亜里沙ちゃんがうまいこと……いや、実際には好き放題なんだけども、しゃべってくれたお陰でどうにか会話は成り立つようになった。基本的には俺と亜里沙ちゃんがキャッチボールをし、時折、絢瀬にも回す。彼女の投げる玉は基本的にヘロヘロであったが、俺がイチローばりの守備力を駆使することで回収し、リサイクルしてまた亜里沙ちゃんに投げ返す。
そんなやりとりが一段落し、絢瀬がちらりと時計に目をやったのを頃合いに、俺たちはファーストフード店を出ようとして、
そして、彼女とばったり出くわした。
「――あれ、えりちと妹ちゃん? と、日高くん?」
東條希だった。
「希? どうしたのこんな所で」
「ウチはこれから神社にお勤めに行くところだったんよ。でも、それを言うならえりちもやん?」
「そ、それはそうだけど……って、希は日高くんと知り合いなの?」
絢瀬は驚いたように俺と東條を視線で結ぶ。え、何、俺からしたら絢瀬と東條が知り合いだったって事が驚きなんですが。あーでも、普通に二人とも音ノ木坂で同学年なら別に知っててもおかしくないのか。
「うん、この前、ひょんな事から知り合ったんよ、ね?」
「いやぁ、神社でお参りしてたらいきなり話しかけられましてね。神様の前で巫女さんがそんなイケナイ事していいの? みたいな感じで」
「うふふ、たしかに話しかけたのはウチやったけど、でもランデブーに誘ってくれたのはどっちだったかなぁ?」
なんだと。
ほほう、やはりこの女、なかなか出来るな。だが、そう、まるで降り積もったばかりの白雪の絨毯のように純真無垢な
ぱちくりした様子で意味がわかってなさそうで幸いだった……姉妹揃ってなのはいかがかと思わなくもないが。
「それにしても三人は逆にどうやって知り合ったん?」
話の流れでいえば、東條の質問はしごく当然の物だった。だが、その問いに絢瀬は、
「それは……」
言い淀んでしまう。
亜里沙ちゃんも姉の影に隠れるように一歩身を引く。
わざわざ広めるような事でもないのは確かだろう。もう終わった事だ。俺としてはどちらでもいいが、彼女たちが言いたくないという選択肢を取るのならそちらを支持する。
「こっちもこっちでひょんな事さ」
言葉にしてしまえば、きっとそれで間違っていないのだ。
「ふぅん……そっか」
二人の様子に察してくれたのか、東條はそれ以上何も言わず、空気を振り払うかのように、
「それにしてもいいのかな~日高くん、高坂さんたちをほっといて、こんな両手に花でぇ~」
俺をダシにしやがった。いやいいけど、待った、やっぱよくない。
「お待ちなさい。ちょっと言ってる意味がわからないです。この二人が花というのは認めよう。それに比べたらあいつらは、あれだから、ラフレシアとかウツボカズラとかそういうのだから、ほっとくも何もないんだって」
「あ~あ~、そんなこと言ってるって知ったらどうなっちゃうかなぁ」
「そんなの当たり前だろ? 俺が粉砕される」
完璧に最敬礼の体勢になっている俺がいた。
「マル秘扱いでお願いしまっす!! 痛いのやです!」
「あーそういえばウチ、バニラシェイク飲もうと思ってきたんやけど」
「わっかりました。Lで買ってきます!」
俺は500円玉を掴んで店の中へとダッシュでUターンするのだった。世の中間違ってると涙を宙に散らしながら。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「行っちゃった。ほんの冗談やったのに」
「希……」
行人が消え、肩をすくめる希に絵里が近づく。
「……聞かないの?」
「聞いてほしいの?」
間髪入れずに返してきた希に絵里は戸惑いつつも、首を横に振る。
「ううん……」
「なら聞かない。もちろんえりちから話してきたときは別やけどね」
そう言って姉の腕にくっついていた亜里沙の頭を撫でる。
「ごめんなさい……」
つぶやいた絵里の唇を塞ぐように希の指が立った。
「そういう時は、ありがとう、だよ?」
「……うん、ありがとう」
満足そうに頷くと、ニタリと意地悪そうに笑って、
「それにしても珍しくえりちが、今日は用事があるから早く帰るわ。なんて言うから、おかしいなと思っとったんよ。まさか男の子と会っていたとはね~。これは全校のえりちファンがよよよって泣いちゃうかもしれんな~」
「ち、違うわ……か、彼とは、別にそんなんじゃなくて」
