東方外伝記 the another scarlet   作:そよ風ミキサー

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第7話

 星明かりだけが大地を照らす静かな夜の森の中を、二人の吸血鬼が歩いていた。

 一人は成人になるかならないかという外見の女性。薄黄色の髪を肩まで伸ばし、肌は病的なまでに白い。服装はダークブラウンの帽子に男性用のスーツとコートを着込み、眼にはサングラスをかけている。片手にぶら下げている革貼のアタッシュケースは長い時間使い古した跡があり、補修後なのか不思議な模様が描かれた紙が至る所に貼り付けられてさながら旅行鞄のステッカーの様な様相を呈していた。

 もう一人は10代前半位の姿をした幼い少女。こちらも女性ほどとまでは行かないが肌は人間よりも白く、金髪の髪は腰まで伸ばされている。フリルのついたスカート等、年相応の少女らしいその姿は人形の様な可愛らしさなのだが、今はその顔を見る事は出来ない。

 少女は女性の着ているコートの裾を掴み、俯きながらプルプルと震えて女性の後をついて行く。そんな状態の少女の歩みは拙いものだったが、女性はそれにゆっくりと合わせて歩いていた。

 

「……まだ駄目かい?」

 

 そんな少女の様子に女性が問い掛けると、少女は答える代わりにコートを強く握り返した。

 

「今はまだ無理かもしれないけど、少しずつ治そう。夜は私達にとって味方なんだ。何も怖がる事なんて無いんだよ」

 

 幼い少女は夜闇を怖れている。それは人間の子供ならば致し方ない事で済ませられるが、彼女達の“種族”がそれを許しはしまい。

 

 夜を怖れるなど、夜闇と共に生きる化生――吸血鬼にあってはならない事だ。

 しかし、事実その時の少女は夜を酷く恐れていた。暗がりを怖がる子供というには、余りにも過敏な程に。

 

「“蝙蝠”がこの先に廃屋を見つけた。誰もいないみたいだから、そこで朝になるまで休もう。だからほら、頑張って」

 

 女性は自分のコートを掴んでいる少女の手に片手を伸ばし、手を繋ぐと少女はビクリと一瞬強く震えた。

 

 少女の反応に女性は不味かったかと手を離そうとしたが、今度は逆に少女が女性の手をおずおずと握り返してきた。

 女性は少女の態度に気を悪くせず、無言のままそれに応える様に強く握った。

 

「……行こう、小屋までそんなに遠くは無い」

 

 少女と女性の距離がほんの少しだけ縮まった、そんな夜の時だった。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

「……うえぇ」

 

 ベットから起き上がったくるみは寝間着姿のままぼんやりと寝ぼけ顔だったが、時間が建つ毎に覚醒していく自分の思考の中から先程まで見ていた夢の内容を思い出してしまい、悶絶した。

 羞恥心で赤く染まった顔を誰から隠すわけでもないのに、枕に埋めてベットの上をごろごろと転げまわる。

 

 

 夢だった。それも、あまり思いだしたくない時期のもの。

 しかし、彼女と出会った大切な時間でもある。

 

 

 少女――くるみが女性と出会う直前の光景は忘れたくても忘れられない。幼い妖魔の少女からすれば、それは地獄の釜の様であった。

 当時幼かったくるみの家族は吸血鬼としての格こそ高くなかったが、それでも当時の人間の暮らしに比べれば、それなりに裕福な暮らしが出来る位には力を持っていた。

 母と父の3人家族、人の世に紛れつつ暮らしていた彼女達の平穏を壊したのは人間達だった。

 

 皆が寝静まっている真夜中にいきなり家を焼かれ、其処から逃げ出して来た所を狙って退魔士達が大勢待ち構えていたのだ。人間によって両親を目の前で酷たらしく殺され、自分自身も虫けらのように嬲り者にされ、果てに死を間近に迎えた少女は同族の女性に助けられた。

 

 そこで彼女がどうやって自分の事を助けてくれたのかは分からない。気がついた時には、ズタズタだった体が元通りに治っていた。しかしそれでも両親が死に、自分が殺されかけた事実だけは、修復しようの無い現実として少女の心に強く刻み込まれていた。

 自分達妖魔が人間と敵対しているのはくるみ自身も知っているし、両親も人間を殺した事がある。人の生き血を糧とする吸血鬼故に、人の命を奪う事だってままあった事だ。

 今まで自分達が行ってきた事が、今度は自分達へと向けられただけ。ヒトの倫理観に沿って言うならば自業自得とでも思えばある種の理解を一応はしよう。妖魔と人間が出会えば殺し合いになる事は分かっていた。相手が退魔士ならば尚の事だ。

 

 しかし、それでもくるみはあの瞬間を思い出す度に、人間に対して恐怖を抱かずには居られない。

 あの時、自分に刃を突き立て蹂躙してきた退魔士の顔、そこには神への信仰と共にその意思を代理する清廉な信徒のそれでは無く、人間の自由と正義を免罪符に暴力を振りかざす、血に酔った暴徒のそれに見えた。

 

 ……嫌な事を思い出してしまった。それもこれも、あんな夢を見たのがいけないんだ。枕を抱き締めぶるりと震えたくるみは、嫌な事を忘れようとベッドから降りて顔を洗いに洗面所に向かった。

 

 やけに部屋が暗いので時計を見ると短針は朝の8時を指しており、カーテンを開けて外を見てみれば、ざあざあと土砂降りの雨が降っていた事に気付いた。雲は分厚く、時折ごろごろと唸りを上げているので雷雲も混じっているのだろうと当たりをつける。

 ここ数日、隠れ里の天気は生憎の雨模様だ。外は大きな蓮や蕗(ふき)の葉を傘代わりにして妖精や妖怪がちらほらと出歩いているが、それもごく少数。大抵の者達は、雨の日はじっと静かに住居で過ごしている。こう言う雨の時に喜んで外に出るのは、蛙や水にまつわる妖魔の類くらいなものだ。

