昨夜のパニックが嘘のように要塞の中は落ち着きを取り戻していた。
ウルディンの襲来に端を発する大混乱も、アイーシャ夫人の魅了の権能のおかげで事なきを得た。集団に作用する催眠術のようなそれは、権能というだけあって極めて強力であり、カンピオーネや神獣クラスには効果がほとんど期待できないものの、人間が相手ならば都市の一つや二つ、軽々と支配下に置くことができるものであった。
権能を真正直に人の役に立てているのを初めて見た護堂は、僅かなりとも感動したものだが、ここに詰める兵士たちがアイーシャ夫人の信奉者になってしまっているのを見ると、やはり権能というもののろくでもない一面は常に付き纏うのだと実感する。
護堂は目の前のソファに座り、にこやかにパンを頬張るアイーシャ夫人もこの問題の原因の一つではあるのだが、護堂はそこまで言うのはさすがに野暮だろうと自制した。
彼女がいなければアウグスタ・ラウリカは昨晩のうちに滅びていたかもしれない。
比喩ではない。
この時代、一つの砦が内側から瓦解するというのは、その時点で滅亡を意味すると言っても過言ではないからである。
護堂はウルディンを退けたかもしれないが、それでもアイーシャ夫人の功績に比べれば霞んでしまう。彼女が昨晩したことはそれほどまでに重要なものだった。
「ウルディンは……」
「はい?」
「ウルディンは、近いうちにまた来ると思います」
「そうですね。おそらく、そうなる気がします。昨日、戦われたときに、何か仰っていたのですか?」
問われた護堂は、どうしたものかと口篭る。
ウルディンの狙いはアイーシャ夫人だ。アウグスタ・ラウリカもそのついでに狙っているようだが、神殺しの権能があれば陥落は容易かろう。それをしないのは、ドサクサに巻き込まれたアイーシャ夫人が行方をくらませるかもしれないからではないだろうか。
「ウルディンの狙いはあなたみたいです、アイーシャさん」
「え、わたくしですか?」
アイーシャ夫人は驚いて、パンを千切る手を止め、まじまじと護堂を見る。
「事実です。ウルディンは、どうもあなたを自分の妻の一人に迎え入れる算段のようです。そのために、ここを襲撃しているのだとか」
「あら、まあ……」
困ったわ、とアイーシャ夫人は手を頬に当てて恥ずかしがる。
この件について、どのように思っているのだろうか。彼女がウルディンの後宮に入ることになっても、それが本人の望みであれば護堂がとやかく言うものではない。アイーシャ夫人を二十一世紀に連れ帰っても、彼女が望んでこの時代にやって来るのであれば止めようがないからである。それこそ、殺害するくらいしなければ、過去の誰かとの間に子どもを作るような展開を防ぐことはまず無理なのだ。
彼女の様子から、子どもについては今まで縁がなかったようだが、これから先はどうなるか分からない。今回の相手はウルディン――――当代の神殺しということもある。
「実際のところどうなんですか?」
「どう、とは?」
「自分を神殺しが攫いに来てるってことについてです」
護堂の問いは、アイーシャ夫人の微妙な態度に関わるものだ。最低限、彼女の意思を確認しなければ護堂は大手を振ってウルディンと戦えない。
権能を使った戦闘に、何かしらの理由を求めるのが草薙護堂だ。
これまではそうだった。きっと、これから先もそうなるだろう。自分にかけられた、性格上の制限。他者から請われて権能を振るうのも、それが一番分かりやすい「戦う理由」だからであろう。
そして、アイーシャ夫人がウルディンのところに行くのを認めるのであれば、護堂が戦う理由が一つ減る。後はアウグスタ・ラウリカを賭けた戦いとなろうが、彼女を失った都市民の士気を考えると護堂がウルディンから一時的に守ったところで先行きは怪しかろう。
アイーシャ夫人は気恥ずかしそうにしつつ、水盆で指先を洗い清めて答えた。
「わざわざわたくしのために押しかけてくださるのは、女冥利に尽きます。が、ウルディンさんには申し訳ありませんけれども、わたくし、誰の後宮に入るつもりはないのです」
「つまり、拒否ということですね」
「はい。いざとなれば、わたくし自らあの方と戦う覚悟です。格で言えば同格。従う理由はありませんもの」
それこそ、目の前にあるパンを齧るのと同じくらいの常識としてアイーシャ夫人は言い切った。気負うこともなく、平然と。護堂は少し面食らった。
「あの、アイーシャさんって、戦う権能はお持ちなんですか? 冬を呼び寄せる権能があるとは伺いましたけど」
