じめじめした鬱陶しい梅雨の時期も過ぎ、強い日差しの元蝉が五月蠅く鳴く季節がやってきた。
分校ではもう夏休みに入ってる。その証拠に朝こうしてラジオ体操をしている。
結葵はその様子をリエスに水をやりながら見ていた。すると、ふと疑問が沸いたので隣にいる夏海達の母親に聞いてみた。
「あれ?雪子さん、一穂さんはいないんですか?」
「ああ、かずちゃんねーどうしたのやら。」
おそらくまだ寝ているのだろう。生徒達はこうして規則正しく生活しているのにこれでは示しが付かない。
「詳しくはれんげちゃんに聞けばどうです?」
「そうしようかね。そうだ、結葵君ウチでご飯食べていきなさいよ。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
大概の食事の誘いに関しては結葵は断らない。それがご近所付き合いというものだからだ。
そんな話をしている内にラジオ体操も終わったようだ。れんげがまた変なダンスを踊っていたようだ。
「ゆーゆーどうでしたか?ウチのダンスは!」
「今日も抜群に決まってたよー、ほら判子もらってきなよ。」
「押してもらうーん!」
れんげは朝から元気であった。
「本当はかずちゃんの役目のはずなんだけどねー。」
「ねーねーは今日も寝てるのん。」
「一度がつんと言ってやらんとね。」
「言ってやって欲しいのん。」
宮内家の長女に雷確定。未だ夢の中であろう先輩に結葵は心の中で黙祷を捧げた。
「れんげちゃんのとことご両親畑仕事だっけ?かずちゃん寝てるならウチで食べてく?」
「食べるん」
「あと蛍ちゃんも食べてく?他にも結葵君が食べてくらしいけど。」
「あ、はい。じゃあお言葉に甘えて。」
本日の越谷家の朝食はいつもより賑わいそうだった。
小鞠と蛍は直売所でトマトを買いに行き、結葵とれんげは越谷家にお邪魔することにした。
「雪子さん、何か手伝いましょうか?」
「助かるわねーじゃあ、お味噌汁作ってくれる?」
「分かりましたー。」
「じゃあウチは目玉焼き作ろうかっなー。」
そう言って卵とフライパンを取り出す夏海。一抹の不安を覚えた結葵は夏海に問う。
「夏海ちゃん、一応聞くけど焼き方知ってる?」
「もーツナギってば馬鹿にしすぎだよ。目玉焼きくらい作れるって。焼くだけなんだし。」
そう言うが、結葵は心配せずにはいられない。
「一応言ってけど油は引くんだぞ?」
そのまま卵を割ろうとした夏海に早速注意をする結葵。夏海は卵を割ろうとした手を止めて、油を取り出した。
「油ってどんくらい?」
「フライパンに井戸の井の字を書けば足りるよ。」
「サンキュー。」
夏海にばかり時間を割くのももったいないので結葵は自分の作業を行うことにした。手際よく具材を切っていく結葵の包丁さばきを夏海は目を奪われていた。
「おーツナギって料理できたんだ。」
「夏海、卵焦げてるよ!」
「・・・・・・あ。」
案の定真っ黒焦げにしてしまった。その惨劇を見た結葵と雪子は夏海の目玉焼きを中断させた。
「ただいまー・・・あれ?結葵こんなところで何してるの?」
トマトを片手に小鞠が台所に現れた。
「おかえりー。何もしないのもなんだから味噌汁作ってたんだよ。」
「そうなんだ。はい、トマト。これ入れるんでしょ?」
越谷家の味噌汁にはトマトが入っている。最初は驚いたが、自分の家とは違う独特の味が次第に美味しく感じていった。
トマトを良く水洗いして火を止めた味噌汁に投入して完成。人数分取り分けて今へ運ぶ。
今では少し居心地が悪そうにした蛍が座って待っていた。
「はい味噌汁できたよー。」
「あ、結葵さんお手伝いしましょうか?」
「いいのいいの、蛍ちゃんはお客さんだから。」
「は、はい・・・。」
「ごはん持ってきたーん。」
れんげの手にはこれでもかと白米が盛られた茶碗があった。
「ほたるん大きいからいっぱいよそったん。」
「うわーよそったねー。」
「ゆーゆーのはもっとよそったん。」
そう言ってれんげが持ってきたのはどんぶりサイズの白米だった。それを見た結葵と蛍は驚いて目を見開く。
「もりもり食べてもりもりして下さい!」
れんげは二人にいっぱい食べて欲しいという優しさでご飯を持ってきたのだ。それが分からないほど二人は鈍感では無かった。
