七月も中ごろとなり、日差しが日に日に強くなっていく今日この頃。東京は幸いにして早くに梅雨があけて、気持ちのよい真っ青な空が天上を覆っていた。
昨年までの護堂であれば、こんな日は外に出てボールでも蹴っていたであろうが、高校一年生となった今の護堂の生活は一年前と比べて大きく変わってしまっていた。その変化は、まるで蝶の蛹から蝉が生まれたかのようなレベルでかけ離れているもので、かつては忌諱して止まないものだったのだが、実際にカンピオーネという存在になってしまい、死線を潜り抜けていると、これが自分の人生なんだと諦めにも似た悟りの心境に至ってしまうのだった。なにせ、まだ三ヶ月だ。三ヶ月で『まつろわぬ神』との戦闘は四回。ヴォバン侯爵も含めて五回。恐るべき頻度と言えよう。侯爵のところに行かない分が護堂のところに流れ込んできているのではないかと思わされるほどに数が多い。もっとも、カンピオーネという存在は台風のめのようなもので、どこに行っても争いには巻き込まれるらしい。
(ヴォバンが暇とか言ってたのは、たぶん、自分と戦う価値がないと判断したものを勘定に入れなかったからだな)
などと、護堂は思っていたりもした。
今の護堂の生活は歩いていれば神様に出会う。そんな状態に陥っているといっても過言ではない。こんな頻度で戦っているのに、ヴォバンのところに神様が行かないだなんて不公平もはなはだしい。護堂は避けられない戦には腹をくくって飛び込みはすれども自分から望んで向かっていくことなどしたことがないし、するつもりもない。平和にというのはもはや無理な相談なのかもしれないが、それでも、戦いのない日々を過ごすことの大切さは身に染みて理解したところだった。
問題は、今の生活も悪くないと思っている自分がいることだろう。
きっと命を懸けた戦いの中にスリルを感じてしまっているのだ。ギャンブルにはまる人は、大当たりを出すことよりも、ギャンブルをするという行為によって生じるリスクと破滅へのスリルに取り憑かれるという。もしも、バトルジャンキーになってしまっているのだとすれば、早々に矯正が必要になるのではないだろうか。
今、護堂は学校の屋上へ続く階段を上っているところだった。踊場まで来てドアを開ける。途端、熱せられた外気と、それを打ち消す程よい風が頬をなでた。遮られることのない太陽光が降り注ぐ屋上は、常にも増して温められていて、反対側には揺らめく陽炎が見えていた。
天気がよくても気温が高すぎて屋上にはほとんど人がいなかった。
「あ、お兄ちゃん。こっち」
明るい声で護堂を呼ぶ静花は、手招きをしている。すでにフェンスのすぐ近くに陣取っていた静花。静花を囲むように、晶と祐理も弁当を広げて座っていた。
護堂は苦笑しながら妹たちの下へ向かう。
「なにも、こんなに暑い中で喰わなくてもいいと思うんだけどな」
気温は今朝の報道によれば二十五度ほどにはなるという。今まさにもっとも東京が熱を持っている時間帯になろうというのに外に出るとは。
「弁当も傷んでしまうじゃないか」
「だから、すぐに食べないとだめじゃん」
と静花。早く座れと床を叩いている。促されるままに隣に座った。
多いときは週に三日はこの面々で集まっている。静花がいるために話すことは日常会話の域に留まっているが、時折神話や歴史、民俗学の話に飛び込んでしまうこともある。護堂に関しては一郎のこともあるので、不自然ではないにせよ、晶や祐理がそういった話についてくることができ、さらには晶に至ってはこの中でもっとも民俗学に精通しているのではないかと思わせる発言も多く、事情を知らない静花は目を丸くしていた。
「暑いぞ」
「文句言わないの。中等部が高等部に来れるのなんてここくらいしかないんだから」
「たしかにその通りだけど、わざわざ来なくても……」
先を言いそうになって護堂は口をつぐんだ。来なくてもいい、というのはさすがに礼を失する発言だと思ったのだ。護堂自身も、この昼食を嫌がっているというわけではない。ただ、クーラーの効いた室内から出るのが億劫だったという極めて現代的な不満以外はまったくない。
「まあ、めんどくさいお話はそれくらいにして、先輩もお弁当を食べないと時間が過ぎてしまいますよ」
晶が卵焼きを箸で掴みながら言った。
「む。その通りだな。じゃあ、お言葉に甘えて」
護堂は弁当の蓋を開けた。何の変哲もない、ごく普通の中身だ。ソーセージやミートボールが目立つが緑が少ないという点で、少々偏りがあるだろうが、男の弁当は見た目よりもカロリーだ。気にはしない。
