「やっと一区切りついたか」
時の番人と呼ばれる老人だ。
歴史学と神秘学に精通する元人間で、今は世界の側に立って現世を俯瞰している。
職務内容は、主に世界の修正力を観測することであり、修正しきれない事象に対しては自ら現地に赴き修正を加える。
ここ一五〇年は、時を渡る権能を持つとあるカンピオーネのために日々悲鳴を挙げ続けていたのだが、ただでさえ激務だった仕事が、この一年でさらに過激化した。
理由は、新たなカンピオーネの出現によるものだ。
草薙護堂。
日本国に生まれた希代の魔王だ。
一年と経たずして、他の先達に匹敵するだけの権能を簒奪した魔王の中の魔王。それもそのはずで、彼はそもそも『神を殺す人類の剣』として生み出された人類側の最終兵器とも言うべき存在なのだから。
「安倍晴明め。面倒なことをしてくれる」
思い出されるのは、千年前にこの場を訪れた大陰陽師。神殺しを生み出す秘術を歴史上唯一考案した怪物であり、その危険性が故に修正力によって世を去った伝説的英雄。
文字通り世界を震撼させた神殺しを生み出す技法は、晴明の死と共に失われてしまったが、それによって生み出された草薙護堂は、老人の頭を悩ませるには十分な逸材だった。
「人間でありながら運命に抗うなど言語道断、にも拘らずあの御仁は……まったく、けしからん。ああも流れに逆らおうとする者はいままでいなかった」
老人がいる空間は、世界の過去と現在起きている出来事が文章の形で集積される究極の歴史集積所である。老人が守るのは、この場に集積される歴史の流れである。そのため、過去に移動する権能を持つカンピオーネの誕生は、老人にとって絶望的な過労を強いることになっていたのだが、草薙護堂は、未来に喧嘩を売るような行動を取る。
さすがは、神殺しになるべくして生まれた人間ということか。
不幸中の幸いなのは、未来は確定しきっていないということである。ある程度の流れは定まっており、魔女や巫女の霊視はその流れを読み取って最も起こる可能性の高い事象を視るというものだ。そういった性質のために、過去の改変に比べれば、無理矢理別の流れを作り出すという行動自体には老人に与える影響も少なくて済んでいる。
しかし、そのような『新たな流れ』というのは、先読みできないこともあり、歴史の修正を司る老人には傍迷惑もいいところなのだ。下手をすれば過去との整合性まで崩壊させかねない暴挙にもなる。神々によって殺されるはずの人間が、逆に神を殺害してしまうという事例がそれにあたる。世界の法則すらも歪ませる行いは、星辰の運行に支障を来たすもので、神殺しが神々に目の仇にされる原因の一つがそれである。
ところが、草薙護堂は神殺しになる前から度々時の流れを逆撫でするような行動を取ってきた。小さな積み重ねだが、人間に定められた流れを変えられては老人の立つ瀬がない。その都度介入し、流れに沿うように矯正してきた。
城楠学院への入学を拒否しようとすれば、そうせざるを得ないように公立高校の受験日に交通事故に遭わせたし、まつろわぬウルスラグナと出会うはずの日にまったく違う土地を訪れたときには、近くを彷徨っていたまつろわぬガブリエルもどきと遭遇させることで神に殺される運命を決定付けようとした。
結果として、護堂はカンピオーネへと生まれ変わり、再び歴史に大きな傷跡を残したわけだが。
「それでも、流れは戻りつつある。死しているべきウルスラグナ神が、最も相応しき死を受け取られた。これで、歪んだ流れはそれなりに戻ったか」
老人は一先ずペンを置く。
死ぬはずの神が生き永らえることもまた、許容しがたい重大事である。彼らは世界の側にいる存在なので、その流れは人間以上に厳格に定められている。変わるとすればカンピオーネの事情によるものだけだ。そのため、まつろわぬウルスラグナの処遇に困ったのだが、放置すれば流れとまったく異なる展開が出来上がる。仕方なしにそれとなく諭して草薙護堂にぶつけたのだが、この判断が功を奏して大きく撓んだ未来への流れが落ち着きを取り戻した。
予想外な行動をするのはカンピオーネならではだが、それに引き摺られて周囲の人間まで流れに逆らうような動きをするようになる。それが連鎖的に続けば、どうあっても未来は予測不能な領域になってしまうのだ。
