これぞ音楽史に残る名曲、ABBA(Meryl Streep)の「Dancing Queen」でビーハッピーでいきましょう!
それは、私が勉強に一区切りがつき、伸びをしていた時のことだった。
ノックの音がしたと思ったら、
「――お姉ちゃん、入るよー?」
確認と同時に入室してきた妹――亜里沙に、苦笑しつつも私はたしなめる。
「亜里沙、確認するのはいいけれど、ちゃんと返事まで聞かなきゃダメよ?」
「あ、そうだね。ごめんなさい……」
ちゃんと反省できる素直な妹で良かったと私は笑みを深めつつ、
「それで、何?」
「あ、うん! おばあちゃんから電話がかかってきてるんだけど、お姉ちゃんにも変わってって」
「本当!? わかった。すぐ行くわ」
いつもは私たちの方からするのだが、ロシアにいる祖母――おばあちゃまの方から連絡を取ってくるとは珍しい。何かあったのかもしれない。
私は急ぎ二階から一階のリビングに下りると、電話の受話器を耳にあてる。
「もしもし?」
「あらあら、そんなに急がなくてもよかったのに。アリサったら、なんて言ったのかしら」
「
「ええ、こんばんは。元気そうで何よりだわ」
「それでおばあちゃま、何かあったの?」
用件を尋ねると、少しの間が開いてから、
「実はね、来週そっちに行くことになったの」
「……え?」
それはつまり、来日する、ということ?
「アリサから、聞いたの。なんでも素敵なボーイフレンドが出来たのかしら?」
私は思わず額を押さえた……あの子、いったい何を言ったの……。
「是非とも会わせて頂戴ねぇ。楽しみにしてるから」
× × × × × ×
数日後、
希にある程度の事情を告げて音ノ木坂を早めに出て、電車に揺られた末に、私は奏光学園と刻まれた校門の前に立っていた。
こちらも同じく下校の時間らしく、校門の前は往来が激しい。ただでさえ別の学校の学生ということに加え、ここが男子校ということもあるのか、私は好奇の視線にさらされていた。時折、親切なのかそれ以外の意図があるのか声をかけてくる人たちもいるが、やんわりと大丈夫です。知り合いを待っているんですと答えることを繰り返す。
思わずため息をこぼし、彼が早くやってこないかなと考えていると、
「――あれ? 絢瀬? なんでここにいんの?」
「あ、行人くん……」
待ち人、日高行人くんが怪訝そうな表情で歩いてきた。
「良かった。実は……その……聞いて欲しいことがあって……」
「いやいやここはまずいっすわ……ちょっとこっちへ、離れるぞ!」
「え、あ、うんっ」
焦ったような行人くんに引っ張られるまま、私はしばらく走らされ、ようやくとある店の前で立ち止まった。表に掲げられた名前は『喫茶マトリョシカ』とある。そうか、喫茶店なのね。
「わ、悪かったな……」
「だ、大丈夫だけど……」
とりあえず入ろうと、入店を促され、行人くんが開けてくれた扉を私は吸い込まれるように通った。
なかなか雰囲気のいい店内はカウンターのマスターの前に並ぶサイフォンから漂ってくる鼻腔をくすぐる匂いに満ちていて、思わず表情が緩んだ。
「いい匂いだろ?」
「ええ、凄く」
「味も保証する。ねぇ、マスター」
私たちの方へ顔を向け、にこやかに微笑むとマスターは、
「今日もまた違う女の子かい? 日高君」
「ちょいちょいちょい、人聞き悪いです。何を仰るんでしょーか!?」
「いやぁよく来てくれるのは嬉しいんだけどその度、連れてくる娘が変わってるからね」
「たまたまでーす!! 大体、逸太もよく一緒に来るじゃないですか!!」
「うん……逸太くんだけ、だけどね」
哀れみの目で訴えてくるマスターに行人くんの口が引きつる。
「たたしかに他に男の友達はいないすけどね……こ、これでも知り合いは多……割といる、ような」
語る間にまじめにへこみ始めた行人くんは人差し指をつっつき合わせていじける。
そ、そういえばたしかに、あまり行人くんが友人と一緒にいる所とか、話とか聞いたことがない。そういう物なのかしらと思っていたのだけれど……うん、これからも触れないでおこう。
でも、一つ気にかかるのは、いつも違う女の子を連れてきているということだ。その中にはおそらくミューズのメンバーも含まれているのだろうけど……あまりよろしくないと思う。日本には世間体という考え方があるのだから、周囲の目には気をつけるとはよく言うし。
「ちょっと……絢瀬さん? その目は何です? ここは日高じるしの行人くんのことを無条件で信じてもよくないすか。それなりに長い付き合いですよね我々」
それはそうだけれど……だからこそ、行人くんの周囲の女の子の数を知っているからこそ、……あれ、どうして、私そんな顔してたのかしら。
勝手に動いていた頬を撫でつつ、その感情に私は深入りせず、むしろ首を傾げる。
「いやそこで首を傾げないでよ……」
本格的にブルーになり始めた行人くんに慌てて謝罪して、どうにか機嫌を戻してもらう。
これから頼み事をするんだから、しっかりしなさい絵里。
「とりあえず、注文を伺おうか」
「いつもの」
「水だね」
「違ーう!! 普通にオリジナルブレンドをくださいな!!」
「冗談だよ冗談、そちらのお嬢さんは?」
「あ、はい。それじゃあ私も同じものを」
「かしこまりました。少々お待ちを」
再びコーヒーに集中し始めたマスターをジト目でにらみながら、行人くんは店の奥の空いた席へと案内してくれる。
そこへ座るなり、
「はぁ……信じられん。なんか全然態度違くないすかね……、この店、中はカッコつけてんのに、客にはカッコつけさせないとかどうなってんだよ」
「カッコつけたかったの?」
「い? い、今のは言葉の綾ですよおほほ」
明後日の方を向きながら咳払いをして、
