神獣と百鬼夜行を殲滅して東京に戻ってきた護堂を待っていたのは、病院に担ぎ込まれた恵那と明日香、そして晶が連れ去られたという事実であった。
それを聞いたときの憤りとやるせなさは筆舌に尽くしがたいものがあった。
原形を残さぬほどに破壊された晶の部屋。
呪術師で、蘆屋道満の関係者だった明日香。
何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。
晶がどこに連れ去られたのか。なぜ、晶が連れ去られなければならなかったのか。蘆屋道満とは何者なのか。
まったく情報がなく、全国の分室は地脈の乱れを修復するのに手一杯で道満の捜索までは手が回せない。
それだけが、護堂に知らされたことだった。
迂闊に東京を離れたことがまずかった。
晶を大事に思うなら、東富士演習場を見捨ててでも東京に残るべきだった。取捨選択を誤ったが故に、大事なものを奪われた。
なんと不甲斐ないことか。
苛立ちは、埃のように心の中に積もっていく。
思考が凝り固まり、雁字搦めになったようだ。冷静さを欠いている。頭では分かっている。
「草薙さん。少し、いいですか?」
その護堂に話しかけてきたのは馨だ。蘆屋道満の襲撃を受けて昏倒していたところを発見され、病院に運ばれたが、意識を取り戻して早々に職場に復帰したのだという。
「沙耶宮さん。身体は大丈夫なんですか?」
「はい。むしろ、蘆屋道満にかけられていた暗示が解けたおかげで、とてもすっきりした感じですね」
「暗示、ですか」
「……はい。恥ずかしながら、呪術師として相手は一枚も二枚も上手でした。それに関する説明をしたいと思いますので、お時間を頂けますか? 明日香さんからもいろいろと聞きたいことがありますが、それは彼女が目覚めてからにして、今は、現在分かっていることを含めて確認をしたいことがたくさんありますので」
「分かりました。どこに、行きましょうか?」
「ご案内します。こちらへ」
正史編纂委員会が管理する病院の一室。
小さな会議室であり、普段は医師や看護師が利用する部屋だ。
部屋の中には、冬馬もいた。
飄々としていた彼には似合わない沈鬱な表情だ。
そして、その隣には祐理が立っている。七雄神社から急遽呼び出されたのである。
「草薙さん」
「万里谷は、無事だったか」
「はい。わたしもひかりも、怪我一つなく」
祐理は、唇を噛んだ。
恵那と明日香が傷つき、晶が攫われた状況で、自分は戦ってすらいない。それが、たまらなく悔しい。
「そうか、よかった」
ただ、護堂はそんな祐理の内心を理解しながらも、無事だったことを喜んだ。
自分も一緒に傷つけばよかったなどというのは、ただの欺瞞である。祐理は自分にできることを目一杯やったのだ。責められる道理はない。
「それで、沙耶宮さん。蘆屋道満についての話というのは?」
「はい。どうぞ、お掛けになってください」
馨に促されて護堂はイスに座る。祐理も同じく、座ることになった。
「何から説明したものか、僕たちも混乱していて、多少前後することもあると思いますが、まず聞いてください」
そう言って、馨は現在分かった蘆屋道満の情報を語りだした。
「蘆屋道満は、かなり早い段階から、この東京分室に入り込んでいたようです。意識を取り戻した恵那が、直接聞いたところによると、どうやら今年の五月ごろには僕たちは彼の術中にあったようです」
「は、え、五月?」
「はい。道満は、この東京分室全体に、軽度の暗示をかけていたのです。自分に関する情報を、認識できなくなるという、認識阻害の一種です。この術のために、僕たちは蘆屋道満に関するあらゆる情報を無視してしまっていました」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
五月と言えば、正史編纂委員会が護堂と本格的に接触した時期である。それ以前は祐理を通しての関わりしかなかった。
「じゃあ、ゴールデンウィークのときにはもう?」
馨は、ゆっくりと首を縦に振った。
「ご存知だと思いますが、あのときの僕たちは非常に守りが薄かった。甘粕さんは潜入調査で敵地に潜っていましたし、僕は甘粕さんに変装した敵を手元に置いていました。泳がせていた面もあるとはいえ、東京分室内ですら、そういった状況だったのです。僕と甘粕さんは事実上、切り離されていましたし、それぞれの職員が互いに暗示を受けても気付かない土壌はできていました」