世界にとってこれほど迷惑なことはない。
「む……これは」
老人は常に七人のカンピオーネの動静を気にかけている。新たな行動に出たカンピオーネに関して、すぐに情報を知ることができるようにだ。
「草薙護堂、今度は王と接触を図るか」
歴史が刻まれた石版には、こうあった。
『草薙護堂、ロサンゼルスに渡りジョン・プルートー・スミスと交流す』
□
護堂にとっては初めてのアメリカということもあって、多少気分が高揚しているところはある。
二月も終わりに近付いて、日本も春の兆しが見え始めた時期であるが、ロサンゼルスは体感的には夏かと思うくらいに気温が高かった。
この日は快晴。気温は華氏六八度。大体摂氏二〇度に届くくらいとなっているのが、電光掲示板の温度計で読み取れる。
穏やかな陽光を煌びやかなビル群のガラス窓が反射して眩しい。
世界でも有数の大都市であるロサンゼルスは、北米における裏世界の中心地でもあった。
邪派の呪術師集団と善の陣営に属する呪術師との長き抗争が、終焉に向かったのは昨年の中頃のことだ。
このロサンゼルスを拠点とするジョン・プルートー・スミスによって、邪術師を纏め上げていた神祖アーシェラが討たれて以来、邪派の勢力は先細りしている。
このまま何事もなければ数年のうちにスミスとその仲間によってロサンゼルスの呪術的治安は回復すると見られている。
アーシェラの完全な死が日本で確認され、その事実を以て攻勢を強めた善の陣営が邪派の拠点を制圧したのが一月のことだ。
その後、戦後処理を終えてやっと、草薙護堂をロサンゼルスに迎え入れる準備に着手できたのである。
「でも、学校を休んでしまったのは大丈夫なのでしょうか?」
空港からタクシーに乗り換えた護堂の隣には祐理が座っている。
「病欠ってことになってるから、問題ないんじゃないか?」
「形式の上ではそうかもしれませんけど……」
この場にいるのは護堂と祐理の二人だけである。普段は、こういった事案に対しては護堂を中心として、祐理や恵那、晶らが一個のグループとして動くのが定石となっていたので、新鮮な光景だ。
祐理はインフルエンザ、護堂は静花が学校に通っているので病欠という手は使えず一身上の都合という形で欠席している。出立前に静花にいろいろと勘繰られてしまったが、その辺りを上手く言い包めて日本を発った。
「皆にもお土産を買っていかないとなぁ」
「そうですね。皆さん、草薙さんとご一緒したかったと思いますし」
恵那は奥多摩での修行が外せず、明日香と晶は正史編纂委員会の荒事に参加している。
とりわけ、晶は霊体化や圧倒的な戦闘能力といった固有技能が重宝されて、様々な組織への潜入調査や強襲作戦を単独実行するという任務に就いている。
草薙護堂を頂点として新体制の発足に伴うちょっとした問題と正史編纂委員会に属さない呪術犯罪組織の問題を解決を推し進めているのであり、これもまた護堂の配下として外せない仕事であった。
日本に残った仲間に対して申し訳ないという気持ちを抱きながら、護堂はこれも自分がすべきことの一つだと認識してここまでやってきた。
ロサンゼルスのロスフェリス地区は南にシルバーレイク、西にハリウッドと名の知れた地名に囲まれたこの場所は、魔術の世界ではジョン・プルートー・スミスの配下である『SSI』という名称の政府機関のロサンゼルス支部が存在する街として知られている。
護堂と祐理が訪れたのは、ロスフェリス地区のサマンサ大学だ。
「久しぶりね、ゴドー。いろいろと大変だったみたいだけれど、問題はないのかしら?」
案内板の前に待っていたのは、アニー・チャールトン。
濃い赤毛の髪を短く整えた、理的な女性だ。彼女はこの大学の学生という立場を持ちながら、それと同時にスミスの右腕として探偵のような役回りを演じることもある。斉天大聖が日光で暴れた際には、彼女もまた護堂の協力者の一人として活動してくれていた。
そして、それすらも表向きの顔でしかなく、その実態は仮面の魔王ジョン・プルートー・スミスその人である。
この事実を知っているのは、彼女の周囲にいる極僅かな人間と原作知識という反則を犯している護堂だけである。もちろん、護堂はアニーにそのことを告げてはいない。
「こちらの問題は大体解決しました。今は呪術を使った犯罪の撲滅に力を注いでいるところです」