「と、とにかくだ。チミは何故あんな校門前で待っていたのだね。あのな、あそこはチミみたいのが来るとそれはもう大変なのよ?」
「……ごめんなさい」
「や、謝る必要はないけどさ……もう少し自分が他人からどういう風に見られているかっていうのを理解してくれ」
それはスクールアイドルをやっている者として、ということだろうか。もしそうなら、行人くんの言う通りで私は反論出来ない。
「――こん――美――あいつら――許せ――」
考えに没頭していてて、何事かをつぶやいていた行人くんに思わず聞き返してしまう。
「何か、言った?」
「いんやこっちの話。あいつらにはもったいなすぎるって話だよ」
いまいちよくわからず首を傾げていると行人くんに苦笑されてしまった。もう、何も笑わなくてもいいんじゃないかしら。内心口を尖らせつつ、改めて私は切り出す。
「実は行人くんにお願いしたいことがあって、あそこで待たせてもらっていたの」
具体的には、と目で続きを促され、
「その、…………」
やはり口にするのが恥ずかしくてためらわれる。一応イメージトレーニングはしていたんだけれど、実際にするのとではやっぱり大違いだから。
それでも勇気をかき集めて、
「か、彼氏のふりを、してほしいの」
行人くんは私の言葉に真顔になると、マスターが運んできてくれたコーヒーを受け取り、ろくに冷ましもしないで一口をすする。そして、
「うォぁッチぃ!! え、夢じゃない!? なして、どして!?」
ようやく大声で、驚くのだった。
「――なるほど、経緯はわかった。ピュアリィ亜里沙ちゃんの放った言葉がきっかけで来日するおばあちゃんにボーイフレンドを紹介することになった。そういうことだよな?」
「……ええ、そう」
決して行人くんが責めている訳ではないことを理解していても、自然とうつむき身体を縮こめてしまう。おそるおそる上目で様子を窺うと、行人くんは難しい顔で腕を組み思案しているようだった。
当然だ。私が逆の立場だったら一体、どのように反応するだろう。あまりにも唐突過ぎて、勝手すぎて、断ってしまうかもしれない。それくらいおかしなことを頼んでいる。
「あーうん、まぁいいけど」
「……ごめ――え?」
反射的に謝りかけた私はその言葉に二の句が継げなかった。
「え、あ、りがと……?」
「いや、でもさ、ほら、なんつうの? 俺より他になんかもっと相応しい人いるんじゃないの。絢瀬ならさ」
俺でいいのなら。
暗にそう言っている行人くんに、
「ううん!! そんなことはないわ!!」
気づけば私は立ち上がって、叫んでいた。それも店の中に響き渡るような大声で。
まばらにいたお客さんの視線が集まり、同時に顔が熱くなるのを感じた。
「す、すみません」
頭を下げると、まるで助け船を出すようにマスターがBGMをかけてくださったのか。穏やかなテンポでスピーカーからチャイコフスキーの「くるみ割り人形」花のワルツが流れ出した。これで金平糖の精の踊りだったら吹き出していたかもしれない。その配慮に感謝しつつ、再び席に腰を下ろす。
「こ、こんなこと頼めるの……行人くんしかいないもの」
音楽に紛れて消えてしまいそうな声は、しかし、ちゃんと行人くんの耳に届いたらしく、
「そこまで言われたら、絶対に断れないだろ。不肖日高行人、ボーイフレンドの件、承りました」
敬礼しておどけてみせる行人くんに、私はようやく胸を撫で下ろすことが出来た。今回の件を頼むと決めたのはいいものの、やはり断られたらと思うと気が気じゃなくて、心がなかなか安まらなかったから。
よかった。本当に……、よかった。
「具体的にはどうすればいいとかは、決まってるの?」
「ええ、おばあちゃまは今週末にこっちに来るから、うちにき――あ、」
慌てて、唇を押さえるが遅かった。家族以外の誰かの前で、この呼称を口に出してしまうなんて。
対面の行人くんは、まるで珍しいものを見てしまったとでも言うかのような顔をしてから、目を細めて、
「なんかちょっと意外だな。絢瀬のそういうとこ」
「……どう意味、それ」
「いやいや、あんま隙を見せたがらないじゃん? 絢瀬って」
それは……そうだけれど。私にだって人前での自分とか、家族の前の自分とかがいるんだから。わざわざ指摘する必要はないんじゃないかしら。
知らぬ間にむくれてしまっていたのか、苦笑しながら悪い悪いと謝ってくる行人くんは、
「でもいいと思うけどな、そういう方が。俺はこっちの絢瀬の方が――」
「それ」
「――ぇ? なにが?」
前から気になっていたのだけれど、あえて放置していた。でも、私としても恥ずかしい思いをさせられてばかりも嫌だったから、
「名前」
それに、いい機会だ。
「彼氏なんだから、名字で呼ぶのはなんかよそよそしいわ」
しっかりと目と目を合わせる。もちろん逸らさない。逸らしてあげるものか。
やがて、根負けしたように行人くんは顔を背けると、
「ええと、そんじゃあ週末になったらそっちの家を訪ねればいいんだな、はいはいわかりまし――」
「行人くん」
強調するように、彼の名前を呼ぶ。
すると、心なしか顔が赤くなり、への字に結んだ口が今にも開きそうに震える。
そんなプライドと羞恥心のせめぎ合いが表れているかのような反応が、ちょっぴりいい気分。
後はもう待つだけだ。私は悠然とコーヒーをすすると、行人くんは長いため息の終わりに、
「……なんつうか、変なとこ大胆だよな」
自分のコーヒーカップを持って私に差し出す。
「絵里。じゃあまぁ、当日はよろしく」
私も同じ行動を繰り返して、
「こちらこそ、ありがとう。行人くん」
カチン。
そんな陶器と陶器が立てる音と共に約束を交わす。
その後味わったコーヒーは、不思議とまったく苦く感じなかった。
