ドラゴンクエストⅡ.ⅴ~勇気の足跡~《完結》   作:暇犬

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試練篇 03

 

 

 逸る心をおさえきれずに駆けつけたその場所には、異様な光景が広がっていた。

 まるで火事場の後のようにブスブスとくすぶる炭化した木々の匂いの中に、血と肉が焦げたような匂いが混じる。とてつもなく強力な呪文で一気に薙ぎ払った――ボクは瞬時にそう理解した。周囲に転がっているのは、おそらく兵士たちの亡き骸だろう。比較的人の形を保っているものに近づき声をかけてみるものの……、返事がない、只の屍のようだ。

 突然出くわした惨劇の場所に、ボクは呆然と立ち尽くす。

 

 ――一体、何があったんだ?

 

 どこかに生存者がいないかと探していたボクの耳に、小屋の残骸の向こうから呻き声のようなものが聞こえた。慌てて、駆け寄ったその場所には、重傷の若い兵士が一人、倒れていた。

 

「大丈夫ですか、何があったんですか?」

 

 ボクの問いに、彼はうめき声だけで答える。あわててボクは薬草を取り出してすりつぶし、水筒の水とともに彼に含ませた。

 

「す、すまない、ありがとう、助かったよ」

 

 ボクの飲ませた薬草ではとても十分とはいえないものの、どうにか命を落とす心配はないようだ。さらに薬草を取り出そうとするボクの手を制して、兵士は続けた。

 

「これ以上はいい。薬草は大切にしなさい。それよりもキミは?」

「勇者見習いです。今しがた、ここに辿りついたばかりなんですが……」

「そうだったのか。それは災難だったな。とにかく直ぐにここから離れるんだ」

「一体、何があったんですか?」

 

 ボクの問いに兵士は苦い表情を浮かべた。しばらくしてぽつりと語り始める。

 

「ついさっきのことだ。キミと同じような勇者見習いがここに辿りついてな……。彼には同行者らしき二人の旅の僧侶がついていたので、規定により、私達は彼の泉への入洞を押しとどめたのだ」

 

 勇者見習いの旅は一人であることが前提である。同行者を連れている事が発覚すれば、当然、その時点でその者の資格は取り消される。

 

「しばらく押し問答が続いたのだが、昼食当番だった私は、同僚達に状況を預け、準備の為にこの詰所に引っ込んだのだ……。突然大きな爆発音がしたと思ったら、気を失い、気付けばこのザマだ」

 

 兵士はボクの肩を借りながら立ち上がると、詰所の前に広がった惨状を目にして、呆然と立ち尽くした。ついさっきまで会話していたはずの同僚達の無残な姿に言葉を失っている。

 

「一体、誰がこんなことを……」

 

 兵士の話を信じれば、この惨劇を引き起こしたのはおそらくボクのすぐ前にやってきたという勇者見習い達なのだろう。だが、勇者見習い程度の力では、ここまで大きな破壊力の魔法の行使は不可能である。ボクの疑問に兵士が思いもよらぬ返事をした。

 

「たしかあの少年は、同行者達にルザロと呼ばれていたが……」

「ルザロが?」

 

 驚くボクに兵士が眉を潜めた。

 

「知っているのか、彼の事を?」

「ええ」

 

 慌てて、ルザロの事を兵士に説明する。ボクの話を聞いて、今度は兵士が驚いた。

 

「バカな、それでは彼の家は……」

 

 ミドルネームにSを持つルザロの家は唯の家ではない。名門の一つである彼の家は、実はかつてのサマルトリア王家の直系であり、世が世ならルザロは王子様なのだ。当然、長い年月の間に培われた伝統があり、格式の高い彼の家の戒律は厳しく、そんな環境で育った彼が不正に手を染めるなど、ありえないことなのだ。だが、そのありえない事実が、今、ボクの眼前にある。

 

「今、思い出せば確かにあの時の彼の言動は、どこかおかしかった。過酷な旅路のせいだとばかり思っていたが……。と、とにかく、直ぐにこの事を陛下に報告せねば……ウグッ」

 

