意外とあっさりテイストで、本編の終わりです。
喧嘩を売ってきた馬鹿な妖怪を散らして、もはや辺りには、静寂だけしか残っていなかった。
今、私の中には地の底に沈んでいくかのような不満も、煮えたぎるかのような怒りもなく、ただ、なにをしていたのだろうか、というちっぽけな疑問と虚無感だけに浸っていた。
別に、正直なことを言ってしまえば、私はあの妖怪が嫌いではなかったのだろう。
自分の目的のために手段を選ばず私を殺そうとしてきたことも、鬼である私に届かないという諦観を覚えながらも向かってきたようなその無鉄砲さも、嫌いなわけではない。
その姿は、とても人間に似ていて、彼がもし人間であったのならば退治されることも自身の弱さがゆえであると、そう納得して、無念のままに散っていくのも鬼として悪くはないと、本当にそう思っていたのだ。
そして、ただ、そう思わされた彼が妖怪であったことが、耐え難いほどに気持ち悪かった。
まるで人間のような手段と思想を持っていた妖怪。
気持ち悪いが、嫌いではない。
嫌いにはなれないが、耐えられないほどに気持ちが悪い。
そんな曖昧で、濁り切った想いが胸の内に溜まっていて、どうしようもなく後味が悪い。
鬼退治が結局流れてしまったことも、それに拍車を掛けていた。
そして、終わってしまえば新たに私の中に湧いてくる疑問があった。
いったい、彼ら、私に向かってきた人間たちを、どうすればいいのかということ。
こうして改めて見ると、彼らは鬼退治をしに来たわけではなかった。
彼らはただ、妖怪に騙されて殺されたのだ。
はっきり言って、この世界ではとてもとても普通のことだった。
もしかすると、人が鬼に向かってきたからこれは鬼退治である、とも言えてしまうのかもしれないが、人が妖怪に向かわされたことを鬼退治だと、私にはどうしても思えないのだ。
その気持ちは本物だった、けれど、その気持ちの源泉は偽物だった。
そんな彼らをわざわざ鬼退治に失敗したからと追いかけて殺しに行くのは、正直なところ、気が進まない。
いっそ、あの場で誰一人逃がすことなく殺していれば、こんな思いはせずに済んだのかもしれないが、そんなのは後の祭りで、後悔でしかない。
鬼に似合うものではないなと、頭を振って、酒を吞み、そんな思考を振り払う。
「さて、どうしようかな……」
殺しに行くべきか、行かざるべきか。
今更人を殺すことそのものに躊躇いはない。
けれど、鬼退治を理由にすることが出来ないのなら、どうして殺してしまうのか。
その動機を単純に気分とするには、そんな気分でもないのだから、自分自身に嘘をついてしまうことになる。
そんなことには耐えられない。
これが不機嫌な時であれば、なんとなく、といったような理不尽さで出合い頭に人を殺すような時もあるが、今は本当に虚無感しか覚えていない。
これでは、まるで事務的に人を殺すようなことになりそうなのだ。
そんな空虚な想いで人を殺すようなモノを、鬼とは言えない。
鬼は別に、人殺しを目的としているような存在ではないのだから。
悩みが酒の不味い肴になり、その場に座り込んでしばらく飲み続けて考える。
そうしていると、やがては良い具合に思考も体も火照ってきた。
煮詰まる思考と一向に先へと進まない問題。
ぐるぐるぐるぐると、そんな風にして頭を回している。
そして、
「あぁぁあぁあ! もう!!」
まとまらない思考といまだ人に向けて何も湧いてこない感情に、歯痒くなって叫んだ。
もう、考えることが面倒になった。
結果、私は、まず人間の村へ行ってから対応を決めようと結論付ける。
そもそもなにをそんなに真剣に悩んでいたのか。
鬼の生き様に悩みは無用の筈である。
考えるまでも無く、気の向くまま自由に歩んでいけばいい。
そして、私が立ち上がり歩き出そうとした時に、がさがさと草を分ける音と人の声がした。
「あのぉ、呪い師様?」
※ ※
「先程からしていた大きな音が止みましたが、鬼退治は成功したんでしょうか……?」
我ながら、ここまで人の接近に気付かないとは、感知能力云々の前にあまりに気が抜けすぎているのではないだろうかとも思う。
用心するなど鬼に合わないことだけれど、声を出されるまでそれに気付かないというのはその力そのものが疑われてしまうかもしれない。
人数は数人程度。
本当に様子を見に来ただけだったのだろう。
その表情は少しの不安と大きな期待しかなく、鬼に向かってくるような覚悟は欠片も無い。
それでも、ほんの少しだけ期待して発破をかけてみる。
「あっはは、馬鹿だね。人が鬼に勝てるとでも思ってたの?」
さぁ、あんたらの希望は消えたよ。
次はどうする? 全員で向かってくるの? それとも一旦引いて、また新しい策でも考えるの?