食事をしながらも、なんとなく周囲が気になってしまうのは、自分の周りにいるのが美少女ばかりだからだ。晶も祐理も校内トップクラスの顔立ちをしているし、静花だって負けてはいない。これは身内びいきではなく、厳然たる事実だ。そんな女生徒の輪の中に、男が一人。溶け込めるはずもなく、当然、様々な噂が飛んでいたりするわけだ。いちいち否定して回るのも面倒なくらいで、精神的に来るものがあるのだが、彼女達はいったいどのように思っているのだろうか。
この構図、どう見ても学内トップの女生徒たちを独り占めしている男の図にしかならず、身の危険を感じ続ける日々を送っていることに、彼女達は気づいてくれることはないだろう。
「ん?」
と、不意に護堂は第六感を刺激するなにかを感じて首を捻った。
あまりにも微弱で、敵意もなかったために無意識かで放置していたものを意識したのだろう。
それは、明確な呪力だった。
「どうしました? 草薙さん」
祐理が尋ねてくる。
「いや、どうというわけではないけど」
護堂は箸を止めて顔を上げる。祐理と目が合い、彼女は照れなのか、ばつ悪そうに目をそらした。
視線を右にずらして晶を見る。箸の先を咥えたままの状態で、小首を傾げている。
件の呪力の発生源はどうやらこの二人らしい。しかし、なんのために使っているのかがよくわからない。護堂は呪術に関しては下の下だ。知識は皆無に等しく、そのうち学んでみるつもりではあるけれども、まだ何も手を出していない状態だった。ゆえに、二人の呪術が何に使われているのかということを解析する力はない。
一体何をしているのだろうと、思いながら、隣の静花を見やる。
「はッ」
そして、護堂は息を呑む。違いがあった。静花と自分。晶と祐理。このグループの明確な違い。
「晶も万里谷も汗、かいてないんだな」
呟く声に二人は肩を震わせた。
静花は怪訝そうにしていたが、護堂の呟きを聞いて、驚いていた。
「本当だ。汗かいてない。こんなに暑いのに!」
静花が、晶の首筋に手を伸ばして確認している。見た目で汗をかいていないのではなく、本当に汗をかいていないのだ。気温二十五度オーバー。熱せられた屋上で、太陽に炙られ続けて二十数分というこのときにだ。
「まあ、ね。わたし、なぜか汗をかきにくい体質みたいなんだよねー」
と、晶は頬を引きつらせて言い訳をする。
静花は、不思議な体質だと思っただろうが、それ以上を追及する術を持たず、興味も持たず、あっさりと引き下がった。
護堂はジト目で二人を見て、
『呪術で体感温度を下げているんじゃないか?』
と念を送った。
祐理も晶も、視線をそらす。大当たりのようだ。この暑さの中で平然としていられるからくりがわかった。
「あ、ははー」
「すいません」
小声で謝ってくる祐理。
『別に責めているわけじゃないけど、どうせなら俺にもかけてくれればよかったのに』
涼しくなる手段があれば使うのが人間。術で涼しくなるのであれば、クーラー以上にお手軽で経済的ではないか。俺だって暑いんだ、という護堂の主張はしかし、あっさりとダメだしを受けた。
『ムリですよ』
晶は、護堂の念話に念話で返す。静花に悟られない水面下での会話。
『なんでだ? 他人にはかけられないとか?』
『そういうわけじゃないんですけど』
と、一端言葉を切って、逡巡し、
『だって、先輩はカンピオーネじゃないですか』
と、その理由を実にわかりやすく、端的に説明してくれた。
通常の呪術はカンピオーネには通じない。その身中に宿す規格外の呪力によって、強制的に打ち消されてしまうからだ。そんな基本的なルールを、護堂は失念していた。唯一の例外は、経口摂取による呪術行使だが、まさか、キスで熱を冷ましてくれ、などと要求できるはずもない。
『空間にかけることもできますけど、それだと静花さんが違和感を覚えてしまいますし』
とは、祐理の言だ。
呪術に極力関わらせないという方針で静花に接しているために、余計な干渉はしないようにしていたのだ。
『じゃあ、しょうがないか……』
やや、不服そうに護堂は会話を打ち切って食事を続ける。
少し塩気の濃い焼き鮭を飲み込んだ護堂は、晶に話しかけた。
「そういえば、今日は話があるんじゃなかったか? すっかり忘れていたけど」
「あ、はい、そうです。けっこう大事なお話、というかお願いが」
と、そこまで言って晶は口を噤んだ。言いにくそうに、視線を泳がせている。その挙動不審ぶりは、酸欠の鯉のようだ。
「はあ」
と静花はため息をついた。そして、
