰に言うでもなく呟いた。
「あんまり、近寄りたくないわね」
半妖と仲の良い不死人も、その独り言に頷く。
彼女たちの言葉の通り、幻想郷の人里は少々、空気が悪かった。
しかし、それは些細な口喧嘩が発展した形だったり、少々、運の悪いことが続いたりするだけで、特に妖怪が積極的に関わっている様子は見られなかった。
そもそも、幻想郷のルールとして、妖怪たちは、人里の人間には手を出さないということが約束されているのだ。わざわざそのルールを破ってまで、何かをしようとする者は少ない。
加えて、人里の雰囲気が悪くなったのは、急激な変化ではない。
一年ぐらい前から、ゆっくりと、些細な口喧嘩が増えていく程度で、ささやかに、段々と、当たり前のように悪化していったのだ。
傍から見れば、人間たちの自業自得としか捉えられない。
故に、八雲紫は積極的な干渉を行わなかったのだが、
「嫌な感じがするわね」
唯一、博麗霊夢だけが『彼』の策略に感づいていた。
―――もっとも、その時はもう手遅れだったのだけれど。
●●●
「では始めましょうか」
「おうさ、始めようか」
「楽園の終わりを」
「復讐を」
「楽しい虐殺劇を」
「つまらない蹂躙劇を」
「「世界に絶望をもたらす神として、今、一つの世界に終焉を」」
一年間。
長く雌伏した存在が、闇を纏って疾走した。
まず、それが狙ったのは、妖怪の山に住まう厄神。
人々の厄を引き受け、禊ぎ、清める徳の高い神である。
「あは――――」
しかし、同時に厄神という存在は、悪神という反面も持っている。だからこそ、その属性に干渉できるような存在が、居たとしたら。厄を食らい、弾幕も糧として、瞬時に襲い掛かってきたとしたら、対処は難しいだろう。
「――やめっ」
「反転せよ」
抗う間も無く、それの存在に引きずられて、厄を清める神は、厄をばら撒く悪神へと反転してしまった。
次は、吸血鬼が住まう赤き屋敷。
「――咲夜っ!」
「おまかせを」
闇とはすなわち不可視、未知を示す。
光あれ、と世界を照らされる前に存在していた何か。
故に、運命を操る吸血鬼の視界から、それは逃れることが出来ていたのである。
しかし、偉大なる吸血鬼と、忠実な従者は動じない。
例え、館全体を一瞬で闇に包まれようとも、その一瞬で時を止めてしまえば、どんな奇襲も無駄になるからだ。
「…………っく……はぁ、はぁ……これで全てです」
不可視の闇の中の捜索は、予想以上に従者に負担を掛けた。
当然だ。時を止めるという破格の能力を、不可視の闇の中で使用し続け、館全体をくまなく警戒してきたのだから。
けれど、その対価として充分な成果を得られた。
闇の中ではあるが、館の入り口付近で、この事態を引き起こしたであろう侵入者を見つけた……いや、探り当てたのである。
「――時よ」
従者は、挨拶代わりに無数のナイフを放って時を動かす。
時の呪縛から逃れたナイフは、放たれた勢いのまま、侵入者を闇の中で貫き――
「くはははっ! そう来ると思ったわ、時を操りしメイドさん」
「しっかり予習済みだぜ?」
女と男、二つの嘲る声が返ってきた。
ナイフが空を切り、そのまま館の壁に突き刺さる音も。
「実体を自在に変えられる妖怪ですか。何者か知りませんが、無断でこの屋敷に入ったことを後悔しなさい」
だが、その程度で従者はうろたえない。
あらゆる妖怪が集まる幻想郷で、己の技が通用しない事態を一つも想定していないなんてありえない。事実、このまま戦えば、この侵入者の正体を暴き、魔女と主人が来るまでこの場に縫いとめることができただろう。
「あははっははははっはははははははははあっはははははははははっ!!」
館中に響き渡った、狂気の叫び声が聞こえなければ。
「妹様っ!?」
館を砕き、あらゆる物を壊す破壊の化身が、狂い笑っていなければ。
「闇はどんな者にも存在する――――私はそれを少しばかり押し上げただけさ」
「俺は絶望を教えてやっただけさ」
愉快そうに笑って、侵入者の声は消えた。
闇も晴れ、館に光が戻る。
「あははははっ! ぜーんぶ! ぜーんぶ! 壊れちゃえっ♪」
そして、絶望だけが残された。
●●●
「さて、これで終わりね」
「一年間頑張ったかいがあったなぁ」
「意外とあっけないわ」
「俺たちだけの力じゃない。皆の力が合わさって、こうなったんだ!」
「素敵なことね」
「本当に」
「――で、そろそろかしら?」