「そう。あなたが正式に正史編纂委員会の長に就任したと聞いて驚いたのだけど、組織運営もきちんとしているのね」
「まさか」
と護堂は笑う。
「俺は、組織運営に関わっていませんよ。できる人に丸投げです」
「そうなの。だとしたら、そのスタンスはスミスに通じるところがあるわね。彼も君臨者として活動するわけではないから」
どこからともなく現れて、事件を解決に導くヒーロー。それが、スミスのスタンスである。故に、組織を運営することはない。
「ところで、スミスのヤツはどこにいるんです?」
「彼は今ここにはいないの。王を出迎えるにも時と場所を選ぶべきだと言ってね」
「スミスらしいといえばらしいですね」
日が没してもいない時間帯の大学構内に、仮装した男が佇んでいるというのもシュールな光景だ。彼が素顔で応対する気にならない以上は、妥当な判断ともいえる。
「あなたへの挨拶は後々彼自身がするわ」
それから、護堂はアニーに先導されて大学の構内を歩く。日本の大学のような、無駄を取り払った建造物ではなく、建物そのものがアーティスティックだ。
「外国語文学科のジョー・ベスト教授は、幻想文学では世界的な権威なのだけど、それと同時に
「そうなんですか。大学構内にSSIの拠点があると考えてもいいということですか?」
「そうなるわね。ここは、ロサンゼルス支部という形になるのだけど、スミスがいるから実質本拠地といってもいいかもしれない。ゴドー。あなたは、あまり魔術には詳しくないと聞くけれど、それは本当?」
「そうですね。カンピオーネになってから、呪術に関わるようになったので、正直まだまだです」
「そう。なら、大学と魔術の組み合わせに違和感を覚えても仕方ないかもしれないわね」
大学は、学問を究める研究機関だ。オカルト系は文学や民俗学として研究することはあっても、本気になって魔術を突き詰めようとする機関ではない。それが、護堂の認識であった。
「一般的なオカルトとわたしたちの魔術は違うということね。魔術はそれそのものが学問なの。当然、対処するには相手よりも深く魔術を学んでいなければならない。そうすると資料も膨大なものになるわ。魔術師が学術面で他の学生よりも強いのは、特殊な記憶術を幼い頃から実践しているからだけど、それは短時間で多くの資料に目を通さなければならないという時間的制約から来るものなのよ」
「それで、文系科目の成績がいいのか……」
思えば、晶のように中学校にまともに通い始めたのが中学三年生になってからというスロースターターでも、歴史や古文などの文系科目はほぼ完璧にこなしていた。それは、呪術師たち特有の記憶力の恩恵によるものだったのだ。
「万里谷もそういう記憶術、使えるのか?」
「ええ、そうですね。記憶術というと、いかにも呪術によるものに聞こえますけど、実際はちょっとした意識の仕方によるもので、呪術は関わりないんですよ」
「そうなのか?」
「はい。記憶を長く止める呪術は非常に難易度が高いのです。自らの知識として定着させようとすれば、おそらくは『まつろわぬ神』の秘術に匹敵するほどのものとなると思います」
「なるほど……」
思えば、教授の術も一定時間が経てば記憶から情報が失われるものだった。アテナが護堂に力を託したような、女神の呪法でなければ記憶の定着はできないのだろう。
つまり、記憶術は呪術によるものではなくあくまでも個々人の努力の延長線上にある技ということだろう。
「ここが、彼の研究室よ」
そういうや否や、アニーはドアをノックする。「どうぞ」と返事があったので、アニーはそのままドアを開けた。
「ジョー。東京のチャンピオンをお連れしたわ」
「おお、そうか」
ジョー・ベストは知的な風貌をした黒人の老人だった。
「ようこそ、ロサンゼルスへ。お会いできて光栄です、草薙護堂様」
歩み寄ってきたジョーが右手を差し出してきたので、護堂はその手を取った。
「こちらこそ、光栄です。ベスト教授。できれば、敬称は止してください」
「なるほど。では、ゴドーと呼ばせてもらっても?」
「はい。そのほうが落ち着きます」
学生であるアニーが呼び捨てにしているのに、教授であるジョーが敬称をつけるというのも可笑しな話だ。それに、護堂自身、このような形で敬われるのは慣れていない。