 ましてや流水に弱い吸血鬼にとって、雨とは恐ろしい自然現象だ。触れれば体が焼け爛れていくのだから、太陽同等の、文字通り天敵なのだ。もっとも、くるみとっては関係無い話なのだが。精々が洗濯物が乾きにくいだとか、外で散歩が出来ないと言った極めてどうでも良い悩みが浮かんでくるだけだ。

 これは今日一日は小屋から出ない方がよさそうだ。幸い湖の警備は罠が自動で行ってくれる。罠の管理も小屋の中からでも出来るから心配はいらないだろう。そんな事をぼんやりと考えながら寝室を出て、今日は退屈な日になりそうだと溜息を突く。

 

「あれ?」

 

 スリッパでパタパタとリビングを通ると、ソファの座面に誰かの気配がする。部屋全体をカーテンで仕切っているのと天候の関係で部屋の中は常人からすれば暗くて前の見えない状態だが、夜目に優れた吸血鬼の眼を以てすれば暗い内に入らない。何者かがいる事は明白だ。

 泥棒ならば、邪な感情をいだいたまま此処まで来た時点で罠が反応して撃退しているだろう。もっと勘繰れば、罠を撃退して此処まで来た泥棒という線もあるがそれならリビングがもう少し荒らされても良い筈……いや良くは無いが。

 となると考えられるのはこの罠の標的から外されている夢幻館の住人かその客人なわけでして。くるみがソファを覗いてみれば、案の定知り合いがそこにいた。テーブルにはその人のものであろうメモ書きも残されている。

 

『雨宿りに来ました。ソファを借りますので、何かあれば起こして下さい。  サテン』

 

 北欧の文字で流し書きにしたそれの近くには、サテンが愛用している羽ペンと蓋のされているインク瓶が置かれていた。野宿好きな彼女も雨の中濡れたまま外で寝るのは勘弁ならないらしい。

 ソファに寝転がっているサテンは、ズボンにワイシャツとラフな姿のまま顔に読みかけの本を被せて寝息を立てている。

 肌蹴た胸元からは立派なふくらみによる谷間が見え、しなやかな体を無防備にくねらせたその姿は異性の理性を一気に削ぎ落す程の魔性の魅力を秘めている。

 いいなぁ、何食べて過ごせばあんな体になるんだろうとくるみが羨ましげにその肢体を眺め、自分の未成熟な幼い体を見下ろしてその落差に溜息が洩れた。

 

 両親を失ってからようやく精神的に立ち直った頃に夜中二人で川へ水浴びに行った時、そのプロポーションに絶句した。彼我の戦力差は圧倒的、挑めば撃沈間違い無しでありました。

 でも大丈夫よくるみ、私はまだ小さな女の子。後数百年位我慢すれば、ナイスバデーな大人の体が我が手中へと転がり込んで来るの! だから今はそれまでの辛抱、雌伏の時は只今なのよ!

 取りあえず自分を鼓舞してくるみは立ち直った。そうでもしないと、目尻からしょっぱい水が垂れそうになってしまうから。

 

 サテンが普段身に付けていた上着や手さげ鞄は玄関にまとめてあり、特にコートと帽子はずぶ濡れのままだった。

 

 ははーん、さては外で寝てたら降ってきちゃったのかしら?

 前にも似たケースがあったので、くるみはその時の事を思い出してくすりと小さく笑った。しっかりしている様に見えて、結構抜けている所もあるのがちょっとしたチャームポイントではないのかと思っているのは此処だけの秘密。

 いつだったか欧州で有名なニシンの缶詰を開けたら噴き出した汁が顔面にぶちまけられ、その臭いで鼻がやられただけでなく気絶までしてしまったらしい。更に悪い事は続き、その臭いが祟って近隣の妖魔達から文字通り鼻つまみ者にされ、誰も近寄って来なかったのだから手紙が届いた時は大いに笑わせてもらったものだ。そもそも彼女が臭いで気絶する、という姿が想像できない。それだけに余計笑えてくるのだ。

 

 一見すると剣呑な眼つきをしているので近寄りがたい印象を持たれがちなサテンだが、実際に接してみれば吸血鬼という種族にしては普段の気性は穏やかなものである。

 最初は縁等全くない赤の他人だったのに、年月を経て今では最も親しい友人になっていた。そして、あの惨劇が無ければ恐らく出会う事は無かっただろう。

 両親を失った代わりに、大切な友達が出来た。これを幸か不幸かと問われれば、非常に答えにくいものがある。所詮“たられば”の話だ。もしもという可能性に思いを馳せた所で、それが現実となるわけがない。

 

 しかし、それでもくるみは思う。

 もしもそんな自分の願った“運命”を手繰り寄せ、“選択”する事が出来たならば、私はどれを選んでいたのだろうか、と。

 友か、両親か――――。

 

 じっとサテンを見たまま沈黙し続けるくるみ。ざあざあと、空に覆われた分厚い雲から幾多の雫が大地へ降りる音だけが部屋の中に響いている。

 

 大きく溜息をついたくるみはその場を後にして、本来の目的をこなしに洗面所へ向かった。

 この続きは、またどうでも良い時にでも考えよう。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 目を覚ましたサテンが最初に感じたのは、キッチンの方から匂う美味しそうな香りだった。

 

 サテンは顔にかぶせていた読みかけの本をテーブルに置いて立ち上がる。こきりと首を鳴らして背伸びをすれば、背中の七色翼もそれに合わせて大きく広がり、部屋の明かりに照らされて鉱物の様な翼膜がキラキラとステンドグラスの様な七色の光を放っていた。

 窓を眺めて外を見れば、自分が寝る前と同じ雨模様の空。サテンは昨晩の事を思い出した。

 

 

 隠れ里に滞在してからそれなりの日にちが経った日の事。昼頃から釣り具一式を借りて懲りずに釣りに向かったサテンだが、今度は湖では無くやや離れた場所に谷川があるので渓流釣りへと洒落込もうとしたのだ。

 そこで先に釣りをしている先客の妖怪が居たのだが、それが以前“外”で隠れ里までの道のりを教えてもらった柿の木妖怪“丹五朗”の知り合いだったのだ。

 最初は不思議そうにサテンの様子を窺っていた妖怪だったが、敵対心を抱いているわけでもなかったので話しかける事はそう難しくは無かった。その時、この地に来る前に道を教えてくれた妖怪という内容で話題を出してみれば、先の通り丹五朗を良く知る者であり大変驚いていた事はサテンの記憶に新しい。