× × × × × ×
インターホンが鳴るのと同時に私と亜里沙は、玄関に向けて駆けだしていた。勢いよく扉を開けるとそこに立っていたのは、
「おばあちゃま!!」「おばあちゃん!!」
「おぉ、大きくなったわねぇ、エリーチカ。アリーチカも」
姉妹して、強くハグを交わし、頬と頬を近づけ軽くキスをする。久しぶりに触れたおばあちゃまの温もり、耳にした少ししゃがれた声に、遠く離れたロシアのサンクトペテルブルク近郊から、今ここ日本の東京の神田におばあちゃまがいることを改めて実感する。
「二人とも本当に大きくなって……すっかりおばあちゃんは追い抜かされちゃったねぇ」
かつて見上げていたまっすぐそびえ立つような大きな背中も、今では丸くなり小さく感じてしまう。それだけの年月が経ってしまったことに再会を嬉しく思いつつも、寂しさを覚える。
それを振り払うように、おばあちゃまの荷物であるトランクを二つ私は中へと運び込もうとする。
「長旅疲れたでしょう? 亜里沙、暖かい紅茶でも淹れてあげて」
「うん、わかった!!」
もてなす作業を亜里沙に任せて、おばあちゃまに使ってもらう予定の空き部屋にトランクを置いた。そんなに長く滞在はしないと言っていた割には結構な大荷物だが、もうすでに買い物でもしたのだろうか。そういえば、来日したばかりの時の亜里沙も、見る物全てに興味を示し、欲しいとねだっていたことを思い出し、私は血は争えないってやつなのかしらと独りごちて、リビングへと戻った。
途中、何やら亜里沙とおばあちゃまが話す声が廊下まで聞こえてきていて、
「うん、その人、行人さんって言ってね!! 最初は色々あったんけど……でもね、凄い優しくてね、かっこよくてね、面白くて!!」
「そうかいそうかい。それは凄いねぇ」
急いでリビングに飛び込むと、
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「……はぁ、亜里沙、また好き勝手に言わないの!!」
「えぇ~なんで? 全部、本当のことだよ?」
違う、そういうことじゃなくて。
頭を抱えたくなる妹の発言に、私は苦言を呈そうとして、
「エリーチカ。そのユキトさんには会わせてもらえるのかい?」
「ええ、昼過ぎになったら来ると思うけれど」
そう、そういう手はずになっている。後は行人くんを交えて茶会でもしながら当たり障りのない会話をして、頃合いを見計らって行人くんには用事があると帰ってもらう。これでつつがなく終了する――
はずだったんだけれど、
「そう、それじゃあ今晩はご馳走を振る舞わなきゃねぇ。よしっ、後で一緒に買い物に行こう」
「あれ……? お、おばあちゃま?」
「わぁい!! もしかして久しぶりにおばあちゃんのボルシチとかピロシキ食べれるの!?」
「もちろんだよ。腕によりをかけて作ってあげるからね」
「ハラショー!!」
飛び跳ねて喜ぶ亜里沙の隣で私は置いてけぼりになっていて、
「エリーチカ、しっかりと男の人の胃袋を掴まないと駄目なんだよ。そこの所、しっかり教えてあげるから」
「は、はい……?」
「大丈夫よ。エリーチカ。おばあちゃんもおじいちゃんを、あんたのお母さんもそうしてお父さんを虜にしたんだからね!!」
「いや、あの……」
「おじいちゃんも昔はそれはそれはカッコよくてねぇ、優しくて――」
張り切るおばあちゃんの言葉がまったく頭に入らない。どういうわけか、事態はおかしな方向に転がり始めていて、
こうなってしまうとただ一つ私に出来ることは、
ごめんなさい、行人くん…………、
この場にいない彼に向かって謝ることだけだった。
再びインターホンが鳴ると私は若干憂鬱な気分で玄関に向かった。一瞬だけ洗面所の鏡で身だしなみを整える。うん、おかしな所はないはず。
チェックを終えて、扉の前に立ち、一度深呼吸をする。よしっ、
開け放つと、
「やっ、こんちは」
想像通りの人物がそこにいてくれた。
「いらっしゃい、行人くん。どうぞ中に入って」
「そんじゃ、お邪魔しますっと」
招き入れると、ラフな格好でも良かったのに、ジャケットにパンツ姿であることに気づく。そんな配慮に頬が緩み、
「ありがとう」
「ふふん、粗相があっちゃならないからな」
ジャケットを着たり脱いだりしながら行人くんは、で、おばあちゃまはどちらにいらっしゃるんだと私に尋ねてくる。そのからかうような口ぶりに、
「もうっ。こっち」
彼の腕を掴み、リビングへと導く。ちょっと心の準備がまだという抗議を無視して、連行する。
リビングでは今か今かとおばあちゃまと亜里沙が待ち構えていて、まず亜里沙が子犬のように駆け寄ってきて、
「行人さん、こんにちは!!」
「こんにちは亜里沙ちゃん。今日も野に咲く一輪の花だね」
行人くん、完全に言葉の意味を亜里沙、理解出来ていないわ。小首を傾げているし。仕方なく、私は、
「亜里沙、ええと、褒めてくれているわ」
「わぁ!! ありがとうございます!!」
もしも、しっぽがあったらきっとぶんぶん振っているんでしょうね。素直に喜ぶ亜里沙の頭を撫でる行人くんのもとへ近づいてくる影に、行人くんは向き直り、
「ラズリシーチェ プリスターヴィッツア。えー、ミニャ ザヴート ユキト ヒダカ。オーチン ラート パズナコーミッツァ」
あらかじめ、おばあちゃまは日本語を話せないから、会話の時は私が通訳するからと言っておいたのに。行人くんはロシア語で『初めまして。僕は日高行人と言います。お会いできて嬉しいです』と伝えた。
忙しいはずなのに、わざわざ自己紹介を覚えてくれたのだろうか。だとしたら、もう感謝の言葉をいくつ重ねても足りない。