人の出入りが激しく、激務が連続していた時期は、敵にとって非常に侵入しやすい環境を作っていた。それが、蘆屋道満という稀代の陰陽師であれば、侵入を防ぐのは事実上不可能といっていい。
「ということは、そのときには道満様は晶さんを狙っていたということでしょうか?」
祐理が馨に質問する。
「どうでしょうか。むしろ、晶さんを潜り込ませることが、道満の目的だったのかもしれません」
奇妙な言い方をする。
馨の言葉遣いに引っかかりを覚えて、護堂が口を開いた。
「晶を潜り込ませるため、というのはどういうことですか?」
まるで、晶も道満の側の人間だったかのような言い方ではないか。
「それに関しても僕たちは暗示をかけられていたようです」
馨は視線を冬馬に向ける。
冬馬は、A4の紙の束を護堂の前に置いた。
「これは?」
「晶さんに関する資料です。彼女は媛巫女なので、パーソナルデータはきちんと保管してあるんです。それを見てもらえれば分かるかと思いますが」
護堂は言われて資料に視線を落とす。
束の一番上にある紙は、晶が出雲大社で修行を始めるときに作った資料ということで、顔写真は十歳前後の幼いころのものである。
短い黒髪は今と変わらない。晶の面影が確かにある。
さらに、護堂は資料を読んでいく。
本籍地は鹿児島。確か、晶の母親が鹿児島の人間だったはず。
血液型はAB。これは、初めて知った。
身長、体重。五年前の情報だ。もはや意味がない。
特記事項。霊視、神憑り。
「霊視に、神憑り?」
晶の能力は、月と大地から加護を得ることだったはずだ。それを、神憑りの一種と見なすこともできるだろうが、今までに一度も霊視ができるという話になったことはなかった。
「どういうことでしょうか。晶さんは、霊視の力はなかったような」
祐理も、記憶と異なる記載に首を傾げている。
「これが、本来の晶さんの力です」
「本来の?」
「はい。晶さんは、媛巫女としては中の中から中の上といった程度の資質しかない、至って平凡な能力しか持たない娘でした。もちろん、神憑りは希少な力で、現代では他に恵那さんしか使い手がいないのでその分評価は高まりますが、それでも、あの娘が受け入れられる神気は恵那さんの十分の一以下で、満足に使えるものではありませんでした」
冬馬が馨の言葉を受けて説明した。
晶の叔父である彼は、会う機会こそ少ないものの、幼い頃の晶を知っている。その能力がどの程度なのかも、一流の呪術師である冬馬にはだいたい察することができた。
「正直、あの娘には上位層に食い込むだけの力はありませんでした。万里谷さんのように、公家の一員として守られてきた血統ではなく、武家の、しかも一度は離散し没落した高橋家の血筋ですし、私の方も忍です。血筋を守ることで能力を維持してきた媛巫女としては、それだけでも下の下になってしまうのです」
「血筋を守る、か」
「はい。媛巫女の力は、血によって受け継がれるのです。千年間、僕たちは婚姻にまで干渉して媛巫女の血に宿る霊能を保持してきました」
媛巫女が家柄を超えて崇拝される理由。それが、血に宿る神祖の力である。それが発現した者は、どのような家柄であれ、高貴な身分として丁重に扱われる。
もちろん、正史編纂委員会とその前身に当たる組織が千年に渡って管理してきたために、その力を有するのは、公家出身者が大多数を占める。しかし、その管理も常に完璧にできていたわけではない。公に呪術が使用されてきた平安時代ならばまだしも、その権威が衰えた後世ではそうもいかない。高橋家のように、武家でありながら媛巫女の力を取り入れることもあったし、さらにその家が没落して、野に下ることもあった。
少なからず、媛巫女の血も散っているのだ。
「ですが、どれほど薄まろうとも、霊能そのものが変化することはありえません。源流が同じである以上、発現する力も強弱こそあれ方向性が変わることはないんです」
「えと、でも晶は霊視ではなく、また別の力を使っていましたが?」
「はい。それが、まずおかしい点ですね。さらに言えば、一度発現した能力が、途中で変わることもありえません。血に依存する霊能ですから、後天的に変化はしないのです。ですが、その資料にあるように、五年前の晶さんと現在の晶さんでは能力がまったく異なっています」
馨は、淡々と事実を並べていく。彼女にも思うところはあるだろうに。
冷静に資料を読み取り、情報を分析した結果を、馨を口に出した。
