ストヘス区地下街。ここは壁内世界創設時に建造された地下空間であり、巨人が攻め込んできた時の市民の避難場所である。しかし百年余りが経過する内に
深夜の時間帯、地下街は陽の光が差さない空間なので昼夜無関係なのだが地下街の裏通りにある娼館の三階の窓から黒い影が飛び出してきた。薄暗い中、別棟の屋根の上に着地した影は、建物の影に隠れるとベールを脱いだ。褐色のショートの髪がふわりと舞う。
影は元調査兵ペトラ=ラルだった。リタの指令を受けて、ペトラはここストヘス区地下街の娼館に預けられていた元捕虜のカーヤの所までやってきた。カーヤが眠っている隙に寝室に忍び込んで瓶を盗み出した。この瓶は数時間前にカーヤに接触してきた謎の男から手渡された紙袋の中身である事は確認済みだった。
ペトラは瓶の中身が空気に触れないように慎重にキャップを緩め、僅かな隙間からスポイト用器具を使って数滴の薬品を送り込む。この薬品はシャスタ特製の巨人化ウィルス検知薬であり、もしこの瓶の中身が巨人化薬品なら化学反応があるはずだった。
(……)
しばらく待ってみたが何の反応も示さない。
(うーん、反応がないわね……)
さらに数分待った後、反応がない事を再確認してからリタに連絡を入れる事にした。
「こちら、
ペトラは声帯にマイクを触れてリタに呼びかけた。周囲に音声が漏れることはないが、極力符号で話すルールにしている。
『……』
反応はなかったので、再度呼びかける。三度呼びかけてようやく返事が返ってきた。
『こちら、
「
『そうか、ならば瓶の中身を摩り替えろ』
「対象の処分は?」
『不要だ。対象の監視は引き続き
シャスタに任せるとは機械監視(盗聴と位置情報)という事である。毒薬を持っていなければカーヤは無力だろうというのがリタの判断らしい。
「了解」
『それと接触者の身元が割れた。ストヘス区の有力商会の手下のようだ』
カーヤに接触した謎の男はニファ達(元ハンジ技術班)が尾行していた。ちなみにニファには通信機をペトラを通じて貸与している。
『新興の商会らしい。詳しい調査は今後も継続させる。お前は
「はい、了解しました」
『では健闘を祈る』
ペトラは通信を終えた。
(ふぅー、大変な事になっちゃったな)
ペトラは大きく溜息を吐いた。同時に責任の重さが自分の肩に圧し掛かってくる。敵巨人勢力の大侵攻を目前に控え、ヴラタスキ侯爵家主力・リヴァイ特務部隊、そして各兵団主力はウォールローゼ決戦に備えて厳戒態勢に入っており、王都は警備が手薄な状態である。敵工作員達はこの隙を衝こうというのだがら、戦術的には実に理に適っていた。大規模テロ計画を通知された参謀総長エルヴィンは警戒を強化するだろうが、敵に巨人化能力者がいるとなると話は違ってくる。トロスト区防衛戦の
(ううん、ここでがんばらないと。ハンジさんが作ってくれた未来を繋げるためにも……)
ペトラは
トロスト区駐屯兵団宿舎大食堂、ここ数ヶ月、ミーナ達新兵が溜まり場にしてきた場所である。本日の夕方には晩餐会、いや決起集会と言っていい盛大な夕食会が催された。普段滅多にない肉の山を見たサシャは狂喜して失神するほどに大食いし、そのまま自室に搬送される運びとなった。臨時編成分隊を預かるイアンが地下壕に運び込めない日持ちの悪い食材を捨てるぐらいならと食材を大盤振る舞いした結果である。
「なあ、ジャン。アルミンは俺達に何の用なんだ?」
夕食会の後片付けを終えたミーナ、コニー、ジャンの3人が食堂の片隅に集まってヒソヒソと話していた。大食堂の中に他に人影はなく閑散としている。
「さあな」
「ミーナはなんだと思う?」
「わ、わたしにだって判らないわよ」
「ったく、なんなんだよ」
「……」
そこで会話は途切れてしまった。待たされる事数分、ドアが開きアルミン達が入室してきた。アルミンの後ろには、ミカサ、クリスタ、そして長身の色白の大人の女性が入ってきた。ミーナは初めて見る顔である。鍛えられている筋肉質なところからして兵士のようだった。
(誰なんだろう?)
