僕と君とのIN MY LIFE!   作:来真らむぷ

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【前回までのIN MY LIFE!】
 ()()である伝説のアイドル日高舞により、とある人物との再会の場をセッティングされてしまった行人。同じ頃、穂乃果と雪穂、絵里と亜里沙、の二組の姉妹はA-RISEを招くイベントを成功に導くため、それぞれの思いを胸に夜を過ごしていた。

 一方、戸惑う内に、舞のだというチョーカーを真姫から受け取った花陽は――



#32 EVIL MASTER

 

 

 

 

 

 

 やっぱり返そう、そう思った。

 

 

 

 

 

 あの後、チョーカーを渡された後、考え事でもしているのか遠い目をして黙りこくってしまった真姫と別れ、花陽は自宅へと帰った。

 

 自分の部屋へと入った花陽がまず取った行動は、日高舞の載った昔の雑誌を探すことで、記憶を頼りに、母からもらった昔の雑誌のスクラップを床に広げながら目当てのものを探す。

 

 ――違う、違う、もっと昔、これは髪型からさかのぼりすぎ、カルペスのCMに出てた時くらいだから――

 

 見つけた。

 

 あのチョーカーをつけた舞のインタビュー記事だった。今と違い、デジタル修正のない、自然な顔でポーズを決める舞の姿が濃い目の色味で印刷されている。

 

 思わず文章に目が吸い寄せられそうになるが、注目すべきはそこではない。

 

 最近のお気に入り、という小欄の中にコメントと共に掲載されているのが――恐れ多くて、家で一番上等な貰い物のタオルの上にケースごと鎮座させている、チョーカーである。

 

 形はまさしく写真と寸分違わない。しかし、今こちらにあるのが確実に本物だという保証は、真姫の発言しかなかった。精巧に作られた偽物(フェイク)である可能性も、否定はできない。

 

 ――でも、真姫ちゃんが嘘をついているようには、見えなかった。

 

 だとするなら、――本当に、本物。

 

 思わず、生唾を飲み込んでしまう。

 

 急に恐ろしくなってきた。これを預かっといてくれと頼まれたカバンの中に、大金が詰まっていたような、そんな気分に襲われる。

 

 結局、昨晩は大好きなご飯も一回しかおかわり出来ず、家族に心配されてしまったし、寝ようとしても机の上にそれがあると考えたら、妙に神経が昂ぶって一向にまぶたが重くならなかった。

 

 何度も寝返りを打ちながら、時間だけはたっぷりあるものだから考えた。

 

 ――こんな大切な物を、なんで私なんかに渡してきたのかな。

 であったり、

 ――そもそも本物って真姫ちゃんは言ってたけど、どうやって手に入れたのかな。

 とか、

 ――このまま、私が……持ってていいようなもの…………

 

 明け方近くまで悶々と悩み疲れて、ようやく寝れた。

 

 と思ったら、次の瞬間には目覚ましが鳴り響いていて、全然寝たような気がしないまま、花陽は今、こうして通学路をとぼとぼ歩いている。

 

 いつもなら待ち合わせしている凛は、

『寝坊しちゃった><。ごめんかよちん、先行っててー!』

 とメッセージを送ってきて、苦笑せざるを得なかった。

 

 こっちが寝不足を我慢し、頑張って起きたというのに、毎日快眠してそうな凛の方が遅れるとは。

 それが凛らしいといえば、そうなのだが。

 

 時々、その枠にとらわれない自由さを羨ましく思ってしまう。ふと、

 

「……私、うらやましがって、ばっかりだな……」

 

 思考がマイナスに染まりそうなのを、頭を振るって落とす。いけないいけない、別のことを考えよう。

 

 そう、とりあえずはチョーカーだ。さんざん悩んだけれど、やっぱり元の持ち主――真姫ちゃんに返そう。それが一番はやくて、一番納得できるのだから。

 

 方針を定めると全然進んでいなかった小さな歩幅が少しだけマシになる。そして、ほぼ同時に、花陽の後方から声がした。

 

「ふぁ~~~~お~~~ひ~~~~~~ん!!」

 おそらくは、かよちんと言いたいのだろうが、何かを口に含んでいるらしく、ちゃんと発音できていなかった。しかし、この呼び方をするのは、まず一人しかいない。

 

 振り返れば、こちらに向かって走りながら手を振る凛がいて、その口にはパンが収まっている。唇から飛び出た(つの)のようなチョココロネは、花陽に追いついた拍子に身体をくの字に折り、再び頭を上げた時には引っ込んでいた。