おばあちゃまも自国の言葉で挨拶してくるとはまさか思わなかったらしく、目を丸くしていた。それから一気に機嫌良くまくし立て始めてしまう。
――私の名前は――こちらこそ会えて嬉しい――いつも大切な孫たちがお世話になっています――日本人はとても礼儀正しい――――
いくら何でもそんな早口で、しかも高度な内容を話されたら行人くんが理解出来る訳がない。実際、行人くんは私の方へ助けを懇願の表情で訴えてきていた。
しかし、私が間に入るより早く、おばあちゃまは行人くんの手を握る。いけない。
「っ!!」
おばあちゃまはああ見えて力が強い。それに親愛の情の度合いを示すように相手の手を折る勢いで強く握るのが外国式だから。慣れていない行人くんはさぞかし痛かっただろう。
しかし、気合で声をこらえた行人くんは、続いてハグの洗礼に面食らっている。
抱擁、という言葉はあっても、それを挨拶代わりにする文化は日本にはない。
他人の間合いに簡単に踏み入ってしまうこの行為を受け入れることは難しいのは理解している。
でも、こうなったら仕方ない。
「行人くん、そのままおばあちゃまの背中に手を回して、軽く頬を合わせて」
「レ、レベル高いことを仰いますねぇ……っ」
言いながらも、行人くんは恐る恐る私の指示通りに動く。強張った笑みを浮かべながら、その顔は見る間に赤くなっていく。うん、少しかわいいかもしれない。これでさっき、からかわれた借りは無事返せたわ。
おばあちゃまもハグを無事(?)終えると、ご満悦といった様子で行人くんを解放する。ゆでだこのようになってしまった行人くんはたたらを踏み、その背中を私が支えると、
「それじゃあユキトさんも来たことだし、買い物に行こうか」
「はーい!!」
「ええっ!? もう行くの!? 話とかは……」
「話はどこでも出来るさ。買い物しながらでも、美味しいご飯を食べながらでもね」
飛び交うロシア語に当然ながら、状況を理解出来ない行人くんは、
「もう何がどうなってるのよ。ノリが全くわからないじゃない!!」
口調も頭も混乱していたが、
「ええと……おばあちゃまが作る晩ご飯の材料の買い出しに行こうって言ってるわ」
伝えると、行人くんは怪訝そうに私の耳元に顔を寄せ、
「ちょい待ち、もしかして段取り変わったのか?」
「……ごめんなさい。そうなるわ」
この後夕食までの予定は大丈夫かしらと訊くと、
「俺は構わないけど……いいのか? さすがに数年ぶりの家族団らんのお邪魔者になりたくはないんだけど」
浮かんだ光景に思わず苦笑しながら、
「それは大丈夫。むしろ途中で帰ったら、また抱きしめられて逃がさないようにされるかもしれないわ」
「勘弁してつかぁさい……」
弱々しい声で返答する彼の手を取って、もう既に家を出ようとしていた二人の背中を追いかける。
もしもハグの相手がおばあちゃまじゃなく、私だったら、行人くんはどんな反応をしていたのか。そんな益体もないことを考えながら。
近所にあるハナマルストアというスーパーまで私たちはやってきた。主婦の眼差しに戻ったおばあちゃまは亜里沙を従えると、生鮮売り場へと重戦車さながらに進撃していった。
一方取り残された私と行人くんは、二人同時にため息を吐く。
「……想像していたのより、かなーりパワフルな御仁だな……絵里のおばあちゃまは」
もはや怒るのも疲れたのであえて指摘もせずに、
「ええ……一度離れてみると、私も実感したわ」
肩をほぐしながら、
「とりあえず作る物は聞いてるから、私たちは二人が行った野菜以外を回収しましょう」
「ん、おっけ」
「まずはトマト缶とビーツ缶ね」
整然と並ぶ缶コーナーへと立ち入り、目当ての物を探していると横についた行人くんが、
「ビーツ缶って何?」
「赤いカブの水煮のことなの。ボルシチを作るらしいわ」
小さなスーパーだと売ってないのだけれど、ここくらいの規模ならおそらくあるはず。
「なるほどね……お、それじゃないか?」
「ああ、これ、うん、ありがと」
「後はトマト、トマトっと……」
「こぇだよ!! こぇ!!」
突然のトマト缶は私と行人くんの間から、ちょうどおへそのあたりの位置から差し出された。
きょとんとする私にその小さな声の主は、
「ちがぅ?」
くすっ、
「正解だよ。ありがとう」
視線を合わせて、それを受け取ると、小さな身体は変身ヒーローのドラマか何かで覚えたのか、敬礼をして走り去っていった。その先には、
「ママー、みつけてあげたー」
すみませんと会釈するお母さんの姿があった。こちらも会釈し返し、微笑ましい親子の姿を見送ろうとして、
「こら、たーくん。見つけてあげたのはいいことだけど、あんまり新婚さんの邪魔しちゃダメでしょ」
「どゅこと?」
「たーくんも大きくなったらわかるから」
とんでもない発言を残されてしまった私たちは、二人ともその場に固まっていた。
た、たしかに、思い返してみれば、さっきまでのやり取りは休日の晩御飯を買いに来た夫婦のようだったかもしれないわ。
しかも、見ず知らずの誰かからそう言われたということは完璧に――、
「き、気を取り直して、か、買い物しますかね!!」
「そ、そうね!! ピロシキも作るから、ベーキングパウダーを探しましょ!!」
お互い顔も見ないで歩き出して、反対の方向へ行ってしまったり、とにかく動揺しながら、私たちは必要と思われる材料を回収し、お肉売り場にいたおばあちゃまたちに合流した。
亜里沙は気づかなかったようだけれど、おばあちゃんは目を合わせないように不自然に振る舞う、私たちを不審がるどころかわかってると言わんばかりのあたたかい眼差しで見つめていて、余計恥ずかしかった。
× × × × × ×
「ぶたーの、しっぽ!!」
「うわぁ、また負けだぁ、強いなぁ亜里沙ちゃんは」
「えへへ、また勝っちゃいました♪」