「後ろにいるのは、確か……」
「万里谷祐理です。この度はお世話になります」
「そうだ。君の話は聞いているよ。巫女としては世界有数の術者だとね。さしずめファーストレディといったところかな」
「そ、そのような大仰なものでは……」
祐理は顔を紅くして言葉に詰まる。その様子に、ため息をつきつつアニーがジョーに苦言を述べる。
「今はそういうのもセクハラになるのよ、ジョー」
「おっと、しまった。すまないね、ミス・マリヤ。老人のジョークと思って忘れてくれるとありがたい」
「大丈夫です。特に気分を害したわけでもないですから」
ジョーは、謝罪の後に護堂と祐理を隣部屋のソファーに案内した。
研究室の中で繋がる部屋で、資料室と応接間を兼ねたような作りとなっている。壁の両側の書架には、無数の本が積み込まれていた。
護堂と祐理は、ガラステーブルを挟んでジョーと対面した。ちなみにアニーは所用を訴えて退出した。おそらく、祐理に霊視されるのを嫌がってのことだろう。
用意された芳しい紅茶が薄らと湯気を上げる。ジョーが資料を用意する間の僅かな時間で、護堂は紅茶を軽くすすって喉を潤した。
紅茶の味はよく分からないので、美味しいというありきたりな感想しか出てこなかった。
「さて、君たちはまだハイスクールに通っているというから、このような研究室に来る機会もそう多くはないだろう。少し味気なく思えるかもしれないが、眺めてもらって、幻想文学に興味を持ってくれるのであれば、この分野の一ファンとして喜ばしく思う」
ジョーはそう言うと、ファイルから資料を取り出した。
「これが、以前スミスに倒されたまつろわぬアルテミスについて記述したものだ。英文だが、問題はないかね?」
「はい。大丈夫です」
護堂は頷いて、資料を受け取った。カンピオーネになって以来、語学に苦労することはなくなった。世界中どこに行っても、ネイティブと会話を楽しむことができるのは、数少ない恩恵の一つだ。
「顕現したのは、ロスの自然公園だ。当時、そこには多くの観光客がやって来ていた。それが、アルテミスの権能によって皆動物に変身させられた」
「被害にあったのは、およそ三〇〇〇人……思っていたよりも多いですね」
「これでも少ないほうだ。自然公園は広大でね。スミスとの戦いに巻き込まれた者も多いし、我々の手を逃れた者もいるだろう」
「動物にされた人と本物の動物との間に違いはないんですね」
「見分けることができないから、あの一帯で発見された動物をすべて捕まえている。年間維持費は、かなりの額に上るよ」
資料とジョーの説明によると、自然公園の一部を立ち入り禁止区域とし、その中に秘密裏に被害者を収容する施設を用意したのだという。
それでも、三〇〇〇匹の動物を集中管理する施設はすぐには作れないので、多くが野に放たれた状態で、肉食動物だけが施設に収容されることになったという。
だが、問題が解決するわけではないし、動物に変身した人に人としての意識があるわけでもない。生活習慣から寿命まで多くのものが変わってしまった。
「こんな、ひどいことが」
祐理も情報を聞くうちに愕然とした表情を浮かべる。
この被害を見れば、今までの護堂が経験してきた戦いが如何に幸運だったか理解できる。
「それで、どうかな。ゴドー。君には、彼らを救う手立てがあると聞いている。どうか、助けてやってくれないだろうか?」
懇願するようなジョーの言葉と態度に彼の誠実さが見て取れる。ジョーを初めとするSSIの関係者も、この件には心を痛めているに違いない。神の呪いに対抗できるだけの力の持ち主がいるわけでもなく、解呪することができないまま動物として死んでいった人を看取ってきたのだ。それは、己の無力さを知らしめるものであっただろう。
「お引き受けします。微力ながら、力を尽くしたいと思います」
そのように答えるしかないではないか。
人の窮状を知り、助ける手段があるのなら、護堂は自分の力を使うことに否やはない。
方法はある。
神が撒き散らした呪詛を打ち破る力を有するのは、神に匹敵する神殺しのみ。その中でも、護堂だけが、この問題を解決する権能を有しているのである。
ジョーとの話を終えてみれば、いつのまにか太陽が沈み夜の帳が降る時間になっていた。
