港の海面が茜色の仄かな光に煌々と反射する頃、イタリアにて――
夕暮れの夕景を屋敷の窓からぼんやり眺める
そんな男は、沈む夕焼けの景色を、果たしてどんな思いで仰ぎ見るのか――……。
そこにコンコンと、軽快な音を弾ませて室内の扉が重く開く。
「おい、ディーノ」
入室してきたのは、腐れ縁というかもう何十年もの長い付き合いにして最も信頼する部下のロマーリオだった。
その男からディーノと呼ばれ、背凭れに凭れ座っていた彼は、不意に窓から視線を上げる。
「んぁ…… と、ロマーリオか」
なんともボスという立場には似つかわしくない、だらけた声音だ。部下もその声を耳にして、思わず溜め息を吐きたくなった。
頭を抱える部下の心情も露知らず、ディーノは入室早々どこかおかしな様子の彼に続けて声をかける。
「どうしたんだよ。お前がオレの名前を呼ぶなんて」
「今のお前さんからはボスの威厳なんざ微塵も感じられねえんだ。ボスがこんなんで、キャバッローネの名も廃るもんだ」
「オイッ。なんか知らねえけど、入ってきた早々喧嘩売ってんのか、お前」
にわかに眉を顰めるディーノ。その不機嫌な形相に、部下もやれやれとかぶりを振る。己のボスの
ボスはいつでも目の前の状況を見据え、何事も冷静に判断しなければならない。ボスがこうも毎度のこと胸の内を揺さぶられるのはご法度だ。彼の判断で、今後の組織が左右されるというのに、その責任感がイマイチ足りていないのか。彼が選択を誤れば、沢山のシマの者が被害に遭うのだ。
だが、肝心のシマの大将は、最近ずっとこんな調子だ。というのも、一人の少女のことが恐らく頭から離れないのだろう。
つい先日――…… ディーノが同盟を組むボンゴレファミリーに預けた少女――アカネのことをまだ引きずって、重要な書類作業にもなかなか専念できない始末だ。
暇があれば空を仰ぎ、溜め息と共に少女の名を呟くのだ。どこぞの恋する乙女だと言ってやりたい。もう30を過ぎたオッサンだぞ。
ロマーリオが働かないボスに対し、こうして鬱な思いに浸りたくなるもの致し方ないというもの。
「そんなことより、電話だぜ。ボンゴレからだ」
「あぁ…… ツナか」
ボンゴレの名前を出せば、途端に苦い顔になる。やはり少女のことで後ろめたさを感じているのかと、さすがにここまでだとロマーリオの気持ちも同情にも似つかわしく思える。
ああなることはボンゴレとの取引で、ディーノにも仕方ないことだと解っている筈だ。だが、こうして自身を責めているのは、あの少女にそれだけ情でも湧いたというのか…… 親心というものが。
どう言ってやるべきか迷い、この後にどうにでもなるだろうとさっさと踵を返す。
「……んじゃ、オレはこれで。ゆっくり話してこい」
受話器をずっと握りしめたままの彼にそうひと声かけ、ロマーリオは部屋を退室して行った。
――ガチャリとドアが閉まり、そうしてしばらく沈黙が続く。
ロマーリオが出て行き、受話器を握りしめたままのディーノは、手中のそれをじっと見据える。
何か急用かもしれない。早く出てやらなければならないのに、耳に当てようとする受話器が震える。相手を待たせてはいけない。だが、受話器を持つ手に留まらず、全身に渡る微かな身震いに、ディーノ自身もどうしていいのか分からない。思考が一瞬フリーズする。
――そうして思い浮かぶのは、一人の少女の姿。
その懐かしい姿を、咄嗟に頭を振り払って押し退ける。考えてはダメだと何度も思うのに、気づけば後悔やら罪悪感に苛まれるのだ。自分でもどう対処すればいいのか、こんなことは父親のこと以来…… もう何十年も心に抱いていなかったのに。
もう、今更だ。自分は彼女に許され難いことをしてしまった。最初から、そうなる運命だった。だから自分は、取引上どうすることもできないのだ。こうなることは、致し方ない。
あの少女に非道な行いをしてしまったが、これ以上自分といて少女に残酷を知ってはもらいたくない。
だから、自分は――ああしたのだ。それが最善だと、ベストを尽くしたんだと思い込んで、寂しさや感じる痛切感を押し殺そうとした。
『――ディーノ?』
ふと、受話器から聞こえてきた声に、ディーノの思考が引き戻される。
懐かしい、少女の声。
気づけば受話器をギュッと握り締め、耳元に押し付けていた。