接待プレイということなかれ。この愛らしい少女の前では、たかがゲームで勝ちたいなどという大人げなさなどまったくなくなる。
俺は卓上のトランプをかき集めてシャッフルしながら、横を向き、キッチンの方でエプロンに身を包み何やらおばあちゃまにご指導を受けている絵里を見やった。
ここからは背中しか見えないが、所作一つ一つがよどみないということは、日頃から料理に親しんでいるのだろう。
「亜里沙ちゃんさ、いつもご飯ってお姉ちゃんが作ってるの?」
「はいっ、お姉ちゃんが作ってくれてます。……本当は私も一人で出来たらいいんですけど、まだ出来なくて」
恥ずかしさと申し訳なさが入り混じった声の亜里沙ちゃんを励ましながら、俺は気にかかっていたことを尋ねる。
「……あのさ、ちょっと立ち入ったこと聞いてもいいかな」
「はい……?」
「たしか前、話してもらったこともあったと思うけど、亜里沙ちゃんのお父さんとお母さんって外交官なんだっけ?」
「はいっ、今はたしか……えーと、スウェーデンにいます」
やはり普段は、この家に二人で暮らしているのか。ご両親の姿がいつまで経っても見えないことが疑問だったが、亜里沙ちゃんの口ぶりから察するに長期間、家を空けているのかもしれない。もしそうだとするなら、
「そっか……じゃ、二人にとってはおばあさんは久しぶりのご家族なんだな」
「おばあちゃんも来てくれたし、それに行人さんもいるから今日はとってもいい日です」
どこまでもいい子だな亜里沙ちゃんは。その満面の笑みを見ていると、やって、やれないことはこの世にないってぐらい元気が湧いてくる。いつまでもそのままでいてほしい、行人お兄さんのお願いです。
漂ってきた鼻腔をくすぐるいいにおいに、思わずもう一度キッチンへと視線を向ける。
そこにあるのは、祖母と孫が隣に並んで料理を作る光景。
孫は煮立つ鍋から、おたまで小皿にスープをすくうと、真剣な横顔を覗かせながら祖母へとそれを差し出す。受け取った祖母が息を吐き吐きそれをすする間、審判を待つように孫はじっとツバを飲み込む。やがて、祖母は目尻にしわを寄せて、一つ頷く。それだけで、孫の顔は簡単にほころんだ。
日本中、いや世界中どこにだってありふれていそうなワンシーン。でもそれは違う。他にはどこにもない、家族という絆がつなぐ当人たちにとって代えのきかない特別な一瞬が、確かにそこにはあった。
「それに、」
俺と同じ方向に目を向けていた亜里沙ちゃんは、
「昔からお姉ちゃんは、おばあちゃんが大好きですから」
――ああ、きっとそうだろう。
× × × × × ×
「いや~、ホントうまかったよ。ごちそうさま」
「お粗末様。気に入ってもらえて良かった」
食事中、頬張る度に「うまぁーい!!」とコメントする、見事なまでの行人くんの食べっぷりに私たちは三人とも笑いを堪えられなかった。おばあちゃまも言葉の意味はわからずとも表情とリアクションで充分理解していた様子で、どんどん行人くんのお皿によそうものだから、おばあちゃま自身の分が少なくなってしまったのには、呆れてしまった。
それで私の分から少しあげようとしたら、「私はいいから、エリーチカがお食べ」と頑固に首を横に振るんだから、もう。
でも、おばあちゃまに教えてもらいながら作った料理を行人くんに美味しいと言ってもらえた事は、本当に嬉しかった。
知り合いに料理を振る舞った経験なんて、希くらいなものだったから、自信はまったくなかったのだけれど、横におばあちゃまがついてくれたから頼もしい限りだった。
もちろん、数十年に渡って、家族のために料理の腕を振るってきたおばあちゃまは流れるように次から次へ平行して作業をしていった。その手際はまるで魔法のようで、私なんて足下にも及びつかなかったのだけれど。
「どうすれば……、そんな風に出来るの?」
「ふふ、エリーチカもいつかわかるさねぇ。自分が作る料理を食べてくれる人が喜ぶ様をいつも想像しながら作れば、身体ってのは勝手に動いてくれるもんなんだよ」
私の胸の真ん中を、とん、と指で叩いて、
「いつだって、ここが身体を動かすんだからね」
そんなもの、なのだろうか。
「試しに、やってごらん」
おばあちゃまに促されるまま、私はリビングで亜里沙と共にトランプに興じていた行人くんをこっそり振り返った。そして、彼が喜んでくれる姿を心に描いてみる。
「どうだい。早くその姿が見たくなったろう。そしたら、後は心に任せるだけさ」
「……うんっ!!」
どうやら、そんなもの、だったみたい。
「――本当にそこまで見送らなくても平気?」
「これでも男の子なんでね。逆の立場ならもちろんお送りしますけども、それには及ばないよ」
家の玄関前までで結構と笑う行人くんに私は、
「今日は、本当にありがとう。おばあちゃまも喜んでくれたわ」
頭を下げようとする私の肩を押さえて、
「俺の方こそ。なんだかんだで、すげぇ楽しかったしご飯も最高だったしで、ありがとう」
気づいたときには、
吐息がかかるくらいの、
至近距離で、
互いの瞳に映る自分と見つめ合っていた。
聞こえるのは脈打つ心臓の鼓動。うるさいぐらいのリズムで、全身に血液を送り出す。すぐに頭までのぼってくるのを感じる。
ここで目をつぶれば、――――どうなってしまうんだろう。
私は、
どうしても、勇気がわかなくて、目を逸らす。
「……悪い」
「……ううん、大丈夫」
私の肩から行人くんの手が離れる。
微笑を浮かべたまま、行人くんは、
「それじゃ。お休み」
「ええ……お休み、なさい」
去って行く彼の姿を、私は最後まで見届けることすら出来ずに玄関の扉に寄りかかった。
私は間違ってしまった、のだろうか。
そもそも正解すらわかっていないのに?