この日は、SSIが用意したホテルに泊まり、翌朝を待って問題の施設に向かうことになった。
外に出て食事にしようかとも思ったが、祐理が時差ぼけによって体調に異変を来たしたためにルームサービスで軽食を取るだけにした。
「豪華な部屋だ。学生には分不相応だぞ、これ」
部屋に入るなり、護堂はその高級感に圧倒された。
家具はすべてイタリア製のこだわりの品。
最上階なので、窓から見える景色は最高だ。住宅街が集まる地域なので、足元はそれほどでもないが、隣の地区のハリウッドやロサンゼルスのビジネス街まで見渡せるので、遠くに光の海があるように見える。
政府系の組織の癖に、このような豪華なホテルを所有しているとは、問題ではないのか。
おまけに、どういうわけか祐理と同室なのだ。この国の倫理観はいったいどうなっているのか。
「き、きっと、何かの手違いがあったんですよ。えっと、わたしのことを男性だと思っていらしたとか」
「それはそれで失礼だろう」
おそらく、これは恣意的な部屋割りだ。
今のところ、三日はこの部屋で過ごすことになるのだ。祐理のような可愛らしい少女を年頃の男と一緒にするとは大人としてどうなのか。
「悪いな、万里谷。安心して眠れないだろ。今からでも、ジョー先生に掛け合ってみるよ」
護堂はスマートフォンを取り出して、ジョーの携帯に連絡を入れようとする。
「あ、お待ちください、草薙さん」
それを祐理が制す。
「あの、わたしは別にこのままでも構いませんから」
光の加減とはまた別の要因で、祐理の頬は紅くなっている。淑やかで落ち着きのある媛巫女も、羞恥心を隠し切れずに俯いた。
「草薙さん。晶さんのご自宅に行かれたときに、晶さんと同じ部屋でお休みになられたと聞きました」
「あ、まあ、あのときは晶のお母さんがな……」
あのときのことを知るのは、護堂の身の回りでは晶しかいない。晶がどこかで口を滑らしたに違いない。
「でしたら、わたしが同じ部屋に過ごしても…………あの、いけませんか?」
祐理は最後まで言葉を続けられず、曖昧に濁しながら訴えかけてきた。
護堂としては、拒否する理由は特にない。
すべて祐理次第だったので、祐理がいいというのなら護堂はそのまま受け容れることとした。
それから数時間が経った。
当初は、夜景やテレビを楽しんでいた二人だったが、祐理の時差ぼけによる体調不良がいよいよ悪化したようで、起きているのはよくないと判断し、消灯して早めに就寝とした。今は、祐理はベッドの中で安らかな寝息をたてている。
護堂は眠気がまったく襲ってこないのでソファに座り、卓上のランプの明かりで明日の予定や事件の関連資料を確認していた。
護堂がふと窓辺を見れば、カーテンが揺らめいている。窓はきちんと閉めて鍵までかけていたのだが。
「普通にドアから入ればいいじゃないか」
視線を、横に動かす。
月光に照らされる室内に、影が立ち上る。黒いマントとバイザーの怪人、ジョン・プルートー・スミスがそこにいた。
「さすがに、勘が鋭い。慎重を期したつもりだったのだが、驚かせることができなくて残念だ」
「いや、十分に驚いてるよ。ここは、一応最上階なんだけどな」
尤も、護堂もそうであるように、カンピオーネにとってはこの程度の高さなど問題にならない。護堂も自分の手持ちの技術の中で高層ビルの窓から内部に侵入する方法を何通りも頭に思い浮かべられる。
とはいえ、スミスがどのような方法で侵入を果たしたのか、については具体的には分からない。
「ロスでも指折りの高級ホテルだ。聞けば、アメリカに来るのは初めてだそうじゃないか。楽しんでくれていると嬉しいのだがね」
「そうだな。日本とも西洋とも違う文化だから、見てるだけでも楽しめる。でも、万里谷と同じ部屋にしたこととかは、文句を付けさせてもらうぞ」
「草薙護堂。君がその歳で複数の女性と愛を語らう仁であるということは私も理解している。君が私のスタイルに口を挟まないように、私も君のスタイルには理解を示そう。これはその意思表示だったのだがね。一応、君の貞操観念を信頼してのことだが、もしも、そういう行動を取っていたのなら、私もこのように現れることはなかっただろう」
「余計なお世話だ。まったく、俺はともかくとして、万里谷にはきついだろう」