 

「お、おはよう凛ちゃん、走りながら食べたらあぶないよ?」

 あごを動かしたまま、飲み込み、

「ふぅ、大丈夫だよ。ちゃんとよく噛んだから。おはよ、かよちんっ」

 

 寝坊しちゃってごめんねという凛の謝罪に大丈夫だよと答えながら、二人は歩き始める。

 

「なんか、夜更かしでもしたの凛ちゃん?」

「うん、なんか藍おねーちゃんが新しく出たゲームで勝負を挑んできてね。ずぅーっと対戦してたら日付変わっちゃってて……くぁ」

 

 うららかな春の陽気に大あくびをかます凛の目元にじわりと涙が浮かぶ。ゲームに熱中してて寝不足の身にはこのぽかぽかした天気は、心地よい反面、寝たいのに寝るわけにもいかない辛さを募らせるだろう。

 

「……うー、眠いにゃー……」

 歩いている今も、段々と身体が傾いでくる凛を花陽が支えていると、

 

「んー、そういえばかよちん、昨日の放課後はどうだったー?」

「へ、ど、どうだったって……?」

 

 後ろめたさを覚えるのもおかしな話なのだが、つい癖でどもってしまい、

 

「ほらぁ、部活決めるって話だよ」

「あ、そ、そうだよね、あはは」

 

 昨日の真姫とのやりとりを当然凛が知っているはずもない。そのことに内心、胸を撫で下ろしていると、

「で、どうなの?」

「あ、えっと……まだ決めて、ない……」

「えぇー、だったらもう凛と一緒に陸上部入ろうよ!!」

 

 元はといえば、煮え切らない自分が悪いのだとわかっていても、簡単に首を縦には振れなかった。

 いくらなんでも、やっぱり陸上は自信がない。それよりもだ。話をすり替えてしまうことになるものの、昨日チョーカーの件ですっかり忘れていたが、

 

「そ、そうだ!! 凛ちゃん、実はね!!」

 突然駆けだして、振り返る花陽は、

「教えたいことがあるから、ついてきて!!」

 と走り出してしまう。

 

 ぽかんと、と呆けてしまった凛は、慌ててその後を追いかける。

「ま、待ってよぉ~!! か~よ~ちーん!!」

 

 

 

 

 

 息を切らした花陽と、疲れた様子を全く見せない凛が下駄箱にたどりつくと、すでに掲示板の前には人だかりが出来ていた。

 

 遅れてきた二人は背伸びなどをしてみるものの、掲示されているポスターの内容は他の生徒達の頭が邪魔ではっきり見えない。凛に、自分の目でしっかり確かめてから驚いてもらいたかったのだが、これでは仕方ないと花陽が口を開きかけた時、

 

「ちょ、ちょっと、通して!! 悪いけど、通して!!」

 見覚えのある黒髪ツインテールに、ピンクのカーディガンが特徴的な先輩が後ろから、ガンガン手慣れた様子で人混みをかき分けていく。

 

 とっさに花陽も凛の手を取り、先輩が開けた隙間に身体を滑り込ませていく。

 小さな身体でその先輩は最前列にまで見事おどり出て、その背後にぴたりと二人はついた。前方が小さいということもあり、この位置ならばポスターの文字も全て読める。

 

「な、なななな、な」

 わななく先輩は、ポスターに両手をつき、顔を貼り付ける勢いで

 

 

「う、うちにA-RISEが来るの!?」

 

 絶叫は辺り一帯に響き渡り、通り過ぎようとしていた生徒達も思わず足を止めて、一団に加わる。おかげで数が一回り増えてしまった。

 

 その言葉によって、外周にいてポスターを確認できずにいた者達も、とりあえずの内容を知り、口々に反応し始めた。花陽は周囲の騒がしさに萎縮しつつも、凛の感想を待つ。

 

「えっと……かよちん、ほんとにA-RISEが今度来るの?」

「うんっ、昨日生徒会長の先輩から直接聞いたから、間違いないよ」

「へぇ~、あれでも、これって中学生以下の子たちに向けてってあるよ?」

 

 凛の指摘は、周囲も徐々に気づき始めていたようで、「なぁんだ、私たちは見れないのかー、ちぇっ」とこの場から離れていく数が多くなっていく。

 

「……うん、でもね、このイベントの手伝いを今募集しているみたいなんだ。観客としては見れないかもしれないけど……、手伝いのスタッフとしてなら、ひょっとしたらライブを見れたりするかもしれないし…………その、」

