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月が、照っていた。
風が吹けば木々のざわめく音が聞こえる。東京都のベッドタウンなどという表現よりもずっと閑静な住宅地。どの家にも門構えと玄関までのあいだに十歩以上の距離がある。その途中に視線を横に飛ばせば庭がある。たいていは木が一本から植わっている。鯉の跳ねる池のあるところもある。想像されるとおり空気は綺麗だ。
夜なのに空が高いことがよくわかる。深く沈んだ青は、きっと球形をしている。それを二人は何の疑いもなく信じることができた。知覚することは不可能なのに。また草木が鳴った。ざざざと通り道を見せつけるようにゆっくりと流れていく。それがあったから窓を開け放しておけば熱帯夜をしのぐのには十分だった。
ある家の庭に面した板張りの廊下に二人は座っている。それぞれ甚平姿とスウェット姿と気楽な服装をしている。二人の視線の先の庭には特別なものは何もない。小さな家庭菜園に十年以上も前に植えた柿の木、あとは塀だけだ。しかし二人はそこでじっとしていた。そこにいると近いうちに珍しい何かが見られるのかもしれない。
「……はァ、やっと片付いたな」
「あれだけ感極まっておいてよく言うよ」
「んなワケねーだろ、あれは、なんだ、しゃっくりをこらえてただけだ」
「まあいいさ」
取り合ってもらえなかった男は恨めしそうに視線を送ったが、それでも取り合ってもらえない。さっきの会話はもう終わってしまっていた。その場をずっと支配していたのは何かに対しての感慨であったから、男の小さなプライドは些事として扱われたらしい。大事なのは男に精神的影響を及ぼした出来事だ。知らない虫の声が聞こえるが、二人は悪いものとは思っていないようだ。
顔の前に手を持ってきて、開いて、握って、また開く。動作を確認しているようでそこに意味はない。手持無沙汰というのとも違う。ただなんとなくの仕草で、そこには思考の過程の自覚すらない。
「穂波はうまくやるかな」
「問題ねえよ。家事はお前が一通り仕込んだんだろ」
「そういうことじゃなくてだな。親というのはいつだって心配するものなんだよ」
「いらねえよ、あいつらだって頼る相手くらい勝手に見つける」
朝のうちにはそれなりにあった雲が午後にはほとんど流れて、いまはまったく見当たらない。夏は夜、と言い切った古典もある。一方で朝のラジオ体操を思い出す人もいるだろうし、バカみたいに強い日差しの真下が印象に残るという人もいるに違いない。それぞれがそれぞれ思うなかで、二人にとって夏は夕方だった。蝉の声があってもいいしなくてもいい。ただ強いオレンジ色の夕焼けが夏の象徴だった。
「いざ穂波もいなくなってみると、さすがに寂しいな」
「どっちも騒がしかったってこった、ずっとピーチクパーチクよ」
「香枝も穂波もそっちの血だな」
「んなワケねーだろ。俺ァいちいち騒ぐようなガキじゃねーんだからよ」
「ふふ、それは自覚症状がないだけさ」
首をひねるがどれだけ考えても思い当たる節はないようだった。隣が楽しそうに笑っているせいで余計にピンと来ていないらしい。
庭から向かって右の廊下から猫がやってきて、我が物顔で二人の間に陣取った。三毛猫で、まあまあ年を取っている。年数で見れば一番の新参者ではあるのだが、彼女もこの家に来てから長い。血統書だとか由緒のあるものなどないのだが、異様に物分かりのいいところがあって、男を除いていつか化け猫になるだろうと家族では話題にしている。よくこの廊下で日向ぼっこをしており、好き勝手に外に出かけては気付けば家に戻っていた。
猫と男が視線を合わせて数秒、猫が視線を逸らして喉を鳴らした。隣ではその光景を不思議そうに眺めている。動物園に遊びに行ったときの囲まれぶりを知っているから疑ってはいなかったが、それはやっぱりつかみにくい状況だった。動物と話せるというのはいっそファンタジーだ。動物に関わる仕事をしていて感情がわかる、くらいなら聞くが、隣の男は本当に会話をしている。らしい。彼女はこれをどちらの娘にも教えていない。まあ頼れる存在だとは思っているだろうが、それとこれとは関係がない。いきなり話せばイカれたと思うだろう。だから彼女はこの事実を墓場まで持っていこうと決めている。
「そーいやオメー、久々に会った連中とは話せたか?」
「ああ、とはいえそこまで時間が空いたわけでもない。何かと理由をつけてウチに来てるし」
「そォか」
「でもそうだな、みんなで集まったのは久しぶりだったよ。旧友というのもいいもんだ」
「おう」
「お前のところにも行ったろう?」
「俺は話が短けーからな、監督ん頃からそれだから今回もさっさと終わったぜ」
「姫松の監督時代か、ほとんど古い夢だな」
もう一度風が吹いた。猫は気分良さそうに体を伸ばしている。ざざざと風が通る。少しだけ夜が深くなって、夜空の青がまた濃くなった。
月が、照っている。