あはは、三人がどんな関係なのかは知らないけど、いつも生徒会長として全校生徒の前に立っている毅然とした態度の裏側で、こういう頬を赤らめたりする初々しい反応を時折見せるくれるなんてえりちはカワイイなぁと希は思う。
――だから、ついついいじりたくなってしまうん、堪忍な。もちろん本当に嫌そうならやらないけどね。
内心で謝っていると、行人が帰ってきた。
「姫、バニラシェイク、でございまするー!」
「ご苦労様。うんうん、悪いようにせーへんよ?」
「た、頼むぞ、嘘ついたら連座だからな! 一人やだよ!?」
「あはは、わかっとるよ。おーきに」
額に浮いた冷や汗をハンカチで拭っていると、女性陣がその必死な様を笑っていた。
「はぁ、なんか、話でもしてたのか?」
「あんな、実は――」
「ちょ、ちょっと、希!」
慌てて止めようとする絵里に、希は両手を合わせ、チョロっと舌を出し、
「あっはは、ごめんごめん。やっぱ怖いから内緒にしとくわ」
傷ついたと胸を押さえる行人に、一口シェイクを含みウィンクした希は、
「それじゃ退散させてもらおうかな。じゃあね、えりち。また明日。妹ちゃんもね。ついでに日高くんも、シェイクありがたく頂くわ~~」
俺はついでかよとふてくされた行人は、片手を振るって、はよ行ってくれと意思表示する。それに従うように立ち去ろうとした希が、二三歩踏み出した所で、振り返る。
「――あぁそうそう。日高くん、そろそろ高坂さんたちが連絡してくるかもよ」
「は? どういう意味だよ、それ」
行人の問いかけに微笑むだけで、希は手をひらひらさせながら行ってしまった。
え、どゆこと? シェイクのレシートをくしゃっと握りしめた時、行人のスマホが震えた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「マジかよ……」
振動が長めだから、メッセージじゃないなと思ったけど、マジで穂乃果からの電話じゃねーか。何、あの東條さん。ちょっと怖いんだけど、神託ってやつ? ガチ巫女? ご機嫌とっといてよかったー。
俺は怯えつつも、通話ボタンをタップする。
「へ、ヘロゥ?」
「あ、ユキちゃん! これなんて読むの!?」
うるさっ、どんだけ電話口に叫んでんだ。抗議してやろうと思ったら、ブツっと電話を切られ、すぐに画像が送られてきた。接写しすぎている上によほど急いでいたのか、若干ブレているが、まぁどうにかわからなくもない。罫線の引かれたルーズリーフだなこれ。で、そこに文字が書かれている。
『μ’s』
何だこれ。読み方を教えてとか言ってたけども……アス? ゆ、ユーズ? ユース? ……いや違うな、uっぽいがuじゃない、どっかで見たことあるぞこの文字、ええっとたしか、
再び通話がかかってきて、
「ユキちゃんわかる!?」
「ちょっと待て……、今思い出してる」
たしかギリシャ文字だ。去年、うちの学校に来た教育実習生が言っていた。もし大学で数学やるような物好きがいるなら覚えといて損はないとかで、別にその気はなかったがほへーと思って俺は板書を写した覚えがある。そこに書いてあった読み方は、
「――たぶん、ミュー、ズ、だな」
「え、……それって、石けんの?」
いや知らんがな。お前が聞いてきたんだろうが。
「それじゃねーよ。こんな書き方をするのが何かは、知らないけど、たぶんそう読むんじゃねーかな」
まぁ絶対的な自信がある訳じゃないが、何かそんなような名前の神様がどっかにいたような気はする。語呂合わせだとするなら、おそらく当たっているはずだ。
ってかおい、黙ってないで返事しろ。
「……ミューズ」
自分自身で発音することで語感を確かめるように、穂乃果はその言葉を口にする。
「――うん、μ’s!! なんか、すごく、いい!」
あのう、勝手に気に入ってますが話が見えないんだけども、
「海未ちゃん、ことりちゃん!! どうかな!?」
電話の向こうには海未もことりもいるらしく、三人で何事かを話し合っている。
おーい。もしもしー無視はさびしいよう。
「ユキちゃん!」
「は、はい!」
やべ、元気よく反応してしまった。
「私たちのグループ名が決まったよ! それは――」
「いや、μ’sだろ?」
流れ的に。
「…………」
なんか後ろで、穂乃果ちゃんどうしたの急に、ゆーくんになんかひどいこと言われたの!? とかことりが騒いでるみたいなんですが……ま、まずい、ミスった。