「晶ちゃんね、お兄ちゃんに勉強を見てもらいたいんだって」
言いよどむ晶の代わりに静花が代弁した。晶は傍目から見てもわかるくらいに赤面した。
「し、静花ちゃん……」
晶がすがり付くように静花の腕を取る。しかし、静花は意に介さず、
「で、どうする。お兄ちゃん次第だけど」
と、尋ねてくる。
呪術系の話かもしれないと思っていた護堂は肩透かしを食らったような気持ちになり、とりあえず箸を置いた。
「まあ、教えるくらいどうってことないけど。もうすぐ期末だしな。そのためにか?」
晶はコクコクと頷く。
「先輩は、すごく勉強が得意だと伺ったものですから……すみません。高等部もテスト前なのに」
「こっちは、中等部とは微妙に日程がずれているし、問題ないと思う。教科は」
「数学です。その、文系科目は得意なんですけど、理数は……理科はもう暗記と割り切るにしても、数学が全然できません」
「全然、か。それは大変だな」
晶の意外な一面を知って、護堂は驚いた。その内心の驚きを表には出さず、快く引き受けることにした。何度も世話になっている後輩のために一肌脱ぐくらいはできないと、という心境だった。
昼休みも終わりに近づき、護堂と祐理は教室に向かう。
やはり、じろじろと視線を感じる。祐理も不快、とまではいかないものの、違和感を感じているようだ。一緒に戻ることをやめればいいのだろうが、一緒に弁当を広げ、昼休みを過ごしていながら、教室に帰るときだけ別というのも可笑しな話だ。
あの後、晶と二、三話してわかったことは、彼女の数学に対する苦手意識はかなりのものだということだ。いや、そもそも、晶は勉強そのものを苦手としている。呪術は好きだし、昔から自然としていたことだから、それに付随する言語分野、歴史分野に触れ続けて今に至るのであって、だからといって学校の勉強に対して学習意欲があるかと言えばそうではないらしい。
「晶さんが勉強嫌いだったなんて、わたし、知りませんでした」
「そうだな。俺もはじめて聞いたからな。それに、晶はこの学校に学力で入ったわけじゃなくて、任務で潜入した形だろう。中高一貫だと進度も他と違うだろうし、苦労するよな」
「確かに、そうですね。そこまで思い至りませんでした」
話ている間に教室についた。護堂と祐理の教室は隣。よって、ここで別れることになる。
「それではまた」
「ああ、じゃあ」
と護堂は軽く手を上げて教室のドアを開け、中へ入っていった。
中に入って、目前に護堂の行く手を阻む壁が立ちふさがった。それは背後に夜叉を背負うかのごとき形相でたたずむ三人の肉壁であった。
「来るとは思っていたよ」
護堂は言った。
男たちは、互いに視線を交わし、頷き、口を開く。
「ブルジョワジーの貴様と、今さら問答する余地なし」
「我々は立ち上がり、轟然と革命へと突き進む決意をしたのだ」
「今こそ、恋愛社会主義を樹立するべきときぞ!」
彼らの名は、高木、名波、反町。女性をこよなく愛し、押さえ切れぬリビドーと格闘するという男子高校生の鏡とも言うべき人物だった。
「いいぞ。相手してやる。覚悟はできてたからな」
護堂もまた、彼らの行動は読めていた。何れこういう行動に出るだろうと。よって、この展開に呆れることはあろうとも、驚き動転することなどありえない。草薙護堂は、避けられない戦いには立ち向かうという習性の持ち主なのだから。
□ ■ □ ■
静花や祐理を交えた厳然公平な審議の結果、勉強は晶の家で行うことになった。
もちろんこれには初めから反論が出た。女の子の部屋に男があがりこむのはよくない。しかも、晶は一人暮らしで、いざというときに身を守ってくれる人がいないというのが理由だった。この意見が出たときは、護堂もムッとしたものだが、客観的に言って、非の打ち所がない意見であるのもまた事実だった。女の子の一人暮らしに男が介入すべきではない。それは、女の子側だけでなく男のほうを守る意味もある。根も葉もない噂が流れることもありえるし、そうなった場合、不利な立場におかれるのは往々にして男のほうである。しかし、だからと言って草薙家を使うわけにもいかない。勉強するならば、晶と護堂は同室になることは自明の理。静花の部屋で勉強するとなれば、集中力に乱れが生じる。静花自身の勉強も捗らず、互いに足を引っ張り合う形になりかねないのだ。
また、図書館などでの勉強は自習ならばいいが、教えるとなれば声が漏れる。周囲に気にする人も多いという意見で早々に却下になっていた。
