週が明ければ、いつも通りの登校の風景がそこにある。
「かっよち――ん、おはよ――!!」
一緒に登校するため、待ち合わせ場所に少し早めに着いて待っていた花陽が、文庫本を開いて物語の世界にふけっていると、やがて元気の塊のような声と共に凛が駆けてくる。
「あ、凛ちゃん。おはよう。今朝はちゃんと起きれたんだね」
「うん!! 実は最近目覚ましを増やしたんだ~」
あまり朝に強い方でない凛は度々寝坊をかまし、その際にはひどく慌てた文面で花陽のスマートフォンにメッセージが飛ばされてくるのだが、今日はそんなことはなかったらしい。
花陽は文庫をかばんにしまうと、そのまま凛と並んで歩き出す。
「そうだったんだ。どうして急に?」
「うん、それがねぇ~聞いてよ~かよちーん。この間から、凛も高校生になったことだし、自分で起きれるようにしなさいって。お姉ちゃんたちが起こしてくれなくなっちゃったの」
なるほど。そんなことがあったんだ。
三姉妹の末っ子である凛は、大学生、社会人とそれぞれの姉たちと歳が離れているせいか、家族全員からかわいがられている。そんな彼女も義務教育を終え、花の女子高生ともなれば多少の自立を求められるのだ。花陽も幼いときから、それこそ凛の姉たちが凛を猫かわいがりしているのを目撃しているが、甘やかすだけでなく、悪いことをしたらちゃんと叱られるところも見ている。
それを凛たちの姉は愛のアメと愛のムチと称していたが、はたしてあの語法で合っているのか花陽はいまだにわからない。
他愛もない会話を続けていると、花陽はそういえばと思い出し、
「凛ちゃん、初めてスクールアイドルに会ってみてどうだった?」
「うん、あんなに人気がある人たちになると、そんなに私達と歳が変わらないのに、本当のスターって感じなんだね」
えへーそうでしょそうでしょと花陽は顔をほころばせ、
「はぁ……でも、生のツバサさんが見れて握手も出来たなんて、まだ信じられないよ」
キラキラした目で宙空を見つめている花陽に凛は今、かよちんの中ではそこに綺羅ツバサさんがポーズを決めて浮かんでるんだろうにゃーと思う。
昔から、そうだった。
家に帰って、アルバムを引っ張り出してくればわかる。そこに収まった写真の数々には、幼稚園の頃から凛や親しい友達だけに見せていた、アイドルに憧れる一人の女の子、小泉花陽の姿が残っている。
本当に、ほんっとーに好きなんだにゃー。
でも、他のみんなには見せない。
その分厚い眼鏡を取って、人前だとすぐに強張ってしまう表情を和らげ、お腹から声を出しハキハキ喋れば、きっとどんなアイドルにだって勝てそうなのに。
あふれんばかりの情熱を抱えているのに、それを他のみんなに見せない。
もったいない。
そう思う。
だから、
「――かよちんは、あの先パイたちのスクールアイドルに入らないの?」
「え?」
ピキと音が鳴ったかと錯覚するぐらいわかりやすく固まり、
「ム、ムムム、無理だよぉ!! そ、そんな私じゃ……平凡だし、どんくさいし、お、おどおどしちゃう、から」
「やってみなよ!! 凛知ってるよ。かよちん、アイドルが昔から大好きで、いつか私もあんな風になれたらなって言ってた!! なら、これってすごいチャンスじゃないかな!!」
始めたばかりで、まだメンバーを募集している。ということは初期メンバーになれるのではないだろうか。あのライブを見た限り、素人の凛からしてもすごいと思ったし、先パイ方は恐そうな感じじゃなくて優しそうだったし。
やっぱり今だからこそ、やってみるべきだ。
「ねぇ、かよちん!!」
「う、うう……」
もう一押し。
「チャンスだ――」
詰め寄ろうとした瞬間、
「――――~っ!!」
全力で花陽は学校へと逃げるように走り出してしまった。呆気に取られた後、遅れてその背中を凛も「ま、待ってよ――!! かよち――ん!!」と全力で追いかけていく。
一時間目が体育なのをすっかり忘れて。
◆#23 “black spot”◆
アルパカという動物がいる。
ラクダとヒツジの合いの子のような風貌をしているが、その実はビクーニャの派生種であり体長は約2メートルもあるのにも関わらず、体重は50~60キロ程度しかない。
主な生息地は南米であり、その良質な体毛は繊維産業に一役買っている。
そんなアルパカは、何とも言えない味わい深い顔をしているのがウケ、昨今ではよくテレビにも登場して、お茶の間に会話のきっかけを提供していた。のだが、数年前、某テレビ局のスタッフと新人アイドルがある噂を聞きつけ、番組として東京の下町にある学校を訪れた。
その番組は日本全国の奇妙なスポットを視聴者から寄せられた情報を頼りに、芸人やアイドルが調査しに行くという、きわめてオーソドックスな構成で、それなりの視聴率を誇っていた。
さて、当時、番組に寄せられた情報はこうである。
「うちの学校ではウサギとかではなくアルパカを飼っています」
スタジオ内は笑いで包まれ、そんな学校ほんまにあるんですか!? などとひな壇芸人が騒ぎ出し、調査に乗り出した。
ごくありふれた高校のように思える敷地内を、まずは校舎の横手に回り、かすれた白線が幾何学の計算式のような校庭を視界の端に据えながら、片付け忘れたボールが転がるテニスコート、今にもかけ声の聞こえてきそうな道場を過ぎ、校舎の真裏にまでやってきた際、動物特有の生ぐささが鼻腔をくすぐった。
何かが、いる。
緊張感をにじませる一同の前に、突如としてそれは現れた。
――――二匹のアルパカが。
放送翌日から話題になり、いっとき学内見学ツアーなどが組まれたのも国立音ノ木坂学院のありし日の姿である。
さて、そんな飼育舎の壁に背を預け、へたり込んでいる花陽の姿がある。
ここまでまったく記憶がないくらい無我夢中で駆けてきた。凛が手を抜いてくれたのか、追いつかれてしまうことこそなかったが、程なく凛もここまでやってきてしまうだろう。
――やってみなよ!! チャンスだよ!!