「――――つまり、資料にある晶さんと攫われた晶さんは、別人ということになるんです」
「別人、ですか」
祐理は信じられないといったように呆然とする。護堂も、同じ心境だ。
「何かの、間違いということはないんですか?」
「現在あるデータを見る限り、否定できる要素はありません」
馨は首を振る。
「でも、おかしくないですか? 晶は甘粕さんのことを叔父さんだと言っていましたし、甘粕さんも姪だと」
「はい。そうです。
冬馬は、苦々しそうな表情をしている。
「僕たちは、彼女が本物の高橋晶だと思っていました。それは、蘆屋道満にそのように刷り込まれたからだと思われます。彼女が攫われたときに、それらの術が解けたのでしょう。甘粕さんは、珍しく動揺していましたよ」
「恥ずかしながら。……ええ、それでですね、あの晶さんが、東京分室にやってきたのは、ゴールデンウィークの直前です。その前の所属は出雲となっていますが、調べたところ、あの娘の記録は一切存在しませんでした」
冬馬はあの晶が姪ではないと気付いた直後に、晶の足取りを調べ直したのだという。だが、一切の情報はなかった。
「存在しない?」
「はい。まっさらです。過去一年間、出雲から東京に誰かが派遣されたという記録もなければ、転属になった記録もありません。さらには、高橋晶という名の呪術師の名は出雲にはありませんでした」
「どういうことですか?」
「それは私には何とも」
冬馬にとっても、それは衝撃以外の何物でもなかっただろう。
自分の家族として接してきた相手が、いったいどこの誰なのかも分からないというのだから。
「どうして、そんなことになったんだ。道満が、わざわざそんなことをしたってことか」
「でも、それでしたら晶さんを無理に連れ出す必要はないのではないでしょうか。晶さんご自身も、蘆屋道満様とは関わりがないと仰っていましたし」
「重要なのは、あの娘がどう思っていたかではないんだよ、祐理。記憶を弄ることができれば、その辺りはどうとでもなるはずだ。僕たちが彼女を『高橋晶』だと思っていたように、あの娘も自分のことを『高橋晶』だと思っていたということも考えられる。どうして、僕たちの下に送り込んできたのかは分からないけど、それが儀式とやらに必要だったんだろう。そう、大切なのは、道満が何をするかだ」
晶を使って、道満は何かしら大掛かりな儀式を執り行おうとしているらしい。
その晶を、天敵でもあるカンピオーネの傍に置いたのはどういった意図からか分からない。それが、儀式に関わりのあることだと分かるくらいだ。
「晶が、甘粕さんの姪の晶とは別人だということは、絶対なんでしょうか。それこそ記憶を弄られてそう思い込まされているだけかもしれない」
護堂の質問には多分に願望が含まれていた。
「その可能性も否定できません。晶さんの捜索を撹乱するために、道満が僕たちに術をかけた可能性があると。しかし、いくら蘆屋道満といえども、呪術を介さないデータを改変することはできないはずです。このデータがある以上、これは動かぬ事実と考えるべきかと思います。さらに、甘粕さんの姪の高橋晶ですが、彼女は、五年前の失踪事件以降、未だに行方が分かっていません。失踪届けも出たままになっています。ですから、そもそも甘粕さんの姪を名乗る高橋晶が平然と東京にいること自体がおかしいのです。僕たちは、そのことに気付きませんでした」
悔しいのだろう。馨は唇を噛み締める。組織運営や工作には類希な才能を持つのだ。まんまと出し抜かれたことがプライドを傷つけても不思議ではない。それに、護堂が東京を離れる際にその背を押したのは馨からの電話であった。しかし、実際は馨はそのような電話をかけた記憶がない。あの時点で、馨は道満に操られていたのだ。
とても単純な方法で、護堂は東京から引き離されてしまった。どこからどこまでが道満によるもので、どこからどこまでが馨自らの判断だったのか。今にして思えば、自信が持てないことが多すぎる。
今年の五月以前の記録を持たない高橋晶と、五年前から消息不明の高橋晶。
この二人の関係は、いったいどのようなものなのか。
「晶が何者か、ということは今のところはっきりとしたことが分かってないわけですね」
「そうですね。残念ながら」
「なら次は、晶を助ける方法を考えましょう。どっちにしても俺にとっては晶はアイツの方ですし、連れ戻さないことには、道満のことも分からない」