 そこから先は妖怪の態度も少しずつ軟化、「これも何かの縁だ」という事で夕飯に招かれたのだ。妖怪とて自分の知る……特に気になっている話題を共有していたとなれば、その食いつきっぷりも中々のものだ。食事の際、妖怪は丹五朗の事を色々と尋ねてはサテンが記憶に残る彼の現状を応えると、安心した様な、それでいて寂しそうに笑っていた。

 

 食事を終え、その妖怪と別れたサテンは食事の席で酒まで振る舞われていたためちょっぴりほろ酔い気分。眠気もそこそこあったため、くるみのいる湖が近くに見えた所で適当な木を見つけて背もたれながら眠りに付いたのだ。……だが、それがいけなかった。

 

 眠り始めてから数時間後、サテンが何やら違和感を感じると思って起きてみれば強めの雨風が吹き荒れている事に気付いた。木の下で眠っていたとはいえ雨風を防ぐのには限度がある。大分長い時間雨に打たれていたのだろう、サテンの全身はほとんどがびしょ濡れだった。これはいけないとサテンは急いでくるみの小屋まで飛んで行き、小屋の主が寝ていたので無断ではあるが部屋の一画を借りて雨宿りをする事にしたのだ。此処に滞在している間は合鍵を借りているので、小屋の中へはすんなり入れた。

 

 そして今に至る。

 

 ……失態だ。サテンは自分の髪の乾き具合を確認しながら、己の迂闊さに嗚呼と声を漏らした。

 いくら酒を飲んでほろ酔い気分だったとはいえ、此処まで雨に討たれながら気付かなかった事等過去を振りかえってみても滅多にない。この隠れ里の平穏さ(妖怪から見れば)に気を抜き過ぎたのかもしれないとなれば、また気を引き締め直す必要がありそうだ。サテンは、この隠れ里にずっといるわけではないのだから。

 

 食材の焼ける香ばしい香りに嗅覚を心地よく刺激されながらサテンは立ち上がり、キッチンへと向かった。そこには手慣れた動きで調理をしているくるみがいた。普段着ている洋服にフリルのついたエプロンをかけ、腕をまくってフライパンと格闘している。食材の量からして、二人分か。

 

「あ、おはよう。もうちょっとでご飯出来るから待っててね」

 

 物音や気配で既に気付いていたのだろう。くるみは覗き込んでいたサテンに振り返った。

軽く挨拶を交わしたサテンは何か手伝える事がないか訊ねると、くるみは顎に指をやってこてんと首を傾げ、食器を運んで欲しいと答えた。

 分かったと返事を返してサテンは手を洗い、食器棚から必要な皿やフォークを取り出してリビングへ運んでいく。サテンが隠れ里に来てからはよくある光景だ。稀にくるみと交代して料理を作る事だってある。生まれ育った北欧の一般的な料理位なら身に付けているのだ。

 

 そこでサテンはくるみが木製のトレーで運んで来た物に気付く。茶碗に盛られた炊き立てのご飯に、同じくお椀に注がれたみそ汁だ。両方とも出来たばかりのため湯気が立ち上っており、その匂いを嗅ぐと血を啜りたいと言う“欲”とはまた違う飢えが込み上げてくるのがサテン自身でも分かった。平たく言えばお腹が空いたのだ。しかもメニューの中にはサテンが日本に来た時に食べた納豆もあった。これはちょっと嬉しいサプライズだ。

 しかし珍しい、とサテンは思う。此処に来てからくるみが自分に振る舞ってくれた料理は全て洋食だった。突然の献立の変わり様にサテンは理由を訊いてみた所。

 

「サテンちゃん、此処に来る前に食べた定食が美味しかったってこの間言ってたじゃない? いい機会だから作ってみたの」

 

 確かにそんな事を何となしにくるみに話した記憶がサテンにはあった。この国に来た時に定食屋で食べた奴が何だか妙に美味しく感じたので、それが印象に残っていたのだろう。

 わざわざ自分の為に作ってくれたというのだ。くるみにサテンは感謝した。西洋出の彼女からしてみれば、日本料理は勝手が違うんじゃないだろうかと思って訊いてみた。

 

「そんな事無いわよ、私も結構食べてるもん」

 

 言われてみれば、くるみが炊いた白米は焦げ目があるどころか程良い光沢が見える。サテンは日本料理の良し悪しが今一つ分かっていないが、これらの出来栄えは料理慣れていると思う程の手際のよさを感じる。器も既にある事からくるみは何度もそれを調理してきたのだろう。

 

「……これだけ出来れば嫁に行っても問題なさそうだね」

 

 何となくぼやいたサテンのそれに、くるみは手元を滑らせたのか「どわっぢ!?」とおよそ少女の口から出たとは思えない言葉を吐きだした。何事かとサテンがキッチンの様子を覗いてみると、くるみが必死に両手で耳たぶを摘んでいた。熱した鍋に触れたらしい。吸血鬼でも熱い物は熱いのだ。

 

「もう、変な事言わないでよ。それならサテンちゃんの方が先でしょうに、私まだそんな歳じゃないわ」

 

 百歳以上は確実に歳のいっているくるみでも、吸血鬼の世界では中身も外見もまだまだ“小さな女の子”の範疇である。

 

「……私、もうおばあちゃんなんだけど」

 

 対してサテンは本人が言う通り、同族からすればおばさんかおばあさんと呼ばれてもおかしくは無い位生きて来た自覚がある。稀に化石呼ばわりされてちょっぴり傷付く事もあるとか無いとか。

 しかし、吸血鬼という特性故か、どんなに歳をとってもサテンの容貌は美しく若い女性のままである為、嫁にしようと声をかけられる事が過去に何度かはあった。良心的な相手もいれば、欲に塗れた輩までピンからキリで、中には問答無用で襲いかかってくる者までいたのだが文字通り“折り畳んで”川に流したり等して適当にあしらっていた。