優しさには優しさで答えよう。そう決意した結葵と蛍だった。
結局結葵は食べきったのだが蛍は半分食べきったところでギブアップ。残りは結葵が食べたのだった。
「結葵さん、よく食べられますね・・・。」
「まあ、その分消費してるからねー。」
苦しそうな蛍とは対照的に結葵は涼しい子だった。
「あ、そうだ。これから海行くんだけどツナギも行く?」
「海ねー・・・・・・。」
水着はどこにあったかと結葵は考える。
「ちなみにこのみちゃんも来るよ。」
夏海は結葵の様子から行くことを渋っていると解釈したらしい。
「なぜそこでこのみちゃんが出てくる?」
「私としてもかずちゃん以外の保護者がいてくれると安心なんだけどね。」
確かに保護者が一穂だけだと少し・・・いや、頼りない。
「分かりました、付いていきますよ。」
そして電車を乗り継ぎやってきた海。久しぶりに来た浜辺は変わらずゴミ一つ落ちていない。
「海きたねー。」
「海きましたねー。」
「海・・・ですねー。」
パラソルの下でシートを広げてぼーっとしている一穂と小鞠。結葵はクーラーボックスの上に腰を下ろしていた。
三人をよそに夏海とれんげは砂遊びをしていた。丁度その横を通り過ぎた卓が夏海に呼び止められて生き埋めにされているが、シュノーケルがあるので大丈夫だろう。
「こまちゃんは泳がんの?」
「・・・まだいいです。」
「水着忘れたとか?」
「こうやって海眺めるの好きなんで」
じわじわと外堀から埋めていった一穂がついに核心を突く。
「とか言いつつ水着着ると中学生に見られないから嫌なんでしょ?」
「そうですよ!!」
切れた小鞠は一穂にただっこパンチを繰り出す。
「あーはいはい・・・それでツナギはなんでパーカー羽織ってるの?焼けるのが嫌?」
「なんでそんなに女々しい理由で羽織んなくちゃいけないんですか。違いますよ。」
「じゃあ他に理由でも?」
「・・・・・・まあそのうち話しますよ。」
「お待たせしましたー、すみません水着着るの手間取っちゃって遅れちゃいましたー。」
いち早くなぜか一穂は小鞠の目を隠した。数秒遅れて声のする方を見た結葵はその理由を理解した。
目の前には小学五年とは思えないほど発育した少女が一人。これでは高校生と間違えられても頷ける。
「あれ?何してるんですか?」
「いや、ちょっとしたゲームをね・・・いないいなーい。」
「・・・・・・うう゛ぁあああああぁぁぁ。」
現実とはかくも無情なものであるのか。格差社会を目の当たりにした小鞠はとぼとぼとジュースを買いに歩いて行った。
「先輩どうかしたんですか?」
「それは自分の胸に聞いてみなよ・・・・・・それよりも君は本当に小五ですか?」
「あれ?このみちゃんはどこにいったの?」
「え?来てないんですか?私よりも先に着替え終わったので外で待ってるって言ってたんですけど。」
蛍と一穂が目をこらすがいっこうに見つける事ができない。
「どれどれ・・・・・・あ、いた。」
結葵は素早く周りを見渡してそれらしき人物を見つける。その間に数秒も経っていない。
「流石ツナギ早いねーで、どこにいるのん?」
「あそこです。」
結葵が指さす先には数人の男に囲まれたこのみがいた。見るからに柄の悪そうな連中だった。
「あーあんなところに・・・それにしてもあの子スタイル良いね~ほたるん以上じゃない?」
「まあ、スタイル良くて美人の子が一人で歩いていたら声かけられるよな~」
「こ、このみさん!大変です結葵さん早く助けないと!!」
「分かってるよ、じゃあさっき言った理由を教えるついでに行ってきますよ。」
「いってらっしゃーい。」
知り合いがピンチなのにもかかわらず結葵と一穂はきわめてのんびりとしていた。それをみて蛍は自分の方がおかしいのかと思ってしまうほどに。
このみの方へ歩いて行く途中、結葵はパーカーを脱いで左手に持つ。
「おーい。そこで何やってんのー?」
「・・・あ、ツナギ君。」
結葵のいつも通りの緩い声に気がついたこのみは安心した表情を見せた。
「何だよ、誰だお前?」
取り巻きの一人が声を掛けるが結葵は完全に無視。連中の輪の中に入って、このみを後ろに誘導した。
「おい、聞こえねえのかよ!?」
「お前らこそこの子に何か用か?」
