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さて、今のは夢か幻か。寝ぼけた頭でみた願望か。失礼しますと言って、もう一度姫様のお顔を拭くと……何も起こらない。
やはり寝ぼけていたかと若干気落ちして、続けて髪を整え――寝ぼけていなかったらしい。
姫様の髪から手を離すと、人の姿がかき消えて馬の姿となった。
「………姫様」
『先ほどからどうされたのです?』
心配そうな顔の姫様に落ち着いて聞いてくださいと話し、姫様の肩に手を触れる。
「……今、元のお姿にもどられています」
人の姿となった姫様の手をとると、姫様は感触に気がついたのか視線を手に落とした。
「………ぁ」
姫様の口から小さな声が零れたが、自分が目にしている光景を理解出来ない様子で呆然と私が触れている手を見詰めていた。
やがて片手を自分の頬にあてた途端、その手が震えた。ようやく半信半疑だった変化を受け入れられたのだろう。
完全に戻れたなら喜ばしいことであるが、先程の現象を考えるとそうではない。うっすらと目に涙を浮かべる姿に、残酷なことを言うとはわかっていたが話さなければならない。
「おそらくですが……私が触れている間、元の御姿に戻れるようです」
「触れているあいだ……?」
私の言葉を理解出来ない様子で聞き返す姫様。その顔は元に戻れた喜びと戸惑いのままで、次の情報を受けいれる余裕が無いようにも見えた。申し訳ありませんと一言謝り、触れている手を外す。と、予想通り姫様の姿は白馬の姿となった。
姫様は自分の姿を見て一瞬目を見開き固まったが、すぐに頭を振って私に視線を合わせた。
『これは、リツお姉さまのお力なのですか?』
「申し訳ありません。私にも何が起きているのか理解出来ておりません。先程、気付いたばかりで」
『そう……なのですか』
姫様は目を伏せ、何かを耐えるように口を閉ざした。
ぬか喜びをさせてしまった罪悪感に顔を歪めそうになるのを堪え、やらなければならない事を優先させる。
「エイトさんや陛下に――」
『まってください。エイトやお父様に伝えるのは止めていただけませんか?』
宿に向かおうとする私の前に塞がり、姫様はこれまでにない強い眼差しで言った。
『確かに、重要なことです。もしかすると呪いを解く手がかりなのかもしれません。ですが、話してしまえばきっとリツお姉さまは今まで以上にお父様やミーティアの傍を離れられなくなります』
一瞬、姫様は表情を苦しそうに歪めたがすぐに頭を振って強い眼差しを取り戻す。
『きっとお父様は知ってしまえばリツお姉さまを離そうとしないでしょう。ミーティアも叶う事ならそれを望んでしまいたいと思ってしまう……けれど、リツお姉さまは皆様のために動かれているのです。それを邪魔するような事はしたくありません』
それは、姫様の声が聞こえると判った時に言われた事。みなの足を止めたくないと言った気持ちと同じ。人外のものにさせられていながらそれを耐えて他を優先させるという事……また、そう言われるのか。声だけじゃなく、姿も元に戻れるというのに。人の姿に戻る事よりも、この旅を進める事を優先させるという。
私では真似出来ない。そんな事を言う少女に『判りました』という事は容易いけれど、それを言いたくない己が在り、言葉が出ない。というより出せない。的確でなくとも、適当であれば良いのにそれすら、見つけられない。
『それに、出発する時になって荷物を運ぶものが居なくては困ってしまうでしょう?』
反応を返さない私に、姫様は何を思ったのか悪戯っぽく微笑んだ。
胆の据わり方は常人レベルではない。それはもう判っていた事だ。何が大事であるかを見極める目を持っている事も、判っていた事だ。
客観的に判断するならば、姫様の言葉を受け入れた方が私的にはメリットはある。完全に解く事が出来ない状態では言われた通り王に拘束される可能性がある。トロデーンの呪いを何とかしろと駄々を捏ねられる可能性もゼロではない。それに、この現象をどのように捉えられるのか……どうしてこのような事が起きているのか自分でも判らないのに問い詰められる可能性だってある。答えようがない事を問いつめられるというのは存外、きつい。私でも、不安になる事はある。というか、不安だらけだ。蓋をしているだけで、その蓋を外されるような事があっては大人の面目が保てない。
だが、それはそれとして、だ。
「エイトさんには話します」
『リツお姉さま、それでは――』
「それと」
反論しようとする姫様の言葉を遮る。
「たとえ陛下が私をお傍にと命じたとしても、私は私が納得しない限りその命を聞く
事はありません。ですので、その事を姫様が気にされる必要はございません。全く。一ミリも。
まぁ、説得に少々時間を要すると思いますので、この場ではまずエイトさんにしか話しませんけどね」
苦笑しながら言えば、姫様は困ったように――泣き笑いのような顔で俯いた。その姿を見ると、姫という言葉よりも少女という言葉が似合う。