 昔は一時女としての幸せを求めて一所(ひとところ)に落ち着くのもやぶさかではないかもと本気で考えていた頃もあったが、結局心の奥底にくすぶっていた感情がそれを許さなかったため、今も着の身着のままの旅暮らしを続けているのだ。長い年月の中で体に染みついた習慣は、そう簡単に抜けはしなかった。

 

 二人は食事を並び終え、席に付いて食事に着こうとした時、くるみが両の手を合わせた。以前本人からこの国の習わしで「これから食べる食物に対して感謝を表すポーズ」とサテンは聞かされているのでそれについて今更驚きはしないが、不思議な教えだなぁとつい見てしまう。

 サテンから無言の視線を感じたくるみはおずおずと向かい側に座る彼女を見た。

 

「……変かしら?」

 

「いや、良いんじゃないかな。面白い考え方だと思う」

 

 サテンも「こうかな?」とくるみのまねをして手を合わせてみた。良く分からず行っている為、色々とぎこちない点は否めない。だが、食材となった生き物へ感謝の念を吸血鬼が送ったって良かろう位にはサテンも思っている。

 色々と感慨深く自分の合わせた両手をジッと見つめていたサテンに、くるみがどうしたのかと訊ねて来た。

 

「……子供の頃に飢えで困った事を思い出した」

 

「何で御飯の直前にそんなの思い出しちゃうの!?」

 

 サテンが幼い頃の食生活は熾烈を極めていた。

 普通の食料や水が手に入れれば幸運だが、時には汚水を啜り、木の根や虫、時には土を食べる事さえあったし、飢死しかけた事も珍しくない。

 人妖の種族を問わずあらゆる命を骨まで残らず食い潰した事なぞあの頃は日常茶飯事の出来事であり、野獣の如き日々を過ごしていた。

 現代の地球と比べて遥かに緑豊かな時代であったが、その代わり凶暴な魔獣や妖魔も沢山いた。その中で繰り広げられる生存競争は、油断すれば驚く暇すら与えられずに己が誰かの糧となり果てる程の厳しい環境であった。生き馬ならぬ、“生き吸血鬼の眼を抜く”とんでもない時代だったと後にサテンは語る。

 

 つっこんできたくるみには“旅の途中で食料に恵まれず酷い目に遭った”とオブラートに包みながらそれらしく告げる。

 するとくるみがサテンのお椀を取り上げてキッチンへ行ってしまった。そして戻って来た彼女の持つ茶碗が盛られた白米が、凄い事になっていてサテンがギョッとした顔をする。一言で言うのなら、白い山がそそり立ってしまったとでも言おうか。

 ちょっとこれはやっつけるのに骨が折れそうだなぁと目の前に置かれたそれの頂上に納豆かけ、サテンはスプーンでゆっくりとそこから白米を掬い上げる。くるみも食事にありつき始めた。

 

「サテンちゃんも苦労してるのねぇ……」

 

 呆れた様な、哀れむような視線を送りながら、小さく盛られたご飯を器用に箸を操って口に頬張るくるみ。

 そんな君の好意で立ちあがったこの白い巨塔(?)を平らげるのも苦労しそうだよとは言えず、とりあえず白米を黙々と口へ運ぶサテン。過去の経験上、“食べれる物は、食べれる内に残さず食べる”という習慣が身に付いてしまっているので残すに残せない。嗚呼、友の想いが重い。胃袋的に。

 

 サテンはくるみに自分の過去の事は詳しく伝えておらず、精々が“物心ついた時には既に旅をしていた”位にしか話していない。旅の動機についても同様だ。

 これは過去のくるみを取り巻く状況や精神状態を慮っての事もあるし、不安にさせたくなかったからという意味もあった。後ろめたさはあるかと聞かれれば否めない。

 かといって自分から「実は……」等と言って赤裸々に告白するのも何となく馬鹿馬鹿しく思えてしまったので、くるみが自分のいない所で自分と虹色の関係に辿りつき、改めて問われたら素直に答えておく位に留めておく事にした。

 

 朝食を終え、見事白き巨山(ご飯)の打破に成功したサテンは勝利(食後)の余韻に浸っていた。リビングのソファに深く座りこみ、のけ反った態勢のまま口元を押さえてげっぷが出るのを堪えていた。首だけ動かしてぼんやりと眺めている窓の向こうでは、緩やかになった雨音がしとしとと耳心地良く聞こえてくる。

 

 外は天気が“これ”の為、今日一日くるみの小屋で厄介になるであろうサテンは如何にして過ごそうかとぼんやり考える。

 

 この間幽香から借りた本がまだ読み終わっていないので、それの続きにしようか。夢幻館には図書室が設けられており、サテンはそこで面白い本を見つけては、幽香にことわってこうして貸出してもらっているのだ。

 ちなみに、サテンが寝ていた時顔に被せていたのはその本である。

 

 今サテンが読んでいる本のタイトルは“人間界に存在しない文字”で綴られていた。『妖魔大全』と読む。

 本の表面は色黒く、はまるで“人間かそれに類する生物の皮膚のような肌触り”をしており、厚さはどこぞの大百科事典一冊分以上はある。

 その正体は魔界のさる人物が個人で出費して作成したリトルマガジンで、中身は人間界で活躍していた有名な妖魔達が記載されている。言ってしまえば、人間達で言う所の歴史に名を馳せた有名人の百科辞典みたいなものだ。

 この本のデザインは、人間界のとある怪奇作家が作った“宇宙的恐怖”をテーマにした神話の物語に出てきた書物に肖ってみたのだと、あとがきに著者がそうコメントにしていた。

 

 しかもこの著者、書籍関係ではかなり有名な悪魔らしく、その作品の熱狂的なファンなのだそうだ。その為か本自体にもかなりの魔力が練り込まれており、結果としてあまり魔力に耐性の無い者が手に取り読もうものならば、それだけで自分自身はおろかその読者を取り巻く周囲の人達までもが異常をきたてしまうというはた迷惑な作りになっている。

