入学初日に島田美波と吉井明久と知り合って以降、小春はその二人と行動する事が多くなっていた。……というか、その二人としか行動していなかった。
日本語の喋れない帰国子女と人類史上最強のバカとツンデレなコミュ障少年、というトリオは周囲の同級生たちからは異色に映るようで、皆に人気な明久以外の二人に自分から話しかけるような酔狂な生徒は一人として確認されていない。まぁ、日本語が通じなかったり睨まれたりで会話が成立しないという事が大きな原因であるのだが。
そして。
美波と小春のコミュ障っぷりを誰よりも近くで感じている明久はとある日の昼休み、勇気を出して思い切って二人にきっぱりとこう言った。
「ねぇ二人とも。もう少し他の人とも話したりしてみない?」
「別に必要ない」
「
パックのジュースをストローで吸いながら愛想なく返答する小春と、以前に増して大分上達してきている日本語で落ち込んだように答える美波。美波の一人称はついこの間までは『ワタシ』だったのだが、明久の「へ? What a sea?」というバカな発言が原因で急遽『ウチ』に小春が変更させたのだ。最初は凄い違和感があったが、美波がその一人称を気に入っているのと以前の様な勘違いが発生しなくなったのとで、必然的に頭の方がその一人称に慣れてしまっていた。
そして、美波が言う『失敗』とは、二日ほど前にやけに絡んできた男子生徒達に「ダマりなさい、このブタどモ!」と凄くイイ笑顔で言ってしまった事を指す。その時の美波は単純に「ちょっと静かにしてください」と言いたかったらしいのだが、他のクラスの女子生徒が「話しかけないでください、この豚ども!」と言って男子生徒を黙らせている光景を目撃してしまい、それが正しい方法だと勘違いしてしまっていたのだ。どう考えても俺のバカ姉じゃんか、とかなりの罪悪感に襲われた小春を一体誰が責められようか。
空になったパックを右手の握力だけで握り潰し、机の上で頬杖を突きながら小春は言う。
「大体、お前らだってわざわざ俺ン所に来なくてもいいんだぜ? アキは坂本や土屋、それに木下弟とも仲良いんだしさ」
「まぁまぁ、そんな冷たい事言わないでよ、小春。僕たち三人は入学式当日に友達になったんだよ? もはや運命的な出会いとしか思えないよ。そんな大親友を放置するなんて、僕には考えられないって」
「チッ。……勝手にしろ」
突き放すように吐き捨てる小春だったが、そんな彼の頬が少し赤く染まっているのを明久は決して見逃さなかった。やっぱり、小春は良い人だなぁ。少しだけツンデレだけど、根は真面目だし、なによりも島田さんの通訳と日本語教育係を自分から買って出てるんだもんなぁ。
ニコニコ笑顔で小春の評価を更に高める明久。
美波は弁当箱の上に箸をそっと置き、
「ウチは、清水がいナいと会話が滞っちゃウし……そもそも、清水がイなイと日本語もまともに喋れないカラ……」
「あン? もう今の時点で結構喋れてんだろ? 後は発音の問題だよ、発音の。読み書きは別問題として、日常会話に支障が無けりゃ十分だっつの」
「そ、そレハそうだけど……」
しゅん、と少し俯いて落ち込む美波に明久は苦笑を浮かべる。小春は小春で(あーヤベー島田泣きそうだよ俺のせい? 俺のせいなんか!?)と不機嫌フェイスの裏で絶賛葛藤中だったりするのだが、それを悟る事ができる輩はこのクラスに一人しかいない。……まぁ、そのたった一人の達人は小春とはあまり仲良くないから除外されてしまう訳なのだけれど。
つっけんどんな小春と落ち込む美波を交互に見、明久はニヤニヤ笑顔で――言い放つ。
「そんなに愛想失くしちゃダメじゃないか、小春。島田さんは『ウチ、清水がいないと駄目なの! 清水がいないと寂しいの!』って全力でアピールして右肘が引き千切れるように痛いぃいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
「べ、別にそんなこと一言も言ってナいじゃナい! あんマり勝手な事言ってると、全身の関節を二倍に増やスワよ!?」
「もうすでに増えそ――あっ、ダメ! そこの関節はそっちには曲がらな……っ!」
物理的に次世代生物としての階段を美波が原因で明久は全力疾走で駆け上がっていく。全身の関節を二倍に増やすとか、それはもはやタコもビックリな軟体人間になってしまうのではないだろうか。……逆に見てみたい気もする。