凛ちゃんはそう言ってくれる。それは嬉しいけど、やはり違うのだ。
アイドルが大好きだから、
大好きだからこそ、わかるのだ。
今まで好きになったテレビの向こうの、写真集の中の、CDの歌の、ドームの中心の、アイドルたちはみんな、
「あっ!! かよちん!!」
顔を上げれば、腰に手を当てこちらを指差す凛がいた。特段息を切らしていないあたり、体力の差というのはここまではっきり分かれるんだ……と花陽は思う。
「もぉ~~探したよ!!」
「ご、ごめんね……凛ちゃん」
腕をぐいぐい引っ張る凛の力を借りて、花陽が立ち上がると、
「さっき、高坂先輩たちが登校してるの見たよ? ほら、凛も一緒に行くからお願いしに行こうよ!!」
「え、いや、だから……」
しかし今度は疲れてしまったせいか、抵抗出来ない。ずるずると引きずられるまま、やがて逆らう気力すらもなくなり、花陽は凛に導かれ来た道をたどっていく。
扉から顔を出して、凛が目当ての人物の姿を探していると、近くにいた知らない先輩から声をかけられた。
「どうかしたの?」
「はい、あの、高坂先輩っていらっしゃいますか?」
「ああ、穂乃果? ちょっと待ってね……――あれ? さっきかばん置いてたけど……」
ちょっと待っててねと、その先輩が誰か行方を知っているか聞いてくると行ってしまう。その間、三歩離れて後ろで控えていた花陽へ凛は振り返り、
「今、聞いてきてくれるって」
「…………うん」
先ほどからすっかり大人しくなってしまった花陽に凛は内心首を傾げる。どっか、具合でもわるいのかなぁ。それとも朝から走ったせいで、貧血気味になっちゃったとか。
そこに小走りで先輩が戻ってくる。
「ごめんね、えっと穂乃果なんだけど、今一年生の教室に行ってるみたい。あなたたちも一年生みたいだけど……もしかして行き違いになっちゃったのかもよ?」
「え、そうなんですか?」
不思議そうな顔をしている花陽を気にしつつも凛は答える。一クラスしかない一年生の教室ということは、すなわち自分たちの教室だ。何の用なのかはわからないが、なら急いで戻らないと、
「ありがとうございました。かよちん、戻ろ?」
礼を述べ、早足で一年の教室がある階まで戻ってくると、進行方向から廊下にまで声が響いてきていた。どっかで聞いたことのある声に速度を上げ、入り口付近にいたクラスメイトに何があったのかと尋ねる。同時に、今どういう状況なのかを凛は把握しようと努める。
約10メートル四方の教室、その窓際の列の真ん中の席に位置する西木野真姫の席。それを半ば囲むようにして、例のスクールアイドルをやっている高坂先輩、園田先輩、南先輩がいた。一学年上の先輩が、しかも三人も教室の中で堂々と会話しているという滅多にない現状を、クラスのみんなは遠巻きに眺めている。
「なんか、スクールアイドルの勧誘に来たみたいだよ」
迷惑そうな視線を窓際一帯に向けたまま、クラスメイトは教えてくれた。その時、背後で「……え?」
花陽の声が聞こえた。その顔を凛は反射的に見てしまう。
口元を引き結んで、この教室の誰もがしているのと同様に、西木野さんたちの方をじっと見つめている。そして、その目は――少なくとも初めて見る目だと、凛は思った。
らしくない。らしくない、目だった。
――か、よ
声を出すより早く、それが響いた。
「お願いっ!! 真姫ちゃん!!」
「だ、だから、何度も言ってるでしょ。お断りだって!!」
「そこをなんとか!!」
両手を合わせて懇願している高坂先輩。両隣では、園田先輩も南先輩も頭を下げている。
「私からもお願いします」
「お願いします、西木野さん」
「……お断りよ……もう、帰って」
上級生三人が下級生に頭を下げている絵面に、周囲もヒソヒソ話し始める。位置的に凛たちも、ついその話が聞こえてしまった。
――何あれ。エラソーに。
――スクールアイドルってあれでしょ。この前講堂でライブやったとかでさ。ウチの学校の知名度上げて、廃校を防ぐためにしてるってやつ。
――うわ、そうなんだ。じゃ何であの子……西木野さんだっけ? 手伝おうとしないワケ? 今の状況わかってないの? あたしたち後輩できないんだよ?