晶が本物か贋者かは、正直どうでもよい。いずれにしても、護堂の傍にいて、護堂を好きだと言ってくれたのは、攫われた晶である。
ならば、助け出さねばならない。細かいことは、後回しだ。
「そうですね。ですが、道満がどこに潜んでいるのか分かりません。全国各地が混乱しているために、捜索に割ける人員も大幅に減っています」
「……ッ」
道満がどこに行ったのか分からなければ、動きたくても動けない。
せめて、明日香が目覚めてくれれば。
若雷神の化身は、傷を癒せても、無理矢理意識を覚醒させることはできないのだ。それでも、明日香はもともと重傷ではなかったので、疲労が回復すればいつでも目覚められるだろうとのことだが。
苛立ちに奥歯を噛み締めた。
ちょうど、そのときドアがノックされた。
「失礼します」
看護師の女性だ。
「徳永さんの意識が戻りました」
護堂はイスを跳ね飛ばす勢いで立ち上がった。
馨と目配せする。
すぐに向かうべきだという共通理解を得て、護堂は明日香の病室へ向かった。
■ □ ■ □
土と水の匂い。
真っ暗な闇の中で、晶は目を覚ました。
「ぐ、く」
動こうとして、自分が縛られてることを理解した。両手首が粗い縄で一纏めにされている。如何なる素材でできているのか、晶が全力で引き千切ろうとしても、ミシミシと音を出す程度でびくともしない。さらには、手首の縄は、天井にまで続いていて、晶を一定の空間に固定している。
ここは、地下牢のようだ。
窓もなければ、舗装されているわけでもない。
壁も地面もむき出しの土で、ところどころに固い石が顔を覗かせている。
暗がりが、ボウ、と明るくなった。
ろうそくの火であろうか。明るすぎない、優しい光はしかし、晶に見たくもないものを直視させることとなった。
「ひぅ」
小さく悲鳴を上げた。
牢の中には、人の骨が転がっていたのだ。一体ではない。頭蓋骨を数えれば、見える範囲に五人の骸があるのが分かる。皆、巫女服を着ている。
「目が覚めたかの」
音もなく、蘆屋道満がやってきた。抜け落ちたかのような、窪んだ眼が晶を無感動に見つめている。
「蘆屋、道満。……わたしを、どうする気」
「気丈じゃな。よいよい、なかなかによいぞ。贄とするには、それくらいの覇気がなければな。じゃが、あまり暴れてくれるな。せっかく、わしが端整込めて作った身体なのじゃ。傷つけられては困るの」
「どういう、こと。作った?」
声が震えている。
違う。
反響しているからだ。
恐れてはいない。恐ろしくもない。
自分に、言い聞かせる。
「おう、そうじゃ」
道満が杖を突き出した。
真っ直ぐに、晶の胸の真ん中を突く。
「ぐ……!」
そのまま、ぐりぐりと捻じ込むように杖の先を押し付ける。
「い、痛いッ、く……!」
「ふぉふぉ、まだまだ、この程度で壊れる主ではあるまい。犬のように繋がれることも、身体を弄くられることも、主にとっては慣れ親しんだものではないか。ん?」
苦悶に歪む晶の顔を覗きこむようにして、道満はにやりと笑っている。
たまらなく、不愉快だ。
「だれが、そんなことに、ッぅ……」
晶の反論を、道満は楽しんでいるようだ。
しばらく晶の反応を楽しんで十分満足したのか、道満はやっと杖を下ろした。
晶は荒く息を吐いて、乱れた呼吸を整える。痛覚を抑えるために、呼吸に意識を集中する。
「はあ、はあ……ぐ、くぅ。……こんなことして、ただで済むと思ってるの? 先輩を敵に回して、……先輩が、来てくれたら、あなたなんか……!」
相手が『まつろわぬ神』に近い存在であっても、カンピオーネの敵ではないのだ。護堂が駆けつけてくれば、道満は撤退するか死ぬかの二択を選ぶしかない。
なのに、なぜこの呪術師は余裕でいられるのだ。
「なるほど。確かに、わしはあの魔王には勝てぬ。彼奴が来ればわしは敗北するしかない。しかし、来るかのう。わざわざ主を救いに」
「何が、言いたい」
「人ではない主を、あの魔王は救うのか? 人でも神でもない、わしがクシナダヒメの竜骨より作りし紛い物の肉体と、汚れに汚れた小娘の魂を、救うほどの物好きか?」
道満が、杖を晶の鼻先に突きつけた。
「何も知らぬよな。わしが、忘れさせてやったからのう。まさか、自分が生まれて半年ほどの小娘だということにすら気付いておらぬじゃろ、ええ?」
「は、何を言って……?」
脳に叩きつけられるような、わけの分からない情報は、晶の思考力を奪ってしまった。
道満の言っていることが、何一つ理解できない。
生まれて半年?