 バランスを崩して、彼はそのまま膝をつく。傷口からじわりと血が滲み始めていた。それでも彼は立ち上がる。それはこの場を守る役割を果たそうとする責任感ゆえだろう。

 

「キミ、済まないが、直ぐに王宮へと飛んでくれないだろうか。私は直ちに泉に向かい洞主様の無事を確かめねばならない。たしか、詰所の宝箱の中に……」

 

 そこまで言って、彼ははっと口ごもる。ボクの胸に輝く勇者バッジを目にして、自分が言わんとしていることに気づいたようだ。そのまま再び崩れるように膝をつく。真っ青な顔をして歯を食いしばる彼に、ボクは慌ててホイミをかけ、応急処置を施した。立ち上がろうとする彼を押しとどめ、ボクはその場に横たわらせる。

 

「す、済まない。キミは試練の最中だったんだな」

 

《キメラの翼》を使えば、その時点で、ボクの試練は終わる。一生に一度しか与えられぬ機会を、ボクは棒に振る事になる。

 しばしの沈黙の後で、ボクは口を開いた。

 

「王宮には貴方が飛んで下さい。導主様のご無事は、ボクが確かめに行きます」

 

 洞窟の奥にある勇者の泉には、たどりついた勇者見習いを出迎える「洞主」と呼ばれる老人がいる。その周囲には幾人かの警護兵がいるはずだ。だが、ボクの提案に兵士は首を縦には振らなかった。

 

「それは駄目だ。この先には騒ぎを起こした奴らがいるはずだ。如何にキミが勇者見習いであっても、彼らとやり合えば命はない」

「でも、今の貴方の身体では……」

 

 満足に立つこともままならない兵士は、首を横に振った。

 

「私は王国の兵士だ。この場を守るのは私の仕事。例え、命をおとすことになっても、国の安全を脅かす者達から逃げる事はできぬのだ」

 

 兵士としての使命感から出た言葉とともに、彼は身を起こし立ち上がろうとするが、再び体勢を崩して膝をつく。湧き上がる痛みに苦悶する彼をボクは再び横たわらせた。使命感に燃え己が責任を果たさんとしても、気力だけでは立ちはだかる現実には勝てない。

 

「やはり、ボクが行きます。貴方は王宮に飛んで下さい」

「くどいぞ、少年。私には役割が……」

「王宮に事実を確実に報告するのだって、立派な役割じゃないですか! 例え、ここで戦えなくても、次の災いに備え真実を知らせる。それが死んでいった同僚の方々の無念を晴らす事になるはずです!」

 

 もしも昔、兵士だった父さんなら、きっとそう言うはずだ。そんなボクの言葉を耳にして、兵士は言葉を失った。しばし、目を伏せた後で彼は言った。

 

「そうだな、少年、キミの言うとおりだ……」

 

 彼が冷静になったことを確認すると、ボクは詰所だった小屋の残骸の中から宝箱を探し出し、横たわる彼の前に置いた。ふたを開けると中には《キメラの翼》と《聖水》が一つずつ。さらに《鉄の盾》が入っていた。

 

「《聖水》と《鉄の盾》はキミが持っていくといい」

 

 泉までの最短ルートを教えてくれた兵士は《キメラの翼》を手に、よろめきながら立ち上がる。

 

「そう言えば、キミの名を聞いていなかったな」

 

 問われるままにボクの名を聞いた彼の顔に、再び驚きが生まれた。

 

「そうか、それではキミは靴屋のユグノー殿の……」

 

 よろめきながらも、彼の態度が少しだけ改まった。

 

「かつてのお父君の武勇は私もよく聞いている。酒盛りの度に兵士長殿が話して聞かせるのだからな……。そうか、そういう事だったか……」

 

 立ち上がった彼は、敬礼とともに微笑んだ。

 

「決して、命を粗末にしてくれぬなよ、ユーノ君。キミにもしものことがあれば、私がキミの御両親に合わせる顔がない」

「はい、無理せず、ヤバくなったら逃げ出します」

「そうか、では、城で会おう。約束だぞ」

 