とてもじゃない、お話にならない。
つくづく自分がイヤになる。人一倍臆病な自分に、人一倍他人の顔色を窺ってしまう自分に。
わかっている。それも言い訳なのは。わかってはいるけど……、
「出来ないものは、出来ないじゃない…………っ!!」
――それからしばらくして、私は家の中へと入った。リビングには誰もおらず、私は顔を洗おうと洗面所に向かうと、すでにお風呂が沸いていた。床のマットの湿り具合から、誰かはもう入浴を済ましたのかもしれない。おそらくは亜里沙だろう。あの子はいまだに熱い湯船が苦手だから、すぐに上がってしまうため入浴時間が短いのだ。
本来ならば、このままおばあちゃまを呼びに行って、先に入ってもらった方がいいのかもしれない。けれど、今の私はすぐにでも熱い湯船につかりたい気分で、悪いけど、先に入らせてもらうことにした。
身体と髪の毛を洗っていると、湯気が浴室を満たしていく。
まとった泡を洗い流し、浴槽にゆっくり身を横たえる。熱めの湯に肌を包まれると、自分が溶け出して湯と一体化してしまうような気がする。
「お風呂は命の洗濯、か」
たしかにそう、と思う。
同時に、このまま頭の中を渦巻く色んなことも真っ白にしてくれればいいのに、とも。
鼻の下までお湯に沈みながら、私は100を数えるまで目を閉じて、そのあたたかさに身を委ねていた。
いつまでもいたい気持ちもある反面、そんなことをしたらのぼせてしまうと冷静さもあって、私は湯船から上がる。身体を拭き、髪を乾かし、リビングの電気を落としてから、
私はおばあちゃまの部屋をノックした。
「絵里だけど、入ってもいい?」
お風呂が空いたことを伝えに来たのだが、返答がない。私がもう一度こぶしを握った矢先、
「……お入り」
声が返ってきた。
「おばあちゃま?」
どこか覇気がなかった気がしたのを怪訝に思いながら、私は部屋へと入る。
最初、姿が見当たらず、視線をさまよわせていると、おばあちゃまはベッドで仰向けになっているのを――発見した。
驚いた私は、
「だ、大丈夫!? おばあちゃま!!」
頭に乗せていたタオルが落ちるのも構わず、すぐさま側へと駆け寄る。
「ふふ、大丈夫さ……ちょっと疲れちゃってねぇ」
「そ、そう……よかった」
てっきり何かの発作でも起こして倒れているのかと思った。疲れただけならいいけれど……心臓に悪いわ。
「それより、どうしたんだい。その顔」
「――え?」
瞳だけが私に向けられる。
「何か、あったのかい」
見透かしたかのような発言にうろたえるまま、
「そんな……いきなりなによ。何もないわ」
そしたら、喉の奥で笑われた。
「相変わらず、嘘のヘタな子だ。さっきまで、そんな顔してなかったろうに」
お見通しと言わんばかりにおばあちゃんは私にかたわらに座るよう促した。
「大方、彼のことで悩んでるんだろう?」
その通りだったから、
「……うん」
「話してごらん」
日高行人くん。
彼と出会ってから、気づけばもう数年の月日が経過している。色んな……それはもう色んな事があった。出会い、生徒会長、音ノ木坂学院、μ’s……、どれも忘れることの出来ない思い出ばかり。
その日々を彩ってくれた大きな存在に気づいたのはいつのことだっただろう。
同時に、いつかそれを失ってしまうことへの恐れを自覚したのはどこでだっただろう。
本当は、欲しかった。
私がそれを手にしたかった。
でも、そのたった一つの宝物は、求める人が他にもいる。大切な、大切な人たちも同じように、手にしたいと願っている。
そんな時、私は大切な人たちを差し置いて、宝物に触れてしまってもいいのだろうか。その資格はあるのだろうか。もっと相応しい人は、私じゃない誰かとして存在しているんじゃないのか。
そう考えると、いつも足はすくみ、一歩も動けなくなってしまう。
我慢するのは慣れている。けれど、他の人が慣れているとは限らない。なら、慣れている私が我慢した方が、他の人が味わう辛さを引き受けられるからいいじゃない。
心を騙すのも簡単だ。見て見ぬ振りを続ければいい。目を覆い、耳を塞ぎ、口を噤む。後は、ひたすら別のことを考え続けるだけだ。
そう、私なら出来る。私じゃないと出来ないから。私がやった方が――、
――昔から、本当に変わらないねぇ。
「エリーチカは優しいから。いつもみんなの分まで、たくさん背負い込んじゃうんだねぇ」
「おばあ、ちゃま?」
「でもね、人の荷物まで背負ってあげるのは、優しさでもあり大きなお世話でもあるんだよ。まして、その人たちにとって自分が助かったと思っても引き受けてくれた人が重さで潰れてしまったら。それはただの迷惑さ」
そんなの、
「……私が一番わかってるわよ」
口に出してみれば、いともたやすく感情は発火した。
「おばあちゃまになんか、わかるはずないじゃない!! 私がどれだけ一人で我慢して、耐えて、自分に嘘ついてるのか……今までずっと放っといたくせに、急にやってきて、わかったような口きかないでよ!!」
立ち上がった拍子に倒れた椅子のことなんかお構いなしに、私はまくし立てるとおばあちゃまの部屋を飛び出し、自分の部屋へ戻るやいなや、ベッドに倒れ込んだ。ささくれ立った気持ちは収まらない。
せっかくおばあちゃまが会いたいというから、行人くんにお願いをして彼氏のふりをしてもらったというのに。こんなことを頼めば、また辛い思いをすることになるかもしれないことはわかってたのに。
喜ぶどころか、まさか説教されるなんて。
最悪だ。
こうなるならば、最初からやるんじゃなかった。そもそもの原因を作ったのだってそうだ。おばあちゃまが来たからじゃない。全部、おばあちゃまが悪い。
