自己紹介が終わり、担任教師のありがたい話が終わり、ホームルームが終わり――文月学園初日初めての放課後がやって来た。既にクラス内ではいくつかのグループが構築されていて、「今日これからどうするー?」「カラオケでも行こうぜ!」などという如何にも高校生らしい会話が繰り広げられていた。
そんな、一年D組の窓際の後方にて。
清水小春は面倒くさそうに頭を掻きながら窓の外をぼーっと眺めていた。相変わらず机の上で頬杖を突いていて、虚ろな目には感情というものがあまり篭っていない。高校一年生にして人生を達観したかのような表情だ。
そんな全く高校生らしくない小春に、彼の前の席に座っている少女――島田美波はこくん、と小さく首を傾げ、
「しミず? あなタ、は、帰らナイ、のデスか?」
「んぁ? いや、別に帰らねえ訳じゃねえけど……早く帰ったところで家族がうるせえかんな……姉は変態だし親父は極限に親バカだし、お母さんに至っては思考回路戦国時代だし…………いや本当、俺の家族ってまともな人種がいねえ気がする……」
「か、ゾく? ……Ah、ファミリー、のこトデスね?」
「……やっぱ、ちょっと用事が出来た」
意味不明な言葉と共に椅子から立ち上がった小春に美波はキョトンとした表情を浮かべる。別に言葉が分からないという訳ではなく、何故小春がいきなり椅子から立ち上がったのかが理解できないのだ。
窓の外から吹いてくる風でポニーテールを揺らす美波に小春は疲れたように溜め息を吐き、
「お前、これから暇だったりするか?」
「ワタシ? え、と……今日ハ、お父サん、お母さン、家にいルカら、少シは、自由デす」
「そっか」
この人は一体何が言いたいんだろう? やけに親切だと思ったら、突然ぶっきらぼうな態度を取ったりするし……アレなのかな? 日本に来る前にお父さんがよく言っていた――
「ツンデレ、ってやつデスね!」
「いきなりなにトチ狂った事言ってんだテメェえええええええええええっ!?」
教室中に響き渡るほどの大声量で怒涛のツッコミを入れる小春。なんの悪気も無く発言をした美波は「あ、あレ?」と何が悪かったのかが全く分からずに視線を宙に彷徨わせてしまっている。コイツは本当に、天然なのかバカなのか……ッ!
「あーもーっ!」と乱暴に頭を掻き、小春は顔を仄かに朱くしながらそっぽを向き、
「そんままのお前じゃ今後の生活に支障が出るだろうから、俺が今からお前の日本語学習に付き合ってやる! 別に、お前の為って訳じゃねえかんな!? そこんトコ勘違いすんなよ!?」
「……やっパリ、あなタは、ツンデレとい」
「二度も言わせねえぞバカヤロウ!」
腹の底からのツッコミを美波に叩き込む小春。
しかし、彼には残念なお知らせが一つある。
この会話の中で、島田美波の頭の中では既に『清水小春はツンデレ』という方程式が構成されてしまっている――という、誠に残念なお知らせが。
☆☆☆
「あナタはツンデレ?」「違うっつってんだろ!」という会話を何度も繰り返しながら二人がやって来たのは、学校の近くにある市民図書館だった。
本当は学校の図書館に行こうとしていたのだが、今日は司書の先生が休みだったために閉館されてしまっていたのだ。流石に個人的な理由で開館してもらう訳にもいかず、二人はこうして少し歩いてわざわざ図書館にまでやって来た、という訳だ。
図書館の係員に会員カードを提示し、美波を連れて中へと入っていく小春。図書館の中は大学生や受験生などの学生の姿がちらほらとあり、逆に子供や大人などの姿はあまり見られなかった。
そんな学生達の間を通り抜け、図書館の中でも一番奥にあるテーブルへと移動し、小春は疲れたように乱暴に椅子の上へと腰を下ろした。疲労感でいっぱいな表情を浮かべている小春の隣に、美波はちょこんと腰を下ろす。