はぁぁ、と呆れたように溜め息を吐く小春に美波は落ち込んだような表情を向ける。
「でも、ウチは清水ともっと仲良くなリタい。清水は日本でのウチの最初の友達だカラ、色々と「恋心」もあるしってなに声重ねて来てんのよ吉井!」
「凄いよ島田さん! 今の叫びの時、随分と流ちょうな日本語だっ――はい分かりました! もう失礼な言動はしませんから頸椎だけは勘弁してください! 流石にそれは洒落にならないと思うんだ!」
「ツギハ、ノウヲ、ブチヌク」
「過去最大級にカタコトな脅迫が怖ろしすぎるっ!」
ふしゅぅぅぅ……と謎の闘気を纏った美波に明久は恥も外見もかなぐり捨てて全力の土下座を決行する。ここ最近、この吉井明久という少年と付き合ってきて分かった事だが、コイツは土下座という行為に全くの躊躇いを持っていない。美波がキレたらすぐ土下座。小春が睨んだらすぐ土下座。高校入学後に何度も何度も繰り返しているせいか、最近はもはや芸術作品の領域にまで足を突っ込んでいる気がしてならない。特技は土下座、なんてどの国でも自慢にはならない気がするのだが……。
引き出しから次の授業に使う教科書とノートを取り出す。次の授業は現代国語で、小春は常人よりも日本語が読めないし書けない美波の為になるたけ丁寧且つ分かり易い言葉で板書をすることにしている。そのノートを美波に渡し、一日かけて美波が家でそのノートを自分のノートに写すのだ。その度に「ありガとネ、清水」と美波からお礼を言われるのだが、小春はいつも通りの態度で「別にお前の為じゃねえ」とツンデレな対応をしてしまったりする。ここまで無自覚なツンデレだといっそ清々しい。
ノートと教科書を重ね、その上に筆箱を置く。
眠たそうで気怠そうな瞳を美波に向け、小春はいつも通りのやる気の欠片もない口調で彼女に言う。
「まぁ確かに、島田はそろそろ同性の友達を作った方が良いかんな。俺なんつー社会不適合者なんかとツルんでたら、できる友達もできなくなっちまうだろうし……」
「いや、それは結構な極論だと思うけど……」
「そうは言っても現実問題、島田は俺と仲が良い為に女子から距離を置かれてんだぜ? 俺が原因である以上、その元凶が島田の為に譲歩するっつーのは極々自然の事だろ?」
「ち、違う! 別にウチは、清水が原因だナンて思ってなイ!」
突如として響き渡った美波の叫びにクラス中の視線が集中する。
「お前がそうは思ってなくとも、周囲の奴らがそう思ってんだよ。――だから、これからは俺とは距離を置けよ、島田。大丈夫、俺は昔から友達が少ねえ事で評判だっ――ッ!?」
パァン! と乾いた音が教室全体に響き渡る。
と同時に小春の右頬に熱い痛みが走り、極度のねじれで首がメキメキと悲鳴を上げた。
今のアクションを説明するのは至って簡単。
美波が小春を平手打ちした。
ただ、それだけの――凄く簡単なアクションだ。
叩かれた状態のまま固まる小春。
それに対し、叩いた状態のまま固まっていた美波は目からぽろぽろと涙を流し、
「どうして清水はそうやって自分を卑下するの!? そんな清水、ウチはだいっっきらい!」
「あっ、島田さん! まだ学校は終わってないよ!?」
明久の制止を完全に無視し、美波は学生鞄を片手に勢いよく教室を飛び出した。普通だったらクラスメイトが彼女を引き止めたりするのだが、先ほどの小春と美波のやり取りに気圧されているため、次のアクションに体が反応してくれなかったのだ。
美波に叩かれた右頬を右手で摩る。未だに痛みは引いておらず、心無しか右頬が少し腫れ上がってしまっている気がする。
「こ、小春……」と心配そうな声をかける明久。基本的に優しい人間である明久は、今の喧嘩の元凶である小春にも気遣いの言葉をかけてくれていた。
ハハッ、と小春は小さく笑う。
目じりに涙を浮かべながら、小春は俯きがちに――震える声でこう言った。
「……お前にだけは嫌われたくなかったんだけどな――美波」
☆☆☆
波乱の学校が終わり、夜の十時を回った頃。
島田美波はジャージ姿で坂道を駆け上がっていた。
「急いだせいで教科書を学校に忘レてくるルなんて……どんだけバカなのよ、ウチ……」