《キメラの翼》を放り投げ、飛んでいく兵士の姿を見送ると、ボクは表情を引き締め洞窟へと向かう。

 危険極まりない困難の待ち受けるその場所へと足を踏み入れるボクの背を押していたのが、とめどなく溢れる好奇心である事に……、その時のボクは気付かなかった。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 ひんやりとする洞窟の中にはピリピリとした空気が充満していた。

 魔法の明かりの灯った道を、教えられた通りに最短ルートで駆け抜ける。悪漢と出くわさぬように気をつけながら、ボクは先を急いだ。身に振りかけた《聖水》のおかげか、洞窟の中に住みついた魔物達がよりつく気配がない。ここに充満する緊張感に恐れをなして、どこかに身をひそめているのだろう。

 はるか奥から響く剣撃と兵士たちの気合が聞こえるようになると、ボクは足音と気配を消して、その場所に近づいた。

 

 辿りついたその場所では、怪しげな人影と戦う兵士達の姿があった。

 魔法の輝きに満ちたその場所には、ひんやりとした水をたゆたわせた地底湖が見える。その傍らで、旅の修道者風の二人組が、何事かを喚きながら、兵士たちと刃を交えている。おそらくは洞主様と思われる老人を守りながら、兵士たちは怪しげな二人組と必死に戦っていた。

 だが、その実力差は歴然としている。死に物狂いで戦う完全武装した兵士たちの攻撃は、二人組にかすりもしない。「ほっ」「やっ」などとわざとらしい掛け声をあげ、兵士たちの攻撃をひらりとかわす二人組の顔には、楽しげな笑みすら浮かんでいる。

 

「そろそろ息が切れてきたのではないかな、兄者よ」

「何をいうか、そういうお前こそ、足元がふらついているのではないかな、弟よ」

「バカを言うでない、だが、そろそろ俺は飽きてきたぞ。もうよいではないか。雑魚の足止めなど俺の趣味ではない」

「全く気の短い……、だが、確かに俺も飽きてきたな。ならば今度は貴様がやるがいい」

「応よ!」

 

 一人がその場を大きく飛び下がり目を瞑った。途端に禍々しい空気が周囲に張りつめた。

 

 ――まずい!

 

 本能的に危険を感じ取ったボクは、近くの大岩の影に身を隠し、頭を抱える。瞬間、轟音が轟いた。

 

「イオナズン!」

 

 強大な魔力の暴走の気配と共に洞窟内を揺るがす爆発が起きる。濛々と立ち込める煙が晴れたその場所には、三人の兵士たちと洞主様が折り重なるように倒れている。

 

「ひゃっひゃっひゃっ! 見たか、兄者よ、俺の一撃、先程の兄者のものにも引けを取らぬだろう?」

「何を考えておるのだ。この馬鹿弟よ!」

 

 兄者と呼ばれた男が、手に持った《フレイル》でゲインと弟らしき男を殴った。

 

「こんな狭い場所で、イオナズンなぞ使いおって。ここはヒャダルコで凍りつけるところであろうが!」

 

 かろうじて息のある兵士たちがうめき声をあげるそのそばで、二人は諍いを始めた。と、意識を取り戻したらしい洞主様がよろよろと立ち上がった。爆発の瞬間、兵士たちが身を呈して庇ったらしく、彼にはほとんど傷はない。起き上がった洞主様は虫の息の兵士たちの様子に顔色を変え、慌ててベホイミをかけようとする。

 

「およよ、兄者よ。まだ息のあるものがおるではないか」

「ほー、ほー。詰めが甘いの、弟よ。どれ、今度は俺が手本を見せてやろうぞ」

 

 言葉と同時に男の《フレイル》の先に炎が生まれ、その大きさが加速度的に増大していく。

 己を焼き殺さんとする炎の玉に気づいた洞主様だったが、ベホイミの手を休める事はない。己を庇って倒れた三人の兵士たちに、必死で応急処置を施している。

 

「兄者よ、何故、メラミなのだ。先程はヒャダルコを使えなどと偉そうに言ったくせに!」

「過ぎ去ったことなど忘れたな、弟よ! 今の俺は……、熱く燃え上がるメラミの気分なのだ!」

 

 楽しげな笑みを浮かべた男は、生み出した火の玉を洞主様に向かって放とうとする。

 

 ――このままでは、皆、死んでしまう!