 だが、その手の込みっぷりが災いして、読んだ魔界人や悪魔達が次々と体調を崩してしまう事件が起こり、見つけ次第焚書処分する様に厳命が下されてしまっていたと言うのだ。

 生まれながらにして魔力に耐性のある魔界の住人達ですらこれなのだ、人間が触れたらどうなる事やら。趣味で作った物が、恐ろしく呪物めいた怪作を生み出してしまった悪い例であった。

 

 だが、そういう物に限ってお上の眼に届かない場所へ隠してしまう輩もいるのだ。

 この書籍は個人で作ったと言う形式上と、焚書指定されてしまった為現存しているオリジナルの数が極めて少ない。著者自身も先の事件で上からかなりの御咎めを受け、発行禁止を命じられているので二度と作らないと悔しそうに公言している。更にその著者のネームバリューの影響も相まって、その手の界隈ではかなりの希少価値を持ったレア物扱いになっていた。今でも魔界のコレクター達は垂涎の一品として、是が非でも手に入れようと躍起になっているらしい。

 

 そんな珍品とも露知らずに興味を持ったサテンが現所有者の幽香から入手経路を訊ねてみたら、夢幻館のある空間を創った悪魔が魔界のアンダーグラウンドから入手したらしく、読み飽きた物を幽香に譲ったと言う。なんとも不思議な縁であった。

 

 手に取った時に結構な魔力を感じたが、幽香やサテンならば問題ない範疇だ。エリーは良く分からないが、くるみだったら影響が来るかもしれない。

 なのでサテンは念の為、その本に込められた魔力を一時的に封じる事にした。こうしてしまえば、この本も只の書物に過ぎない。

 見覚えのある妖魔達の欄を捲って内容を読んでみる。所々私見と考察が入り混じってはいるが、そこまで大きく逸脱した部分は特に見当たらないように見える。サテン自身が旅の道中で会った人達に関しては、という前置きが入るが。流石に会ってすらいない妖魔に関しては確認の仕様がない。

 

 しかし思っていたよりも面白い。

 紹介されている悪魔の内容も中々に濃く、一緒に載せられているイラストはリアルなタッチで本人と割と似ているものが描かれており、妖魔の説明文も相まって想像力を膨らませてくれる。

 

 どうやって此処までの情報量のものを手に入れたのか気にはなるが、そこまで気にしていたらキリがないのでサテンは目次で検索して行く。

 活動した時代、場所、特徴等、事細かに分類された検索項目をなぞりながらサテンが探している妖魔は“吸血鬼”に部類されている者達だ。借りて来た当初は情報量の多さと知り合いの妖魔達が乗っていたので「ああ、あいつこう言う風に見られているのか」と面白半分に読んでいた。

 

 しかしページをめくり、また検索項目を見直す事数回。サテンは、この本にも探していた妖魔の事が記載されていない事を知った。

 

 かなりマニアックな妖魔も載っていると幽香から聞かされていたので少し期待していたのだが、世の中そう上手くいく物では無かった。

 

 代わりに、ある妖魔が記載されているページを見つけた。

 

 

 

【虹色】

 

 大昔に人間界の北欧と呼ばれている地方一帯で活動していた妖魔。背中に七色に光る枯れ枝の様な翼を持っていた事からそう呼ばれる様になったと言われている。

 その存在は神代の時代以前には既に人間の祖先達に知られており、その当時の人類が遺した岩絵にも虹色と思しき怪物の絵が描かれているのが発見されている。

 

 幼い少女の姿をしているがその外見とは裏腹に素手で山を叩き割り、大地を揺り動かし、果てには当時台頭していた大自然の具現とも言われていた巨人達を雑草の様に引き千切ってしまう程の剛力の持ち主と伝えられている。

 生まれながらにして正気を持たない妖魔であり、常に怒り狂って目に写るもの全てを破壊し続ける程の凶暴性を備え、計りしれぬ力と相まってあらゆる種族から一種の自然災害の様に疎まれていた。通りすぎたその跡は地形の原型も残らず、碌な草木すら残らない。

 そのあまりの荒々しさに、一部の地方では虹色を大地の怒りが具現化した者とも言われ、巨人に連なる土着の神々の一柱と見なされていた。

 

 

◆生態

 

 七色に輝く鉱物状の翼膜をもった歪な形の翼を持つ野人姿の小さな少女の姿をしている。

 活動時間は夜中に限られ、満月の夜には月の魔力の影響で力が大幅に増して、まさに天災の様にその猛威を振るっていた。

 傷を負ってもその瞬間には完治してしまう程の再生力を持ち、例え体がバラバラなろうが、灰になろうが意味を成さない。他にも様々な能力を使う事が出来たと言われている。

 食生活は極めて雑食で、動植物なら毒が含まれていても摂取し、腹に収まる者ならば例え神であろうと容赦なく食い殺していたそうだ。

 

 同時に血液を好み、標的の血を吸い尽くした後にその肉を食らうと言うケースも珍しくなかったという。

 そして虹色に噛まれた者、または食い残された死肉の残骸は亡者となって蘇り、他者に襲いかかって同じ様に仲間を作り、連鎖的に増えていく事で辺り一帯の生態系を死の領域へと作り替えてしまう恐るべき感染能力を持っている。

 この感染して産まれた亡者は、虹色程ではないにせよとてつもない力と身体能力を手に入れ、生み出した虹色と同じ様に破壊衝動の赴くがままに大暴れするため、極めて危険な存在だった。

 ネズミ算式に増殖してしまったら最後、弱点の太陽の光か雨が降ってくるのを待つしか手は無くなってしまう。

 

 上記の内容だけを見れば極めて性質の悪い悪魔の様にも見えるが、弱点も存在している。その為、過去の人々が虹色に遭遇した際はこの弱点を突いてやり過ごしていた事もあった。

 ・太陽の光に弱く、日に当たれば体が灰になるので昼間は日の当たらない所でジッと動く事は無い。

 ・川などの流水を渡る事が出来ず、雨にも当たる事が出来ない。襲われても川を渡ってしまえば助かるケースも多かったらしい。

 ・動物以上の嗅覚を持っているので、刺激臭を嫌う傾向にある。

 ※尚、虹色によって生み出された亡者たちも日の光や流水を苦手としている。

 