ミーナは首を傾げた。
「やあ、ごめん。待たせたね」
「おい、アルミン。呼びつけておいて待たせるなよ。って誰?」
コニーはアルミンに文句を言った。
「紹介するよ。この人は……」
「ああ、いいって。自己紹介ぐらい自分でするよ」
女性にしては低い声、彼女はずいっと自分達の前に出てきた。
「私はトラウテ=カーフェン。元中央第一憲兵団対人制圧部隊の副官よ」
「なっ!?」
「ええっ!?」
対人制圧部隊といえば革命前夜の調査兵団本部襲撃事件の主犯である。多数の巨人を操って調査兵団本部を襲い、研究棟にいたハンジを始め、大勢の調査兵の殺害に関与している。つまり敵だった人物である。
「心配しなくていいわ。今はお前たちの敵ではないわ。私たち対人制圧部隊の生き残りは侯爵夫人様の預かりの身、一言で言えば囚人部隊ってところね。懲役は喰らっているけど今作戦に協力すれば戦功によっては減刑、あるいは恩赦もあると聞いているわ」
「うん、そういう事なんだ。今回の作戦に協力してもらう事になっている」
アルミンがトラウテの説明を補足した。総統府から参謀役に命じられたアルミンが保証するからには事実なのだろう。
「……」
「それで俺達を呼び出したわけは?」
「ここにいる僕達はミカサを除けば、あの戦い(トロスト区防衛戦)でユミルが巨人化したところを目撃しているよね?」
「ああ、そういえばそうだったな」
「うん」
ミーナ、ジャン、コニーは相槌を打った。
「あの後、ユミルは巨人の群れの中に消えた。その後は……」
「その後は私が話すよ」
トラウテがアルミンの話に割り込んできた。
(どうしてこの人が?)
ミーナは疑問に思ったが、アルミンが頷いたのでトラウテは話を続けた。
「ユミルはなかなかどうして強かったみたいね。4m級程度なのに30体近くは殺している」
「……」
「だが流石に巨人の数が多すぎたようね。うなじを噛み切るのに失敗した一体に抱きつかれ、さらに周りから寄って集って喰われて、ユミルは死んだわ」
それは当然予想されていた結末だった。あの日、ミーナ達も押し寄せる巨人の群れの中で、決死の撤退戦で辛うじて生還できたのだから。
「ユミルは体は巨人になっていたかもしれないけど、兵士としての本分を見事に全うしたと思う。ユミルが多数の巨人を仕留めた事で多少なりとも味方の負担は減ったでしょうから」
トラウテは感慨深く語った。クリスタは瞼を閉じ、
(エレン……、そしてユミルもまた……。ありがとう、ユミル)
ミーナは散っていった同期の顔を想い浮かべて感謝の念を抱いた。ユミルは自らの命と引き換えにクリスタを助け、また多くの敵巨人を道ずれにしていったのだった。同じ選択を迫られたとき、自分は果たしてそこまでの覚悟ができるのだろうか。ミーナは多少なりとも戦場を潜り抜けてきたはずだがそこまでの自信はなかった。
「ところで、お前達、巨人化能力者を普通の巨人が喰ったらどうなると思う?」
トラウテは意外な疑問を投げ掛けてきた。
「えっ?」
「どうなるんだ?」
「人の姿に戻る。いや、この場合は巨人化を制御する力が移ると言った方が正解でしょうね。そしてユミルを喰った巨人は、元の人間の姿に戻った。そいつは民家の地下に隠れていたけど、我々対人制圧部隊の者が確保している。なぜだが分かる? いざ味方の者が瀕死の重傷を負った際、巨人化薬品を注射して喰わせれば、怪我が完治した上に巨人化能力が手に入れられるからよ。それが私」