先の昼休みでの一件の直後、美波は脇目も振らずに自宅へと帰宅した。学校がまだ終わるような時間で無い真昼間に帰ったことで親から何か文句を言われるかと思ったが、幸運にも両親は仕事中で家にはおらず、葉月も葉月で「今日は友達とお泊り会なんです!」と携帯電話で連絡をしてきただけだった。夕方頃に学校から連絡が来たが「体調が悪くなったので帰りました。申し訳ございません」と嘘八百を並べておいた。どうせ嘘だとばれてはいるだろうが、教師というのは基本的に生徒の事を詮索しない。どれだけ怪しい言い訳だろうが、教師は基本的に生徒を信じるしかないのだ。
諸事情で両親と実妹がいない中、美波は一人で夕飯を作り、一人で夕飯を食べ、一人で風呂に入り、一人で部屋に篭っていた。――その間、美波は一言として喋ってはいない。
そして今日習った事の復習をしようと学生鞄を開き――教科書を学校に忘れてきたという事実に気づいた、という訳だ。
梅雨に入る前の夜は結構冷え込んでいて、走る美波の肌には少しばかりの鳥肌が浮かんでいた。走っているから少しはマシなのだろうが、やはり寒いのは寒いのだろう。
文月学園の校門の前まで到達した美波は、固く閉ざされた門を攀じ登り、校内へと侵入する。いつもだったら職員が一人か二人は残っているのだが……今日は全員仕事を早めに切り上げたのだろうか? まぁ、下手に教師に見つかって文句を言われないだけマシだと思おう。
鍵が壊れていることで有名な一階の女子トイレの窓から校舎内へと侵入し、一年D組の教室を目指す。灯りの一つも点いていない校舎は凄く暗くて思わず足が竦みそうになるが、幸運にも空に浮かぶ満月が廊下を仄かに照らしてくれていたため、恐怖心が少しばかり薄れてくれた。
職員室がある一階から一年生の教室がある二階へ。早めに用事を終わらせるため、美波は小走りで廊下と階段を進んでいく。
基本的に施錠されていない天井近くの窓を潜り、教室の床へと降り立つ。出る時が大変だと思われるかもしれないが、教室というのは基本的に後ろの扉が中から開錠できるように造られている。つまり、中にさえ入る事が出来れば脱出はそう難しい事ではない。
窓側の後ろから二番目の席まで歩を進める。満月の光に照らされた教室は、どこか神秘的な印象を美波に与えた。
と。
自分の机に近づいた美波の目に、
「これは……ノート?」
自分の机のど真ん中に置かれた、一冊のノート。表面が青の無地である点から、このノートが美波の物でないという事がすぐに察せる。美波のノートは緑と白の縞模様のノートで、こんな色のノートは一冊たりとも所持していない。
しかし。
美波はこのノートに凄く見覚えがある。
というか――
「このノート……もしかしナクても、清水の現代国語のノートなんじゃ……」
毎日のようにお世話になっている、清水小春の現代国語のノート。日本語が読めないし書けない美波の為に、怖ろしい程に綺麗な文字で丁寧にまとめられた――教科書よりもずっとずっと分かり易い、世界で一つだけの日本語教本。
何でこんな所に置き去りにされてるんだろう? と美波は不思議そうに首を傾げてノートを手に取り、パラパラパラッとページを軽く捲っていく。
そして、最新の書き込みまで到達した。
そして、美波の目が大きく見開かれた。
そして、そのノートには――こんな事が書かれていた。
『島田へ
今日はその、お前を怒らせちまって悪かったな。本当はあそこまで突き放すような態度を取るつもりはなかったんだ。ただ、その……何故かは知らねえけど、ついカッとなっちまったんだ。自分でも未だによく分からねえんだけどな。だけどまぁ、まずはお前に謝っとこうと思う。本当にごめん。
それでとりあえず、いつも通りに今日の分の板書を終わらせて、この前のページに纏めといた。喧嘩した癖にお節介な奴だな、とか思われちまうかもしんねえけど、もうこれは既に俺の日課みてえになっちまってっかんな。今更やめるのは逆に違和感がスゲーんだ。変だろ? 大丈夫、自覚はある。
で、だ。
ここからが本題。
昼休みン時、お前は俺に「大嫌い」っつったよな。
俺は基本的に他者と距離を置いているコミュ障だけど、何故か島田から言われたその言葉は――スゲー俺の胸に突き刺さったんだ。ハハッ、おかしいだろ? 他人なんかどうでもいいって思ってるこの俺が、お前に「大嫌い」って言われただけでスゲー傷ついちまってんだ。傑作だろ? 結局俺は、ただ単純に強がって粋がって寂しいのを我慢してただけの――ただのバカだったって事さ。