『強制言語』であれば、この問題をあっさりと克服できるのだが、静花の意見であるために否定できないのだった。
そういう経緯の果てに晶の部屋で勉強会が行われることになったのだった。
晶としても、これは想定外。勉強を教えてもらいたいとは言ったものの、まさか護堂を家に上げることになるとは思わなかったのだ。降って湧いたこの事態に、晶は自宅に戻るなり、全力で掃除を行い、洗濯物を片付け、どうにもならないものは洗濯機に放り込んで蓋をした。
片付けが終わるとすぐに勉強道具を取りに向かう。数学のワークと教科書、そしてノートだ。それをダイニングのテーブルの上に並べる。自室にある勉強机では行わない。そこは寝室であり、プライベートルーム。護堂には断固として見せるわけにはいかない聖域なのだから。
そうこうしている間に護堂がやってきた。部屋の中に可笑しな物がないか、自分の容姿に可笑しな点はないかと気にしながら迎え入れ、お茶を出す。
「すみません。わざわざご足労おかけして」
「全然、全然。家からも近いしね」
と護堂は笑って許してくれた。ほっと、胸を撫で下ろす。
一つ失敗したと思ったことと言えば、自分の服が制服のままだったということだろうか。護堂は服を着替えて来た。
ブラウンのチノパンにカットソーを組み合わせたラフな服装は飾らない護堂の性格をそのまま現したかのように自然体だった。
「さっそく始めようか」
「あ、はい」
晶はノートを広げ、問題に取り掛かった。
期末試験の範囲は二次関数の分野を主として出題される。基本的な変化の割合を求めるところはできていたものの、文章題になると途端にシャーペンが動かなくなる。思考もストップする。頭が真っ白になって、文字を読んでいるのに理解できていないということに頭の片隅で気づきながらもどうにもならない。こういうときに、護堂が手を差し伸べるのだが、
(うわー、先輩が近い。うう、どうしよう。臭いとか大丈夫だよね)
教えるためには、当然、それなりに近い距離にならねばならない。二人同時に問題集を覗き込むので、一歩間違えばキスもできてしまう距離になる。表情のみならず、睫毛の一本一本から、目鼻立ち、唇までが鮮明に見て取れる。晶の視線は、どうしてもそちらを向いてしまう。
(い、いけない。集中、集中。せっかく先輩が教えてくれているのに、こんなんじゃだめだ)
気づくたびに自分を叱咤して問題に取り組むも、嫌いな数学と好意を持っている相手では比べるまでもなく後者に引きづられてしまうもので、ちらちらと盗み見ては慌てて視線を戻すということを繰り返していた。
普段家の中では何をしているのだろう、とか、どんなシャンプーを使っているのだろう、とか、何時ごろに眠っているのだろうとか、そんなどうでもいいことばかりが気になってしまうのだった。
「晶、聞いているか?」
と、晶の様子を怪訝に思った護堂が尋ねた。
晶は飛び上がりそうになりながら大丈夫です、と答えた。
冷水をかけられたかのように冷や汗が背筋を伝い、覚醒した頭で再び数式に向かう。数問をなんとか解いたとき、晶のシャーペンがまた止まった。
「先輩、ここ、意味がわかりません」
問題文を親の仇であるかのようにシャーペンでつつきながら言った。
「ああ、なるほどね」
護堂は納得した様子でそう言った。晶は、初めからこの問題で躓くことを予見されていたような気がしてムッとした。問題には立方体が描かれていた。
「…………秒速一センチで動く点Pの他に点Qがあるんですけど……こいつらは一体何がしたいんですか?」
確かに、点Pが移動する辺AFの反対側の辺CG上に点Qが存在していた。二次関数なのだから当然ではある。
一次関数のときに点Pにはしてやられた記憶のある晶は、動点Pが大嫌いだった。存在意義がわからない。なんなのだ、この点Pは。なぜ、動く。ジッとしていろと憎憎しげにペン先でつつきまわしたあの点が仲間を引き連れて帰ってきたのだ。悪夢の再来としか思えない。こいつらが立ちふさがる限り、テストで笑うことはできない。
「しかも、頂点A,Cを動点と結んでできる図形の面積って。動くんですけど、PとQが! 反対方向に! 面積なんかでるわけないじゃないですか。底辺は? 高さは? いったいどこなんですか!? なんでじっとしててくれないんですか! 何秒後の面積を出せばいいんですか!」
問題文に食って掛かる晶を落ち着かせ、護堂は一つ一つ教え始めた。式の立て方から、面積の出し方までを繰り返し説き、晶が理解してくれるまで、何時間も付き合うことになったのだった。