だが、行動とは裏腹に、言葉は微かな一滴も出ない。声すら掠れて、もう何日も水分補給を怠ったようにカラカラだ。
「あ、か…… ねっ……」
どうして、少女が電話に出ているのか。自分に電話をかけているのか。少女を裏切り、見捨てた最低な自分に――……。
『あっ…… ディーノだ。よかった……』
受話器からの声は、幼さ故にあどけなく耳に聞こえる。あっちでも、どうやら元気のようだ。
安心と同時に、ふと胸にわだかまる寂しさ。
気付かれないように押し殺し、普段の彼らしく少女に電話越しで話しかける。
「アカネ…… その、どうしてお前が電話に? ツナは?」
『私がツナに頼んだの。ディーノと話がしたいって』
ディーノの息が詰まった。少女の言う話とは…… 自分が裏切ったことへの文句か、罵倒か、何であろうとディーノは覚悟していた。嫌われることは分かっていた。こうして直接言われることは思っても見なかったが、その方が自分にも見切りをつけることができるだろうと、ディーノは覚悟の上で受話器に耳を澄ませる。
『……ディーノ、ごめん』
少女の言葉に、目を見開いた。思わず椅子から立ち上がるほど、その言葉はディーノにとって意外な一言だったのだ。
何故、少女が自分に謝罪する。悪いのは自分の方だ。酷いことをしたのも、傷つけたのも、全部自分がしたのだ。なのに、謝られる部分が一体どこにあるのいうのだろう。
わなわなと震える受話器から、依然少女の声は聞こえ話は続く。
『ディーノがいなくなって、気づいた。私、ずっと甘えてた。記憶がなくて、独りが不安だからって、甘いディーノに縋ってばかりいた。でも、ディーノから離れてくれて、やっとそのことに気づいたんだ。自分の間違いに。人にばっか頼っちゃダメだよね。私もこっちで頑張るから……』
か細い声が、さらに小さくなって聞こえなくなる。
しかし、一旦呼吸を落ち着かせて、少女の声ははっきりと電話越しのディーノに告げた。
『もう自分を責めないで、ディーノ』
それからしばらく、少女の声はしない。
……正直、ディーノにはワケが解らなかった。
嫌われると思っていたのに、突き放されると思っていたのに、少女は自分を許していた。どうなっているのか、ディーノには解らない。
ただ、少女からの言葉で、胸の中を侵略していたモノは、吹っ切れているように思えた。
自分はただ、この手で傷つけるのが怖かった。それで傷つける前に、自ら少女から離れた。それはただ、少女から逃げていただけだ。
自分に失望する顔を見たくなくて、ファミリーのボスに何ともたる情けないことをしてしまったと、歯痒さだけが心に染みる。
「……謝るのはこっちだ。アカネ、面倒見切れねえで、お前から逃げて、本当にすまねえっ……」
自分が謝ることを見越していたのか、どうせ賢い少女のことだ。
『別に。ディーノがそっちでちゃんとやれてたら、それでいいよ』
明るく素っ気ないいつも通りの声が、鼓膜を突いた。
フッと、口元が緩んでしまうのも致し方ないだろうか。
ふと頬を伝った生温かいものに、悔しくも未熟だったと悟った。
「ありがとう…… アカネ――」
『あっ、それっ……』
急に受話器越しの声がどもる。なんだろうかと、じっとあっちからの出方を待つ。
『…………こっちの台詞なのに……』
「……は?」
『っ――…… だから』
さらにゴニョゴニョと口を濁し始め、聞き取りにくいながらも少女の深呼吸が聞こえてくる。なんの準備だろうか。そんなに重大な宣告でもあるのか。まさか体調関連か――ディーノがハラハラと心配になる中、全ての憶測がその瞬間に杞憂となる。
『――ありがとう。名前をくれて、笑顔をくれて、ディーノといて楽しかったよ。……だから、また…… ディーノたちに会いに行っていいかな……?』
ディーノの脳裏には、想像に容易い少女の火照った顔が浮かび上がる。
受話器越しで、密かにクスリと漏らしてしまったのは彼女には内緒にしたい。
やはり親代わりとして、少女を娘のように可愛く思えてしまう。
「ダメだ」
『――!?』
少し意地悪が過ぎただろうか。ガーンッという効果音がどこからか聞こえてくることもない。
「女の子が裏の社会を彷徨くのは危ねえだろ。今度の休暇にジェット機ぶっ飛ばして会いに行ってやる。待ってろ、な」
開いた窓から広がる茜空に向かって、ディーノは久しぶりの清々しい笑顔を魅せた。