あくびをかみ殺す。
就寝時間を遅くし、起床時間を早めた結果がこれだ。今後、これが常態化するようなら、生活リズムを見直す必要があるかもしれない。
俺は、これぞ日本の古き良き家屋であるといった感じの長い土塀に沿って歩いていた。何代も続く日本舞踊の家元のお家とあれば、それ相応の所に住んでいるわけだ。日舞界隈では超有名人らしいが、本人はもちろん礼儀作法には厳しいが普段は気のいいお婆ちゃんなんだけども。
などと考えていると、いつの間にか厳めしい門の前に着いていた。俺はちらと腕時計に目をやる。まぁいくらなんでも既に行ってしまった後ではないだろう。確認と久しぶりに挨拶をしに訪問するのもやぶやかじゃないが――、
と、門が開いた。
おおう、ナイスタイミングじゃないか。
すかさず「行ってまいります」と屋内に声を投げかけ出てきたその人物に声をかける。
「おはよ――」
ビクゥッ!! と擬音で表現して有り余るくらいの反応で――園田海未は俺から1メートルは飛び退いた。
「…………」
挙げた右手は力なくしおれ、俺は無言で道ばたのたんぽぽに話しかけることにした。
「お前はいいなぁ、力強く咲いていて……はは」
「えあ、ちょ、ゆ、行人くん!? いきなり話しかけないでください! 驚くじゃないですか!」
「そうだね。ダンデライオンだね」
「き、聞いてください!」
ぷいと顔を背けると、強引に海未の方を向かされた。さすが、普段から鍛錬してるだけある。
「や、聞いてる聞いてる。ちょっとショック受けちゃって、くじけちゃっただけだから……」
「そ、そんなですか……?」
「大丈夫……こんなのあのお花畑の向こうで手招きしてる爺ちゃんのとこへ行けば、へのかっぱだろ」
「致命傷じゃないですか。というかあなたのお爺様はまだまだご壮健です!」
この清々しい正統派ツッコミ、紛れもなく海未である。ごめんごめんと謝りつつ立ち上がり、改めて海未の姿を見れば、音ノ木坂の赤い指定ジャージに身を包んでいた。
なるほど、ことりの情報通り、これからどう見ても運動をする装いだ。
「元気そうで何よりだよ、海未」
「お久しぶりです行人くん。どうしてこんな時間に私の家に?」
「お前達がスクールアイドルやるって聞いてさ――」
ここまで言った段階で、ズサーッ!! と再び海未は俺から距離を取った。
「ななな、なんで行人くんがそれを知ってるんですか!!??」
「――なあポポ聞いてくれ、俺って結構人から引かれるタイプなのかな……」
「なに、たんぽぽと親友になってるんですか! 答えてください行人くん!」
なんだよ普通に人から距離を取られるって傷つくんだぞ。
「昨日、穂乃果とことりから教えてもらったんだよ」
「わ、私、辞めます!」
「早くね!? 電撃引退宣言今ここで!?」
顔を真っ赤にしている辺り、スクールアイドルをやると知られたことがどうやらめちゃくちゃ恥ずかしいらしい。
つか本当に大丈夫なのか? アイドルなんてもろ人前に恥ずかしいカッコで出てなんぼなんじゃないのか? 昨日さらっとスクールアイドルについて調べた限り、みんなそれなりに露出してたみたいだったけどな。
たかだか知り合いに知られたくらいでこんな状態になっていたら先が思いやられる。どうやったってスクールアイドルと謳う以上、表舞台に立つのだ。衆目を集めることに慣れないことには始まらない。
「お、落ち着け海未。今ここで辞められても俺困る。後で物凄い笑顔のことりに詰め寄られておやつにされちゃう気がする!」
「で、ですが、その……」
くそ、どうすりゃ納得する。何か、何か、なかったか――その時、俺の脳裏に浮かび上がる物があった。
「そうだ! 俺、お前アイドルに向いてると思うよ、いやホントに」
「え、どうして、ですか……?」
「ほら、小さい頃からお前こっそりやってたじゃないかほら、なんかこうマイク持ったポーズでさ。『今日は来てくれて、ありがとーみんなのハート打ち抜くぞ~!』とか言って。で、なんだっけあのラブ……ラブアロむぐっ!?」
最後まで言い切ること叶わずに、海未は俺の襟を掴むと尋常じゃない速度で揺すり始めた。揺れる揺れる、血走った海未と青空を視界がひたすら反復する、うっぷ……
「なんでそれを、行人くんが知ってるんですか――――ッ!!!???」
「をををあれれ、なんか俺またミスった――――!?」
互いの絶叫が早朝のご近所にこだました。……この声が原因で目を覚ましてしまった人がいたら本当に申し訳ない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「あ、海未ちゃーん! もー遅――ってあれ、ユキちゃん?」
土下座プラス頭を大地にこすりつけるという秘技(よい子はマネしてはいけない)により、どうにか海未に謝罪と説得を済ました俺たちは、穂乃果ら三人で待ち合わせ場所に決めていたらしい神田明神前にやってきていた。
「ほんとだ。ゆーくん、どうしたの? なんか所々、薄汚れてるけど……」
「朝っぱらから一騒動してきて、な……」
「だ、誰のせいですか!?」
はい、だいたい僕のせいです。ゴメンナサイ。
「朝練するんだろ? せっかくだし、俺も付き合おうって思ってさ」
