遥か空に遠のいていくヘリの機体が見える。青のキャンパスに浮かぶ一点を見上げて、少女はゆっくりと目を閉じる。
再び瞼を開けば、視界に広がる世界に立ち眩みがした。あまりにも、今までに見てきた世界とは違いすぎて。
まるで、絵本の世界の中に飛び込んだようだ。あの日に彼の家の広い庭園で、仲良しの亀と寝転んで読んだ、妖精が住む幻想世界そのもののように。
そんな自分をいつも見守ってくれていたのは、もう思い出の中でしか会えない、大切な人。
けれど、今自分のそばにいるのは、あの人ではなくなってしまった。
あの人とは全く違う、けれどあの人とは自分より過ごした時間が長くて、自分が知らない時間をあの人と過ごした人。そして、どんなに思っても、その時間を知ることは自分には出来ないだろう。もしかしたらあの人にとって、自分より大切に思う存在である男……。
そんな男と、二人きりだけのこの現状に不満を隠すことはしない。
もとよりこの男に苦手意識を持つ彼女だが、彼のことを思い出すとまた別の感情が無意識に彼女の中へ流れ込んでいく。
約束を果たすためでも、この男について来ることは危険だとわかっている。簡単に信用出来ない男だ。そして向こうも、こちらに気を置くことは一切しないだろう。自分の存在は捨て駒でしかない。邪魔だと思われたら、そこで消される運命だ。
最初から、自身の行く末に碌な結果は期待していない。
この男の言葉で、何もしないより動くべきだと一歩を踏み出した。
そうして自分は今、この景色に出会った。
最初から何も期待してはいなかった。
けれど、今までの長旅に、これから先のことを考えると疲労した少女の身には、唯一の救いだった。
だからこそ素直に嬉しい。こんなところは、年相応の子供らしいと自身でも思う。
「綺麗……」
返事が返ってくることは期待していないが、この思いを少しでも共有したいと思った少女の細やかな思いだった。
隣に佇む男の様子は、相変わらず眉のひとつも動かないので、何を思うのか皆目見当がつかない。
その男は、目の前の光景に直面してもさして驚くことはない。ただぼんやりと眺めているだけ。
すると、固く閉じていた口が不意に開く。
「綺麗だと思うかい」
何げなくと思われるその言葉に、渋々ながらも頷く。何を聞きたいのか。この男の考えることが、幼い彼女にはさっぱりわからない。
「10年前も、この景色を見た者は語ったという。まるで、新世界を切り開いたようだとね」
普段の彼からは想像もしないような言葉が飛び出してきて、なぜだか鳥肌が立つ。ゾッとするでもないが、なんとなくただならない空気を人間の本能的に感じたのかもしれない。
隣で佇む男に視線を逸らして、アカネは自身の足元に目を向ける。
そこには当たり前のように自分の小さな足が見える。その足が踏みしめる地には、青々と生い茂る青草の群れと、その中に埋もれてしまいそうなほど小さくしたたかに咲く野花たち。少し視線を上げれば、遠くに見えるのは青葉に染まる樹木たち、遥か遠くにそびえる緑の峰々。
草花の自然が広がる大地の彼方に、どこまでも続く大空が重なる。どこまでも青く澄み渡る青空、その大きなキャンパスに白い雲が並列して流れていき、燦々と輝く一輪の太陽が世界の全てを映し出してくれる。
ポンっと空に虹の橋が架かったり、草花の陰から妖精が今にも姿を見せそうである。
本当に自身が絵本の中の世界にそのままトリップしたような心地だ。
彼の言葉を借りれば、ここが『新世界』なのかもしれない。まだ少女の頭には、イマイチ納得するものがないが。
そして、ひとつ、少女には大きく納得出来ないことがある。
ここが本当に例の事件があった場所なのか――……?
事件の背景は、土地が枯れたように、あまりにも痛ましいものだったと聞いている。
アカネは戸惑いながら、先程までは感じなかった不思議な感覚――違和感に、自身の身体を抱き寄せる。
自分が感じているこの不気味なものは、なんなのだろう。その答えを探るように、自分たちしかいない空間を見回してみる。
それとなしに男を見上げると、目が合うこともなく、彼の頭に乗った一羽の鳥に目がいく。鳥も窮屈そうに、この世界に馴染めていないようだ。彼の頭の上で大人しくしているばかり。
考えるほどに頭は混乱していく。少女がすんなりと諦めた時、その隣に立つ男からは再び言葉が零れた。
「まるで夢物語のような話だよ。この目で見るまではね。もしかすれば、在るのかもしれない。何が起きてもおかしくはない世界になってしまったからね」
その声音からは、なんとも言えない。全く腹の中が見えない男だ。
だが、その言葉の裏には、彼のどんな思いがあるのか。悦びか、哀しみか、憎しみか――
それとも――――?