恨み言を並べ立てている内に、次第にまぶたが重くなってきて、私はいつしか眠りの淵へと落ちていた。
誰かが身体を揺らしている。何事かを言っている。
思いをまぶたを上げれば、まず見慣れた天井が。そこから横にずれると、
枕を抱いた亜里沙がいた。
「どうか……したの?」
寝起き特有のしゃがれた声で私はこんな時間……まだ九時じゃない。今日は日曜だから学校もないはずなのに、起きている亜里沙に尋ねる。
「お姉ちゃん、おばあちゃんがどこにもいないよ」
その言葉で跳ね起きた。
「どういうこと!?」
「うん……ちょっと、おトイレに行こうと思って下に降りたら、おばあちゃんの部屋の扉が開いていたから、覗いてみたらもう」
亜里沙の言葉の途中で、すぐに私はおばあちゃまの部屋へと向かう。開け放れた部屋の中は綺麗に元の状態へと戻っていた。唯一、違ったのは、ベッドの上に置かれていた手紙と、
赤いサラファン――ロシアの伝統的な花嫁衣装だった。
何故、こんな物がと思いつつ、手紙へと手を伸ばし――私は封筒の表面に書かれた文字に固まる。
『愛する私のエリーチカへ』
中に入っていた紙を震える指で取り出し、目を走らせる。
『誕生日おめでとう。』
『数年ぶりに見たエリーチカは、もう目が覚めるくらい綺麗になっていて驚きました。本当にお母さんの若い頃にそっくり。いや、ひょっとしたらおばあちゃんの若い頃にもかもしれないね』
『そこに置いてあるサラファンは、おばあちゃんがおじいちゃんと結婚するときに、おじいちゃんのお義母さんに縫って頂いた物です。両親を早くに亡くしてしまったあたしのため、これから新しく家族になる人に向けての初めての贈り物としてくださった、大切な物です』
『覚えてますか? エリーチカが小さかった頃、たまたま家の中で私の洋服の中からこれを見つけてしまって、欲しい欲しいと駄々をこねたことを』
――覚えている。大切にしまわれていたこの服を初めて見たときは、物語に出てくる王女様の着ている服なのかと思った。子供だから、どうしても、すぐにそれが欲しくなってしまって。
『あの時は、なだめるのが非常に大変でした。だって、あまりに当時のエリーチカが着てもぶかぶかで、歩くことも出来なかったでしょうからね。さんざん涙を流した後で、ようやく泣き止んでくれたのは、――エリーチカが大きくなったら、これをあげる。と約束した時でした』
『誕生日にしては、つまらないかもしれないけど、美しく成長した今のあなたならとてもよく似合うでしょう』
『今回、日本までやってきたのも、エリーチカとアリーチカの顔を見たかったのももちろんですが、これを贈りたかったからです』
『おばあちゃんもすっかり歳を取ってしまいました。最近では膝も腰も痛く、家にこもりがちの日々が続いていました。ですが、本当に歩けなくなったりする前にどうしても二人に会いたくて、遠い、東の果てにあるこの国へと来ました』
『元気そうな二人の姿を見て、本当に嬉しかった』
『でも、それで、おばあちゃんは勘違いしてしまいました。忙しく世界を飛び回っているあなたたちの両親がいつも家を空けていても、二人で力を合わせてがんばっていると。そんなはずはありません。あなたたちぐらいの年頃で両親が家にいない寂しさを味わわないはずがないのです。自分がそうだったのに、それを忘れてしまうなんて、恥ずかしい限りです。ごめんなさい』
――違う、そうだけど、それは違う。
『他にも、エリーチカには謝らなければならないことがあります』
――おばあちゃまが謝る必要なんて一つもないのに。
『実は、エリーチカがユキトさんと付き合っていたりする関係ではないことは、薄々気づいていました』
『けど二人の姿を見ていると、とても睦まじく、お似合いのようで。本当の気持ちを伝えようとしないあなたについお節介を焼こうとしてしまいました。そして、そんなつもりじゃなかったのに、思わず説教をしてしまいました。ごめんなさい、あなたにはあなたの事情があるのよね。こんな口うるさく、にぶいおばあちゃんを許して下さい』
――違う、違うの。
『そして、もう一つだけ、どうしても言わせて下さい。
誰にでも幸せになる権利があるから。
誰かが我慢をする義務なんてこの世にはありません』
『強くて優しい、私のかしこいかわいいエリーチカなら、きっと幸せをつかめると信じています。
――いつだって、おばあちゃんはあなたの味方です』
嗚咽が漏れた。
「私……、なんてひどいことを……」
わかるはずないなんて、こんなにも私のことを想ってくれている人に向かって。
申し訳なさで、罪悪感で崩れそうになる。
「ごめんなさい……っ!!」
いくら謝罪した所で、言葉は届くはずもないのに。
そんな時、声が聞こえた。
「……朝っぱらから邪魔して悪い」
振り返った部屋の入り口には亜里沙が心配そうにこちらを見ている隣に、いるはずのない人がいた。
「……ゆき……と……くん?」
その人物は私に近寄り、手を差し伸べると、
「立て。だいたいの事情は亜里沙ちゃんから聞いた」
そこで気づく、亜里沙の手にも同じ封筒が握られていることを。きっと、そこには亜里沙に宛てた文が綴られているのだろう。
「おばあさんに何を言ったのかは知らない。でも、後悔してるなら、謝りに行くぞ」
「私は……」
このまま何もしないで、おばあちゃまが帰ってしまうのは、嫌だ。
「ちゃんとおばあちゃまに会って、謝りたい……!!」
行人くんは笑って頷くと、
「追おう。まだ間に合う」
私の手を引こうとするのを、止める。急がなければいけないのはわかってる。それでも、
