放課後、いつも通り部活へ向かうと、部室には雪ノ下さんしか居なかった。
「あ、雪ノ下さん。これ」
丁度良いやと思い、鞄から本を取り出して雪ノ下さんに渡す。
「藪から棒にどうしたのかしら、七里ヶ浜くん」
「前にオススメの本教えてくれって言われたから持って来たんだ」
「そう……ちなみにどんな本なの?」
「官能小説」
「………………」
「……冗談です」
極寒という言葉が相応しいまでの、凍える冷気を雪ノ下さんが無言で放出していた。名前に恥じない氷の女王様っぷりだ。
「『月と六ペンス』って本なんだけど、読んだことある?」
「名前を聞いたことはあるけど、読んだことはないわね。確か……ゴーギャンをモデルにした本だったかしら」
「合ってる合ってる。まあ有名な本だけどね。今朝、何となく、この本を渡そうかなって思ったんだ」
理由は分からない。本当になんとなく、だ。
「ま、気が向いたら読んでくれ。なんならそのままあげるし」
言い足してから、俺は雪ノ下さんに背を向けて部室を出た。
「七里ヶ浜くん、どこへ行くつもり?」
「……今日は帰る。また今度な
、雪ノ下さん」
「……そう」
後ろ手を振って、部室の扉を閉めようと半身になると、雪ノ下さんが微笑みながらこちらを見ているのが視界に入った。
「どったの?」
不審に思って尋ねると、雪ノ下さんは少し咳払いをして、相変わらず微笑みながらこちらを見ていた。
「七里ヶ浜くん。本、ありがとう」
彼女の表情は、まるで花が咲いたような美しいもので、まるで初めてここへ来た時の比企谷くんのように、時間が止まったんじゃないかというほど体を硬直させた。
「おう、じゃ」
メドゥーサもかくやという程の凄まじいまでの魔力をようやく振り切ると、とてつもなく気恥ずかしくなったので言葉少なくもう一度挨拶をして、手を振る。
「ええ。……また明日」
そう言って、雪ノ下さんは何やら胸の近くまで手を上げ、開いたものか握ったものかと悩んだのか中途半端な掌を小さく振っていた。
「……今日は金曜日だぞ」
「…………っ!?」
雪ノ下さんが顔を真っ赤にして俺から目を逸らした。
「じゃ、またあ・し・た」
わざとらしく明日を強調していうと、後ろを向いた雪ノ下さんの肩が更に震えていた。やー、良いリアクションするなぁ。
ま、今日は普通に木曜日なんだけどね。
余りに連続で動揺させられたから、最後に雪ノ下さんにも痛い目見せてやりたかったってだけで思いついた嘘だ。
普通に気付かれると思ったけど、そこまで手を振るのが恥ずかしかったのだろうか、見事にひっかかっていた。
さて、面白いもの見れたし、非常用階段にでも行きますかね。
いつもの非常用階段。俺はタバコに火をつけながら、ここ最近の出来事について考えていた。
例えば材木座義輝は、どんなに酷評されても、読んでもらえれば嬉しいと目を輝かせていた。
また戸塚彩加は、自分の不甲斐なさを感じ、全力で練習に励んでいた。
そして三浦優美子は、プライドを賭けて自分の身も省みず、我武者羅に飛び込んだ。
なら、七里ヶ浜七之助は。
俺は、一体何に夢中になれるのだろうか。
一人、タバコを吸いながら考える。
「何やってんだよ」
「……比企谷くんか」
気が付くと、俺の隣には比企谷くんが立っていた。
「そっちこそ、何しにこんなとこ来たんだよ」
ああ、いけない。妙につんけんしている。変な事を考えてたからだ。
「別に。平塚先生に作文再提出しに行った帰り、お前が階段登ってるの見えたから」
「あ、そ」
煙を吐き出し、比企谷くんの方へ身体を向ける。
「先生には言わないでくれよ? 停学喰らうのは良いんだけど、平塚先生にこれ以上ペナルティ貰うのは勘弁願いたいし」
「……DQNめ」
比企谷くんが、いつも通り腐った目でこちらを見る。
「俺の場合どっちかというと、ただの中二病だと思うけどな」
答えてそれっきり黙ると、潮風が吹き抜け、紫煙が風に乗り砂で霞んだ空へと消えていった。
しばらくの静寂。比企谷くんも俺も、何も話さずにぼーっと佇む。
「…………お前は」
比企谷くんが、静寂を破るようにその口を開いた。
「お前は、一体誰なんだ?」
えらく哲学的な問いである。どう答えれば良いのだろうか。
「誰って言われても……七里ヶ浜七之助としか言えない。哲学的な話なら、俺じゃなくて雪ノ下さんとでもやってくれ。俺には学がないから、そんな難しい話、分からない」
「……部室で寝ている時。酔っ払ってんじゃねえのかってくらい適当な事言う時。材木座や三浦を見る時。そして今。雰囲気が全然違う」
