囲碁部に入ってから数週間が経っていた。
佐為や星川という存在ばかり見続けてきたオレにとって、三谷や筒井さんといった同年代の実力者と打つ事、そしてあかりや津田、金子の様な初心者に対して自分が教える立場に回るというのは当然初めての事。その一つ一つが本当に新鮮で、元々は院生試験に向けて星川との対局の機会を求めて始まった部活だったけれど、いつしかこの空間はオレの大切な場所になりつつあった。
そんな中でも星川との対局だけはやっぱり別格だ。アイツは本当に凄い。まるでオレを正しい道筋に導くかの様な打ち回し、その一つ一つを見ているだけで自分の囲碁が確実に成長していくような気さえして、改めてアイツが雲の上の存在であることを再認識させられる。
それでも星川に追い付きたくて努力する事が、何より囲碁の奥深さを日々実感するこの毎日が、オレにとっては本当に楽しくて充実した時間となっていた。
……だけどそんな満足感に反して、オレの後ろにいる幽霊の欲求は日々募る一方のようで。
――ねぇヒカル。何時になったら私に打たせてくれるんですかぁ……
――いや打ってんじゃん。今もこうやってオレと……
――違います! あの子と……星川彩とですよ!
最近、特に囲碁部に入って定期的に星川と打つようになってから、こうやってアイツとの対局をせがまれる事が増えた。初めは星川が打つ、そして語る碁を目を輝かせながら見ていた佐為も、次第にそれだけじゃ満足できなくなってきたってところなんだろうか。
――もうちょっと我慢してろって。……お前だってオレが簡単にそう出来ない事くらいわかるだろ?
――それは……わかっていますけど……
そりゃ一度約束した手前もあるし、何よりオレ自身もう1回星川と佐為の碁を間近で見たいと思っていた。囲碁を全く知らなかった当時のオレでさえ目を奪われたあの対局、もちろんまだまだオレはこの二人の足下にも及ばないけれど、曲がりなりにも半年間囲碁を学んできた今なら、きっとあの時より更に深くコイツらの碁に触れる事が出来る。一体そこにはどんな景色が広がっているのか、考えるだけでもワクワクしてしまう。
それを実現するだけなら簡単な話だ。ただオレの代わりに佐為に打たせるだけ、早ければ明日にでも叶う。……だけどそれをしてしまえばどうなるかなんて、オレにだって容易に想像がつく。
オレは一度星川と佐為を打たせている。何故かアイツはあれ以来その一局の話を持ち出すことは無いけれど、とにかく今のオレなんかじゃ及びもつかない碁を、『オレ』が打ってしまっているんだ。
偶然だなんていう自分でも相当苦しい言い訳を、星川は笑って受け入れてくれた。そんなアイツと佐為をもう一度打たせてしまったら……今までのオレの碁が全部嘘になってしまう。実力を隠していた事を軽蔑されるかもしれないし、何よりアイツがオレを、オレの碁を見る事はもう無くなってしまうだろう。……それだけはどうしても嫌だった。
――うぅ……こんなに近くにあの子がいるのに対局が叶わないなんて。この身が無いのが恨めしい……
よよよ、と涙を流しながら恨み言を呟く佐為。毎日打ってるオレとしては、それ以上に他の奴と打ちたがる事に何だか釈然としない想いはあるけれど……
「……確かにオマエもオレに教えるばっかりじゃつまんねーよな」
それでも気持ちはわからなくはなかった。オレだって同じ奴としか打てないとしたら文句の一つも言うだろうし、自分と対等の強さ、負けるかもしれないとすら思う様な相手が目の前にいるんだったら尚更だ。
――あ……ち、違うんです! ヒカルと打つ事だって私にとっては……
――そういう意味じゃねーって。……ま、その内何とかしてやるからさ。
――……ごめんなさい、ワガママ言ってしまって。……大丈夫ですよ、私にはまだ時間がありますしね。今はヒカルが強くなることが第一! さ、続きを打ちましょう!