まぁ、ここまでの前置きから、こんなことを書くのはおかしいかもしんねえけど、さ。
俺は、その……お前の事、結構好きだよ。お前からどんだけ嫌われようが叩かれようが、この想いだけは全く変わらなかった。
お前と知り合った、あの入学式の日から。
俺はお前とずっと友達になりたかったんだと思う。
口下手で強がりな俺はお前に面と向かってそんな恥ずかしい事を言うことは出来ねえから、この文面を借りて言わせてもらう。
島田美波。
俺の友達になって欲しい。
どう考えても自業自得な訳だが、俺にゃ友達と呼べる奴が全くいねえ。アキは……基本的に俺が突き放してんかんな。アイツにゃ愛想つかされたかもしんねえ。
だからまずは、この学園で最初に俺と知り合ってくれたお前に、心の底から頼ませてもらう。
島田美波。――いや、美波。
俺はお前の友達になりたい。お前の友達として、お前の友達作りに協力したい。
お前と一緒に――この学園で過ごしていきたい。
お前が毎日頑張ってるのは知ってる。俺が日本語を教えてる時間以外でも、お前が教本片手にいつも日本語の勉強に勤しんでるって事、俺は知ってる。
お前の変な日本語を他の奴らは笑うかもしんねえけど、俺はお前の言葉を笑わない。
お前の努力を、俺は笑わない。
もう一度言うよ、美波。
俺の友達になってください。
そして、俺と一緒に――』
――友達をたくさん作っていこうぜ。
「…………バカ、じゃないの」
ノートを掴む両手が、小刻みに震える。
目頭はどうしようもなく熱くなっていて、心臓だって自分でも驚くぐらいに高鳴っている。顔に関しては、見るまでもなく朱くなっている事だろう。
ウチの努力を笑わない、か。
そんな事を言われたのは――そんな事を言ってくれたのは、清水小春が初めてだった。美波のために時間を割き、美波の為にいろいろと奮闘してくれた清水小春が、その初めてを言ってくれた。
嬉しい。
素直に純粋に心の底からそう思った。
ウチに日本語を教えるために、日本語の他にも英語とドイツ語を必死に辞典で調べて翻訳してくれた。ウチが分かり易い様にと、ドイツ語の難しい発音を勉強してウチに詳しい解説をしてくれた。普段使う事のない――それも、ドイツなどという遠く離れた国の言葉を訳して発音する事がどれだけ大変か、それはウチが身をもって体験している。
そんな、どの世界の誰よりも、ウチのために頑張ってくれていた小春を、ウチは引っ叩いたのに。
そんな、人の頑張りを否定してしまったウチなのに。
清水小春はウチの事を拒絶するばかりか――不器用なりに一歩踏み出してきてくれた。
ああ、やっぱりツンデレじゃないか。どれだけ本人が否定しようが、やっぱりアイツはツンデレだ。自分の本心を表に出す事が出来ないくせに、他人の為にいろいろと頑張ってくれる――正真正銘、バカが付くぐらいのお人好しだ。
ぽたっ、とノートの上に涙が落ち、文字が少しだけ滲んでしまう。
美波は小春のノートをギュッと抱きしめ、
「ウチもアンタの事――嫌いじゃないわよ、バカ小春……」
☆☆☆
そして翌日。
相も変わらずいつも通りに机の上で頬杖を突いて窓の外を眺めていた小春の肩を、教室に入ってきた美波は勢いよく平手打ちした。
「痛っ! い、いきなり何すんだよ、お前……」
「おはよっ! 今日も一緒に頑張っていきましょっ!」
「あン? 何だお前、昨日より格段に日本語上手くなってんじゃんか……なんか良い事でもあったんか?」
そうやって平気そうな顔でとぼける小春に、美波は微笑みを浮かべる。
上達した? そんなの、言うまでもなく当然じゃない。
だって、今の内に日本語を覚えておかないと、アンタとの会話が楽しめないんだから。
というか、何か良い事、とか、相変わらず素直じゃないわねコイツ。やっぱりツンデレじゃない。本人がどう反論しようが、小春はツンデレ、この方程式は絶対ね。
美波は鞄を机の上に置き、小春の前の座席に腰を下ろす。
「なんでコイツやけに嬉しそうなんだ?」と首を傾げている小春に美波は満面の笑みを浮かべ――
「これからよろしくね――
友達から始めなければならないのは仕方がない。
だけど。
だけどね、小春。
胸に燻るこの想いは、
きっと、そう、きっと。
――友達より先の関係をウチが望んでるって事なんだと思うんだっ。
次回から強化合宿編です!
感想・批評・評価など、お待ちしております。
次回もお楽しみに!