 

 一方的すぎる理不尽な行いを前にして、怒りがボクの心を突き動かした。

 

「やめろー」

 

 大声をあげて、岩陰から飛び出したボクは《破壊の剣》を振りかぶり、今、まさにメラミを放たんとする男に叩きつける。その禍々しい刀身から生まれる強烈な破壊力をまともに頭部に受けた男は、「ギャン!」と一声上げて数度バウンドし、壁に叩きつけられた。その勢いで暴発したメラミが傍らの弟に直撃する。攻撃をしたボクは、その勢いのままつんのめり、その場をゴロゴロと転がった。しばらくの沈黙の後、兄弟は何事もなかったかのようにムクリと起き上がった。

 

「何をするか、兄者よ。自慢の一張羅が焼け焦げてしまったではないか!」

「黙れ、弟よ。卑怯な不意打ちしおってからに。コブができたではないか。さては今朝、貴様の朝飯をたいらげたことへの報復だな!」

「何と! あれは兄者の仕業であったか! おのれ、許せん!」

 

 ボクのことなど存在せぬかのように無視して、二人は睨み合う。《破壊の剣》の一撃をまともに受けてコブ一つですんだというその事実に、ボクの背筋が震えあがった。

 

「キミ、何をしている、直ぐにこの場を逃げるんだ!」

 

 洞主様が顔色を変えて、ボクに向かって叫んだ。

 

「やつらは、《悪魔神官》だ。キミがどうにかできる相手ではない。一刻も早く……」

 

《悪魔神官》――その言葉に再び鳥肌がたつ。上級魔族といわれるその存在が今、目の前にいる。その現実にボクは畏れ慄いた。だが、気持ちに反してボクの足は逃げ出そうとはしてくれなかった。《破壊の剣》を手に、諍いを続ける二人組に向かって身構える。

 

「およよ、兄者、何やら珍妙なヤツが現れたぞい!」

「ほう、弟よ。こやつ、《破壊の剣》を持っているぞ。ちょこざいな!」

 

 ボクの事にようやく気づいた《悪魔神官》達は、値踏みするかの様にボクを見定める。兄貴分らしき者がはたと手を打った。

 

「おう、弟よ。俺は面白い事を思いついたぞ。こいつを復活した勇者殿の相手にしてやろうではないか!」

「なんと。兄者よ。それは名案だ! 頭いいな!」

 

 復活した勇者――その言葉にボクは眉を潜めた。

 

 ――一体、どういう事だ?

 

 だが、その疑問は程なく解決した。地底湖の中の御堂が激しい音とともに崩れ落ちた。現れる一つの影。その姿にボクは言葉を失った。

 勇者の泉と呼ばれる地底湖。その湖面に浮かぶ御堂には伝説のロトの武具が祭られているという。

 御堂が崩れ落ち、そこに現れたのは、伝説のロトの武具を身にまとった者の姿だった。その背格好はボクと大差がない。禍々しい面を付けているためにその顔は分からないが、彼の佇まいがボクの知っている一人の少年の顔を連想させた。

 

「ルザロ……、なのかい?」

 

 呆然とするボクの言葉を肯定したのは、《悪魔神官》達だった。

 

「ほう、こやつ、勇者殿と顔見知りか」

「おお、兄者、因縁の対決という奴だな。面白い。さあ、行け。そして互いに殺し合うがいい!」

 

 その言葉に反応するかのように、ルザロが歩き始めた。漆黒に染まった伝説の武具を身にまとい、泉から上がってきた彼は禍々しい空気を放ちながら、剣を抜き放つ。

 

「おお、我らの勇者よ! その力を示すがいい!」

 

 一人の《悪魔神官》がルザロに近づいた。瞬間、剣閃が煌めき、ルザロが《悪魔神官》に斬りかかった。持っていた《フレイル》でそれを受け止めると《悪魔神官》はあわてて、飛び下がった。

 