「――少しだけ、待って」
× × × × × ×
日本の電車は世界一正確だと聞いていたが、その通りだった。
ならば、衰えた老体で歩いて行く場合は目当ての電車に乗るために、あらかじめ早く家を出なければならなかった。
そのせいで、愛する孫たちと別れの挨拶をしなかったことが、彼女の胸中に後悔をもたらしている。
――もしかしたら、これが最後の別れになるかもしれない。
いつまでも二人の行く末を見守っていたいが、それは出来ぬ相談だ。人には神様が定めた寿命というものがある。彼女自身の果てがどこにあるのかはわからないものの、そう長くもないだろう。
だとするならば、後何回、孫たちの顔を見れるのかわからない。
何度、彼女たちをこの手で抱きしめることが出来るのかもわからない。
だからこそ、サラファンを渡した。我が家伝統の料理の味を伝えた。お節介を、焼いてしまった。
結果的に、孫を悲しませてしまった。それをひたすら悔やんでしまう。
おっとりとして意外と神経が太い妹に比べて姉の方は、昔からしっかりしているようでどこかもろい所があった。そんな一面があったから、いつも気にかけていた。遠く離れていたとしても、いつでも。いつか彼女の隣に寄り添い支えてくれる、他人の物まで背負い込んでしまう彼女の荷物を引き受けてくれるような人に出会えるよう、祈っていた。
もっとも、今となっては、どの口でそんなことを言えるのかといった感じだが。
彼女は嘆息する。
さて、この階段をのぼり終えれば、ホームに着く。そしたら、ゆっくりベンチにでも座って電車が来るのを待とう。一歩ずつ一歩ずつ、上へ、上へと――
着いた、瞬間、
「――おばあちゃま!!」
何かの間違いだろう。耳が受け取ったこの声は。
さぁ、進もう。
「――おばあちゃま!! ごめんなさい!!」
振り返ってしまう。愛しいその声で何度も呼ぶから。
目を奪うような鮮やかな赤色が特徴的な――その伝統衣装をまとった孫――絵里が息を切らしながら彼女の胸へと飛び込んでくる。持っていた荷物を放り、その背中へと手を回す。
「ごめんなさい……あんなにひどいことを言ってしまって……なのに、おばあちゃまは一言も私を責めないで。悪いのは全部、私のせいなのにっ」
「いいんだよ……いいのさ、全部おばあちゃんが悪いんだ。エリーチカが泣く必要はないんだよ……」
「ぜんぶ、ぜんぶ、私のことを想ってくれたのに……っ」
「教えただろう、心が身体を動かすって。世界一幸せになってほしい人のために、どうしても身体が動いちゃってねぇ……おかげで、相手を怒らせてしまうような悪いおばあちゃんさぁ、ごめんねぇ……」
「いいの……いいの、ありがとう……っ、ありがとう。おばあちゃまぁ!!」
ぽろぽろとこぼれる絵里の涙を彼女はハンカチで拭い続ける。
「泣き止みなさいな。おばあちゃんねぇ、今、とっても幸せなんだから。見れるかもわからなかったエリーチカの花嫁姿が見られるなんてねぇ」
「素敵な贈り物ありがとう。私は、世界で一番幸せ者なんだって、そう思う」
「ありがとうねぇ……」
「私、伝えるから。本当の気持ち。大好きな人に」
その言葉に彼女の目尻のしわが深まる。近寄ってきた、彼の存在を知らせるように、ゆっくりと絵里を自分の身体から離し、目を見て頷く。
涙を拭ってもらった絵里は、彼へと向き直る。
「行人くん。ずっと伝えたかったことがあります」
もう迷わない。踏み出す勇気は全部、もらったから。
わがままに、なる。
「――好きです。私と、付き合って下さい」
ただ、返答を待つ。泣いても笑っても、後悔しない。
そして、行人くんは、ゆっくり私の告白を受けて、うつむく。その仕草、……仕方、ないか――
「それだけでいいの?」
「――え?」
行人くんは私の手を取り、周りに人がいるのも構わずにひざまずくと、
「その服、俺でよければ本当にして頂けませんか」
言葉の意味を咀嚼するのに、時間がかかって、それでもようやく意図する所を悟って、
「そ、それって、プ、プロポーズ……?」
「返答を頂けますか?」
そ、そんなことを言われても、みんな見てるし、おばあちゃまも言葉の意味をわかっていないはずなのに、状況だけで察しているのかしら……って、え、隣でおばあちゃまに耳打ちしているの行人くんに連れて行ってもらった喫茶店のマスター!? 何故、ここに!? ロシア語しゃべれたの!?
「さすが外語大ロシア語専攻主席、ペラですねぇ」
いや、のんきにそんなことを言ってる場合じゃ、ってそれは私なのかしら!?
もう、何よこれ。笑うしかないじゃない。
「どうだ。朝イチで告りに行こうとしたら先を越されたお返しだ。それにな、好きな子に告白するのに、泣き顔ってのはもったい――むぐっ」
意地悪な唇を唇で一度ふさいでから、私は、
「よろしくお願いします」
拍手喝采の中で深々と頭を下げる。
♪MUSIC:Dancing Queen/Meryl Streep(from MAMMA MIA!)♪
【あとがき】
はい、皆さんご一緒に、かしこい、かわいい――――!!。
本編よりこっちの方が早く完成してしまったんさいさいさーい!!
いやもうこんなに膨らむと思わなかったんです。でも間に合って良かった。アディショナルタイム的に考えてセフセフ。
最近寒いので、ちょっとでも皆様のはーとがうぉーみんぐしてくだされば幸いです。
あ、あと、最後のシーンはちゃんと、亜里沙ちゃんも拍手してますからご安心を。
皆様も近くにいてくれる人を大事にしてください。自分が思う以上に、愛してくれている人はいるものですから。
そこに愛はあるのかい? ありますとも!!