このみ騒動のあとわずか三日滞在しただけで桐生夫妻は東京へと帰っていった。様々な傷跡とハーモニカを残して。あの時以来朝の散歩の時このみは姿を現さなくなってしまった。具体的な理由は分からないが、十中八九あのキスのことだろうと予想がつく。
誰かに相談したくて結葵はお昼時の駄菓子屋に立ち寄った。なにか悩んでいるような結葵の顔を見て楓は何も言わずに、居間へと上がらせた。今日の加賀山けの昼食はそうめんだった。狙ってそうしたのかはたまた偶然か、結葵はそのそうめんを見てあの光景を思い出してしまう。
「まあ食いながら話そうか。どうせこのみのことだろ?」
結葵は楓の言葉に頷いて、そうめんをすすり始めた。熱い日差しでぼーっとする頭をすっきりさせてくれた。
「このみにとって不幸だったのは泥酔じゃなかったことだな。忘れてたらそれほど悩まなかっただろうけど、アイツははっきりと覚えてるらしいぞ。」
「・・・そうなんだ。」
としか返事ができないのがもどかしい。いま彼女に会ったらどんな顔をすれば良いのか、どう声を掛ければ良いのか全く分からなかった。
「まったく・・・もうガキじゃないんだからさ、早いとこ何とかしてくれ。見てるこっちが参ってくる。」
「何とかするって・・・どうやって?」
「そうだな・・・今夜あたりでも星を見に連れてってやれば?たぶんそれで全部上手くいく。」
普段の楓とは似使わない言葉に結葵は目を丸くした。
「楓ちゃん・・・いがいと乙女チックなところがあるんだ。」
「う、うるせーな・・・いいから、それが嫌なら自分で考えろ!」
「いや、楓ちゃんが言うならそうさせてもらうよ。そう言えば今日は流星が見える日だっけ。・・・・・・やっぱり乙女チック。」
「良いからさっさと食っちまえ!片づかねーだろ!」
顔を赤くして怒る楓を久しぶりに見る結葵はやっぱり可愛いなーと、思うのであった。
星を見るならば二つの場所がある。一つは海上、もう一つは山頂だ。海に行けば遮る物は何もなく、あるのは海と星だけだ。しかしよほどのことが無い限り街明かりの影響を受けない場所まで行くことは難しい。それに海上は雲ができやすい。
星を見るならばやはり山に行くのが最適なのではないだろうか。
虫除けスプレーや、懐中電灯など星の観察に必要な道具をそろえていく。このみを誘う際にした二人の通話は何ともぎこちなく、簡素な物だった。
「も・・・もしもし、このみちゃん?」
『う、うん・・・そうだけど。』
「良かったら今夜星を見に行こうー・・・なんて。」
『・・・一緒に?』
「どうかな?」
『う、うん・・・じゃあ・・・行く。』
「分かった。じゃあ、準備しておいて。」
『うん・・・。』
結葵はまだこのみにどうやって接すれば良いのか分からなかった。
「リエス、しっかり留守番頼んだよ。」
「ワン!」
もやもやとした気持ちを抱えたまま結葵はバイクのアクセルを握った。
結葵との電話の後、このみはしばらく固まっていた。電話越しに話せたことは素直に嬉しかった。しかし、実際に結葵に合わせる顔が無かった。嬉しいけど、困る。会いたいけど、会いたくない。複雑な気分だった。
受話器を置いたまま放心しているこのみを見つけた」母が心配そうに声を掛けた。
「どうしたのこのみ。何かあったの?」
母の問いかけになおこのみは反応を示さない。次に軽く肩を揺さぶってみた。
「わっ・・・ご、ごめんなさい。ぼーっとしちゃってた。」
「なにかあったの?」
普段ななら何でも無いと言って誤魔化すのだが、今日は理由を話したい気分だった。
「あのね、結葵君に星を見ないかって誘われたの。」
「あら、良いじゃないの。お母さん全っっっ然構わないわよ。」