「あの姫は、なかなか芯の強い女性だと見ている。この状況下で眠りについているというのは、よほど君を信頼しているのだろう」
それも男としてどうなのかと思う護堂だが、冷静に考えれば似たような状況は前にも二回ほどあった。どちらも、相手は祐理ではなく晶だったという点で異なるが。
「君が今回の労を引き受けてくれて嬉しく思う。ジョーがすでに礼を述べたとは思うが、改めて感謝の意を表そう」
と、言ってスミスは大仰な一礼をする。まるで、中世を舞台にした演劇を見ているかのような芝居がかった仕草だが、それが様になるのがスミスのスミスたる由縁だろう。
「こっちこそ、斉天大聖のときは関係もないのに助けてもらった借りがある。命懸けじゃない分、こっちのほうが楽だ」
バイザーの奥で、スミスが笑ったように感じられた。
「それでは、私は暇をいただこうか」
「突然来たと思ったら、あっさり帰るんだな」
「淑女の眠りを妨げるのは性に合わないのでね」
「だったら、初めから時と場所を選んでくれ」
軽口を互いに交わした後、スミスは優美に一礼して窓の外に消えた。
まるで煙のように、とは彼のような神出鬼没さに付加される評価であろう。
□
護堂がロサンゼルスを訪れたのは、昨年の秋に斉天大聖を葬る手伝いをスミスにしてもらった借りを返すためである。
かつて、ロサンゼルスに降臨したまつろわぬアルテミスによって、多くの人が動物に変身させられてしまい、未だに元に戻す方法が分からないまま時の流れるままになっているという問題を解決するのが目的だ。
アルテミスの被害者たちは、ロサンゼルスにある国立公園内に密かに匿われているという。
「草薙さん。一つ、よろしいですか?」
と、出立までの時間をテレビを見て潰していた護堂に祐理が話しかけてきた。
「どうかしたか?」
「アルテミス神の呪詛を破るのに、天叢雲剣をお使いになるおつもりなのですよね?」
「ああ、そうだな。正確にはそれに加えて神酒の権能をミックスするんだけどな」
護堂の呪詛破りの権能は、単独によるものではなく天叢雲剣が破魔の神酒の権能と融合することで一時的に強力な対魔剣となるというのがからくりの答えだ。
これまでにも、幾度となくこれによって窮地を切り抜けてきた。使い勝手のよさについつい甘えてしまう。
「ですが、その使い方は天叢雲剣にかかる負担も大きいとか」
「ああ、連続使用ができないわけじゃないけど、するとダメージが蓄積されるんだよ。やりすぎるとしばらく使い物にならなくなる」
「それでしたら、控えられるのがいいと思います。天叢雲剣は何かあったときの切り札になるものですから。この前のウルスラグナ神との戦いでもそれが命綱となりましたし、万が一のときのためにとっておくべきではありませんか?」
確かに、と護堂は思う。
まつろわぬウルスラグナと戦ったとき、一戦目は死にかけたがウルスラグナの『雄羊』の権能をコピーして生き永らえた。二戦目は、『戦士』の権能をコピーして敵に決定打を与えた。どちらも、天叢雲剣がなければどうにもならなかったであろう。
「それだと、助けられないじゃないか」
しかし、それで控えたところでアルテミスに変身させられた人が助けられるわけではない。
「いいえ。他に手はあります。草薙さん。ウルスラグナ神から簒奪されたのは、『戦士』の化身なのでしょう? 神格を斬り裂く言霊の剣なら、より確実に呪詛を無効化できるはずです」
祐理の言うとおり、『戦士』の化身であれば確実にアルテミスの呪詛を斬り裂ける。
「だけど、言霊の剣を使うには、知識が必要で」
「わたしなら、大丈夫です。草薙さんが危ないときに、お役に立てないことが多かったので、このようなときにこそ、わたしの霊視が役立つはずです。かの神の素状。実はすでに霊視できているのです」
お膳立てはすべて整っているということだ。
祐理の言うとおり、天叢雲剣に負担をかけて、いざというときに使えない状況に陥るのはまずい。できるだけ温存しておいたほうがいいだろう。それに、未だ掌握できていないウルスラグナの権能を慣らすということもできる。
夏にイタリアに行ったときのように、突然『まつろわぬ神』に喧嘩を吹っかけられるかもしれないのだ。杞憂だと笑い飛ばせるものでもなかった。
「じゃあ、頼む。万里谷」
「はい」
祐理は悠然として笑みを浮かべ、それからゆっくりと口付けた。