◆虹色の謎

 

 上記の生態を見た読者諸兄はある種族を思い浮かべるかもしれない。 そう、吸血鬼だ。虹色は今日(こんにち)の人間界で一躍名有名となった吸血鬼の特徴と酷似している点が多々ある。

 そもそも吸血鬼達の起源とは、太古の昔に人間界へ移り住んだ魔族の末裔から派生した者達と言われている。

 虹色の存在が確認されている時代から考えると、その魔族の1人かと思われていたが、しかし虹色のような特徴的な翼を持った魔族は魔界でも確認されていなかった。

 これは魔界の創造神である某御方に伺って確認済みであり、あの御方も件の妖魔については存じ上げていなかった。(とはいえ、魔界創生の頃から変化をし続けている魔界の住人達と、そこから派生して、または人間界へ降りて行った数々の系譜をあの方も全て把握しきっている訳ではないらしいので、この話も何処まで本当なのか怪しい所ではある。一応、当時の名簿(!)は作っていた様だが)

 これは筆者である私の個人的な推測だが、虹色とは大昔に誕生した精霊が何らかの理由で妖魔へと変異した存在なのかもしれない。

 

 その他etc……

 

 

 自分も妖魔に部類されている種族な訳で、若い頃に色々と“やらかしてしまった”事があるので、もしかしたら載っているかもと思っていたが、やはりこうして他者の視点から見た自分の評価が書籍で残されていると不思議な気分だった。おそらくは幽香もコレを読んだのだろう。思い返せば、この本を借りた時の幽香は含み笑いをしていた様な気がする。

 

 他にも当時自分の引き起こした出来事も結構書かれており、しっかり当時の姿も伝承に沿った内容のイラストで載せられいた。

 そこに描かれていたのは、歪な形の翼を広げた10歳程度の外見の少女が獣の毛皮で腰や胸などを最低限隠す程度身に付けて、泣き叫びながらその場から逃げようと必死にもがく自分よりも大きな巨人の足首を脇に抱え、引き摺りながら他の妖魔に襲いかかっていると言う妙にシュールなものだった。

 更に膝まで無造作に伸ばした髪の毛が顔の殆どを隠しており、その隙間から微かに覗く表情は、憤怒の表情で歪みきっている。口は通常の人間の物よりも大きく裂けて、剣山のように鋭い歯を食い縛らせていた。その姿は、御伽話に出てくる怪物そのものだった。

 

 なんとも、まあ。

 誰に向けて言ったものか、本人ですら分からない言葉を漏らしてサテンは静かに本を閉じる。本はテーブルに置いた。

 

 よくもまぁ此処まで人の事を書いてくれたものだ。

 伝聞口調が多いため、過去の伝承や当時の自分を知る妖魔達からインタビューでもして情報を入手して来たのだろうか。しかも、その情報の精度も高く“概ね間違いは無い”のが何とも複雑な気持ちにさせられる。

 しかし、大した情報収集能力じゃないかとサテンはこの著者の悪魔を素直に称賛した。ただ、精霊説を唱えられるとは思ってもみなかったが。

 

 そして過去の在りし日の記憶。あの当時の“微かに残っていた理性”に基づいて記憶を手繰り寄せてみるが、覚えているものはどれもこれも壮絶な光景しかなかった。

 

 あの当時、サテン・カーリーがまだ虹色と言われていた頃の心に渦巻く物は、身を掻き毟る程の怒りしかなかった。

 誰かに貶されたわけでも、暴力を振るわれたわけでもない。鳥が生まれた時から翼を持つように、怒りの感情はまるで最初からそうであるかの様にサテンと共にあった。

 そしてその怒りは、決して治まりはしなかった。どれだけ暴れ喚き散らそうとも、決して晴れる事の無い憤怒の感情は、終には己が身を自傷行為へとはしらせるに至ってしまったのだから狂気の沙汰である。

 だからこそサテンは当時の自分を振り返り、こう評するのだ。“正気では無い”と。

 

 それほどまでの激情を携えた怪物が今ではこうして雨の中、友人の家の一画を借りて読書を嗜んでいる。それどころか、時折妖魔達の今後の行く末に思考を回せてしまえるのだから、その変わり様を虹色時代の自分を知っている妖魔達はどう思うだろうか。

 今の性格は無理やり印象を変えようとして更生したものでは無く、自ずとこうなったものだ。そのあまりのギャップの違いに変な違和感を覚えた当人であるサテンは、仏頂面を作って静かに瞠目した。

 

 思い返す度に我が事ながら感心する。偶然とはいえ、ある人物との邂逅によって当時虹色と呼ばれた怪物は、後のサテン・カーリーとなる土台を得たのだから。

 この滞在が終わったら一度北欧に向かう時にでも顔を出してみようかとサテンはその人に会う手立てを考えはしたが、恐らくその人の回りの者達がそれを許しはしないだろう。

 

 まぁ、それは追々北欧に帰る時にでも考えておこう。特に急ぐ必要の無い案件をそう下しているサテンの元へ、くるみがひょっこりやって来た。蝙蝠が可愛らしくデフォルメされた絵のプリントされたエプロンの前掛け部分で両手をぬぐっている。台所の食器が片付いて一息ついたと言った所だろう。

 

「なにしてるの?」

 

「読書、この間幽香から借りたんだよ」

 

 サテンはソファにぐでっと体を預けながら、手袋をはめた指で今しがた読んでいた妖魔大全を指差した。

 

「へぇー、ちょっと読んでみても良い?」

 

 妖魔大全に興味を示したくるみに、サテンはどう返した物かと返事に困った。

 魔力は既に封じているので誰が手にとっても異常をきたす様な事は起きないが、問題はそこではない。

 虹色、つまり昔の自分の事が載っているのだ。その項目を開いて読んだ時、くるみはどう思うのだろうか?