「え、ほんと! やったぁ!」
素直にその場で飛び跳ね、喜びを表現する穂乃果の隣で、ことりは、
「でも……私たちはいいけど、ゆーくんは奏光学園だから後で電車に乗らないとダメなんじゃ」
「まぁそうだな。だから最後までは無理だが、いい頃合いでお暇させてもらう」
「本当に大丈夫なのですか?」
「抜かりない。何分の電車に乗ればいいのかは調べてある。心配すんな」
お前らに心配されるようになったら、いよいよ俺にヤキが回ったときだ。少なくとも、まだその時じゃない。
というか、俺のことは別にどうでもよくないか。それこそ時間がもったいない。
「んで? ここまで来て、朝練って何をするんだ?」
「あ、私も聞きたーい」
いや、穂乃果、俺はともかく、お前はあらかじめ聞いとけよ……。
「はい、何はともあれ穂乃果とことりは本格的な運動をしていません。アイドルというのは非常に体力のいる仕事です。少なくとも、数十分踊り続けながら歌う事ができなくてはならないのですから。そこで二人にまずしてもらうのは、基礎体力作りです」
思わず頷く。ごくごく当然の事だ。幼き頃より、文武両道を強いられてきた海未とは違い、穂乃果もことりもハードな運動はしてきていなかったはずだ。運動は体育の時間にしていますとかいう人間に、体力を期待しちゃうのはお馬鹿さんだろう。
千里の道も一歩から、というわけだ。
「なるほどな。じゃあ、ベタに走り込みからか?」
「はい、そうしようと思っていました」
「オッケー、わかった!」
そのまま走り出そうとした穂乃果の腕を即座に俺は掴む。
「あのな……、準備運動もしないで何しようとしてるんだ。身体あっためとかないとケガするぞ」
「そうですよ穂乃果。準備運動はゆっくり丁寧に行ってください。まだ激しい運動に身体が慣れていないのですから、細心の注意を払わないと」
「あ、そっか。ごめん、ユキちゃん海未ちゃん」
「……ったく」
やれやれだな。と天を仰いでいると、ことりがくすくすと笑っているのが耳に入った。
「どした?」
「うん、久しぶりに三人のやりとりを見て、なんか嬉しくなっちゃった」
まぁ言われてみるとたしかに。こいつらの高校受験の時は、お勉強が苦手な誰かさんを受からせるために、毎日のように俺ん家に集まって勉強を見てやってたからな。思えばそれ以来ぐらいになるか。
「のはずなのに、あんまブランクを感じない自分が怖い……」
「えへ、だって、ゆーくんだもん」
笑みをますます深めることりに肩をすくめ、やっぱりもう一度空を仰いでしまった。うららかな春の陽気が全身にやる気を充満させてくれる。
そんな気がした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
神田明神の裏参道にあたる坂を、明神男坂と呼ぶ。
幅広の石階段のちょうど真ん中には手すりがあり、それをコーン代わりにして、ひたすら穂乃果とことりは昇っては折り返し降りるを繰り返していた。
うん、男坂に女の子ってどうなのよ。とは俺も思う。実は女坂もあるのだが、どういうわけかそちらの方が角度も急で、しかも男坂と違い途中で曲がっているのでキツい。なので名前的には首を傾げても、選択肢としてはこちらが正解だろう。
若いとはいえ、固い石階段の上を走らせたら膝がぐにゃぐにゃになりかねない。野郎で運動部ならしごかれるだろうが、こいつらにそれはさすがに酷だ。最初ということもあり早足で昇降させている。
とはいえ、現在八週目、目標は十週だが二人ともほぼ限界だ。運動神経自体はいい穂乃果でさえ、汗が吹き出て歯を食いしばり、ことりにいたっては半分ぐるぐる目になっている。え、あの子、大丈夫なの?
……まぁ本当にやばかったら、海未も止めているだろう。足取り自体はまだかろうじてしっかりしている。あと二週だ。コンジョー!!
「さて、まぁそろそろか」
「行人くん? 時間ですか?」
「ああ」
隣でストップウォッチでタイムを計測していた海未に首肯する。俺はカバンの中から先ほどおトイレと称して場を離れた際に買っといたスポーツドリンクを海未に手渡す。
「あ、ありがとうございます……」
「おう。おーい穂乃果、ことり!! 海未にスポドリ渡しとくから、終わったら水分補給忘れんなよ!! 後ちょっとだから頑張れ!!」
一番下まで降りていた二人に大声で叫ぶ。
「うーん! ありがとー!」
「いって、らっ、しゃい~」
キツいのに、笑顔になる必要はないんだけどな。嬉しいけどさ。
「じゃ、海未もがんばってな。あの二人頼むわ」
「はい、任せてください。いってらっしゃい行人くん」
「いってきますっと」
海未たちから見えない場所まで歩いた後で、ふと頭をもたげる。まぁせっかくここまで来たわけだし、
「五円は……ちょうどあるっと」
二礼二拍手一礼。正式な作法に則って、あいつらの前途に願わくば幸あらんことを、と参拝することにした。たまには神様に媚びるのも悪くない。誠心誠意平身低頭一切合切拝み終わる。
うし、行くか。
俺が振り返ると同時に、
「――面倒見がええんやね」
どういうわけか、関西弁を操る巫女さんに声をかけられた。
やっぱこの三人はかわいい。だが、海未とのやりとりはどうしてこうなった。