夜が更けた頃、夜空には雄々しく満月が浮かび上がり、月光が寝静まった世界を安らかに照らし出す。
自室の窓からその月明かりを一人眺めていたディーノは、ある人物へ電話をかけた。
数回コール音が鼓膜に振動を伝えた後、目的の人物が電話に出た。
『なんだ、ディーノ? そっちはもう深夜じゃねーのか?』
出だしから挨拶もなく時間帯の確認なんかしてくる己の師に、ディーノは苦笑を洩らして応える。
「よぉ、リボーン。そうなんだが、話してえことがあってな。ちょっといいだろ?」
『ああ、いいぞ』
ディーノの問いに、電話の相手――リボーンも、早々に話の内容に察しをつけ彼にそう返した。さすがは自分をここまで育て上げてくれた恩師だと、ディーノも内心で密かに微笑んだ。
『ディーノ、まさか例の件について何かあったのか?』
「ああ、そうだ。言われた通り、少女の方はこっちで無事引き取った」
『そうか、でかしたぞ。またオメーには我儘聞いてもらって、すまねえな』
珍しく彼が素直にお礼を言ったことに、ディーノは少し驚いたが、また小さく笑みを零して言葉を返した。
「いいって。オレもお前らには貸しがあるからな。これくらいは気にすんな」
『そうだな。オレたちは同盟組んでんだから、これくらいは当然のことだな』
「お前はもう少し謙遜するということを知りやがれ」
やはりいつもの調子である師に、溜め息が混った苦笑が洩れる。ディーノが電話越しにツッコミを入れたところで、脱力する彼とは反対にリボーンは声のトーンを落として聞いた。
『そんで、一体何があったんだ?』
すぐ話を戻した彼に、ディーノもハッとなって適当に相槌を打つ。そして少し間を置いて気を取り直すと、ディーノは例の内容を語った。
「昨日の夕方頃、その少女が目を覚ましたんだが、そいつ…… 自分に関する一切の記憶がねえみてえなんだ」
そう告げると、電話越しに空気がピンと張ったのを、ディーノは経験で悟った。しばらく待ってみると、リボーンが窺うようにもう一度尋ねてくる。
『……"記憶"がか? それはつまり、その少女は記憶障害っつーことか?』
その問いに、ディーノは短く肯定した。
『チッ…… この件、やはりあいつが言った通り一筋縄じゃあいかねーようだな』
そんな呟きが電話越しに洩れてくるが、今のディーノの意識は、今頃用意した部屋のベッドで安眠しているであろう少女へと向けられていた。
そんな彼の思考のことなどは梅雨知らず、リボーンはさらに情報を集めようと話を進めていこうとする。
『じゃあ、その少女が目覚めた後も、これと言った情報は聞き出せてねえんだな』
「ああ、あの様子じゃあ当分は話題に挙げねえ方がいいかもな」
『……そうか。だが、あまり長くも待ってやれねえかもな。
チェネーレとは、イタリア語で"灰"を意味する。そのことを聞いて、ディーノも一度呟いた後、思わず苦笑を洩らした。
「チェネーレの怪奇…… か。確かにな」
ディーノがその事件のことを知ったのは、つい最近のことだった。
某日、イタリアのとある小さな村での出来事が新聞に載っているのを、ディーノは朝食を取るついでにたまたま見ていた。その内容は、確かに奇妙奇天烈なものであった。
簡素に言えば、小さな村は壊滅したのだが、その原因が地震や火災などによる"災害"の類ではなく、その村は村の面影すら残らず、村の一帯が全て"灰"となっていたのだ。その村にあった田も家も土地すらも、細かな"灰"一色となって、その村は謎の壊滅を遂げたのであった。
ここまででも奇妙な出来事であるが、さらに驚くのは事件当時その村には"一人の少女"以外誰一人村人がいなかったことである。そして、その唯一生存を確認出来た少女こそ、ディーノが引き取った例の記憶喪失の少女――アカネである。
ディーノは事件のことを思い出して、また胸が小さく疼いた。
彼女とあの部屋で初めて接触した時のことが脳裏に過ぎり、言葉にならない感情が彼を締め付ける。
ついに堪えきれなくなり、彼は電話越しに切り出した。
「なぁ、リボーン。無理も承知の上で頼む。アカネをしばらくオレのファミリーで面倒見させてくれ」
それを聞いた電話越しにいるリボーンが、にわかに眉根を寄せたのを想像する。
『"アカネ"っつーのは、例の少女のことか。恐らくお前がつけてやったんだろうな』
今の自分の心情とは異なり、電話からはそんな呑気に納得しているリボーンの声が聞こえてくる。鋭いな、とディーノも密かに己の師を畏怖した。
『だが、そいつの世話はこっちで見るハズだ。それに、オメーの方も暇じゃねえハズだぞ。どうしてわざわざ手のかかることを自ら引き受けようとするんだ?』
リボーンのその質問は最もである。ディーノもキャバッローネのボスとして、任務は部下たちの倍以上ある。子守りなんてしている暇など本来ならないハズであり、それなのにどうしてまた自ら厄介事を引き受けようとするのか。
その問いに、するとディーノはこう答える。
「……ただ、心配なんだ。あいつのオレに脅える目を見て、放っておけなくなっちまったんだ」
本来ディーノも少女の身柄を保護次第、彼らの指示通りに日本へと送ろうとしたのだが、少女が自分を見た途端にその小さな体を震わせ、自分に脅え切った姿に、彼もそれを思い直した。今のままでは、彼女は世間の目に圧されて、また逆に自分を苦しめてしまうだろう。そう思えば、彼は少女を見捨てられなかった。
自分もまだ詳しくは知らないが、居場所も自分のことさえもその手に失くしてしまった少女を、これ以上苦しませたくはなかった。そしてその強い思いが、ディーノを突き動かせたのだった。
「アカネ自身、まだいろんなことに整理がついてねえと思うんだ。だからまずは落ち着かせてやりてえ。
その言葉の本心は、少しでも胸に抱え込んだトラウマを克服して、少女には笑顔でいてほしいから。ディーノは自身の最大限の力で、少女を幸せにしたいのである。
そんなディーノの必死な言葉に、電話越しで聞いていたリボーンは告げる。
『お前の言い分も分かるが、オレじゃあ判断はしかねる。あいつに聞いてくれねえとな』
それを聞いて、ディーノの表情は苦くなる。今回の件については、いつも素直に同意してくれる彼も頷いてはくれないかもしれないのだ。
その時、電話越しのリボーンの顔がにわかに笑みを湛えたような気がした。
『一週間なら、オレが説得してやってもいいぞ』
「!」
リボーンはいつものように鼻で笑うと、彼の頼みを引き受けてくれたのだった。
ディーノもやはり恩師には感謝し切れず、今は電話越しで精一杯彼に感謝の旨を伝えた。
「本当にサンキューな、リボー……」
『んじゃあ、これで借りは返すってことでいいな』
「あっ! テメェはくそっ……!」
やはり今回も恩師にしてやられた師弟のディーノであった。
その後、フライトなどの変更項目を確認し終え、ディーノからの通話を切ったリボーンは、一人だけの室内でポツンと呟く。
「記憶喪失の少女か…………」
予想以上に難解な今回の事件に、リボーンもこの際冗談など言えなかった。多大な村人の安否不明、今後イタリアの治安に大きな影響が起こりかねない今回の事件の鍵となるのは、やはり記憶を失った少女であろう。
「任務から奴が帰ってきたら、早速報告しておかねえとな」
そう呟いてパジャマから着替え、リボーンは朝食を取りに行くのであった。