比企谷くんは言外に、「お前は信用出来ない」と、はっきり告げていた。
そりゃそうだ。邪魔だからじっとしてろなんてこと平気で言う奴を信用出来る方がおかしい。
「実は俺、解離性同一性障害で多重人格者なんだ。一之助二之助三之助四之助五之助六之助七之助の七人が俺の中にいる」
もちろん嘘だ。そうだったら身に覚えのない事件の犯人にされたりして面白そうだが、残念ながらそんなエキセントリックなオモシロ設定の持ち合わせ、俺にはない。
「そうだったら面白そうだが……チッ、俺もお前に毒されてきてんのかこれ。そうじゃなくて、真面目な話だ」
比企谷くんは心底忌々しいと言わんばかりに視線で俺へ抗議していた。抗議ばっかりしやがって。プロ市民かよ。
「……そりゃ、人は場合によって態度を変えるってだけだろ。比企谷くんだって、家族への態度と俺への態度は全然違うだろ?」
「……ペルソナって奴か」
「そう」
そして、それを区切りに比企谷くんは押し黙った。
俺も、特に話すことが見つからなかったので、黙ってタバコを吸い続ける。
「例えばさ」
ふと、声を漏らしてしまった。
比企谷くんが言葉の続きを待つようにこちらを見ているので、色々話す事に決める。
「比企谷くんは、『努力すれば必ず夢は叶う』って言われたらなんて返す?」
比企谷くんは、しばらく考え込んでから話し始める。
「『夢が叶わなかったのは、お前の努力が足りなかったからだ』っていうのは、乱暴過ぎるだろう」
「数学じゃねえんだから、わざわざ対偶持ち出さなくても良いだろ……」
少しだけ、比企谷くんの捻くれっぷりに苦笑いしてから、もう一度口を開く。
「でもな、俺は努力は大切だと思うんだ」
「……お前も、『失敗しても、努力した経験が大事だ』とか言うクチなのか?」
比企谷くんが、鼻白むように吐き捨てるのを見ながら、肺に入れていた煙を吐き出す。
「失敗しても云々を否定する気もないけど、また少し違うかな。というか、努力自体も、割とどうでも良いんだ」
「はぁ?」
そう、俺が色んな事をやってきたのも、誰かの格好や声を真似るのも、全部、ただ──
「……夢中になりたかったんだ」
しっかり出したはずの声は、思っていたより掠れていて。
ただ、想いにだけは、臓腑を締めつけるような質量があった。
色んな事をやれば、もしかしたら夢中になれるものが見つかるかもしれない。
誰かを真似れば、もしかしたらその人が夢中になっているものに、自分も夢中になれるかもしれない。
そうすれば、七里ヶ浜七之助は俺じゃなくなれるかもしれない。こんな、惨めで醜い俺じゃなくて、美しい誰かになれるかもしれない。
なれないものに焦がれて、見えない地平に願いをかける。俺は、冷めて、迷って、腑抜けている。
だから俺は、俺が嫌いだ。
比企谷くんに振り返り、ニカっと笑う。
「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」
「は? いきなりなんだよ。ていうか何語だよ」
「フランス語。我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのかって聞いたことない?」
「あぁ、何か聞いたことあるな……何だっけ」
「家で調べな。つまりそういう事。……な? 中二病だろ?」
これで、話は終わり。
タバコをもみ消して階段へ向かうと、風の音は消え、自分が階段を降りる音しかしなくなった。
「なら、お前は」
背中から、比企谷くんの声が聞こえた。
振り返ると、彼はいつも通り腐った目で、しかし確かな力を感じさせる目でこちらを見据え、柄じゃない言葉を紡いだ。
「夢中になれるものを探す努力をすべきだろ」
努力出来るものを探す努力、か。
そんなもの、言わないだけでたくさんしてきた。
「……ああ、努力が大切だって思う理由、もう一つあるんだ」
比企谷くんの目を見つめ、ただそこにあるだけの言葉を発する。
「自分の限界を見るために、だ」
この言葉の裏には、一体どんな気持ちがあったのだろう。
嫉妬? 諦め? いや、そんなもんじゃない。自分の言葉の筈なのに、それを説明することは出来なかった。
比企谷くんもそれきり黙ったので、俺はそのまま階段を降りていく。
そこで、ようやく俺はさっきの感情を説明する言葉を思いつく。
それは、ずっと思い続けて、捨てられずにこんなところまで持って来て、さっきも散々感じていたものじゃないか。
俺はどうしようもなく、俺に失望しているんだ。