案の定母親は目を輝かせて、了承した。言ってしまった以上止めるわけにも行かないので、このみは準備をするために自分の部屋に戻った。
先に手荷物を済ませて、どんな服を着ていこうか悩んでいるうちにいつの間にか日が傾いていた。結葵が迎えに来ると言っていた時間まで少しだけ余裕があった。このみはベッドに腰を掛けて何となく本棚を見つめる。アルバム、雑誌、辞書と順番に目で追っていく。そして二冊の文庫本に目がとまった。二葉亭四迷と夏目漱石。この二冊だけ少し異彩を放っている。これは二年前に友人からもらったものだった。
結葵、楓、このみは同じ図書員会に所属していた。本来なら週ごとに担当が変わるのだが、結葵、楓、このみは互いの担当の日にも手伝いとして一緒に仕事をしていた。このみの友人は本の虫で、いつも本を読んでいる文学少女だった。放課後になるといつも図書室にいるものだから自然と結葵や、楓とも話すようになっていった。このみの恋心ももちろん知っている。
「桐生先輩は漱石のしたたかさと、四迷の情熱的な愛情表現はどちらが好きですか?」
ある日の仕事中にこのみの友人が結葵に突然そんな質問を投げかけた。本好きな彼女なりの手助けのつもりだったのだろう。しかし意図が伝わらなかったのか、結葵は小首をかしげる。
「I love youの訳仕方ですよ。漱石は知ってますよね?」
「たしか月が綺麗ですね・・・だっけ。けど四迷の”しんでもいいわ”はYoursだったはず。」
ようやく意図が伝わり、思った以上に結葵が博識なのでこのみの友人は目を輝かせた。
「そうですよ。「死んでも可いわ…」とアーシヤは云つたが、聞取れるか聞取れぬ程の小聲であつた。このときアーシャはこれで私の身も心もあなたのものと思っていたんでしょうね。あなたののためなら死んでもいい、つまり死ぬほど好きってことですよ。」
「・・・・・・なるほど。」
「それで先輩は漱石と四迷どちらが好きですか?」
「俺は漱石派かな。」
「そうなんですか。ちなみにこのみは四迷が好きらしいですよ。見かけによらず情熱的なんです、このみは。」
それを隣で聞いていたこのみは顔を赤くして二人の会話を強引に終わらせた。翌日、このみのもとに漱石と四迷の文庫本がプレゼントされたのだった。
そんなことを思い出していると、窓の外から聞き覚えのあるバイクの音が聞こえてきた。その瞬間どくんと心臓が跳ね上がった。
母親のにやにやした顔に行ってきますと言ってから、少し重い足取りで玄関に向かった。扉を開けるとバイクを止めた結葵が立っていた。心臓が痛いほど激しく脈を打つ。それを落ち着けるように小さく深呼吸をしてから、回らない下を動かして言葉を紡ぐ。
「ひ・・・久しぶりだね。」
「うん、久しぶり。このみちゃん。」
何でも無いただのあいさつ。しかし、それだけで不安な気持ちが一気に吹き飛んでしまった。ちゃんと目を見て話ができた。それだけでとても幸せな気分だった。
結葵からヘルメットを受け取って、後部座席に座る。
「じゃあ、しっかり掴まってて。」
どこに掴まれば良いのか分からないこのみはとりあえず服の袖をつかんだ。結葵がアクセルをいれると思った以上に勢いよく加速をした。慌ててこのみは結葵の体にしっかりと腕を回して、体を密着させた。周りの景色が少し見えにくくなってしまったが、呼吸をするたびに小さく動く結葵の体や体温を感じることができた。それに手のひらからわずかに感じる結葵の鼓動は、少し早かった。
対する結葵も背中に感じるこのみの体や、少し視線を下げれば見える彼女の手にどぎまぎしていた。
「さて、ついたよ。」
「おー誰もいないね。」
