―海鳴大学病院―
「なのは、あーん」
「…」
「あーん」
「…あ、あーん」
「うん、うまい!」
「ふふ、仲が良いんですね」
「そりゃあもう世界一」
「くっ…」
お見舞いの林檎をわざわざ自分でうさぎさんカットにした挙句、娘にあーんと差し出させる父、病室にて。
それを見てナースたち(このご時世では看護師というのだったか)や同室の患者達はくすくすと生暖かい視線とともに笑っている。くっ…落ち着け。虚気平心、虚気平心。
そもそもなぜこういう有り様になっているのかといえば話は単純、知る人ぞ知る海鳴の名店、翠屋の店主にして我が偉大な父、高町士郎が怪我をしたのだ。
朝方、兄上に背負われて帰ってきた時は驚愕したものだ。桃子さんを泣かせよって、許すまじ高町士郎。
「しかし随分と元気な様で」
「怪我といっても軽いものだし、明後日には退院だよ」
「退院してもしばらくは安静ですよ、高町さん」
「はは、了解です」
看護師のお小言に爽やかなスマイルでもって返す高町士郎。直撃した看護師といえばポッと頬を赤らめている。これは要報告ですな、桃子さんに。
「翠屋はどうだい?」
「まあなんとか、あのオババも火馬車の如く労働に勤しんでいるようで」
「なんだか悪いなぁ」
「自業自得だ」
詳しい事は知らぬが、オババこと我が曾祖母の高町桃花は父の怪我に関与していたらしい。
『ちょっと張り切っちゃったのじゃー』と、定番てへへのポーズを繰り出したオババに、桃子さんはそれはもう激おこぷんぷん丸。
孫に長々と説教された挙句、オヤジ殿の抜けた翠屋でこき使われている。
あのオババのふりふりウェイトレス姿には日頃の溜飲が下がるとともに、実年齢を思い出して酸っぱい胃液が迫り上がったりもした。
『見てください、まるでこの範囲だけを削り取ったかのように綺麗さっぱりと小学校が喪失しています。中高エリアには全く被害が出ていません。ただの爆発事故でこのような事が有り得るのでしょうか』
テレビではリポーターが興奮気味に現場の状況を伝えている。このような報道は昨日からずっと続いていて、少しばかり辟易としてきた。
まあ仕方の無いことだろう、なにせ小学校が丸々一つ消失したのだ。それも近隣の住民には気付かれず一晩で。警察はガス漏れによる爆発事故だと発表したが、そんなわけがあるかと私を含めた全国の有識者がツッコんだことは想像に難くない。
その小学校は私立聖祥大付属小学校という我が麗しの母校である。
通い学ぶ筈の校舎が丸ごと消えてしまったため、私達聖小児童一同はしばらくの間臨時休暇という事になった。悲しみの反面歓喜した生徒も少なくはないだろう、この私のように。
今や海鳴は全世界の物好きや超常現象の専門家(笑)などから注目される騒がしい町となってしまった。この私も病院へと訪れる途中、コバエのように沸いた記者たちに群がられた挙句にカメラ前でのインタビューを要求されたりして小便をチビリかけた。
アダルトな映像作品ではあるまいし、モザイク顔で全国デビューなど御免被る。
「ん? どうかしたかい? なのは」
「…いや」
この通りオヤジ殿は相変わらずの風柳だが、私はこの件にオヤジ殿やオババが絡んでいるのでは、と睨んでいる。
私と桃子さんを除く高町家一同の深夜外出、負傷して帰宅したオヤジ殿、怪我はないが衣服が異常にボロボロだった兄と姉、いつになくしおらしいオババ、そして消失していた小学校。これで関係ないと断言するほうが異常であろう。
だからと言って私が何かする事はないが。何しろ私は高町家切っての無能、そんな私が事実を知ったところでなんの役にも立たない事は明白である。
ただこの事件に何かしら高町家の人間が絡んでいるとした場合、それが露呈してオヤジ殿がムショにぶち込まれ、莫大な額の賠償請求とかメディアへの晒し上げとかなんやかんやで翠屋が取り潰され、私や姉上や桃子さん、ついでにオババなんかがよからぬ店に沈められ、兄上は地下で強制労働させられチンチロリン。などと暗い想像ばかりが浮かんでくる。
「悪いね、温泉にも行きそびれたし」
「いや、それはむしろ有り難い」
「またまた」
「いやいや」
高町夫婦はこの連休で温泉旅行など計画していたらしい。私に内緒で。
まったく日本人は温泉温泉と有り難がるが、お湯に浸かるという一点で見れば全て同じ、一体家の風呂と何が違うのか理解し難い。