瞳ウルウルさせながら、唇震わせている様が容易に想像できる。もしこの場にいたら、プラスぽかぽか叩かれてたな。
「うぅ、ひ、ひどいよ、ユキちゃん、先に言っちゃうなんてもぉ~!」
「わ、悪かった許してくれ。今度、なんかお前の好きな苺の……あ~タルトでも買ってやるから」
「え、ほんと!?」
嗚呼、こうして人は出費を重ねていくのですね。英世、また会う日まで……今はしばしのお別れだ。
「まぁ、あれだ、ええと、おめでとう」
「うん、ありがとう!」
用件はそれだけでいいのかと問えば、うんと穂乃果は返してきた。絢瀬たちを待たせている事もあり、俺は通話を終える。
「ごめん、待たせた」
大丈夫でしたか? と心配してくれる亜里沙ちゃんに礼を述べる。その横で、絢瀬は考え込むようにあごに手を当てていた。
「絢瀬さ、……東條って、ああいう事よくあるの?」
「……え? え、ええ。時々オカルト入ってる事を言い出すの」
お、恐るべし……。能力者だったか、やはりあの女、出来る……ッ。今後は積極的に媚びを売っていくことを俺が心に決めていると、
「日高くん、さっき希が言ってた高坂さんって、もしかしてうちの――」
「あ、うん、高坂穂乃果ってのを知ってるなら、その高坂だよ。幼なじみでね。昔から手を焼かれっぱなしなんだ」
「そう、だったの……」
手でぽんぽんとスマホをもてあそびながら俺はそう答える。まったく、絢瀬まで知り合いだとするなら、世界が狭いのか、それとも穂乃果の悪名がとどろいているのか、どちらにせよ奇妙な縁みたいのを感じる。だからか、
「こんなことを俺がお願いするのも変なんだけど……もしもあいつらが困ってたら手を貸してあげてくれると助かるよ」
危なっかしいからな、あいつらは。突っ走る穂乃果、押しに弱い海未、抱え込むことり。誰か年上のしっかりしてる奴が付いてないと心配なんだよこっちとしては。その点、絢瀬は多少天然な時もあるけど、亜里沙ちゃんに接してるときの“お姉ちゃん”をやっている感じが信頼出来る。
なんてな。
何様だ俺は。
「悪い、変なこと言った。気にしないでくれ」
二人を送っていくために駅まで向かう。おでん缶の感想などを互いに言い合いながら前を歩く俺と亜里沙ちゃんの後ろで、絢瀬はずっと無言を貫いていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
練習を終え、帰ってきてからというもの、ずっとそれを眺めていた。
『μ’s』と書かれたルーズリーフ。
いくら見ても飽きないのが不思議だった。たった二文字の言葉なのに、自分たちのために誰かが考えてくれたこと思うと自然と顔がニヤけてくる。
妹の雪穂からは、お姉ちゃんなんかヘンだよ、などと言われてしまったが、仕方ないのだ。
「μ’s……」
海未ちゃんもことりちゃんも気に入ってくれたみたいで良かったーと穂乃果は思う。行人もとりあえず祝ってくれたし、いい事ばかりだ。この調子で、
「頑張らないと、よーし!」
その時、部屋がノックされた。同時に雪穂が呼ぶ声がする。
「おねーちゃーん。行人お兄ちゃんが来てるよー」
だらしない体勢で寝転がっていた穂乃果は思わぬ来客に飛び起きる。
「え、ユキちゃん!?」
雪穂曰く、下のカウンターの所にいるとのことで、なんだろと思いつつ穂乃果は急いでそちらに向かう。
穂乃果の実家である、見慣れた老舗和菓子屋『穂むら』の売り場に、はたして行人はいた。
しかも、家族に囲まれていた。
まず、明らかに上機嫌とわかる穂乃果の母が
「行人くん、遠慮しないでもっと食べていいのよ~」
「ふぉーもふいまへん、ふぁりがとうふぉざいます。……ふぅ、やっぱここの揚げ饅頭食べると元気出ますよ~」
「……新作だ」
「あ、ホントですか。じゃちょいと失礼して、」
穂乃果の父に差し出された小さなどら焼きを行人は食しており、
「あ~、これ桜を餡に混ぜてるんですね。春らしくてすごいいいと思いますよ」
いつの間にか置かれていた緑茶を頂きますとすすって、
「ただ、よくあんぱんに桜の塩漬けが乗っているじゃないですか。アレみたいに、甘じょっぱい味ももう一つあったら面白いんじゃないかな、と」
「塩味か……試してみよう」
ぜひ、と頷く行人に、今度は穂乃果の祖母が、
「ゆきちゃん。ウチは男手が少ないからねぇ、もっとよく来てくれてもいいんだよ」
「じゃ今度、おばあちゃんの刺繍をまた見せてもらいにくるよ。それと前もらったタオル、いつも使ってるからね」