何にも動じないこの男が、こんな風に興味を惹くものとはなんだろうか。
「君だったら、どうなんだい。沢田茜」
「……何が?」
「始まりがあるとしたら、君はそれをどう終わらせるのか。始まりがあれば終わりがあるように、全てを犠牲にして記憶を取り戻した君は、自身の物語の終止符に何を刻むだろうね」
――あの人なら、その答えを知っていたかもしれない。
記憶を取り戻すこと。それは、アカネとして記憶のない時を過ごしてきた彼女の世界に、どんな衝撃を与えるのか。革命か、自滅か。
それは全て、これからの自分次第。
少女もそのことを覚悟して、小さな拳を固く握り締める。
ここまで来たなら、もう引き返すわけにはいかないから。
アカネは空を見上げる。
彼の豪邸の庭で、彼と彼の愛亀と過ごした思い出が記憶に蘇る。
不意に懐かしさが込み上げた。
叶わないのはわかっている。でも、望むことに罪はないから――……。
少しでも、希望を手繰り寄せられたら――……。
同じ空の下にいる貴方に、少しでもこの想いが届くのかな――――?
ディーノ…… 会いたい……。
そんな折、足音が聞こえた。
隣の男が動いた気配はない。
アカネが視線を戻してみると、視界には二人以外の人物の姿が映り込んだ。黒服に身を包んだ男たちの姿が、彼女の翠玉の瞳に映り込む。
嫌な予感がして、胸騒ぎを覚える。
案の定、男たちの集団が近づいてくると、すぐに周りを囲まれた。
ある一定の距離を保って、謎の男たちは、警戒と敵意を剥き出しにしている。正確には、隣にいる男へただならぬ気を向けていた。
その証拠に、彼らが手にする銃の狙いは、全て男の方へと向けられている。
集団の中の一人が、するとイタリア語で男に向かって叫んだ。
「ボンゴレファミリー、雲雀恭弥か」
男の名前を知っている。とすれば、疑いなくマフィアの者だろう。
「ボンゴレ…… 違うけど、そういうことにしといてあげるよ」
不服そうに、しかし話が絡まるのは御免だと渋々そうに雲雀は答える。
見知らぬ男の方は、雲雀になぜか必要以上の警戒心を持って銃を構えている。
「お前か、校内に潜入していたファミリーの奴にここまで来るように指示したのは」
男の発言に、雲雀より先に隣で聞いていた少女の方が反応する。
「どういうこと?」
彼女が声を上げるが、雲雀はその声を無視して男の質問に答える。
「そうだよ」
「……何が目的だ」
「君たちとここで話がしたくてね」
どうやら向こうの方も、雲雀の意図がわかっていないようだ。話が自分を置いて進んでいく中、アカネはじっとその様子を見守るしかない。
依然男たちの警戒が高まる中、雲雀の口から出てきたのは、ここにいる誰もが思いもしなかった言葉であった。
「ここにいる沢田茜をあげる」
瞬間、空気が凍ったのは言うまでもない。
冗談かと、最初はその場の全員が思った。が、本人の目を見れば、冗談などこれっぽっちも言っていない。アカネにとっては、残酷なほど雲雀の目が本気を物語っていた。
「なッ…… 何が目的だッ!?」
掠れた声を上げて男が聞く。男の持つ銃口が、雲雀へと標準を定めると、今にも頭蓋骨を撃ち抜こうとしていた。
だが、雲雀はそれを前に一切動じない。それを見て、男たちの方が動揺し始める。彼らにもこの男の思考が読めないのだろう。と、彼らの問いに淡々と返すように雲雀は自身の目的を告げた。
「彼女を渡す代わりに、君たちの知る情報を全て吐いてもらおうか」
静かに佇んで、漆黒の瞳をスッと細めた雲雀の視線に射抜かれたように、男たちが一瞬たじろいだ。
その僅かな変化を、雲雀が見逃すはずがない。
「彼女の存在が、喉が出るほど欲しかったんだろう? 彼女がイタリアにいる間に、ディーノの目を盗んで誘拐するほどだ。マフィア社会の中でも巨大組織のキャバッローネを敵に回しても、匣兵器すら手に届かない弱小マフィアが、ただの一介の少女を狙う理由が、是非とも知りたくてね」
男たちの正体が、やはりあの時自分を攫った奴らだと知り、あの時の恐怖を思い出して小さな足がぶるっと震えた。
アカネを誘拐した仲間が、あの後口封じに拳銃自殺したことで、組織の母体までは掴めなかったのだろう。恐らくディーノのことなら、少女に精神的負担をかけたくなくて一切その話は伏せていただろうが。
「ボンゴレを、裏切るのか……?」
「何言ってるの? あんなのに僕が従うとでも」
ボンゴレとは、あくまでVGを預かっている関係だと雲雀は捉えている。
少女を預かっているのも同様のことだ。最初は面倒だと思っていたが、上手く利用すれば、雲雀にとっても存在価値がある。
「……いいだろう。取り引きしてやる」
男がすんなりと条件を飲んだ。
雲雀も上機嫌に言葉を返す。
「そう。あと、ひとつ言い忘れていたけど――」