 

 人差し指を突き合わせる花陽が、いざ誘う段階になってためらってしまうのは、やはり興味の差だ。実際、ポスターの隅にはイベントを手伝ってくれる人を募集していますという書き込みがあるのだが、それに気づいた何人かの生徒も、そこまでするのもなぁなどと言いながら去っていってしまう。

 

 こんなのアイドルファンとしてはまたとないチャンスだし、自分たちの学校の廃校問題にとっても、いい影響を与えることかもしれないのに、大半の生徒はすぐに興味を失って背を向けてしまうのが、花陽は悲しかった。

 

 けれども、これは言ってみればボランティアなわけで、よほど奉仕精神でもなければ、ある程度何か見返りを得られなければ、誰もやりたいとは思わないことも理解は出来る。

 

 その見返りはたとえば、A-RISEを生で会えるかもしれないという期待であり、その根底にあるのがスクールアイドルに対する興味だ。この前の握手会には乗り気で付き合ってくれた凛も、対価として労働を要求されればどうなるかわからない。

 

 もちろん出来ることなら一緒にやりたいが、無理強いするものでもない。だから、

「り、凛ちゃん、こ――「ちょっと、今の本当?」

 

 二人の会話が耳に入っていたらしいツインテールの先輩が急に振り返った。口をへの字にし、詰問するかのような語勢に花陽はうろたえつつ、

「え、は、はい……」

「そ」

 

 素っ気なく頷くと、「こうしちゃいられないわ……希に聞いてみないと……」などとぶつぶつ呟いてから、もの凄い勢いで集団を離脱していった。

 

 呆気に取られた二人も、気を取り直すように再び互いの視線を合わせると、凛は何かを言いかけていた花陽へ、

 

「かよちんがスタッフやるっていうなら、凛もやるよ?」

「ほ、ほンとッ!?」

 

 思わず声が裏返った。

 

「うん、ライブ見れるかもしれないなら、やっぱ気になるし。それに凛知ってるよ、かよちんがねー何か人に頼み事したい時は、いつもこうやってね、人差し指突き合わせるの」

 

 なんでもお見通しと言わんばかりに胸を張る凛に、花陽は顔をほころばせながら、

「よ、よかったぁ~」

 

 嬉しさの余り、両手を胸に当てる花陽に、

「そんな、大げさだよー。かわいいにゃーかよちん。じゃあ、教室いこっ?」

 間もなくチャイムが鳴る時刻だということに気づいた凛が花陽の背中を押しながら、教室へゴーゴーと腕を掲げる。押される花陽も苦笑しながら、すみませんとやがて人の合間を縫って抜け出していくのだった。

 

 

 

 

 ――そんな二人の姿を見送りながら、人だかりから一歩離れていた西木野真姫は、ポスターを一瞥し、

 同じ行き先である教室へと歩き始める。

 

 

 

 

 

 

 

     ×      ×      ×      ×      ×      ×

 

 

 

 

 

 

 

「浮かない顔、してるな」

 

 6限目の終わりを告げるチャイムと共に、俺の席まで来て、机にケツを載せた逸太(はやた)に、

 

「……ちょっとな」

「ほぉ、珍しい。素直じゃないか」

 

 逸太のからかうような口ぶりにも、俺の会話エンジンはかからない。こんなにも授業が終わるなと思ったのは初めてで、昼飯の後にいつも必ず一回はやってくる睡魔さんも、すいません今日有給ですと無情な連絡を寄越してきた。

 

「……なんでこう、こっちのことなんかお構いなしに振り回してきたり、お節介焼いてくれる人って、いるんだろうな」

 

 別に答えをもらいたかったわけじゃない。だが、逸太は急に、

 

「そりゃ期待してるからだろ」

 

 期、待。

 

 誰かの未来に対して寄せる無責任な感情。

 

「期待、なんかされても……応えられない……重いだけだろ」

 

 今度はすぐに言葉は返ってこなかった。

 

「まぁでも、いるよな。そういう周りのこと、まったく考えんやつ」

 

 長いため息をついた後で、なんというか頑張れと俺の背中をはたくと、担任の藤嶋が教室に入ってくるのとほぼ同時に自席へと戻っていく。

 

「お前ら、ホームルーム始めるぞ、ちゃっちゃと席つけ、席」

 

 各所で椅子の引かれる不愉快な音が立てられ、教壇に上った先生は、

 