「あ、そうですね。まあ、色々と条件はありますし、戦うのは好きではないんで、戦いのための権能と言われると語弊があるものばかりではありますが、これでも歴戦の猛者なんですよ」
と、アイーシャ夫人は可愛らしく右腕に力瘤を作ってみせる。触ったら、簡単に形を変えるであろう小さな力瘤だ。頼りない、がカンピオーネの戦いは肉体を使った殴り合いではないのだ。こうして、のんきにしゃべっているアイーシャ夫人も、戦うとなれば強力な権能で敵を屠るのだろう。想像できないが、彼女は現実に百年以上に亘ってこの世界を生き残ってきた怪物の一人なのだから。
「ちなみに、冬を呼ぶ権能ってどのようなものですか?」
「そうですね……わたくしが心ならずもギリシャの女神ペルセポネーより簒奪したものなのですが、大地を割り、地の底に相手を落とす権能ですね。代償として向こう数年は極寒の風が地割れの底から吹き出てしまいますが」
「そんなものをこの辺りで使ったら、餓死者が出るので止めてください」
「あ、そ、それは心得ています」
本当だろうか。
勝利のためには、手段を選ばないのもカンピオーネの特徴である。
そして、この物流が乏しく、異民族による略奪が相次ぐ時代で寒冷化が起これば、周辺住民は食べるものがなくなって飢え死にしてしまう。
やはり、ここは護堂が戦うしかないようだ。
アウグスタ・ラウリカの傭兵隊長として、そしてアイーシャ夫人と共に二十一世紀に帰還するために。
「とりあえず、昨日のことでアイーシャさんの魅了が街の人の避難に有効だってことは分かりましたし、ウルディンの相手は俺が引き受けるので、アイーシャさんは避難誘導に徹してください。間違っても、地割れを引き起こさないように」
念入りに護堂はアイーシャ夫人に言った。
後々まで尾を引く権能だ。それだけで、歴史を一つ変えてしまうこともあるかもしれない。
「わ、分かりました」
アイーシャ夫人は、護堂の真剣な表情に気圧されて、固く頷いた。
アイーシャ夫人を戦場に出すわけには行かない。彼女がいなければ、元の時代への帰還が面倒になる上環境に与える影響も非常に大きな権能持ちなのだ。アウグスタ・ラウリカに於ける傭兵という立場もあり、ウルディンと戦うのは必然的に護堂以外なく、また、ウルディンのほうも護堂を真っ先に潰しに来るだろう。
戦いを日常とする時代のカンピオーネというだけで、かなり強力な存在なのだ。それと真っ向から戦わなければならないというのが、非常に面倒で嫌気の差すものなのだが、かといって逃げるわけにも行かず、死なないことを祈りながらそのときを待つ護堂であった。
□ ■ □ ■
古代のカンピオーネであるウルディンがいるのは、やはりこの時代にやって来たときに垣間見たライン川沿いの要塞らしい。
その周囲には木々が生い茂っていて、自然豊かな森林地帯を為している。とはいえ、今となっては地元の猟師すらも森の中に足を踏み入れることはないという。
「森に住む竜の噂は、この街の人々も知っているようです。兵士の方々にも少しばかり尋ねてみましたが、皆さん、森の竜を恐れて近付かないのだそうで、詳しいことは不明です」
ウルディンとの初戦が終わってから、事態が動いたのは三日後のことだった。彼のほうで、戦う準備ができたということなのだろうか。空を舞う翼竜が、駆けつけた護堂の頭上に一通の手紙を落としていったのである。
古典ラテン語で書かれた手紙である。
一瞬、ウルディンのような粗雑な異民族が古典ラテン語を嗜んでいることに驚きかけたが、それはカンピオーネならば誰でも、極自然に体得する千の言語によるものであろうとすぐに思いなおした。文体こそ古典ラテン語ではあるが、内容は簡素簡潔、無駄を省いた要件だけのもので詩的表現は皆無と言ってよかった。手紙というよりもそれは、通知であり、こちらの要件は一切考慮に入れず、自分の主張だけを書き記し、その通りに行動するという宣言である。
それは、所謂果たし状であった。
聖女の身柄とアウグスタ・ラウリカの支配権を賭けて尋常の勝負をしようというのである。日時は今日の日暮れ。太陽が沈んでから。場所はアウグスタ・ラウリカの前に広がる平原。人に迷惑がかからないのがいいが、これはアウグスタ・ラウリカを巻き込むのをウルディンが嫌がったからだろう。
護堂がこの誘いを断わることはできない。
断われば、ウルディンはこれ幸いと略奪に移るだろうから。
「念のために、魔女の目を飛ばしておきます。ウルディン様が動き出すのを、事前に察知できるかもしれませんので」
「やっぱり、魔女術ってのは汎用性があって便利だな。リリアナには助けられてばかりだ」