カチャリ、と聞き慣れない金属音。それは呆然と彼らの会話を聞いていた少女の耳元で聞こえた。
アカネの眼前には、紫の炎を煌々と纏ったトンファーが突き立てられてあった。
「彼女の生死は、僕が握ってることを忘れてもらったら困るな。もし無駄話が続くなら、彼女は殺すよ」
熱く滾る炎を前にして、これが男の殺意と思うと、喉の奥からは何も出てこない。
少女を預かる時、跳ね馬から少女の身を守ってほしいと告げられた。
それはつまり、敵からの脅威から少女を守るということ。
雲雀自身が少女に手を下すこととは、例外だ。
二人の様子を見ていたマフィアたちも、一人の男のただならぬ空気に、彼の考察通り隙を見て突くつもりだったが、微動だにすることすらできなくなってしまった。
この男は、偽りなく自分らの標的である少女を殺すだろう。相手は、あのボンゴレの中でも最強だと謳われる守護者だ。その腕に狂いはない。
最悪のケースを踏まえて、下手に合図を送ることは出来なくなってしまった。そして、今は彼が言う通りに、全ての事の真実を打ち明ける他はないだろう。
かつては一万の部下を従えたマフィアは、マフィア同士の紛争で大半の部下を失くし、多くの財を失い、敗北した。
その後、自分たちの組織形態を維持するために、他の巨大組織下で働いたが、実質は支配下にあり、組織は弱小の一途を辿った。
いずれは組織は衰退し、存在は抹消され、組織の捨て駒とされていくことを恐れた者たちは、ある計画を立てた。
このマフィアの世界で、至高の戦力である炎と匣の開発を、気の遠くなるような月日をかけて地下組織を作り、特定の人員を集めて人知れず研究を始めた。
自分たちの組織を再びこの裏社会に立ち上げるために、原動力となる炎の開発に力を注いだ。
少ない財を注いで開発されたのは、敵の位置情報を探れる優秀な炎探知機だった。周囲の敵を認識するだけでなく、持ち主の炎の性質など、正確な情報を探知することが可能である。
探知機のデータをもとに、次は兵器の開発に進もうとした矢先、探知機に不可解な反応があった。
どの属性でもない炎の反応。最初は故障かと思われた。だが、その直後にイタリア全土でチェレーネの事件が報道され、組織の直感が確信した。
これは自分たちの未来に革新をもたらす、新種の炎の反応だと――
――これが、男たちが語ったことだった。
彼らが開発したという探知機がどれほどの性能なのかは知れないが、その炎と事件の関わりは深いだろう。
恐らくこの少女とも深く関わることだ。
しかし、そうなれば、ディーノがあの時語ったことと矛盾する。彼らが嘘を吐いたことも考えられるが、もうひとつの可能性が、雲雀の頭にあった。
裏社会を知り得ない少女には、彼らの話は重すぎて、吐き気がするほど不愉快だった。それでも話を聞くうちに、以前よりは自分の記憶に近づいたような気がした。
ディーノも、こんな世界をずっと渡り歩いているマフィアの一人であると、そう思うと少女の胸は複雑だった。
「さあ、そいつと交換だ」
話終えた男たちが、自分たちの目的であるアカネにギラリと目を光らせる。血走った目に睨まれて、再び足が竦んだ。
これからどうするのかと、アカネは隣でじっとする男に目を向ける。
不意に風が吹くと、銀色の長い髪が視界を流れて、男の表情が見え隠れする。
アカネはその瞳に、身が凍りつくほど冷笑を浮かべた男を見た。
首にあてがわれていたトンファーが、スッと降ろされた。
「何してるんだい」
男が告げる。
どうして――……。
「早く行きなよ」
私が何をしたの――……。
「君には用が済んだ。彼らのところに行きなよ」
ウソツキ――……。
「僕のそばにいると、死ぬよ」
その一言が、少女の中の熱い感情を一気に滾らせた。
胸の内にじっと堪えていたものが、一気に爆発する感覚だった。
「騙したのッ……!」
必死の形相で男を睨む。
しかし、雲雀は全く相手にしなかった。
「さあね。僕に跳ね馬と同じ期待を持つことは間違っているよ」
その微笑みは、どこまでも冷酷であった。
全てが、男に仕組まれていたことに気づいた。
最初から、自分は餌としてこの男に利用されたのだと、今更だったことにやり場のない怒りが込み上げる。
悔しい。悔しい。悔しい……!
――聞こえるかい。
どこからか、優しい響きの声が聞こえた。
頭の中に直接響くようだ。
――さあ、力を解放する時が来た。
声は告げる。
少女には、その声を信じるしかもう何も残っていない。
あの日からの出来事が、走馬灯のように流れ、全ての思いが涙となって溢れた。
――私は、いつも君を見ているよ。
澄み渡る空に、羽ばたく鳥は跡を濁さなかった――――
更新が遅れて申し訳ありません。ペースアップしたいです。リボーンのキャラマイド楽しみです。