こういう阿呆のような思考が前世において私が社会不適合者であった原因なのだろう。だからと言って変える気はまったく無いが。
高町家で温泉に行くのであれば私とて少しは残念だと思っていたであろうが、この計画には月村家やバニングス家も一枚噛んでいたというのだ。月村は言わずもがな兄上の良い人がいるし、バニングス社長はオヤジ殿と交流があるらしい。
つまりこの計画が実現していれば月村すずかとアリサバニングスという金持ちの権化のような少女たちと帯同し、下民として2人にへこへこと媚びへつらった接待温泉旅行は不可避だったのである。
不謹慎ではあるがオヤジ殿は非常に良いタイミングで怪我をしてくれたと思う。下衆な娘で申し訳ないと、私は心の中で桃子さんに土下座からの土下寝コンボで謝罪した。
「さて、私はこれにて失礼をば」
「えぇっ、もう帰るのかい?」
「私も色々と忙しいのだ」
「忙しいって、どうせ部屋でゲームするだけだろ? なのは、そろそろ友達でも」
「ぴぎゃあああああああああああああ」
オヤジ殿が余計な事を口にする前に戦略的奇声を張りあげると、私は空気が氷りついた病室から即座に離脱を計った。
けっ、風評被害など知ったことか。私の頭がおかしいのは今更である。
そもそも私に「友達を作れ」だとか「働け」だとかは禁句なのである。禁則事項なのである。そこらへんオヤジ殿には親として察して貰いたい所存なのである。
◇
足早に病室を出て院内を彷徨う私は思考する。さて実際どうしたものか、長い休暇があってもやる事がない。
私に友人がいない事は紛れもない事実であるし、唯一まともに関わりのある日向少年も小旅行だとか。だからといって禿鷹のように目をギラつかせたマスメディアで溢れた街中をブラブラ出歩くのも気が進まない。
金ならあるのだ。少し前、金の匂いを漂わせていたクレイジーな少女から人生の勉強代として頂いた大金を私は隠し持っている。しかしこの小さな体では玉を弾いてスロットを回す大人の遊びにも行けない。さらに改めて気付いた事だが私の性別は女である。前世のように性欲を持て余した挙句、風の俗的な場所で爛れた情事に耽る事などもできないのである。
私は改めてゾッとした。今はまだ第二次性徴期も訪れていない無毛のガキであるが、どうしたって終いには性別という壁に直面するのだ。
このぺったんこな絶壁が徐々に膨らんで存在の主張をはじめ、生える処に生えるべきものが茂り、小枝のような細い肉体はふっくらと丸みを帯びて、私は男を惑わす淫靡なフェロモンをそこら中に撒き散らす毒蛾となるのだ。
女体は好きだ。しかし己自身が女体になってしまっては女体を貪る事などできないではないか。
「――なあ」
いや、まて、むしろ女であるほうが男以上に女体への接触が容易なのではないか?
事実、私はこれまで桃子さんや姉上、ついでにオババの豊満な裸体をこの両手でもって揉みに揉んできた。しかし、そこに男であった時のような性的な高まりを見い出せてはいない、では私の性的アイデンティティは一体何処にあるのであろうか。
「なあちょっと!」
「ん?」
暗雲に満ちている己の未来図、そして私の女としての性的ポテンシャルという人生においての重大なテーマ。そんな思考の海に沈む私を引き上げるのは鈴を転がしたような高い声であった。
その声の主を辿ってみれば、そこには車椅子に乗った一人の少女が気遣わしげな表情でこちらを伺っていた。
年頃はおそらく私とさほど変わらない、ダークブラウンの髪をショートカットにした中々可愛らしい容貌の少女である。
「なあ、さっきから青い顔でぶつぶつ言ってたけど大丈夫なん? 調子悪いんか?」
なる程、壁に向かって思考に耽る私を心配して声を掛けたのか。確かに端から見れば精神異常者もしくは体調不良者のどちらかである。そんな私に声を掛けた彼女の勇気ある行動に敬服したい。
「いや、人生について少しばかり考えていたのだ」
「人生? まだ若いのに変なこと考えてんなぁ」
「少女よ、人生とはなんぞや」
「へ? 」
「人生とはなんぞや」
「人生…人生とは……なんや?」
「知らぬ」
「知らんのかい!」
ほう、この私に気兼ねなくツッコむとはこの少女、中々やる。普通この年頃の少女といえば、岩の裏でうねうねしてる昆虫のような私の邪悪な雰囲気に、本能的に距離を置くものだ。
しかしこの少女にその様な兆候は見られない、日向小太郎のような大物か、もしくはただのアホの子なのか。