 

「別に良いけど、くるみには退屈な内容かもしれない」

 

 ある一つの結論に達したサテンが顎に手を添えながら特に拒む様子も見せずに促すと、くるみは妖魔大全を手に取りサテンが寝そべっているソファの空いているスペースにちょこんと座って本を開いた。

 

「あ、これ魔界の文字で書かれてるのね。ふーん、有名な妖魔が載ってるんだ……幽香ちゃんは書かれてないのね。長生きしているから載ってそうだけど」

 

「それはヨーロッパ地域限定で、アジアは対象外だよ。彼女は日本の妖怪なんだから載ってないのはしょうがないよ」

 

 が、しょうがないで載せられてないと知ったらあの夢幻館の主はどう思うのだろうか。少なくとも、微笑み一つで済みそうもない。

 ふんふんと返しながらぺらぺらとページを捲り、目を通している。意外とこう言う物にも興味があるのだろうかと、サテンは寛ぎながらサングラス越しにくるみの様子を眺めていた。

 ぺらぺらと古い紙がめくられていく音だけがしばらく続いていたが、くるみは詰まらなさそうに溜息をついて本を閉じた。

 

「……なーんだ、サテンちゃんも載ってないじゃん」

 

「まぁ、一個人が趣味で書いた本だし、そもそも私は載る様な事なんて何もしちゃいないから当り前だよ」

 

「んー、色んな所を旅しているとかは? あと結構有名な人と面識あるじゃない、ドラキュラ伯爵とか」

 

「それだけじゃあ本に載せるには面白みがないよ。もっと興味をそそる様なネタじゃないと」

 

「ニシンの缶詰爆発させた話とかは?」

 

「……確かにあれは爆発力のある臭い(?)だったけど、そんな事で載せられたら恥ずかしくて外を歩けないよ」

 

 思い出したら鼻腔に妙な感覚が蘇って来てしまったサテンは、つい鼻筋を軽く指で掻いてしまった。

 今度食べてみる? と提案するサテン。するとくるみはそれを全力で遠慮して、つまんないなぁと落胆した様子で妖魔大全をテーブルに置いてリビングから出て行った。方角的には自室へ向かったのだろう。

 

 くるみの後ろ姿を見送ったサテンは妖魔大全を手に取り、再び開いた。ページは先程サテンが見ていた己の過去の姿である虹色の項目だ。

 

 しかし、そこには虹色の項目や目次が“無かった”。

 乱丁や落丁はもとより、ましてやページを破ったわけでもない。まるで虹色の項目だけが“元から無かったかのように”、その本は1人の妖魔を除外して存在していた。

 

 それを見届けたサテンは、妖魔大全をテーブルに置くと再びソファに寝そべり、両の手を後頭部に回して昼寝の態勢に入る。食後の余韻がまだ残っているせいか、眠気が心地よく感じるがままに瞼を閉じた。

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

「……いくらなんでも、そりゃないと思わない?」

 

 サテンが眠りについて少し経った頃、くるみが古い本を脇に抱えて戻って来たのだが、サテンがすっかり寝てしまってる事に気付くとガックリと小さな肩を落とした。

 せっかく一息ついたから世間話のひとつでもしようと思ったのに、何も寝なくていいじゃない。食べてすぐ寝ると太っちゃうのよ。人間が言うには、だけど。そんな小さな恨み言を心の内で何度かぶちぶちと愚痴りながら、くるみは横になっているサテンの顔を覗き込んだ。朝起きた時の様に顔に何かを被せている訳ではないので今度はサテンの顔がはっきりと見えた。

 

 顔を形作る全てのパーツ一つ一つが怖い位に整っていて、子供の自分でも息を呑んでしまう程の秀麗な容貌は、煌めく宝石や夜空を照らす星と月の輝きにも劣るまい。それは今のくるみには無い、憧れた大人の女性の姿だった。

 

 何となくその顔に手を伸ばし、頬を指で軽く突いてみる。

 しかし彼女は起きない。“敵”が近付くと勝手に目を覚ます習慣が身に付いているとくるみは昔サテンに言われた事があるのだが、この程度はその内に入らない様だ。

 

「……サテンちゃん」

 

 突いても起きないのならば、熟睡状態に入ったのだろう彼女に軽く声をかけてもそう簡単に起きはしないだろう事はくるみも既に承知済みだ。

 それを確認したくるみは軽く息を吐いて肩の力を抜くと、佇まいを整えてジッとサテンを見て口を開いた。

 

「あの……い……あ……むにゅ」

 

 しかし、其処から出てくる言葉は要領を得ず、何かを言いたそうに口をもごもごと動かすだけに留まり、そして今度こそと意を決してまた口を開くが、とうとう俯いて吐息を漏らしてしまった。

 何度か同じ事を繰り返していたくるみだが、諦めたのかよろよろと近くの壁へ向かい、片手をついて大きく溜息をつきながら再び頭を垂れた。背中の大きな蝙蝠状の翼も彼女の精神状態が反映されてしょんぼりと垂れ下がってしまう。

 

 こんなつもりじゃないんだけどなぁ。

 くるみは、サテンがこの隠れ里に遊びに来た時に伝えたかった事がある。それを本人の前とはいえ、寝ている状態ですら言えない自分の勇気の無さに情けなくなってしまった。

 思う事だけならば容易いが、改めて口にしようとすると此処まで難しいものなのか。緊張感や羞恥心だとかで上手く口に出せなくなってしまう。

 

 全てを奪われ、死にゆく筈のこの身を救い上げ、外の世界へ放り出された何も知らない自分に生きる術を教えてくれた。

 人間に襲われたトラウマに苛まれて身を震わせた時は傍に寄り添い、迫りくる脅威があれば己の前に立ち、迷った時は指針を示し続けてきてくれた。

 あの頃のサテン・カーリーはくるみにとって間違いなく姉であり、もう一人の母の様な存在だった。

 

 そんな彼女に、くるみはこの一件について礼を一言も伝えた事がなかった。

 精神的に立ち直った後は、サテンがその件について触れない様にしていたためにくるみ自身も何となく話しづらくなってしまったし、この隠れ里に移り住もうとした時ですら、日本へ向かうに当たっての準備やら手続きやらのごたごたに流されて言うタイミングを逃してしまい、船の上でそれに気付いて酷く後悔した。