どこか寂しそうな笑顔を浮かべながらも佐為は対局の続きを促してくる。痩せ我慢が見え見えのクセに、それでもオレを気遣ってくれるのは嬉しいけど……確かにこのままじゃ余りにもコイツが不憫だ。
……まァ星川と打つっていうのはさすがに厳しいけど、せめてオレ以外の奴とくらい打たせてやりたいよな。……そろそろ何か考えてやらねーと。
改めて白石を掴み、佐為の扇子が示す位置に石を置く。相も変わらず厳しく美しいその一手、コイツもまた雲の上の存在であることを実感しながら、そんな佐為のために何か出来る事はないかと、オレは再び思考を巡らせるのだった。
―――
しかし1日やそこら考えてみたところで名案が浮かぶはずも無く。
囲碁部で打たせてやろうとも思った。でも、良く考えたらそこには星川がいる。今のオレの力をよく知るアイツの前で佐為の碁を見せるっていうのはやっぱり躊躇われてしまう訳で。……仕方なしにオレが取った手段は、本当に本当に気休め程度のものだった。
「……あかり、今からちょっと時間ない?」
「え、どうしたの?」
「一局打たねェ? ……なんつーか、部活だけじゃちょっと打ち足りなかったしさ」
帰り道、家の前に差し掛かったところでオレはあかりに対局を持ちかけた。……もちろんこれはオレじゃなく、佐為に打たせるためだ。
あかりなら多少打ち方が変わった所で気づいたりはしないはず。当然あかりとの対局なんかじゃ佐為は満足しないだろうけど、それでもせめてオレ以外の相手とくらい打たせてやりたかった。それでアイツの気が少しでも晴れるんならって、そう思ったから。
「……まァ用事があるとかなら別にいーけどさ」
「あっ……な、無い! 何もないよっ! ……ヒカルが打ってくれるなら私嬉しいっ!」
何だか放心気味のあかりに、まあ無理強いするもんでも無いと再び声を掛けてみれば、打って変わって身を乗り出しながら声を張り上げてくる。
……やけにテンションたけーな。そんなにあかりも打ち足りなかったのかな。
「お、おう。じゃあオレんちいくぞ」
「うんっ!」
とにもかくにも無事に承諾を得たオレは、随分と機嫌の良いあかりを連れて家の中へと入っていったのだった。
――ヒカル……いいんですか?
――ま、星川とあかりじゃ比べ物にもならないだろうけどな。その代わり指導碁だぞ? 思いっきり緩めてな。
――はいっ、もちろんです! ありがとうございますっ!
嬉しそうにしちゃってまァ。でも……こんだけ喜んでくれるんだったら、たまに打たせてやるってのも悪くないかもな。
――……あかりちゃんにはちょっと申し訳ないですけど、ね。
――は? 何でだよ。アイツにしたってオレより佐為と打った方が勉強になるだろ。
――い、いえ。そういう事ではなくてですね……
――訳わかんないこと言ってねーで、ホラ行くぞ。
――はぁ……あかりちゃんも大変でしょうねぇ。
ちなみに囲碁部でのオレとあかりの手合割は星目、だけど今回に限っては打つのは佐為。9子程度じゃ話にもならないんじゃないかと思っていたのだけれど、そんなオレの心配を他所に対局中の佐為は終始ご機嫌な様子だった。辿々しく石を置いていくあかりを微笑ましく見つめながら、ヒカルにもこんな時期がありましたねぇ、だなんて感慨深げに呟いている。
――えー、オレはこんなにヘボじゃなかったぞ。
――何言ってるんです。始めはみんな同じ初心者、それにヒカルなんて最初は石もまともに掴めなかったじゃないですか。……こう、スポッと石を飛ばしたりして!
――うっ……む、昔の話だろっ!
囲碁を始めたばかりの頃、そうやって黒石を一つ無くしてしまった。そんなかつての恥ずかしい記憶が頭を過り、半ばそれを振り切るかの様に盤面に目を戻す。
そうして改めて見てみれば、勢いであかりの事をヘボなんて言ってみたものの、何だかんだでちゃんとした碁になっている。少なくとも囲碁部でオレと対局する時よりもずっとしっかり打てているじゃないか。
それはもちろんあかりが成長したってのもあるんだろうけど……
……佐為が、そうさせてるんだよな。
目を離せば道を誤ってしまいそうな、そんな拙い足取りのあかりの手を取り、正しい道へと誘うかの様な佐為の打ち筋。そんな佐為に引っ張られて、あかりもいつも以上の力を発揮している。
文字通りお手本の様な指導碁。……そしてそれは、正に星川がオレ達にしている事と同じだった。
――しっかし上手くやるもんだよな……お前にしろ、星川にしろ。
――遠からずヒカルにも出来る様になりますよ。それにこの碁はあかりちゃんの為だけではなく、ヒカルに見せる為の一局でもあるんですからね?