そういえば初対面であるのに私は敬語で喋っていなかった。私は初対面の相手には必ず敬語でもって最適な距離を測る習性であるが、突然の事とはいえ、この少女には自然とそれをしなかった。此奴、やはり只者ではない。
「なんやおもろい子やなぁ、飴ちゃん食べるか?」
「貰おう」
ほう、梅昆布抹茶コーラ納豆アボカド鰻味か。中々、味覚のセンスも悪くない。口に放り込むと青春の味がした。
「美味いか?」
「ああ、美味だ」
「せやろ?」
「せやな」
それから私と件の少女はほのぼのと病院内のロビーにて語り合った。主に女体について語り合った。乳の弾力性や感度、そして最適なサイズや重さ等。
なんとも話の分かる少女だ、私にとって初めての同年代で同性との弾む会話ではないだろうか。私と少女はまさに水魚の交わりといっていい程に性的嗜好が噛み合った。私と同じく中身はオッサンではないかと疑ったほどにこの少女の性癖は乳や尻に傾倒していたのだ。
私はちょっぴり興奮した。この少女とならば私は高みを目指せるのではないか、私のあやふやな性的アイデンティティを見い出せるのではないか、と。
「主はやて」
「あっシグナム」
響く低い女の声、いつの間にか私たちの眼前に立っていたのは薩摩芋みたいな薄赤紫色の髪の毛をポニーテールにした異国人であった。そして異国人だけあって乳がデカい。
「待たせてしまって申し訳ありません、主はやて」
「ううん、ええんよ。この子とお喋りできて楽しかったしな」
「ほう…」
巨乳異国人は私に目を移すと驚いたかのように僅かに目を見開いたかと思えば、今度は刺すような鋭い視線を浴びせてきた。
警戒を含んだ刺のある視線にざわりと鳥肌が立つ。この感覚は身に覚えがある。
オヤジ殿や兄上達が庭先において逝っちゃってる目でポン刀を振り回している時のあの雰囲気、あれに似ているのだ。
つまりこの異国人で巨乳の女はカタギではないという事である。
さらにこの女は少女に向かって主と言った。普通年下の女児に向かって主などと言うだろうか。否、有り得ぬ。
主とは地や集団・社会などを支配し、つかさどる者。
つまりこの少女はどう見てもカタギではない異国人をさも当然のように従えているという事になる。
「そや、紹介がまだやったな。私ははやて、八神はやてや。そんでこっちがシグナム、私の家族や」
「…」
「シグナム?」
「あ、いえ…」
家族、だと? どう見てもこの女は異国人ではないか。ドイツ車みたいな名前だからドイツ人か? 家族、つまりファミリー… ヤでなくマの集団という事、か。
この少女はファミリーにおけるファザーの娘であり、この乳がデカいドイツ人はその娘を警護する凄腕の用心棒、そう考えれば納得がいく。
この時、私の矮小な頭脳に電流が走る。
あの時、金髪の少女が言っていたマの付く組織同士の抗争、既に連中によって支配された入国管理局、凄腕の異国人、オヤジ殿の負傷、小学校の消滅。
これは仕組まれた――罠
全ては偽り、あの時の私と金髪の少女との接触が対立組織に監視されていたに違いない。卑劣にも家族を狙い、そして同じ年頃の娘を使って組織は私に接触を計ってきた。狙いはなんなのだ? やはりあの時の青い宝石なのであろうか。
どちらにしろ私はこの少女に騙された、という事だ。この八神はやてという少女は、私の性的嗜好に同調したフリをして懐に入り込み、ただ私の内情を探っていただけなのだ。
なんという屈辱か、なんという無様か。私は八神はやての甘言に呆気なく乗せられ、発情した犬の様に情けなく尻尾を振って歓喜していたのだ。
くっ、なんとおぞましい少女だ、八神はやて。
これだから私は人間が嫌いなのだ。
だがどうする、私は怠惰以外の取り柄がない無能であるし、あの報道から推測するに警察も奴らの手中と言ってもいいだろう。さらに家族は人質に取られたも同然。
私にできる事と言えばこの未成熟な体を差し出すくらいしかない。そして小児性愛の変態野郎へと売られ、語るもおぞましい肉体奉仕を強要された挙句に、ポイッと捨てられ解体されて臓器を売買され、その凄惨な一生をポックリと終えるのだ、ガッデム。
「なあ聞いとる?」
「あ、い、いや」
「せっかくだから名前を教えてほしいんやけど」
「名前?」
「そ、名前」
名前だと? はっ、何を今更。そんなものは既に貴様らの組織が調査済みの筈だ。そこで敢えて名前を聞く必要性はなんだ? まだ私が高町なのはだという確信を持っていないのか?