小春はテーブルの上に学生鞄を放り投げ、
「んじゃとりあえず、和独辞典と和英辞典、それと国語辞典を用意すっかな。まずは翻訳から始めて、そこから徐々に応用編へとシフトしていこうぜ」
「??? ワどく? わエイ?」
「あー……えっと、『和独辞典』っつーのは『日本語をドイツ語に翻訳するための辞典』で、『和英辞典』っつーのは『日本語を英語に翻訳するための辞典』だ。お前に分かり易く言うなら……『和独辞典』が『A Japanese-German dictionary』で、『和英辞典』が『A Japanese-English dictionary』って所だな。まぁ、これが文法的に合ってっかは俺にゃ分かんねえけど」
「つマリ、しミずハ、ワタシに日本語ヲ教エようトしてくレてルト、いうことデスか?」
「まぁ、簡単に言うとそうなんな。俺は国語が得意だから、少しはお前の力になれるとは思うぜ?」
「やッパり、しミずハ、ツンデ――」
「はいはい、冗談はいいからさっさと辞典探しに行くぞ」
「あうっ」
指パッチンで額を弾かれ、可愛らしい悲鳴を上げる美波。そんな美波に小春がしれっと顔を赤く染めて「(だからどうしちまったんだよ俺ぇえええええええっ!?)」と内心ドキドキしてしまっているのだが、美波には彼の背中しか見えていないため、彼のそんな内心での葛藤には気づいてはいない。
美波を引き連れながら辞典コーナーへと移動する。市立図書館の名に恥じず、コーナーには様々な国の辞典が用意されていた。小春はその中から目的の三種類の辞典を手に取り――
「あれ?」
「あン?」
――和独辞典の直前で、誰かと手が触れ合ってしまった。
俺以外にも和独辞典を使おうとしてる奴がいるなんて……ドイツ語専攻の大学生か? 思わぬ展開に少しだけ眉を顰め、小春は自分と同じ辞典を取ろうとしていた人物の顔をゆっくりと覗き込む。
そこ、には――
「……何でセーラー服とスラックスを組み合わせてんだ、お前……?」
「今更そのツッコミ入れてくるかな普通!?」
見るからにバカそうなハーフ女装姿の少年の姿があった。
☆☆☆
和独辞典と和英辞典、それに国語辞典をゲットしたところで「清水くん、これから島田さんと勉強会でもするの? だったら僕も参加させてくれないかな?」という提案をしてきた例のバカの純粋なキラキラとした瞳を裏切る事が出来なかった小春は美波の了承を得、結局三人で勉強会を開くことになってしまった。……本当に俺、何やってんだろう。
それぞれのノートを拡げ、小春は自分が思いつく限りの日本語を書き連ねていく。美波はそれを「おお……っ!」と感動したように見つめ、件のバカは感心したように何度も頷いている。
小春はピタッと腕を止め、
「……今更なんだが、お前って誰?」
「クラスメイトの名前を初日で忘れるなバカ!」
「ごメンなサイ。ワタシも、あナタが、分かリ、まセン」
「島田さんも!? って、そういえば君たち、自己紹介中の私語で先生に叱られてたね……」
それじゃあ知らないのも無理ないかな? と少年は自己完結し、
「それじゃあ改めて自己紹介だね。僕の名前は吉井明久。これから一年間、どうぞよろしく!」
「島田。この『あなたはバカなんですか?』をドイツ語に直すとだな」
「ふムふム……」
「お願い無視しないで二人とも! 僕って相手にされないと死んじゃう兎系な心の持ち主なの!」
黙々と日本語講座に没頭する小春と美波に明久はツッコミを入れるが、直後に現れた司書に「静かにしてください」と言われてしまい、机に顔面から突っ伏して露骨に落ち込み始めてしまった。
……結局コイツ、何のために図書館に来たんだろう?
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次回もお楽しみに!