――……オレの為?
――私達の石の運び……その流れをしっかり見て、感じなさい。ヒカルにはそれも大切な勉強になるんですから。
――石の流れ、ねぇ……
曖昧な言い回しに戸惑いながらも、言葉のままに二人の一手一手に意識を預けてみれば、いつしか自分もこの対局、この世界に居るような錯覚に陥っていく。
佐為が導く。あかりが……応える。
気が付けば自分より数段ヘタクソなあかりの一手ですら、オレは素直に美しいと思えるようになっていた。
あかりの対局なんか見てても自分には何の意味も無い、これはあくまで佐為のために用意した一局。そんな風に考えてたけれど……こういうのも悪くないんじゃないかって、ちょっとだけ思えた。
――それにしてもさァ、お前オレと打つ時と比べて対応が違いすぎねえ? オレにはいっつも容赦ねーのに。
――ふふ、では次からは指導碁にしましょうか?
――……いや、やっぱいい。お前に手加減されるとそれはそれでムカつくんだよ。
――それに容赦無いだなんて心外な。私はまだまだ本気じゃないんですけどね。
――……あーそうですか。
「ありがとねヒカル。すっごく楽しかった!」
結果はあかりの2目勝ち。もちろんそれは佐為が勝たせてあげただけに過ぎないのだけど、勝利という結果に加えて、自分なりにも上手く打てたという実感があるのか、対局後もあかりの機嫌はすこぶる良かった。
佐為もそんなあかりを見つめながらコロコロと顔を綻ばせているし、コイツも何だかんだで満足したって事なんだろうか。
「ねえヒカル、その……良かったらさ、また今日みたいに打ってくれないかな?」
「……え、何だよ急に」
「ほ、ほら。夏の大会だってあるし、せっかく女子も出るんだから私ももっと強くなりたいなぁ、なんて。……それに今日のヒカル、何だかいつもより優しかったし……」
……ふーん、あかりはあかりなりに強くなろうとしてるって訳か。
何であかりはそんなに真っ赤な顔をしているんだろう、という疑問はとりあえず置いておくとして、良く考えてみるとそれは案外悪くない提案かもしれない。
佐為は喜ぶだろうし、佐為と打つことであかりの棋力も上がる。この対局を見る事はオレにとっての勉強にもなるんだし。
「……そうだな。オマエと打つのも息抜きくらいにはなるだろ」
「ほ、ほんと? ……ってちょっと、息抜きって何よ! もうっ!」
茶化し気味にその提案を承諾し、相も変わらず顔を真っ赤にしながら不満を口にするあかりを宥めつつ、改めて今日の対局の簡単な検討を行う。
そうして気が付けば時計は6時を回っており、夏前とはいえ辺りも暗くなり始める頃合いになっていた。
「ふわ、あーぁ……そんじゃ、そろそろ終わりにすっか」
検討も一段落し、気が抜けたという事も相まって、昨日の夜更かしのツケを吐き出すかのような大きな欠伸がこぼれてしまう。
「あはは、すっごい欠伸。もしかして囲碁の勉強で夜更かしでもしてたの?」
「……ん? ま、まあそんなところかな」
「学校の勉強もそれくらい頑張ればいいのにね」
「余計なお世話だよ。ふあーあ……」
確かに遅くまで囲碁を打っていたのは事実だけど、夜更かしの原因の大半は佐為の件について考えてたからなんだけどな。
「そういえばね、彩も部活が終わった後におっきな欠伸してたんだ」
「……ふーん、星川が?」
「うん。夜遅くまで囲碁の勉強をしてたみたいだよ」
……アイツが、ねぇ。あれ以上まだ強くなろうとしてるのかよ。
後ろでは佐為が『ほう! やはりあの強さは日々の研鑽の……』とか何とか言いながら感心しているけど、個人的にはちょっとくらい立ち止まってくれないといつまでたってもオレが追い付けねーじゃん、なんて思わない事も無い訳で。
ほら、そんな風に考えてたら佐為がすごい剣幕で文句を言ってくる。そんな事でどうするんですかーって。
……わかってるっつーの。冗談だよ。
「何かね、インターネットで囲碁を打ってるんだって」