そういえば私は金髪の少女に月村すずかと名乗ったはずだ。あれを盗聴されていたとして、つまりいくらマの付く外道組織とあれど、月村という大財閥までには手が出せないという事なのか?
「あのー」
どうせ演技なのだろう、不安げな表情でこちらを見上げる八神はやて、そして背後には押し黙る私を射殺さんばかりに睨みつけるデカ乳ドイツ人用心棒、シグナム。ええいままよ。
「つ、月村、月村すずか」
「月村すずか…じゃあすずかちゃんって呼んでええか?」
「あ、はい」
私が組織に勘付いていることにはまだ気付いていないはずだ。そしてあわよくば組織が月村に手を出せば財閥の力でもってしてなんとかしてくれる筈だ。そうに違いない。
そうだ、そもそも兄上が月村の長女と交際しているのであるから、つまりは月村重工グループはいずれ私の物となると言っても過言ではないのではないか? したり、これは盲点であった。
「そや、すずかちゃん。これから暇なら私の家にでも」
「ぴぎゃああああああああああああああ」
エマージェンシー、エマージェンシー、即時撤退せよ、即時撤退せよ。
「あっ、行ってもうた…なんや面白い子やったな。また会えるとええけど…」
「…」
「シグナム?」
「あ、はい…申し訳ありません。主はやて」
「なんやさっきからおかしいな…気になる事でもあったん?」
「…いえ」
◇
「にゃー」
「どうしたの?…これは」
少女、月村すずかは愛猫が咥えていた青い宝石のような見覚えのない石を手に取ると、なんだろうと首を傾げた。
突然消失してしまった聖小という件の騒動よってしばらくの間生徒児童たちは臨時休暇という運びになり、さらに連休に計画していてた温泉旅行も、件の事件による月村重工やバニングス社へ皺寄せ、さらに同行する一人であった高町家大黒柱の負傷など、度重なる不運によって取り消えになってしまった。
そこで暇を持て余したすずかは、同じく暇を持て余しているであろう親友、アリサバニングスを月村邸に呼んでのお茶会をしようと、メイドが買い出しに行っている間、庭先の芝生でせっせと準備を行っていた。
そこに嬉しそうに駆け寄ってきた1匹の愛猫、咥えていたのは宝石のような青い石。
「あそこで拾ってきたのかな」
「にゃー」
芝生の先、森と言っても過言ではない木々の茂った広大な月村邸の庭は、月村家で暮らしている数多の猫たちの遊び場となっている。
「こんな宝石見た事ないけど…」
太陽の光を反射して淡く輝く汚れのない青い石。やはり、見覚えがない。だとすれば姉の物だろうかと思案し、一先ず姉に連絡を取ってみようと、すずかは屋敷へと足を向けた。
「待って」
その時、背後から掛かった声、恐らく若い女性だろう高音にすずかは足を止めた。掛かるはずのない声、今この屋敷にはすずか以外の人間はいない筈だ。それだけではない、この屋敷全体にはすずかの姉、月村忍が組み上げた防衛システムが張り巡らされているため、外部から気付かれないように侵入する事は非常に困難となっている。
つまり、今自分の背後にいる何者かは姉の強固な防衛システムを容易く潜り抜けた手練という事になる。そんなよろしくない想像に顔を青褪めさせたすずかは、せめて相手の顔を確かめようと、ゆっくりと振り向いた。
「…その石を渡して」
「へ?」
振り向いた先、想像とはかなり違う侵入者の姿に思わず、すずかの口から情けない声がこぼれ落ちた。
親友のアリサバニングスを思わせる艶のある金色の髪にワインレッドの静かな瞳、そしてアニメかゲームのコスプレのような露出度の高い衣装。そこに立っていたのはおそらくすずかと同じ年頃ぐらいの女の子であった。
「その石…ジュエルシードを渡して」
「えっと…石ってコレのことだよね……? というかどうやって庭に入ったの…?」
「…渡さないのなら実力行使に出る」
「えぇっ!?」
すずかの疑問を聞いていないのか聞く気がないのか、少女は瞳に力を込めると手に持っていた斧のような長物をゆっくりと持ち上げすずかへと向けた。
「え、ちょ、ちょっと待って! まずあなたは誰なの?」
「…」
「えーと、そう、名前! 私は月村すずかって言うんだけどあなたのお名前は?」
「月村…すずか?」
すると今まですずかの言葉に一切反応を返さなかった少女が名前を聞いた瞬間、ピクリと眉を持ち上げ、すずかの名前を反復するように問い返した。
「う、うん…私は月村すずか……だけど」
「…月村……すずか」
「にゃー」
おい、餌をくれ、と猫が鳴いた。