しまいには後ろにいたはずの雪穂までいつの間にか行人の隣にちゃっかり座っており、学校の宿題で穂乃果が聞かれてもお手上げだった問題を教えてもらっている。
そこまでいってようやく、行人は穂乃果の存在に気づき、
「よっ、お晩です」
片手を挙げた。
「どうしたのユキちゃん? こんな時間に」
「うん、ミューズの意味調べたから教えてやろうと思ってさ」
そして、ショルダーバッグの中からA4のプリントを取り出し渡してくる。目を通そうとするも、小難しい文字が並んでいることにむむむと唸り始めた穂乃果に、行人はかいつまんで説明してくれる。
「要するにミューズっていうのは、ギリシア神話に出てくる芸術を司る女神たちのことなんだと」
音楽とか詩とか踊りとかを司る女神たち――スクールアイドル始めたばっかのお前たちには出来すぎな名前だな。と行人は最後に付け加えた。そんな軽口にも、穂乃果は、
「うん……でも、この名前に見合うようになるから!」
待ってましたとばかりに行人は指を鳴らす。
「当たり前だ、名前負けなんてカッチョ悪いからな。せいぜい負けないようがんばれ」
バッグからもう一つ白い箱を取り出すと、これもお前に、と寄越してきた。何これと思わず開けようとした穂乃果を慌てて止め、開けるのは俺が帰ってからにしろと言い含められたので、言われた通りにする。
残った緑茶を一息であおり、行人は席を立つ。
「ごちそうさまです。お邪魔しました。すいませんが、今日はこれで。また来ます」
名残惜しそうにする高坂家の面々に頭を下げつつも行人は帰っていった。勉強や家事、仕事など各自のやり残していた事をやりに戻っていく家族たちとは違い、その場に残った穂乃果は首を傾げていた。その手は箱を開ける直前の動作で止まっている。やがて、その手は離れ、弾けるように穂乃果は家を出て、ちょうど角を曲がろうとしていた行人の背中まで追いつき、
「ユキちゃん。ほんとにそれだけ!?」
言葉を浴びせた。
驚いたように振り返る行人は、しばしぽかんと口を開けたまま固まる。そして、肩で息をする穂乃果にくっくと笑い始めた。
「ったく、こういう時だけ勘が鋭いんだからなぁ。ほらっ」
ポッケから取り出した何かを穂乃果目がけて放る。それをどうにか受け取って、
「あ、これ……」
スクールアイドルをやると決めた日に渡した、お手製のファンクラブの会員証だった。
「なんか、あの場で言い出すの気恥ずかしくてさ。ちょっと言えなかったんだけど、名前決まったんだろ? なら、アップデートしてくれ」
――いつまでも国立音ノ木坂学院スクールアイドル ファンクラブだけじゃさみしいだろ。
頬を掻きながら苦笑する行人に、穂乃果はそのカードを両手で抱きしめるように、
「うん! 待ってて! 明日には新しくしたの渡すから!」
「ああ、頼む。……んじゃな、お休み」
今度こそ帰路についた行人の背中が見えなくなるまで見送った後、穂乃果も軽い足取りで家まで戻ってきた。机の上にはぽつねんと先ほど開きかけた箱が置かれている。もういいよね。一人頷くと、それを開けて、
「――わぁ!!」
まばゆいばかりの光沢を放つ、苺のタルトが二つ入っていた。普段、家では見ることの出来ない洋菓子の、しかも大好物の苺が糖蜜に包まれているそれはまるで、神様に捧げられた宝物のように穂乃果には見えた。
一つだけ取り出そうとして気づく、箱の裏にメモが貼られていた。
『詫びの品。独り占めせず、雪穂と一緒に食べること』
文面を読んだ瞬間、穂乃果は吹き出した。そんな誰もいないのに一人で笑っている穂乃果を気味悪く思ったのか、ちょうど通りかかった雪穂は声をかけようとして、姉の持っているタルトに反応する。
「お姉ちゃん、何一人で食べようとしてるの!? ずるいよ!」
「あ、雪穂! これ、一緒に食べよ?」
こっそり食べようとしてるのかと思ったのに、雪穂の分も取り出した姉に拍子抜けしつつも、雪穂は姉の前に座る。
結局、姉妹は仲良く、赤く甘いその果物に舌鼓を打つのだった。
翌朝、カードを作り直していてまた夜更かしをした穂乃果は完全に寝坊をしていることも知らず、幸せそうに枕にしがみついている。その姉を起こすよう母に頼まれ、現在一歩一歩階段を上ってくる雪穂の手には、今朝ポストに投函されていたUSBメモリが握られていた。
それは僕たちの奇跡、付属カードは海未ちゃんでした