 

 お互いの性格上、肩肘張ってあれこれ言う様な事はないのだが、しかしこれだけはハッキリと伝えておきたかった。「今まで助けてくれてありがとう」と。

 

 恐らく本人に言えば、何時も被っている帽子を深く被り直して苦笑するだけで終わるかもしれない。

 でも、恩返しの一つくらいしたっていいじゃないか。施されっぱなしで何も返さなかった事への不義理な事実がくるみの幼い肩にのしかかった。

 

 だからこそくるみはサテンの力を借りずとも1人で生きていける事を証明すべく極東の地へと足を踏み込んだのだ。まあ東の方が西洋よりも平和だと言うのも理由に挙げられるが。

 未だ西洋人に馴染みの無かった時代の日本だったため、姿を隠して何とか今の隠れ里に辿りつき、初めて幽香と出会った時はそのプレッシャーにちびりかけたが、今は何だかんだでエリーや使用人達と一緒に上手くやっていけていると思っている。

 少しは友達に胸を張れる様にはなったかな思っていたが、これでは先はまだ長そうだ。 

 

 

 壁に頭を付けたまま蹲り、小さく唸り声をあげて悶々としていたくるみがよろりと立ち上がり、じろりとサテンを見て、戦慄する。

 

 

「……」

 

 

 そこには、寝ている姿勢はそのままに、目をぱっちりと開いたサテンが困った顔のままくるみの事を見ているではないか。

 

 Q.い、いぃぃ何時から起きてたの?

 

 A.君が壁に手を当てて何か悩んでいる所あたり。

 

 悩み事があるのなら相談に乗るけど。

 そんな年上の友人の気遣いが、幼いくるみの羞恥心を大いに刺激した。

 

 うにゃーっと顔を真っ赤にしたくるみが錯乱して履いていたスリッパを投げ付けるが、それをサテンは難なくキャッチ。しかも優しく放り返してくるサービス付きだ。心配りが憎らしい、色んな意味で。

 

「もー! もー! サテンちゃんったら、もー!」

 

「いや、もーもーって牛じゃああるまいし……」

 

「牛!? 私よりおっぱい大きいからって調子に乗んないでよ!」

 

「……幽香の方が大きいと思うんだけど」

 

 そういう問題じゃなのよおぉぉぉ。

 律儀にも投げ返されたスリッパを履き直し、頭を抱えながらテーブルに突っ伏したくるみの頭の中はもうぐちゃぐちゃであった。

 最早言葉を伝えるような雰囲気ではなくなってしまった。何で私ってこう要領悪いんだろう。くるみの目尻に涙が溜まって行く。

 

 そんな様子のくるみを見かねたサテンがその場から立ち上がった。ちょっと待っててと手袋をはずしてキッチンへと向かう。

 程なくするとポットを片手に持ち、トレイの上にティーカップのセットを乗せて戻ってきた。

 

「とりあえず、おあがりよ」

 

 テーブルにティーセット一式を置き、ポットに用意した紅茶を注いでくるみの前に置いた。キッチンに向かってから戻って来るまで大した時間が掛かっていないと言うのに、何故か沸かしたての様に湯気が上がって。

 さっきまで混乱していたくるみもようやく落ち着きを取り戻したのか、静かに飲み始める。

 

「それで、どうしたんだい?」

 

 くるみが冷静になる頃合いを見計らっていたのだろう、サテンが問い掛ける。

 床に女の子座りをしたままくるみはサテンを見た。無表情のまま鋭い視線で此方を見てくるが、怒っている訳ではない事はくるみには分かっていた。これが何時もの彼女の表情なのだ。それ相応に社交性はあるので、感情に沿って表情を変える事もある。別段ぶっきらぼうと言う訳ではない。

 

 くるみは視線を両手に持ったカップにじっと向けながら、今この状況を借りて言ってしまった方が良いんじゃないのかと考え始めた

 たった一言伝えるだけで良いのに、何でこんなに緊張するのだろう。心臓の鼓動が痛いほどに鳴っているのが分かってしまった。いっそのこと誤魔化して後回しにしてしまおうか。でもそれではサテンちゃんに心配かけてしまうかもしれない。そうやって言い訳をつけて逃げに走ってしまう臆病な自分を垣間見て、それは違うとくるみは否定した。

 

 逆転の発想だ。そう、これはチャンスだ。言える状況が作られたのならば、思いの丈をこのままぶちまけてしまえば良いのだ。今までずるずる引き摺って百年以上経ってしまったのだから、機会が向こうからやって来てくれたと思えば気分も軽くなるというもの。

 カップに落としていた視線をそーっと上げて、上目づかいでくるみはサテンを見上げた。

 

 

「……笑わない?」

 

「真面目な話なら」

 

「真面目な話しなの、私にとっては」

 

「なら、笑わない」

 

 

 くるみの様子にサテンも何か感じたのだろう、気楽にソファに寄り掛かっていた姿勢を正してじっと耳を傾けて来る。

 此処が正念場だとくるみは感じた。これを無事伝えきったら、もう少し胸を張れるようになるのかもしれない。

 

 

「サテンちゃん…………んと……あのね?」

 

 

 

 くるみが意を決して口を開いた時、外では雨が止み始めていた。

 

 

 

 

 

 数日後、隠れ里中にあるチラシがばら撒かれていた。

 それを眼にした住人達は、またぞろ妖怪達の悪戯かと溜息一つで切って捨てる者がほとんどだったが、中にはそれに興味を示す輩もいた。

 

 

 

【古(いにしえ)の遺跡、夢幻遺跡。本日10時開店。この遺跡に訪れた方には、あなたを幸せする何かをプレゼントします。皆さんのご来店を心よりお待ちしております。】

 

 

 

 まるでおふざけで書かれた様な一枚のそれが、サテン・カーリーと言う吸血鬼の運命を大きく変える分岐点となる事を誰も知らない。




―――――――――――――――――――
後書き

お互い、言いたい事があっても上手く伝えられない時ってあるよねと言うお話でした。

バトル展開? 奴なら今頃ベンチを尻で磨いている頃だろうぜ!

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