――しかもさ、あの先輩ってアレでしょ? ウチの理事長の娘ってウワサの。責任感じてんじゃないの? だから、手伝ってるんじゃない、スクールアイドル。
――うっわ、涙ぐましぃ……
――西木野さん休み時間とか突然いなくなるじゃん? ヒトミが言ってたけど、あれ音楽室でピアノの弾き語りしてるらしいよ。
――マジ? チョーウケる。一人でそんなことしてんのかよ。
――なら、なおさら手伝えばいいじゃん。顔だっていいし、……ぷふ、お歌だって上手なんでしょ。
本人には聞こえないことをいいことに嘲笑が広がっていく。
嫌だな……。凛の心中に悪い気分が侵食してくる。依然流れは止まらない。
しかし、天の助けはチャイムという形でもたらされた。
三人の先輩もこれ以上粘ることは出来ないと、最後に、
「ま、また来るから」
とだけ言い残すと慌ただしく教室を出ていった。
ようやく終わったと言わんばかりに、疲れた様子で嘆息する真姫と不意に目が合う。
周りの声を耳にした後で、どう対応すればいいのか。判断に迷った凛は、曖昧に笑みを浮かべると軽く会釈した。
ふ、と口元を緩める西木野さんに、逆に無反応だった花陽を不審に思い、
「かよちん?」
「え、あ、うん」
今気づいたと凛と同じく、花陽が軽く頭を下げると、
タイミングよく担任が教室に入ってきて、日直に号令を促した。
今日の体育は、テニスコートに集合と指示された時、テニスをやるのだと1年一同は当然のように察した。
HR後すぐに更衣室へと向かわねばならないため、一時間目に体育がある日は忙しい。
駄弁る暇もないまま学校指定のジャージに着替え、ぞろぞろと赤い集団がテニスコートへと入ってくる。
体育の教師の登場とともに点呼と準備運動が開始され、簡単なレクチャーの後で、各自ラケットを握り二人一組となって、ラリーをすることになった。
当然のように凛はすぐに花陽へと駆け寄って、
「かよちん一緒にやろ?」
「あ、うん、じゃボール取ってくるね」
コート前方でカゴの中に山盛りになっているテニスボールを取って、花陽が戻ろうとすると、それに気づいた。
ラケットとボールを持っているのにも関わらず、まるで見学者のようにコートの端をさまよっている――西木野真姫の姿を。
人目を引く端麗な容姿は、可能な限り誰にも気づかれずに済まそうとしているらしい彼女の意志を裏切る。どうしても目立たせてしまうのだ。彼女の孤独を。
クラスメイトも、ラリーする相手のいない彼女の存在に気づいていないはずがない。気づいていたとしても、手を差し伸べることはない。大多数が、少しの優越感にひたり、すぐに目を背ける。だが、中には、
「西木野さーん、あのさ思うんだけど、そこでうろうろされてもジャマだからさ。あっちで、
常にクラスの中心部、ヒエラルキーの上層に位置するグループを束ねる
ニヤニヤと侮蔑の笑みを浮かべながら。
真姫は眉をひそめて、唇を噛みしめるだけだ。反論しようにも事実、もうすでにそこかしこでラリーが始まっている。相手がいないのは自分だけで、それがなおさら夏紀の嘲笑を身に染み込ませていく。一緒にやらせてよ、その一言が口に出せない自分が、情けない。
思えば、昔から輪の中に入るということが出来なかった。自画自賛になることは承知しているが、たいていの事は周りの人よりも出来た。一人で、出来てしまった。だから、誰かを頼った記憶もないし、誰かに頼られた覚えもない。
そうして気づけば、自分は世界に一人だった。
透明で見えないガラスの壁は他人を隔離しているのではなく、自分が隔離されていることを理解したのはいつの事だったか。向こう側からこちらに向けてくる目が、尊敬、恐れ、嫉妬、好奇、嫌悪のいずれかばかりだと知ってしまったのはどの瞬間だったか。
それでも、
かつて一人だけ、こちら側へと入ってきてくれた子がいた。彼女が今隣にいてくれたらと何度願ったことか。叶わぬ願いとはいえ、離ればなれにならざるを得なかった運命をひたすら恨む。
「黙ってないでさぁ」
夏紀の声で、没頭していた思考をやめる。改めて、相手を見返す。もう目つきでわかった。