「そろそだな」
「「初めまして。あるいはまた会いましたね、八雲紫様」」
最後に、それは人里を闇で覆って賢者たる八雲紫を待った。
闇を纏わず、その姿を晒して、待っていた。
「やってくれたわね」
そして、隙間と共に八雲紫はそれの目の前に現れる。
いつもの優美で妖しい笑みは浮かべず、険しく、睨むようにして。
「ルーミア……いえ、かつて太陽神の眷属を殺して回り、幻想の果てに封印されし、空を亡くす神よ」
紫の前に居るのは、かつてルーミアと呼ばれた宵闇の妖怪では、もはやない。
幼かった彼女の肢体はすらりと伸びて、成熟した大人の女へと変貌を遂げていた。その金髪も、長く伸び、彼女を封印していたリボンはもうすでにない。
「その名前はもう古いわ」
「正確には合っていないわけだ」
八雲紫の言葉に、かつてルーミアだった存在と、それに食われた存在は、答える。
一つの口で、二つの声で、答える。
「私は闇」
「俺は絶望」
「ただの本能として」
「ただの復讐として」
「「楽園を終わらせる名無しの神だ」」
けたけたけたけたけたけた。
それは、嘲笑う。
己の成果に酔いしれて、嘲笑う。
終わる世界と楽園を。
「まだ終わらないわ。厄神は一時的に反転しただけ。ばら撒かれた厄も、山の神々と巫女が鎮めている。狂った吸血鬼だけじゃ、この幻想郷を包む結界は壊しきれない」
「しかし! 異変解決をすべき博麗の巫女を、結界の維持に回さなければいけないほど、事態は大変だろう?」
「ぶっちゃけ、大ピンチだよなぁ? この上――」
すぅ、とそれは己の足下を指さす。
そこには、闇に囚われて、意識を失っている人里の人々が。
「ここの人間を皆殺しにされちゃ、バランスが崩れて結界の崩壊が進むよなぁ?」
「守る結界は内側からの破壊に弱い。基本よね?」
「…………させないわ」
それと八雲紫が対峙する。
本来なら、蹂躙される立場である青年が、己の無念を空亡へと刻み、祈り、得た境地だ。
そして、それはもう完遂されていた。
「させないですって?」
「何を勘違いしているんだか」
「貴方がここに来た時点で」
「もうチェックメイトなんだぜ?」
ぱきん、とガラスが割れるような硬質的な音が響く。
小さな音だったというのに、幻想郷全てに、その音が響いた。
「これはっ!?」
「今ここに、全てが揃ったの」
にぃ、と口元を三日月に歪めてそれは言う。
「外を知る者と、闇に囚われ、終わりを望む人々。幕引きの神。境界を司る妖怪。そう、ここに。この魔法陣の中に入った時点で――」
「決着はついていたんだよ、八雲紫」
ひび割れる音は続く。
殻が割れるように、雛が孵るように。
長い間守られてきた、楽園が崩壊する。
「一年がかりで練りに練った術だ」
「魔女にも、普通の魔法使いにすら及ばない無知な私たちだけど」
「外の技術と」
「私の力があれば」
「「ざっとこんなものさ」」
かつて太陽神に下され、敗北した神は勝ち誇る。
かつてその命を奪われ、敗北した青年は満足げに笑う。
やっと、借りを返すことができたのだと。
「――まだよ!」
八雲紫は敗北した。
大結界は徐々に綻びを増し、いずれ、博麗の巫女の力をもってしてもその崩壊を止めることはできないだろう。
だが、しかし。
この場で、目の前の祟り神を封じ、仕掛けられた魔法陣を利用して、その術を返すことができるのなら、あるいは――
「だが、遅い」
「言ったでしょう? チェックメイトだと」
八雲紫が何かをしようとした瞬間、それは無造作に己の首を切り裂いた。
青年が持ち込んだナイフで、首を切り落とした。
「ははは」
「あはははは」
「「はははははははははははは」」
落とされるはずの首は浮遊し、切り離された体からは膨大な闇が溢れ出る。
この闇はいずれ、崩れる楽園を多い、終焉を彩るだろう。
「ではでは!」
「俺たちはここまでなので!」
「最後に格好良く」
「ちょいと有名主人公から台詞をパクりまして」
「幕引きとしましょうか」
引き起こされた現実が信じられず、絶望に沈んでいく八雲紫へ、それは告げた。
「叡智が溢れる世界に」
「汝ら幻想」
「住まう場所無し」
「渇かず」
「飢えず」
「「無に帰れ」」
忘れ去られた幻想は消えゆくのだと、当たり前の法則を、それに抗いたかった女に告げた。
これが有り得てしまった幻想郷の終焉。
『絶望をばら撒く程度の能力』を持った青年によって、壊されてしまった未来の話。