我慢は必要な事だと思うが、過ぎたるは毒だ。ましてこの姫様だ。もっと甘やかしたいと思って何が悪い。などと鼻息荒く自己完結。
宿の扉を開け起きていたエイトさんを荷物の確認と言って引っ張りだし、軽く事情説明を実行。事前に絶対に声を上げるな、口を押えていてくれと頼んだので大きな声を上げられる事は無かったが盛大に驚かれたのは極限まで見開かれた目で判る。他の面々に伝えるのは次の宿に泊まって落ち着いた時に行うと言えば、少し渋い顔をされたが姫様の気持ちを伝えると了承は得られた。やはり、エイトさんも姫様が馬の姿で苦労するのは思う所があるようだ。そこは私も同意見なので『考えはあります』と言えば宜しくお願いしますと頭を下げられた。
さて、その件は良いとして朝食を済ませいざ出発という段階で、昨日のキングスライム事件を知らない面々が、道案内として現れたでっかいスライムを見て固まった。
すっかり姫様の事で忘れていたが、これも説明しておかなければならなかった。慌てて昨日の経緯を話したが、ゼシカさんとククールさんには胡乱気な眼差しを向けられた。いや、もういいですよ。変わってるとか、客観的に見てもそうだと私も思ってますから。ヤンガスさんは何でもかんでも『さすがリツ嬢さんでがす』で済ましてしまうのでその辺考える事もなくスルーしているのだろう。素晴らしい適応能力だ。ちょっと私も見習った方が良いかもしれない。
溜息をついて出発した馬車の前方をキングスライム君と歩いていると、グランドキャニオンのような、荒涼とした大地が広がってきた。空気も乾燥しているようで、地面は強い風が吹くと土埃が舞いあがる。相も変わらず魔物の出現は無いが、ここで戦闘を行う事になったら自然発生の目つぶしが怖い。ゴーグルとかあれば便利そうだが……いや、あれは視界が狭くなるからそれはそれで微妙か……
野営を挟み、二日程で件の『船』とやらは見つかった。近づく前からその大きさもあって見えてはいたのだが、定員二百から三百くらいのフェリー並みで、かなり大きい。しかも状態がこんな荒野にどでんと船底を据えている割に良い。私の知っている船とは少しばかり形は違うが、一見して壊れているような所が見受けられないのだ。素人目なので何とも言えないのだが、異様な代物に変わりはないと思う。
「これは!! ううむ……。間違いないこれは船じゃ! パルミドで聞いた古代の船じゃぞ!」
御者台から飛び降りて王がはしゃぐ。
「この船を我がものとすれば憎きドルマゲスの奴めを追う事も出来ようぞ! しかしどうやって海までこの巨大な船を運べばいいのじゃ。わしには見当もつかん。せめてもう少し海のそばならどうにかなるものを……そうじゃ! エイト!! ちょっと地図を見せてみい!」
ぼけーっと船を見上げていると、どうよどうよと言わんばかりにキングスライム君が私の前でうにょんうにょんと伸び縮みしている。
「あー……うん。ありがとう。助かったよ」
「えへへー、どういたしましてー」
「それにしてもパルミドの情報屋のおじさん、どうしてこんな離れた場所のこと知ってたのかしら? すごいけどなんか不気味ね。さすがパルミドって感じだわ」
私の横に並び立ち、船を見上げるゼシカさんは呟く。
「情報屋の所以たるところ、でしょうかね。旅人か行商人か、何かしらの伝手があるんでしょうけど……この船は予想外でした」
「あるとは思って無かったって事?」
「いえ。あるかもしれないとは思っていましたが、こんなに状態が保たれているとは思っていなかったので」
「なるほどね。古代の船だけど、何か魔法が掛けられているのかもしれないわね」
「ですね」
「でもこれ、どうやって動かすの?」
「………です、ね」
総重量、数百トンはありそうな、ひょっとしたら数千トン? ありそうなこんなもの、人力で動かせるわけがない。それこそ魔法の力でも使わなければ無理だろう。
ふと、視線を感じて横を見るとゼシカさんが何故か期待に満ちた目をして私を見ていた。
「……え。いや、無理ですよ。これ、無理ですから」
「え~出来そうじゃない?」
まぁ、壊してもいいというのなら動かす事だけなら出来ると思う。だけ、ならば。
でもそれでは意味が無いだろう。残念な事に物を浮かせる魔法というものは……
「…………船」
船。とか、気球とか。他には何があった?
それらは移動したとき、着いてこなかったか?
「リツ?」
前に出た私にゼシカさんが声を掛けてくる。
「ひょっとして、ですけど。ルーラで飛ばせるかもしれません」
「それはさすがに……リツなら有り得るかしら? ねぇ、ちょっと! エイト!」
ゼシカさんが王と話し込んでいるエイトさんに駆け寄っていく。
それを横目に、私は船体に近づいてみる。
ルーラの構築陣の解析はそんなに進んでいない。対象を選定する部分のところを完全に理解はしていないが、回復補助の全体呪文に似ている事は確かだ。念のためという事で触れるようにしているが、馬車ごと移動出来るのならば船だっていけるかもしれない。