「バカモノ! 俺は敵じゃない。お前の敵はあっちだ!」

「バカはお前だ。弟よ。《般若の面》を付けた者に、不用意に近づくヤツがいるか!」

 

 顔につけた禍々しい面のせいで、ルザロは混乱しているようだ。頭を抱えるかのようなそぶりを見せた後で、今度は、一番近くにいたボクに斬りかかる。ルザロの剣の一撃をボクは《鉄の盾》で受け止めた。甲高い金属音と共にたった一撃で《鉄の盾》が大きく変形する。

 

「ルザロ! 何やってるんだよ。しっかりしろよ!」

 

 だが、ボクの声は全く聞こえていないようだ。さらに攻撃を重ねる彼に、已むを得ずボクも反撃する。やらなければやられる、確実に。彼の殺気はまぎれもなく本物だった。

 破壊の剣と、伝説の剣がぶつかり合う。

 けれども、戦局は一方的にボクの不利だった。僅か数合の打ち合いで、あっという間にボクは壁際に追い詰められる。もともと小さくないボク達の技量の差を、彼の纏う伝説の武具が増幅していく。さらに悪い事に、起死回生の一撃を放とうとしたボクの身体が、呪いのせいで動かなくなった。

 

 ――しまった。

 

 思わず無防備になって、背筋を凍らせる。だが、幸運なことにルザロも又、動きが止まっていた。

 混乱するルザロは不気味に吠えている。

 動けるようになるや否や、ボクは、慌てて体勢を入れ換え窮地を脱出した。

 背後で《悪魔神官》達がやんやの喝さいを浴びせている。再び猛攻を始めたルザロの攻撃を《鉄の盾》で受け止めながら後退する。もはや、不用意に攻撃など出来なかった。ルザロの攻撃を一発でもまともにもらえば、《鱗の鎧》を身につけているとはいえ、ボクはおそらく即死だろう。

 

 ――どうする?

 

 ほんの一瞬の躊躇いだった。

 その隙を突くかのように、ルザロの稲妻のような一撃がボクを襲った。

 慌てて剣を合わせようとしたボクの右手を、強烈な衝撃が襲う。鈍い音と共にボクの右手から《破壊の剣》がはじけ飛んだ。二つに折れた《破壊の剣》は地面に落ちるとそのまま消滅した。剣に封じられていた禍々しい気配が消滅するや否や、ボクの右腕に激痛が走った。ルザロの一撃でどうやら右腕の骨が折れたらしい。

 痛みに脂汗をかくボクに、さらなる攻撃が加えられる。もはや原型をとどめていない《鉄の盾》で受け止めた瞬間、ボクはそのまま吹き飛ばされた。

 

 ――人間の身体って、空を飛ぶものなんだ。

 

 そんな実感と共にボクはその場から撥ね飛ばされ、水面を数度バウンドして泉に沈む。瞬間、身体の中に何か清浄な気配が宿り、身が軽くなったような気がした。ひざ上まで水につかりながらボクは慌てて、立ち上がる。身体から疲労が消え、意識がはっきりする。折れた筈の腕も全く痛みはない。

 聖なる泉の力に助けられたようだ。

 

 だが、はっきりとした頭で自分の置かれた状況を確認したボクは、すぐに良い事ばかりでないことに気づいた。

今のボクには攻撃する剣も身を守る盾もなかった。《破壊の剣》を砕かれ、《鉄の盾》は弾き飛ばされた勢いでどこかに落ちてしまった。ここまでの道中に使っていた《皮の盾》は荷袋と共に詰所に置きっ放しである。丸腰のままでボクは、伝説の武具に身を包んだルザロと対峙していた。

 ルザロの優勢に奇声をあげる《悪魔神官》達を背に、彼は一歩ずつ近づいてくる。と、彼が泉に踏み込んだ瞬間、突然苦しそうな声をあげて頭を抱えた。それでも彼は前進を止めず、ボクに迫ってくる。

 少しずつ近づいてくる死の予感。とてつもなく恐ろしかった。

 

 ふと、夢で見た、勇敢な一団の様子が思い浮かぶ。不利な状況をものともせず、凶悪な魔物に挑む彼らの姿。ボクにはとてもあんなマネは無理だ。

 

「ボクは……、勇者の器なんかじゃないな」

 

 殺気と共に迫ってくるルザロを目の前にして、ボクはそんなことを呑気に呟いていた。

 

 ――ここで、死ぬのかな?