お前が気に入らない。そうはっきりと告げている。
戸川夏紀。教室の端から見ていた限りじゃプライドの塊のような女だった。常にかわいいが自分の顔よりは少し劣るくらいの女の子をグループに入れ、グループ内での顔面偏差値で抜かれないようにしている辺りが計算高そうだと思った。家も裕福なのか、雑誌で紹介されていたコーデなどをすぐに買って、そしたら原宿で芸能事務所の人に声をかけられちゃって~、などと真偽も定かではない事を吹聴し、内輪で賞賛を得てまんざらでもない顔をしている辺りが品がないと思った。教師受けを気にしていい子ちゃんを装うくせに、こうして、
「とっとと――、あっち行けっつってんの」
裏の顔を覗かせる辺りが
だからつい、鼻で笑ってしまった。
「あ”?」
その態度が気に障ったのだろう、声を一段以上下げて、ドスを利かせてくる。
まったく、意味わかんない。あまりにも馬鹿らしくてイヤになる。こんなのわざわざ相手をする必要もない。そう決めて、背を向けようとした矢先、
「あ、あの…………」
消え入りそうな声で、
「よければ、西木野さん、い、一緒にっ、やらない?」
真姫と夏紀の顔が一斉にそちらを向く。どれだけ震えているのか、手も足も、見ていて心配になるぐらいのレベルの状態で、
「あなた……小泉、さん」
真姫は信じられない様子でこぼす。な、何をしているのだろうか、この子は。というか今の言葉は、
「い、いいの……?」
「う、うん、西木野、さんが、よければですけど」
うつむいて、どもっていて、よく聞こえない部分もあったけど、それはたしかに誘いの言葉、だった。それに対する返答を自分は、
――勇気を出すコツ? そうねぇ……じゃあ、一つ教えて上げる――
「わ、私こそ、一緒にやらせてもらっても、いい?」
――言えた。
自分でも信じられず、思わず唇を押さえてしまう。
一方でほっとしたのか、花陽の身体の震えも徐々に収まって、
「うん。凛ちゃんとも一緒だからVの字のラリーになっちゃうけど……」
「気にしないわ」
じゃあ、と花陽があっちでやってるからと指差すと、
かよちーん!! まーだー? と、凛が跳ねていた。すると花陽と真姫が一緒に自分の方へ向かってくるのに、首を傾げる。
二人が目の前まで来ると、凛が口を開くより、
「混ぜてもらっても……いい?」
真姫が早かった。ちらりと花陽の方へ凛の瞳が動き、元の位置に戻る。
「……いいよ。じゃあ、その代わり」
拍子抜けするぐらいあっさり受け入れてくれた。しかし条件とは、どんな条件だろうと見構える真姫に、凛は
「凛、本気でするからね!!」
ええ!? とうろたえたのは花陽で、
「どうかした? 小泉さん」
「う、うん……凛ちゃんスポーツ万能だから、本気出されちゃうと……」
ああなんだ、そんなこと。
「心配しなくていいわ。テニスなら、私負ける気しないもの」
「む~……」
即座に挑戦状を叩き返してきた真姫に、凛はうなり声を上げる。それを冷ややかな態度で受け流している真姫はいいのだが、間に立っている花陽にとってはたまったもんではなかった。
「なら、勝負ね!! ほら、二人とも早くそっち側へ行って!!」
「小泉さんがそっちじゃなくていいの?」
「当たり前だよ!! 見ててね、かよちん!!」
「まぁいいけど、じゃ行きましょ、小泉さん」
いや、凛ちゃん西木野さん、……これ試合じゃなくてラリーだよ? それに、わ、私も参加してるんだけど。
そう言いたいのはやまやまだったのに、もう二人は互いにラケットを構え合っている。
な、なんで、そんな二人とも呼吸が合ってるの……。
展開の早さに一人置いてけぼりを食らっていると、凛と真姫からほぼ同じタイミングで早くと急かされ、複雑な心を抱きつつ、真姫の隣へと花陽は小走りで駆けていくのだった。
白熱のラリーが繰り広げられている真姫たちから数メートル離れたところで、こんな会話が交わされている。
「…………ねぇ、
「えっと、たしか小泉……花陽さんじゃなかったっけ」
「ふぅーん、」
――小泉花陽、ちゃん、ねぇ。