「何を仰いますか。元はといえばわたしたち《青銅黒十字》があなたを困難に巻き込んだようなものですし、わたしも騎士です。護堂さんに協力するのは、当たり前のことです」
と、青と銀の騎士は心強いことを言ってくれる。
魔女の目があれば、こちらの安全を確保するのが楽になる。偵察に身体を張る必要がないというのは大きい。斥候としては晶が優秀だが、自ら敵地に乗り込まなければならないので危険を伴うのだ。よって、この場に於いては情報収集はリリアナがほぼ一手に引き受けてくれていた。
「少し、外を見て回る」
「何か、ご予定でも?」
「いや。決闘の時間まで暇だからな。ただの散策」
「そうですか」
「リリアナも来るか?」
「いえ。わたしは、ここに残ります。ウルディン様の動向を監視しなければなりませんから」
リリアナは少し残念そうにしつつ、生真面目な口調で答えた。
「そうか。悪いな」
「お気になさらず。最も苦労することになるのは、間違いなくあなたなのですから」
「だよなぁ。まあ、気にしても仕方ないか。じゃ、ちょっと行ってくる」
護堂はリリアナに軽く手を振って部屋を出た。
正午を過ぎて、日は傾きかけている。決闘の時間まで、残り三時間弱と言ったところだろうか。気持ちを入れていく必要がある。
人が行き来する賑やかな通りを護堂は歩いた。
石で整えられたきれいな通りである。貧しい人々が暮らす、高い木製の集合住宅街があり、豊かな人々が暮らす石造りの家々が立ち並び、そして店や公衆浴場、運動場がきちんと整備されている。
この街に滞在してから、公衆浴場には特に世話になっている護堂だが、今は足を踏み入れるつもりはなかった。
「あれ、先輩?」
ふらふらとしていると、雑踏の中で見知った顔と目があった。
「何してるんですか、こんなところで」
「俺はただの散歩だよ。晶は……店か」
「はい。さっき完売です」
晶は得意げに空のバスケットを見せる。
さっきまでは、ここに真っ赤な林檎が入っていたはずだ。
晶はここ数日、自らの権能で生み出した林檎を売って小金を稼いでいた。安く、新鮮で、不思議と力が湧いてくる魔法の林檎と一部で評判になっていたらしい。
「リリアナにしても晶にしても、逞しいなぁ」
「そんなこと、ないですよ。お金に換えることができる能力があるから、やってるだけです。これから、何があるか分かりませんし」
「そうだな。ウルディンと戦った後も、サルバトーレを何とかしないとダメなわけだし」
「そうなんですよね。どうしますか? サルバトーレ卿」
「帰るぞ、って言って素直に帰ってくるヤツじゃないしな……」
戦うことが生きがいのサルバトーレにとっては、この時代のほうが性にあっているのかもしれない。しかしながら、それは許されないのだ。ある程度大冒険に満足したら、帰って来てもらわなければ。
晶は荷物を転送の術で自分の部屋に送り、身軽になって護堂の隣を歩く。
護堂は周囲を見て、改めて思う。
ローマの植民市と聞いて、ラテン系が多いものかと思っていたのだが、案外そうでもないらしい。
国境付近ということもあるのだろうが、異民族を傭兵として抱えているという事情もあるのだろう。二万人の人口の大半は、やはり白人なのだが、それでも民族は多様で中にはアジア系も一定数混じっている。護堂と晶が並んで歩いていても、特別奇異な視線を集めることはなかった。
護堂と晶は、人だかりを頼りに円形舞台に辿り着いた。舞台の名は分からないが、役者がステージ上で口上を並べているところであった。
「この時代に演劇があったんだよなぁ」
「日本じゃ考えられないですね。コロッセオなんて、古代日本じゃ絶対に建造できないですよ」
「あれは、明治以降の日本じゃないと無理なんじゃないかな」
そもそも石造りの建物を建てること自体、日本では難しいのだ。大きな石材が用意できない上に技術もない。地震の多さも問題になるだろう。建て替えしやすい木造建築のほうが、やはり日本には適している。とはいえ、古代の技術で見上げんばかりの建物を築き上げるというのはやはりすばらしいことである。
「そういえば、今の日本は、何してる頃だ?」
「そうですね。多分、古墳時代の終わりごろ、ですかね……確か、後二、三年で倭王の讃が東晋に朝貢するはずですけど」
「正直、古墳時代の日本ってよく分からないんだよな」
「仕方ないですよ。文献に残ってないんですもん」