「……ああ、よくわかんねーけどゲームみたいなもんだろ? つーかそれ勉強って言うのかよ」
「うーん、ゲームとはちょっと違うのかな? 友達と打ってるって言ってたし」
「え? ……そんな事出来んの?」
テレビゲームの様にコンピューターを相手にする。てっきりそう思っていたオレは、あかりの返した答えに思わずそう聞き返してしまう。もちろんパソコンなんて全然詳しくないけれど、離れた場所にいる友達と囲碁を打てるという事実は、自分にとっては少なからず衝撃的だったから。
一方で話題を提供したあかりはと言うと、生意気にもそんなオレの反応に気を良くしたのだろうか、『彩が言ってたんだけどね?』と一言前置きを挟むと、得意気に胸を張りながら更にネット碁の世界について語り始める。
「友達だけじゃないよ。ネット碁ってね、世界中の人と打てるんだって。それこそ、地球の反対側にいる人とだって」
遠く離れた、世界中の人達と。
「凄いよね。お互いの事なんて全然知らない人達が、同じ画面を見ながら囲碁を打つんだよ?」
自分を知らない人達と、画面だけを通じて、囲碁を打つ。
あかりの言葉を脳内で反芻させながら、噛み締める様にその意味を昇華させる。……そして導き出されたのは、まさに今の今までオレが思い悩んでいた問題の答え。
そうだ、コレなら……!
「彩にも勧められたんだけど、さすがに私はまだちょっと怖いかなーって……」
「あかり、オレちょっとお母さんに用事があるからオマエ適当に帰っていいぞ! じゃあなっ!」
「え、えっ? ちょっとヒカル、ヒカルってばぁ!」
既に階下に向けて慌ただしく走り出していたオレには、そんなあかりの声なんて届くハズもなかったのだった。
―――
「おカネはいいけど、その代わり内緒よ? それと私がいない日はダメだからね?」
「うん。ありがとう、三谷のおねーさん!」
結論から言うと、ネット碁を打つためにパソコンを買って貰おうというオレの作戦は、『バカな事言ってないで早く宿題をやってしまいなさい!』というお母さんの一声で即破綻してしまった。
家でネット碁が出来ない以上は他の場所を探すしかない。もちろんそういった所に詳しくないオレとしては調べるのも一苦労で、半ば手探り状態で身近な友達である三谷に相談してみたところ、何とこれがいきなりビンゴ。そうして紹介されたのが三谷のおねーさんが働いているこのネットカフェ。
基本的に週末が出勤日らしく、それは平日に部活があるオレとしても好都合で、何より無料でネットを使えるというのは中学生の自分にとって本当にありがたいことだった。
――わ、わ! てれびがいっぱいありますよ、ヒカル!
――テレビじゃなくてパソコンな。……っと、ここか。
慣れないパソコンの扱いに四苦八苦しながら、時々三谷のおねーさんに助けてもらったりして、そうやって何とか初期設定を完了させる。後はいよいよ名前を登録するだけだ。
――それはそうとヒカル。この……ぱそこん? とやらで今から何を始めようとしてるんです?
――……ああ、オマエに好きなだけ囲碁を打たせてやろうと思ってさ。
――え? …………えええっ!?
期待通りの反応を見せてくれる佐為に内心ほくそ笑みつつ、その一方で何処か気持ちが高揚している自分がいる。
――もちろん指導碁なんかじゃねェ。全力で打っていいんだぜ?
――す、好きなだけっ? 全力でっ!? ……相手は、相手は何処にいるんです!?
――オマエの相手はこの中。オマエは今から世界中の碁打ちと囲碁を打つんだ。
――せ、世界……?
オレだけにしか見えない佐為が、この中では確かに存在する。オレだけしか知り得ない佐為の碁が、ここでは誰の目にも映るのだから。
心なしか震える指先でキーボードを叩く。そうしてディスプレイに浮かび上がるのは、この世界でのオレの……オレ達の名前。
「よーしいくぜっ! ハンドルネームはs・a・i。……saiだっ!!」