忘れたとは、何を?
疑問は次々と生じてくるが、口にしてはならないと直感する。
冷や汗が止まらない。
喉が渇く。
「今言うたじゃろ。その身体は、わしがクシナダヒメの竜骨を触媒にして編み上げた人形じゃと。主を選んだのは、主が神気を受け入れることができる魂を持っておったからじゃ」
人形。
今までにも、何度か言われた言葉。
木偶とも呼ばれた。
それを、ただの悪態だと思っていた。
血の気が引いていくのがよく分かった。
「あ、あ……あ」
蘆屋道満。
この姿、この声、この臭い。以前、どこかで見て、感じたことがある。記憶が、疼く。
「危険を承知で魔王の傍に置いたのは、神々の神気を吸って骨と肉を霊的に癒着させるためじゃ。主が竜骨から力を吸えば吸うほど、身体は神祖に近づいていく。高橋晶よ。主は実によい膠であったわ」
震えが止まらない。
カチカチと、音が聞こえる。
それが、恐ろしさから歯の根が合わなくなったのだと、理解するだけの思考力は既にない。
「ひ、ひあッ」
道満が枯れ枝のような指で晶の頬に触れる。痺れるような恐怖が、身体中に広がっていく。
「忘れたままでは可哀想じゃ。よしよし、思い出させてやろう。主の魂をその身体に合わせるために調整してやった、この五年間をの」
逃げなければ。
自分にとって、最悪の何かが迫っている。
身体を捻り、縄を切ろうと抵抗する。必死にもがく。
「や、めて」
本能が叫んでいる。
「嫌だッ」
道満は、晶の懇願を笑みと共に聞き流す。
呪力を練り上げ、呪文を囁き、晶の額に手を翳した。
晶の脳に、道満の呪力が染み込んでくる。
「ダメ、ダメダメダメェ、いやあああああッ」
「さすがに、刺激が強かったかのう」
道満は相変わらずの下卑た笑みで、晶を見下ろしている。
泥と涙で汚れた晶は、ひくひくと小刻みな痙攣を繰り返し、荒く息を吐いている。五年分の苦痛と絶望と快楽に蹂躙された晶は、息も絶え絶えといった状況であり、目の前に立つ道満の言動に意識を割く余裕もない。そもそも、意識があるのかないのかすらも分からない。
「あ……ひあ、あ、あぁ、あ、うあ……」
道満が杖で突いても反応を返さない。
うわ言のようになにやら呟いているが、それも言葉の体を為していない。
「外での生活はよほど幸福だったのであろうな。よいことじゃ。その分だけ、絶望も深くなる」
死んでいないのだから、放って置けばその内に回復するだろう。
身体は十分に熟している。
もはや、骨と肉を繋ぐ精神の役割は終わったといっていいだろう。
心が壊れていても、肉体が生きていればいいのだ。
絶望を受け止めたクシナダヒメの霊力を有する身体。
神話をなぞるには、最高の触媒である。
「牛頭」
「いるぞ」
牛頭天王が、道満の傍に実体化する。
「これから蛇を呼ぶぞ。存分に斬るがよい」
まだR-15