文字が入ってくる前の日本を知るには、中国の史書に記された情報に頼る以外には考古学的に推測していくしかない。時期としては大和政権が成立し、強大化していく時期ではあるのだが、やはり文字資料の欠乏は日本の実態を謎のベールに包み込んでしまっている。
眺める演劇はギリシャ神話に由来する演目のようだが、如何せん知識がない。観客のように見入ることもなく、漠然と時間を潰しているに過ぎないのである。自分に芸術的な才能があれば、この演目に感じ入るものもあったのかもしれないが、それもない護堂にとっては座って休める休憩所くらいの認識でこの劇場を利用しているのであった。
「今なら先輩。誰にも邪魔されずに草薙王権が建てられますよ。手始めに東北辺りから始めて勢力を太らせて、大和政権と一騎打ちとか」
「何言ってんだよ。子ども作るだけで歴史がどうとか言ってたのはそっちだろう。日本を作り変えてどうするよ。今の日本なんて、漢字を持ち込むだけで歴史が変わるくらいの土地だぞ」
「そうなんですけどね。でも、実際ロマンはあるじゃないですか。古代で一旗挙げるって」
「言いたいことは分かる。今の俺の力なら軽く国を興せるもんな」
カンピオーネの力は絶大だ。
単独で一国を滅ぼせる力があるのだから、国を樹立することなど難しくはない。おまけに呪術的な力によって国を治める時代でもある。卑弥呼が鬼道を駆使して邪馬台国を率いていた時代から二世紀も経っていないのだ。カンピオーネの力はそれだけで民衆を惹き付けるものとなるだろう。
「古代でも現代でも俺は王さまなんだろ。だったら、別に古代で一旗挙げなくてもいい」
「あぁ、それもそうですね」
あっさりと、晶は頷いた。
民主主義が広まった二十一世紀に王などと言っても、非現実的ではある。しかし、カンピオーネというのは、それそのものが非現実的な力に裏打ちされた絶対権力者である。その気になれば、現実の政治にすら影響を与えることも可能となるのだから、十二分に王と称していいだろうし、呪術師たちは王として忠誠を示している。
「そろそろ戻ろうか。演劇が終わると、また混雑するだろうし」
「早めに戻るんですね。分かりました」
円形劇場に集まった観客は数百人。この演劇がいつ終わるのかは分からないが、これが一度に通りになだれ込めば相応の混雑は起きるだろう。サッカーのスタジアムから大挙して帰宅するサポーターのように。そうなると面倒なので、さっさと拠点に戻り、ウルディンとの戦いに備えることにする。
屋敷に戻るころには、太陽も大分傾いてきていた。
約束の時間まで、後一時間を切ったといったところだろうか。
晶と共に自室に戻ると、ウルディンの砦を監視していたリリアナが椅子から立ち上がって出迎える。
「おかえりなさいませ、護堂さん。それに高橋晶も」
「ただいま、リリアナ」
「すいません、わたしだけ外に出ちゃって」
「気にするな。わたしはわたしの仕事をしていただけだからな。ところで、護堂さん――――」
リリアナは真剣な顔つきになって、護堂の傍に駆け寄る。
「ウルディン様の砦が、数分前から騒がしくなっています」
「ウルディンが動いたのか?」
「はい。ウルディン様自ら、森の竜を呼び集めていました。数は全部で九匹ほどでしょうか」
「九匹か。思ったよりも少ないんだな」
「神獣一匹でも、大呪術師を何人も動員しなければならない相手ですから九匹は多いくらいなのですが、あなたの感覚は違いますからね……ただ、その総てを連れてくるつもりはないみたいです。ウルディン様を背に乗せた竜とその左右に一匹ずつ。計三匹の竜で、砦を出ました。おそらくは、一時間もせずに、ここにたどり着くでしょう」
「そうか。――――いよいよか」
護堂の身体に闘志が湧き上がってくる。
明朗な呪力の嘶き。血流が増加し、頭が冴え渡ってくるかのようだった。戦いを前にして、集中力が増している。実戦が目の前になると、理性ではなく本能が身体を作り変えてしまうかのような気分になる。『まつろわぬ神』が相手だと、それは明瞭な形で現れるのだが、神殺しが相手だとそこまではいかない。それでも、今の護堂はアスリートで言うところのゾーンの状態に入っている。
「先輩、それじゃ早めに済ませたほうが、いいと思います」
晶が護堂の袖を摘んで、言った。
何を、とは今更問うまでもない。
「悪いな、晶。ルドラから、頼めるか」
「はい。その辺りは得意分野ですから」
薄らと微笑む晶は、護堂の頬に手を添えてキスをする。
柔らかな感触と共に護堂の脳にルドラの来歴が焼きこまれていく――――戦うための前準備。強大な火力を持つと予想されるルドラの権能を斬るための『剣』を砥ぐ作業であった。