「えー、この前提出してもらった進路調査表だけどな。以前伝えた通り、週明けからご家族の方も交えて三者面談することになってる。忘れずちゃんと、ご家族の方とも自分の進む路について少し話をしとくように」

 

 方々で、うへぇという声が上がる。かく言う俺も口にしていた。

 

 そういやそれがあったな……はぁ、どうにも自分のことなのについ進路関係のことを忘れてしまう。わかっていても、目を背けたくなるというか、明日のことなんか考えたくないというか……まぁいずれも言い訳だ。

 

 忘れてはいたが、たしか最初に連絡された時にお袋には伝えといたはず。ひとまず、考えるべきはあちらの方だろう。

 

 また悩みの種が増えたことに辟易していると、連絡はそのくらいだと先生は短めにHRを切り上げる。

 

 これにて、とうとう、学校が終わってしまったわけだ。

「あー……」

 

 逃げたくて、仕方なかった。

 

 

 

 

 

 電車は乗り換えせずに一本で、だいたい30分も揺られていれば最寄りの駅に着く。

 駅周辺は学生街らしく、飲み屋であったり、安いが爆盛の量を提供する飯屋、カラオケ、本屋、激安の殿堂などなどが、全部バケツに突っ込んでブチ撒けたかのように広がっている。

 

 見慣れた光景だが、記憶とは細部が異なっていた。

 

「あのカツ屋、もうないのか……」

 店主の爺ちゃんが腰を悪くしていたから、もう長くはできないねぇと語っていたのを思い出しながら、コンビニに変わっていた場所から動く。 

 

 アイス屋の前ではしゃぐ女子高生のグループの近くをよぎり、10メートル進んでなんとなく振り返ると、俺を指差して何事かを交わしていた。

 

「なんだよもう……」

 最悪だ。俺が何かしたかよ。

 

 逃げるようにファストフード店の角を曲がり、裏通りに入ると程なく姿を表す。

 

 ――『avenew STUDIO(アベニュースタジオ)

 

 入り口に掲げられた真鍮のプレートは、以前と変わらず磨き上げられている。スタジオ名の下には小さく、『since 1952』とあり、驚くべき歴史の長さを教えてくれる。

 

 偉大な、場所なのだ。ここは。

 

 数々の名曲が誕生した、この国の音楽を支えてきた聖地と言ってもいい。

 

「また、来ちゃったんだな……」

 

 もう来ることはないとばかり思っていた。来れる資格も失ってしまったはずだった。

 

 なのに俺は今、その場所に立ってしまっている。

 

 中では、はたして本当に舞さんの言う通り、あの人が待っているのだろうか。

 

 胃が重くなり、頭は何か逃げることを正当化できるもっともらしい理由ばかりを探している。入り口の前で棒立ちのまま、次なる行動に移せないでいる。

 

 そこに、スマホがポケットの中で振動したことを感じた。少し、脇にどきつつ確認すれば、

 

『ススメ』

 その下に添えられたスタンプは、デフォルメされたキャラクターが他のキャラの尻を蹴飛ばしているものだった。

 

 送信者の名前である『Mai』の文字に目を疑った。

「じょ、冗談だろ……?」

 

 とっさに周囲を確認する。向かいのビルの屋上、路地裏の小窓、電信柱の先端、背後、どこかで見ているのかと思ったが、その姿を見つけることはなかった。

 

 嫌な汗が頬を流れる。

 

 このできすぎたタイミングも、たまたまなのかもしれない。ふと思い立って、何の気なしに、おそらくお袋から聞き出した俺のスマホにメッセージを送信したのかもしれない。

 でも、それが結果、いまこの時、この場所だった。

 

 偶然を運命にする。そんな馬鹿げたことも、舞さんならば可能だと頷けてしまう。あの人はそういう人なのだ。常人の尺で測ったら頭がおかしくなる。

 

 凡人は、“天才”についていけないのだ。

 

 明確な一線は目に見えずとも存在しており、いくらその線の向こう側へ行こうともがいたところで、届かない。

 取り残されて、背中を見送ることしか出来ない。奥歯を噛み締め、目を血走らせ、泣きわめきながら伸ばした手は、何も掴むことはない。

 

 左手をさすりながら、

 ――もう、どうでもいいか。と思う。

 

 逃げることも叶わず、立ち向かう勇気もないのなら、ただ、流されよう。

 

 スマホをしまい、自分の身体ながら機械じみた足取りで中へと入る。受付(フロント)で大中小合わせて5つあるスタジオの内、現在使用中なのは2番目に大きい202スタジオ、通称02(マルニ)スタジオということを確認する。フルオーケストラで収録でもしない限り、最も大きな201スタジオを使うことはまずないが……やはり02か。