振り返った結葵を見て全員の顔が引きつる。それもそのはず結葵の体には大小様々な傷跡が残っている。いずれも山中の獣たちと死闘の末付いたものだ。それにスポーツ選手も真っ青の筋肉。普段大きな丸太を両肩に軽々担いで急斜面を上り下りして鍛えられた筋肉は伊達じゃ無い。極めつけは左肩から右脇腹にかけて走る大きな傷跡。幼い頃熊にやられた傷跡だ。それが異様な迫力を放っている。
「・・・・・・聞こえなかったのか?」
結葵は罠に獲物を見つけた猛獣のような、鋭く獰猛で冷酷な目つきを相手に向ける。それだけで戦意を喪失させるには十分であった。
「す、すみませんでした!!」
すごすごと引き上げていく連中を見送ってから結葵はパーカーを羽織り直す。
「このみちゃん大丈夫だった?何かされてない?」
「ちょっと怖かったけど・・・大丈夫。ありがとう来てくれて。」
「当たり前だよ、それにこれは役得だしね。」
そう言って結葵は左手に視線を落とす。このみは自分で気がつかないうちに結葵の腕をしっかりと握っていた。
「・・・・・・あ。」
恥ずかしそうに俯くこのみだが、手を放すつもりはないようだ。
「ほら、折角海に来たんだから楽しまなきゃ。」
「そうだね・・・うん、楽しもう!」
「いやー格好良かったねツナギー。まるで美女と野獣みたいだったよー。」
「野獣ですか・・・。」
「そんなこと無いです!結葵さん王子様みたいで素敵でした!」
「ありがとう、蛍ちゃんは優しいね。・・・さて、俺も一泳ぎ行ってきますか。」
そう言って結葵は一人でさっさと海の中に入っていってしまった。そしてみるみるその姿が小さくなっていく。
「おーツナギ君早いねー。じゃあ蛍ちゃん、一緒にビーチボールで遊ぼっか。」
「はい!」
このみと蛍も波打ち際まで行ってしまった。一人荷物版の一穂だけ残る。
「みんな元気だねーあれ?こまちゃんどこ行ったんだろ・・・まあ、そのうち来るかー。」
この一穂の考えが裏目に出て、小鞠が迷子になるという珍事件が起きるのだった。
「はあ、どうしようかツナギ君。」
電車を乗り継ぎやっとの事で地元に帰ってきた結葵達。しかし最後の乗り換えで一穂だけ乗り過ごしてしまったのだった。正確には寝過ごして乗り過ごしたのだが。
「しょうが無い・・・迎えに行ってやるか。」
「じゃあ、私も行く。」
こうなってしまったのもちゃんと一穂に注意を払わなかったせいだと少なからず責任を感じる結葵。仕方ないので家まで車を取りに行き、このみと迎えに行くことにした。
「おーこれがツナギ君の車?格好いいねー。」
「まあ、ちっちゃくて気に入ってるんだけどね。ちょっと飛ばすからしっかりベルトしててよ。」
「はーい。」
峠道をできるだけ急いで下っていく結葵。途中白黒の豆腐屋を抜いたような気がしたが気にしない。今は一刻も惜しい。
「ツナギ君運転上手だねー。こんなに飛ばしてるのに全然怖くないよ。」
その言葉に安心した結葵はさらにアクセルを踏む足に力を込めた。丸いテールランプの黒くて大きいスポーツカーや、黄色いばかでかいウイングを付けた車体の低いスポーツカーを抜いた気がしたが気にしない。
「いやー助かったよ後輩君達~。」
駅に着いた二人は真っ先にホームに入った。すると誰もいないホームにただ一人ベンチで寝る一穂の姿があった。
「全く終電なのに寝過ごすなんて・・・。」
「あはは・・・面目ない。」
「まあお仕置きと言っちゃあ何ですが、耐えられるか頑張って下さいね。」
「・・・・・・へ?」
一穂の背筋に冷や汗が走る。なぜなら二人のルームミラー越しに見える顔が全然笑っていなかったからだ。
「ねーねーお帰りなのん。」
「こらーれんげちゃんまだ寝てなかったの?」
「ごめんなさいなのん、でもねーねーが心配だったのん。」
「まあまあこのみちゃん許してあげなよ。ほら、ちゃんと連れてきたぞー。」
「うぅ・・・助けて・・・ぶつかる~崖に落ちる~」
結葵の背中には、やつれた顔でなにやらぶつぶつと呟く一穂がいた。
「れんげちゃんしっかりツナギ君がお仕置きしていたから、そんなに怒らないようにね?」
「分かったのん。」
「うぅ~・・・なんで横向いてるのに前に進むの~ん・・・。」
その日から数日間一穂は少し平衡感覚がおかしくなっていた。