駐車場は一台の車もバイクもなく、広い空間は寂しささえ覚えるほどだった。虫除けスプレーをして、二人は高台へ上る。星を綺麗に見るコツは、月をなるべく視界にいれないことだ。日は完全に沈んでいて、星の明かりと懐中電灯だけが周りを照らしていた。
星がよく見える場所で二人は芝生に少しだけ距離を空けて寝転んだ。
「すごい綺麗・・・流れ星がいっぱいだね。」
「これなら一回くらいは、三回願い事が唱えられるかも。」
そんな話をしていたら、本当に大きな流れ星が現れた。とっさに二人は願い事を三回念じた。
「うそ・・・本当にできた。」
「俺も・・・。」
それからしばらく夏の大三角形や、天の川を探していた。
このみはベガとアルタイルを見つめながら、七夕の話を思い出していた。
永遠の別れではなく、一年に一度会えるのだからそれは幸せなことじゃないか。少し前のこのみならそう思っていた。しかし、実際に味わったあの空白の一年はその考えを大きく変えた。一年に一度だけ、それは永遠の別れよりも遙かにつらいことだと今は思う。一日、また一日と思いをはせながらようやく再開し、また一年がリセットされる。そんなもの耐えられるはずかない。
もし結葵が東京の環境に順応してしまったら、もし両親の説得に失敗してしまったら―
そう考えると、今こうしていられることがどれだけ尊いことか嫌と言うほど実感できる。
このみは二人の間にある隙間を埋め、結葵の手に自分の手をそっと重ねた。
突然手を重ねてきて結葵は少し驚いた。それにいつの間にか二人は密着するような距離まで近づいていた。
このみの右手は少し冷たく、小刻みに震えていた。もっと触れたいけど、遠慮をしている。そんな彼女の気持ちが伝わってくるようだった。結葵はこのみを可愛らしく、愛おしいと思った。もっと彼女を感じたい。結葵はこのみのてを強く握る。このみの手が一瞬驚いた様に強張ったが、受け入れるように少しずつ強く握り返してきた。
もっと触れたい、もっと感じたいと、お互いを求めるように小指、薬指と少しずつ二人の指が絡みだす。そして完全に二つの手が一つに重なった。
無言のまま星を眺め、流れる星を目で追う。言葉で発しなくても、二人は深いところで会話をしていた。
帰る時間になり、駐車場に戻ってもなお二人はずっと手をつないだままだった。街灯に照らされたバイクを見たこのみはぎゅっとつないだ手を強くした。まるでまだ帰りたくないと言っているかのように。結葵もこのみと同じ気持ちだった。
すでに自分の気持ちに気がついていた。いますぐ隣にいる少女がとても大切で、愛おしく、かけがえのない存在なのだと。
結葵は空いた左腕でこのみの体を抱きしめた。
「ちょっと・・・ツナギ君、どうしたの?」
「その・・・月が綺麗だなって。」
そう呟いてから、結葵は細く、長い深呼吸をする。このみもその後に続くであろう言葉を待つように、じっと結葵の顔を見つめる。
「好きだ・・・どうしようも無くて、たまらないくらいにこのみちゃんが好きなんだ。」
「・・・・・・!」
そして結葵の告白。このみは制御ができない感情でいっぱいになり、あふれだし、それは涙としてこぼれ落ちた。
このみも空いた右腕で結葵を抱きしめ返す。そしてつないだ手は胸の高さまで持ち上げ、握る。より強くしっかりと。
「遅いよ・・・ずっと気がつかなかったの?」
「・・・・・・ごめん。」
つないだ手が離れ、いつしか二人は両腕でお互いを話さないように抱きしめ合っていた。
「うん、許してあげる。それでね・・・。」
このみは抱きしめられたまま顔を上げて結葵の目を見た。
「どれくらい好き?」
結葵は迷いなく吸い込まれるように、唇を重ねた。あの時に比べてずっと甘く柔らかく、少しだけしょっぱかった。