 

 スタッフの人は制服姿の俺を不思議そうな顔で見ていたものの、話自体は通っているらしかった。簡単な手続きをすまし、廊下を進む。

 

「……あの顔をされんのも、久しぶりだ」

 

 誰にも聞こえぬようぼやきながら、中はあまり変わっていないことがわかる。ロビーは変わらずタバコくさいままで、何が入っているのか知らない段ボールがあまり広くない廊下を圧迫するように積んである。

 

 耳よりも先に、足が振動を感じ取った。

 

 音とは波であり、振動によって生まれる。アンプによって増幅された音は容易に、堅牢な建物だろうと震わせてしまう。いかに防音処理が施されているとはいえ、だ。

 

 どれだけデカい音で変わらず掻き鳴らしているのだろうと、音を足で味わいながら、俺は歩む。

 耳も恐るべき精密さで奏でられる高速のソロを捉えてしまい、沸き立つ気持ちが抑えられなくなってくる。強張っていたはずの頬が緩む。

 

 廊下の果て、扉の先には、コントロールルームがある。

 

 生まれて初めて見たときはテンション上がりすぎて、うっかりいじってしまいそうになってゲンコツをもらった、凄まじい数のつまみが並ぶミキシングコンソール卓を中心に、音楽を録るための環境が構築されていた。

 

 そんな機材だらけの世界で、左右はモニタースピーカーが挟む形で、正面の防音ガラスがメインブースの様子を映していた。まるで観賞用に(こしら)えられたような窓を通した光景を、『金魚鉢』と呼び始めた人のセンスは疑いようがない。

 

 

 

 そして――、

 

 

 

 ガラスの向こうで、一心にギターを弾くその背中に伸びる黒髪は、俺に気づくことはない。もう、

 

 そのはず、だったのに、

 

 ガラスを震わしていた爆音はピタリと止む。アンプから伸びるシールドケーブルをギターから抜くと、腰元で持ったまま、ゆっくりとこちらを振り返る。

 

 全身が硬直する。あの絶対に揺らがない瞳と目が合うと、蛇に見込まれたカエルよろしく許可されるまで動くことができない。また、……ああやって顎でここまで来いと指図された場合には、即座に動かなければ何をされるかわからない。

 

 染みついた動きで、俺はすぐさまブースへと飛び込む。

 

 しかし、どうしても目の前に立つことは躊躇(ためら)われ、五歩分の距離をおいて立つ。髪をかき上げ、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、

 

「――まったく。彼女に、とにかくここで待っていろと言われれば、」

 

 日本人離れした、彫りの深い顔立ち。

 

「君ですか――元クソ弟子」

 

 現役時代より“魔王”と恐れられた、人を射殺すような鋭すぎる眼光が、俺を貫いた。

 

 この人が、紫藤(しどう)(こん)

 

 現役時代は、現在の(ヴィジュアル)系のはしりとも言われているバンド『CADENZA(カデンツァ)』の作曲・ギターを担当し、自らも伝説の一人として光を浴び、

 

 バンド解散後は、芸能史に名を刻み込んだアイドル、日高舞のプロデューサーにして、バンドマスターを務め、その伝説の影に付き添った人物――

 

「……お久しぶりです。紺さん」

 

 

 

 であり、――俺の、

 

 

 

 師匠だ。

 

 

 

 

 

      ◆#32 “EVIL MASTER”◆

 

 

 

 

    




【あとがき】
みんな大好き、黒髪ロング、ダヨー!


まぁ、男ですけど。

気づけば一年を過ぎてしまったという……圧倒的現実……っ……皆さん……圧倒的感謝……っ

<テキトー用語解説>
「コントロールルーム」
 =よくアーティストのレコーディング風景とかで色んな人がたむろしている場所。機材がいっぱい。

「ミキシングコンソール卓」
 =コントロールルームにデッカデカと置かれた、マジでつまみだらけの卓。たとえば色んな楽器の音だとかをまとめたり、切り替えたり、加工できたりする。レコーディングエンジニアさんの仕事道具。いいスタジオのものは数千万とかしたりする。

「モニタースピーカー」
 =一般的なスピーカーに比べ、より原音、元の音を忠実に再生できるよう作られたお高いスピーカー。

「シールドケーブル」
 =略してシールドと言う。ギターと音の出るアンプをつなぐケーブルのこと。ケチるといい音は出ない。

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