鬼退治はまだ始まってすらいなかったんだ。
さぁ、そろそろ始めてよ。
「ひぃぁ! お、鬼だ……。生きてるぞ……」
「呪い師様の姿も無い……。負けてしまわれたのか!!」
そして彼らは、呪い師という自分たちの希望の光が潰えたことを理解すると、私が考えてすらいなかったことを言い出した。
「あぁ、申し訳ありません、お鬼様! どうか、どうか我らを殺さないでください!!」
怯えることはまだわかる。
人の、鬼に対して行う正しい行動だろう。
けれど、
「お願いします!! もしも見逃してくださるのならば、一月に一度生贄として、一人を捧げましょう!」
「どうか、どうかお願いします!!」
鬼に対して命乞いをするとは、いったいどういうことのなのだろうか。
虚無感が徐々に抜けていき、今度は苛々とした感情が溜まっていく。
どうしてこうも思い通りに事が進まないのかと考えて、それも仕方がないと切り捨てる。
私の機嫌が悪化したことを敏感に察知して、さっさと逃げればいいのに、いまだに彼らは命乞いを続けていた。
一月に数人の生贄がどうとか、私を祀る祠を造るだとか、勘違いしたことばかり言ってくる。
よく考えてみて欲しい。
鬼が利を求めて人を殺すのだろうか、鬼が地位を求めて力を振るっているだろうか。
そんなこと、あるはずがない。
人に対してただひたすらに、理不尽であれ。
それが私の目指す鬼という存在なのだ。
理解されることなく破壊を振り撒き、人の掲げる善悪損得関係なく、人間の価値基準の全てを嘲笑うかのような存在であればいい。
だから、彼らの言っていることはどれもこれもが的外れで、私に対して一欠片も魅力の籠った申し出ではない。
ゆえに、
「もういいや」
そう言って、ようやく彼らをどうするか、ということを決める。
殺そう。鬼を理解していない彼らがむかついたから、殺してしまおう。
人にとって見れば、あまりに軽い理由であるが、鬼にとってはそれで充分な理由でもある。
理不尽だと言いたいならば言えばいい。それこそ鬼の本懐だと笑って言って殺してやる。
そして、無意味な命乞いを続ける彼らをさっさと殺そうと思った時
「な、なんだ!? もう一匹鬼が出たぞ!」
「う、うわぁああ!!!」
私の後ろに目を向けて、そう言って逃げていってしまった。
でも、今はそんなことはどうでもいいと思える。
後ろから感じる私への視線は今まで私の期待していたものを含んだそれで、今度は相手はちゃんと人間だった。
今思えば、鬼退治はずっと前から始まっていたのかもしれないけれど。
あの妖怪が仕組んだ偽物の鬼退治の中に、しっかりと本物が混じっていたのだから。
鬼への憧憬、鬼への畏怖、鬼への諦観、鬼への執念、全てがあった。
やっと、やっとだ、やっと今回の鬼退治が終わろうとしている。
私の望んだ、思い描いていたものとは随分と変り果て、遠回りしてしまったけれど、それもここまで。
先程の苛々が嘘のように消えていく。
自然と口からは笑いが零れそうだ。
そうして後ろを振り返り、問い掛ける。
「さて、始めようか、鬼退治。ねぇ、あんたはしてくれるんでしょう?」
そこでは、真っ直ぐ私を見返して、歪な形に成り果てた
※ ※
今の彼の姿は、誰かに彼が人か鬼かと問えば、皆が皆、鬼であると言われてしまうようなものだろう。
変質した体はそのままに、片腕が潰れ、私の力の圧に巻き込まれていたために、その大きくなった身体のあちこちが裂けてしまっていた。
私とそいつのどちらが鬼かと問われれば、人間はみな彼だと断言するような、そんな姿。
けれど、そのような姿であっても私は今、彼が人間にしか見えないし、事実彼は人間なのだ。
いくらその身が血濡れになっても、いくら私に勝てぬとわかっていても、
弱り果てた彼はただ一人でありながらも、怯むことなくこちらに向かって来ている。
以前も言ったが、鬼退治に必要なのは人数の問題ではなく、また、戦力の問題でもない。
それこそ、鬼退治へ向かう人間の数など千を集めて尚不足であるし、現在における最強の武具を纏ったところで意味はない。
だから必要なのは、私に向かってくるというその行動。
それこそが人の強さの証明であり、それだけで人による鬼の退治が始まるのだ。
それがどれほどちっぽけであろうが、それがどれほど無謀なものであろうが、人が鬼に立ち向かうということはただそれだけでも賞賛されて然るべきであるし、実際、まずその行動が出来なければ鬼退治などどうあっても始まらない。