 

 本物の勇者だったら、諦めることなく、起死回生の一手で鮮やかに逆転するのだろう。あの夢で見た男のように。

 その瞬間、ボクの脳裏に一つの言葉が閃いた。あの夢の中で、先頭に立っていた男が使った呪文、それをボクは思い出した。迷っている暇はなかった。不気味に吠えながら剣を振りかぶるルザロを前にして、ボクはとっさに大声で叫んだ。

 

「アストロン!」

 

 瞬時にボクの身体は鋼鉄よりも固くなる。ルザロの強烈な一撃をものともせず、ボクは泉の中に立ち尽くして、彼の攻撃を受け続けた。暫くの後、呪文の効果が消えるとボクは再び、アストロンを唱え、身体を硬化させる。泉に身を浸し続けているお陰か、疲労も痛みも感じることのないボクは、ルザロとの我慢比べに挑んだ。

 

「アストロン!」

 

 ボクの声が洞窟内に響く度に、ルザロの攻撃が繰り返される。やがて、際限のない展開にしびれを切らしたのは《悪魔神官》達だった。

 

「どうやら、ここまでのようだな」

 

 言葉と同時に巨大な火の玉がボク達に襲いかかる。アストロンの効果で全く無傷のボクに対して、まともにそれを受けたルザロはあっさりと吹き飛ばされた。泉から放り出された彼はそのまま気絶したようだ。ふと、彼の懐から何かが転がり落ちる。

 

「引くぞ、弟よ。この遊びは、もう、つまらん」

「なんと、兄者よ。こやつらを放っておくのか」

 

 虫の息の兵士達と洞主様、そして、ボクを代わる代わる眺めて、弟分が問う。

 

「俺達にとって大事なのは勇者殿だ。雑魚なんて放っておけ。それに……」

 

 ボクの方を向いてニヤリと笑う。その不気味さに背筋がぞくりと震えた。

 

「因縁の宿敵同士の再会というのも又、一興ではないか」

「そうか、そうか。兄者は面白い事を考えるのう」

 

 倒れたままのルザロを引き摺る二人の悪魔神官の周囲が輝き始め、魔法光に包まれる。

 

「リレミト!」

 

 呪文を唱えると同時に三人の姿が消え去った。後に残ったのは奇妙な静寂だった。

 アストロンの効果が切れたボクはほっとして、そのまま泉に膝をつく。泉の水の効果で、体力も気力も充実しているはずだが、窮地を脱した事から生まれる脱力感は抜ける事はなかった。

 

「少年、無事……か?」

 

 緊迫の状況からすっかり蚊帳の外だった洞主様が、ボクに声をかける。その声で、ボクは慌てて立ち上がると、彼の元へと駆け寄った。

 ボクの無事を確認した洞主様は、ほっと胸をなでおろしたようだった。だが直ぐに表情を引き締める。

 

「互いに聞きたい事は、たくさんあるだろうが、今は彼らの命を助ける方が先だ。手を貸してくれ、少年よ」

 

 洞主様の言葉に従い、ボク達は倒れ伏したままの兵士達を泉へと運ぶ。《悪魔神官》達とともに消えてしまったルザロの事が気になるが、今のボクの力ではどうしようもない。

 泉の水の力でどうにか命を取り留めた三人の兵士と洞主様とともに洞窟を出ると、ボクは《キメラの翼》を使って、ローレシア城へと飛んだ。《キメラの翼》を使えばその時点でボクの旅は終わる事になる。とはいえ、負傷した兵士たちや洞主様を放り出すわけにもいかない。

 僅かな逡巡の後で人生たった一度の旅を終わらせる事を決めたボクは、その瞬間、勇者見習いの資格を失い、ボクの試練は、波乱の幕を閉じたのだった。

 

 

 

2014/02/16 初稿

 

 

 


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