「え、えーと、トラウテさん。つ、つまり、その人を喰べたということか?」
ジャンが訊ねるとトラウテは首肯した。
「そうよ。私はあの超大型爆弾で瀕死の重傷を負って、余命幾ばくもなかったけど、フリーダ様が降伏後、ユーエス軍指揮官、今の侯爵夫人様から巨人化薬品の使用許可を頂いたのよ。繋いでもらった命、今度死ぬとしたらフリーダ御嬢様やあの方のお役に立って死にたい。お前達と動機は違うだろうけど、巨人達と戦う決意には変わらないわ」
トラウテは一気に喋り立てた。
「あっ。その……、フリーダ御嬢様ってどなたでしょうか?」
ミーナはアルミンに訊ねた。
「そうだね。君達はユミルの件で守秘義務を課せられて今まできちんと守っているからね。だから許可はもらっているから説明しておくよ。……公式発表は一切されていないけど、あの革命に協力してくれた大貴族の一つだよ。ローゼ北側に領地を持つレイス家当主の長女、それがフリーダ様だよ」
反乱軍(現在の兵団政府)があれほど鮮やかに革命を実現できたのは詳細な内部情報を得ていたと言われる。しかし、その実情についてはほとんど公表されていなかった。一方でヴラタスキ侯爵家との軍事同盟は権威付けの意味もあって、大々的に報道されていた。情報は公表すべきものと公表すべきでないものがあるという事だろう。
「君達にトラウテ女史の事を話したのは、彼女の世話を頼みたいからだよ。巨人化能力者は全て敵というわけじゃない。侯爵夫人の管理下にあるならば裏切りの心配はないし、なにより有力な戦力だよ」
「うん、ユミルの事はとても残念だったけど、でもトラウテさんは味方だと思います」
クリスタもアルミンに同調した。
「使えるものなら使うべき。断る理由はない」
ミカサはぼそっと呟いた。
「なるほどな。よし、わかった。アルミンの頼みを聞こうじゃないか」
ミカサの一言を受けたせいか、ジャンは即答した。
「わたしも了解したよ」
ミーナはそう答えた。事情が事情だけにアルミンの頼みは断れないだろう。アルミンの作戦の鍵となるのが彼女だからだ。
「ふっ、仕方ねーな。俺達は口が堅いから任せろって」
コニーは鼻を擦りながら胸を張って承諾する。
「なにが口が堅いだ!? お調子者のくせに!」
「なんだと!? ジャン、オレに喧嘩売ってのかっ!」
ジャンとコニーは互いに睨みあいに入り、一触即発である。
「ふふっ、この子達、仲がいいわね」
トラウテは微笑を浮かべた。
「「違う!」」
ジャンとコニーは声を揃えて否定する。
「まあまあ」
ミーナは二人を宥めるべく声をかける。
その後、ミーナはアルミンからトラウテの付き人を頼まれた。クリスタ・ミカサはそれぞれ別の任務が割り当てられているらしい。巨人化の秘密を知っている者、さらに女性同士という事でミーナが選出されたようだ。ミーナはこの作戦が終わるまでトラウテとペアを組む事になるのだった。
就寝時間、宿舎でミーナに割り当てられた個室にトラウテと二人っきりになった。
(こ、この人、巨人化能力を持っているんだよね。も、もしかして、わたし、食べられる?)