今こうして、今にも崩れ落ちそうな身体であっても、半分妖怪のような身体であっても、その身に宿っているのは元の
だから、ゆっくりゆっくり足を引きずりながらもこちらに向かって歩いている人の姿をただ眺めていた。
その瞳はぼんやりとしながらもこちらを見つめ、歩みが止まることはない。
これだ、これこそ、鬼退治。
人が人によって、その手の届かぬ鬼へと手を伸ばすこの意志こそが、最も重要なものであるのだと、私は思っている。
私はただただ期待して彼を待つ。
「さぁ、来てよ人間。目的達成は目の前さ。私は逃げも隠れも退きも迎いもしない。ここまで来なよ、終わりにしよう!」
彼が私の目の前に来て、そして私が彼を殺して、それで本当に今回の鬼退治が終わる。
そして最後は
完膚なきまで理解させる、鬼と言うその存在を。
彼が近づくにつれ、なにか呟いていることがわかるが、掠れていて上手く聞き取れない。
しかし、距離はもうあと残り数歩までのところへ来ている。
私は酒を飲むことをやめ、両手を広げてそれを待った。
じりじり、じりじりとこちらに迫り、足跡と、彼の体から流れている血がその軌跡を造る。
彼はその少しだけ光の戻った目で、私の方を見ていた。
また一歩を、踏み出す。
じれったい、けれど、心地良い。
張りぼての鬼退治ではなくて、本当の鬼退治を受けているこの感覚。
今まで望んでいた、今までそうだと思っていたこの感じに、私は浸っている。
さぁ、もうあと一歩だ。
その足を踏み出して、彼が私の前に立つ。
瞳はしっかりとこちらを捕らえ、そして、潰れていない方の手を伸ばしてきた。
彼が私に触れた時、私が彼を殺して終わる。
いつも通り、私の勝ちで人の負け。
ゆっくりと迫ってきた、彼の大きく堅いものへと変わってしまった指先が、私の頬に触れる。
そして、私もその手を伸ばそうとしたその瞬間、彼の小さな呟きがはっきりと、聞こえた。
「……これで……萃香が、鬼……だね……」
その言葉に、私の身体はぴたりと止められた。
感動したわけではない。
そのような人情は鬼の私とは無縁だ。
ならば、どうして止まったのか。
「ねぇ、萃香。
続けられたその言葉を後に、茂吉はそのまま仰向けに倒れていく。
そして、
「っく、くくっ、っ! あは! あっはは!! ぁははははははははははははは!!!」
私は腹の底から混じり気なく、ただただ愉快だと、笑った。
気を失い、今度は立ち上がることすらなく茂吉のその姿を見ながら、ただ笑う。
その時に私はもう、彼を殺すつもりがなくなっていた。
なぜなら、
「ははは! くくっ、ははっ! あっはは、誇っていいよ!! 今宵の鬼退治、私の負けだ!!!」
今、この場で、この弱り死に体となったこの人間に、私は負けてしまったのだから。
※ ※
そもそも、鬼退治とはなんなのか。
鬼を退け治めることだ。
それは直接的に鬼を倒すだけが手段ではない。
鬼を倒すことは人が出来得る最も単純な退け方であり、人にとっては最も難しい治め方である。
しかし、別に鬼を討滅することだけを指して退治というわけではない。
こうして今、私は確かに『鬼ごっこ』での負けという形で退けられ、鬼を理解するということで治められた。
未だ百と八十数年の月日の生ではあるが、私にとって初めての負けである。
悔しくもあったがしかし、それをもって尚、私の口からは笑いがこぼれる。
なぜならば、今、確かにあの日誓ったことが果たせていることがわかって嬉しいからだ。
「あっはははは! ……あーあ。うん。ふふっ。それが解ったんなら、あんたの勝ちだよ。私は大人しく、退治されてやろうじゃない」
いまだに少し笑いながらも、私は血まみれで倒れている彼に背を向け歩いていく。
もう、ここにいても仕方ない。
鬼退治は終わり、ここで私のしたいこともなくなり、本格的にここに居る理由も、そしてそんな気持ちも、無くなってしまったから。
だから、もう、次の場所へ行こう。
それにそろそろ、夜が終わりそうだ。
雨もいつの間にか止んでいた。
日が少しだけ地平線から顔を出し、辺りは少しづつ明るくなっていく。
私はもう一度だけ
その時飲んだ酒の味は、しっかり覚えておこうと、ゆっくりと舌で舐めて、飲み込んだ。
次回、閑話。