その日、初流乃はいつもどおり誰もいない部屋で目を覚ました。母親はいない。夕方から朝にかけて彼女が家にいないことはあたりまえだった。
布団から出て、初流乃は冷蔵庫を開ける。食材は殆ど入っていないが、彼は食パンを見つけた。牛乳をコップに入れてそれと一緒に食べる。
それほど広くない部屋の中に、初流乃のパンを咀嚼する音だけが響く。
数日前まで、彼は『パパ』と『兄達』、それに『弟』と一緒にいた。
どうしてそうなったのかは分からないが、いつもどおりに初流乃が眠って、起きたらあの家にいた。共に生活した時間は短く、楽しかったがゆえにあっという間に過ぎ去ってしまった。
それはまるで夢の中の出来事のように。
ポロポロと初流乃の瞳から涙がこぼれていく。
あの夢とくらべて、いつもどおりの日々はとても寂しかった。抱き上げてくれる手もなく、頭を撫でてくれる手もない。食べ物はつめたいパンばかりで、温かさなんてまったくない。
『にいちゃ』と笑いかけてくれる弟もいなければ、何かとかまってくれる『兄達』も、柔らかく笑う『パパ』もいない。
ただただ静かな部屋があるだけ――
あんな楽しい夢見なければ良かったと、初流乃は何度も思う。
そうだったなら、独りだって平気だったのに。
小さな嗚咽を聞く者はいなかった。
*
気がつけば、承太郎達はホテルの部屋に立っていた。抱えていたはずのハルノの姿はなく、部屋中を探したが見つからない。どうやら、平馬のところに来たときにいた場所へ戻ってしまうらしい。
「お、身体戻ってる!良かった~」
元の身長を取り戻した三人は、高くなった視界に安堵する。流石に五十センチ近く差があると違和感しかない。
「時間は……全く過ぎてないね。僕達は五日間、彼の元にいたというのに」
「時計があってりゃあな。じじいのとこに急ぐぜ」
平馬のところに行く前は、レオーネが部屋まで承太郎達を呼びに来たところだった。どうやら敵の刺客がホテルに入り込んでいるらしく、まずはジョセフの部屋へ集まることになっていた。
足早に三人がジョセフとアヴドゥルの部屋に行くと、中には二人しかいなかった。ポルナレフはまだ来ていないようだ。
「じじい、平馬のところに行ってきた」
「なに?」
ドアを閉めるなりそう言った承太郎にジョセフは目を見開く。
「とりあえず元気そうだったとは言っておく。が、本題はそれじゃあねえ」
「元気ならよいが、本題とは何じゃ」
「DIOに息子がいる。少なくとも二人は確実だ」
「なんじゃと!?」
驚いたジョセフは花京院とレオーネに視線を向ける。二人とも頷くのを見て頭に手を当てた。
「……今のヤツの身体は祖父ジョナサン・ジョースターのもの。DIOめ、なんということを」
「首の後ろには星の痣も確認している。平馬のところに俺達と一緒に来ていた……まだ一歳と三歳くらいのガキだ」
「六十歳年下の叔父じゃと……!? 予想外すぎるわい!」
「ジョースターさん……」
頭を抱えるジョセフに同情の視線が降り注ぐ。普通はそんな存在がいるなんてことはありえない。
「探せばまだいるかもしれねえ。俺達は平馬にガキ共の保護を頼まれたんだ」
「そうじゃな、SPW財団に連絡をとりDIOの居場所と共に捜索してもらおうかの」
承太郎の言葉にジョセフは身体を起こし頷いた。父親は半分はどうあれ、もう半分はジョナサンだということは変わらない事実。ジョセフが保護に同意する理由として十分だった。
「それで、名前は何というんじゃ?」
「ハルノとウンガロですよ。ウンガロは家名がわからなくて、ハルノは……なんだっけ」
「しお……ええと、一度聞いただけだから覚えてないな」
「確認しておらんのか……そうじゃ」
記憶を思い出している三人に呆れた視線を向けるジョセフだったが、何かを思いついたのかいそいそと荷物を漁りだした。そして取り出したのはポラロイドカメラ。
「これで念写すれば場所がわかるかもしれん。まずはウンガロじゃったか? その子からやってみよう」
「できるのかじじい?」
「今までDIOしか写らんかったが、存在を知っておれば可能かもしれん。ま、試しじゃ」
ハーミット・パープルを出しカメラに向かって振り下ろす。カメラの破壊とともにフィルムが吐き出され、画像が浮かび上がるのをジョセフは手に持って待つ。
「……? どうした、じじい」
しかし、ジョセフは写真を手に持ったまま声を失っていた。目は見開き、その表情はありえないものを見たとばかりに強張っている。
「なぜ」
「ジョースターさん?」
「なぜお前が写るんじゃ、ヘーマ……!?」
震えるジョセフの声に承太郎が写真を奪う。その写真には泣いているウンガロの姿と、ぐったりとした様子で目を閉じた、意識のない平馬が写っていた。
*
部屋の中に幼い子供の泣き声が響く。
倒れる男性を一生懸命に揺らしながら、子供は泣いていた。男性は先ほどから動く様子がなく、目をつぶったまま反応を返さない。
泣き続ける子供のいる部屋に、足音が近づいているのにも気づかずに、子供は男性を呼んでいた。
軋む音をたてて、扉が開く。
「ウンガロ様、どうなさいました」
扉を開けた青年は、泣く子供の近くに倒れる人影を見て足を止める。だがすぐに子供の近くに歩み寄り、子供を抱き上げた。
「ちぇー、パー……ひぐ、おきな……」
「パー? ……ああ、パパ。ウンガロ様、貴方の御父上はDIO様ですよ」
「でぃ……ちがーの、ぱーなの……」
しきりに訴える子供に、青年は横たわった男性の顔を自分の方に向ける。その容貌が露わになったとき、青年は息を飲んだ。
「これは……」
男性の顔は青年の主によく似ていた。青年は子供がこの男性を父親だと訴えている理由を理解する。以前に主の写真を見せたことがあることも思い出した。
青年は時計を確認する。今の時刻はすでに夜。主は眠りから覚めているだろう。
まずは報告をしなくては、と青年は子供をベッドに降ろしてから男性に近づく。この男性が何者かはわからないが、これほど主に似ているとなると床に転がしたままというのも気にかかる。
男性の身体をソファーに移動させてからタオルケットをかけた。
足早に青年が部屋を出て行ったあと、残されたのは男性と子供の泣く声。
男性――平馬が自らに起きた現象を認識するまで、あと数十分。