「ミーナ、わたしがお前を食べると思ってるの?」
「え、ええっ!?」
心を読まれてしまったのかと思い、ミーナは動揺した。実のところ、緊張で体か硬くなりすぎたところを見られたのだが……。
「ふふっ、確かに食べてしまいたいぐらい可愛いわね」
ミーナは恐怖で後ずさりする。
「冗談よ。冗談」
「冗談じゃない気がします」
「ごめんなさいね。怖がらせるつもりはなかったよ。クリスタやミーナの事、とても懐かしく思ったから」
トラウテはどこか遠いところを眺めているようだった。
「え?」
「わたしはユミルの記憶を持っている。それだけじゃない、ユミルが食べた以前の能力者の事の記憶も持っているわ」
「じゃ、じゃあ、さきほどのユミルの最後の事は……」
「そう、ユミルの記憶からよ」
「そ、そうだったんだ」
「後、さきほどの話ではユミルは仲間を守る為の名誉の戦死という事にしたけど、本当はクリスタだけを守るためだった」
「そ、それはなんとなく分かっていました」
ユミルのクリスタへの親愛ぶりはミーナもよく知っていた。訓練兵時代、ユミルはよく「クリスタ、結婚しよう」と言っていたが、半分は本心だったのかもしれない。
「クリスタには言わないでね。訓練兵時代のユミルの記憶は殆ど無い事にしているからね。クリスタが余計辛くなるだろうから」
ユミルの記憶を持っているとはいえ、目の前の女性(トラウテ)は全く別の人格なのだ。彼女の言うとおりにした方がいいだろう。
「うん」
ミーナは頷いた。
「じゃあ、そろそろ寝ようか? 明日も早いだろうし」
「えーと……」
「寝ている内に巨人になるなんてことはないから安心しなさい」
「そ、そうなんですか?」
「侯爵夫人の許可が必要なのよ。ここではあの金髪の少年の許可になるわ」
「アルミンの?」
金髪の少年といえば真っ先にアルミンが浮かんだ。
「そう」
トラウテは頷く。
「へぇ……」
巨人化能力に関する情報・用兵は相当な国家機密に属するはずである。ということはアルミンはただの作戦参謀ではなく、重要な情報を知った上での作戦立案を任されているということだった。4ヶ月前は自分と同じく訓練兵だったはずのアルミンは、兵団政府首脳により大抜擢されたという事になる。ミーナは裏の事情を知らないが、スミス参謀総長やピクシス司令といった軍首脳部に認められる戦果を挙げたのかもしれない。
「す、すみません。なんか色々と聞いてしまって」
「わたしも少しお喋りがしたかったから。それじゃあ、おやすみ、ミーナ」
トラウテは急な移動で疲れていたのか、ベットに潜り込むとそのまま寝込んでしまった。
(わたしも眠くなってきたかな?)
昨日の避難誘導以来、敵襲に備えての篭城準備などでミーナも疲れていたようだ。ベットに潜り込むと、いつの間にか睡魔に襲われていた。
850年12月8日、午前6時30分
曇り空の下、
【あとがき】
カーヤの裏切りを察知したリタはペトラをストヘス区地下街に派遣。件の瓶を奪い、中身を入れ替えます。意外にも巨人化薬品ではありませんでした。ただ敵テロ組織の全容解明までは至っていません。調査する時間もないかもしれません。
クリスタの親友で巨人化能力を持っていたユミルはトロスト区防衛戦において壮絶な最後を遂げていました。そのユミルの巨人の力は巡り巡ってトラウテ(対人制圧部隊女性副官)が得ています。アルミンの秘密兵器はトラウテでした。トラウテ自身はフリーダ・ケニーに対する忠誠心が篤いので、フリーダが公爵夫人&兵団政府に味方する事を決めている以上、それに従います。
この話にも出てきましたが、リタは対人制圧部隊の生き残り(ケニー・トラウテ達)を囚人部隊として、自軍に取り込んでいます。使えるものは使えの精神ですね。極秘の監視システムをリタは持っているので、裏切られる心配はありません。もっともフリーダが兵団政府側の味方である以上、忠誠心の篤いトラウテは心配する必要はないかもしれません。
トラフテが寝ているうちに巨人化しない旨をミーナに伝えた箇所を追加しました。(1/27)
内外に敵を抱えたままの人類連合軍、そしてついに敵巨人勢力による大侵攻が開始されました。