逆行オイフェ   作:クワトロ体位

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第58話『帰宅オイフェ』

 

「オイフェ、着いたよ」

 

 デューの手を借りながら馬車を降りるオイフェは、数ヶ月ぶりに見るエバンスの城郭を見て、僅かに瞳を潤ませていた。

 

「やっと帰って来れましたね、デュー殿」

「うん。大変だったねえ、オイフェ」

 

 未だ歩行に支障が出る程、オイフェの肉体は回復しきっておらず、デューは甲斐甲斐しくオイフェを介助していた。

 二人の少年は、困難な旅路を終え、万感の想いで城郭を見つめていた。

 

 オイフェがレイミア、そしてガルザス夫妻により救出されてから一週間。

 分散先行していたデュー達とシアルフィ領にて無事合流したものの、一行は休む間もなくエバンスへ急行していた。

 急ぐには理由があったが、それでもこの行程は、苛酷な責め苦を負った少年の体躯を蝕んでいた。

 

「っ」

 

 ふらりとよろける。

 だが、その身体をそっと、背後から受け止める女武者が一人。

 

「大丈夫かい? 補佐官殿」

「え、ええ。ありがとうございます、レイミア殿」

 

 しっとりと艶めいた黒髪が顔に当たり、野性味ある女の香りが鼻孔をくすぐる。

 レイミアの顔を見ると、どこか安心感が湧くと同時に、犯罪を共犯するような罪悪感も感じていた。

 

「いいさ。ま、カラダが本調子になったら、たぁっぷり可愛がってやるから──覚悟するんだね」

「う……」

 

 野獣の眼光に諧謔味に口角を引き攣らせ、最後はややドスの利いた声でそう言ったレイミアに、オイフェはそれまでの情感が全て吹き飛び、言いしれぬ悪寒を感じていた。

 しかし、これは仕方ない。なにせ、共に地獄に堕ちると誓い合った矢先に、自らを犠牲にして彼女を逃したのだ。逆の立場で考えたら、まあ自分も相当怒ると思う。

 ダーナを脱出してから、その事については特に触れなかったレイミア。オイフェの負傷を慮っていたのもあるが、とはいえしっかりと根には持ってはいた。

 

 多分、復調したらぶん殴られる。

 その後、めちゃくちゃにされる。

 そのような予感がしたオイフェは、背筋をぶるりと震わせていた。

 レイミアの湿った怒りは正当なものではあるし、甘んじて受け入れるべき罰ではあるのだが、それでもあまりハードなアレコレは勘弁してもらいたい。そう思うも、覚悟を決めるしかないオイフェであった。

 

「まあまあ姐御、オイフェが無事でよかったじゃん。おいらもこの手紙シグルドさんに渡したくなかったからさ」

 

 そう言って間に入るデューは、懐から一通の書状を取り出しオイフェへ渡した。

 

「ごめんなさい。でも、必要な保険でしたから」

「それは分かってるけどさぁ……」

 

 書状を受け取りながらそう返すオイフェに、デューはしっかりと朋輩の瞳を覗いた。

 

()()はオイフェが直接みんなに伝えなきゃ駄目だと思う」

 

 天真爛漫なようで、相変わらず容赦なく核心を抉るデューの物言い。

 言われずとも。しかし代替手段を用意せず何が軍師か。

 と反論したくなるも、オイフェは苦い笑いを浮かべながら謝意を示すのみであった。

 

「補佐官殿。アタシは一旦外すよ」

「レイミア殿?」

 

 すると、レイミアがそう言った。

 不安げに視線を返すオイフェに、女傭兵は口角を歪めながら少年軍師の頬を揉む。

 

「アタシがいたままだと色々とややこしいだろ?」

「いひぇ、そんにゃことわ」

「まあまあ。ちゃんとアタシを紹介してくれようとするのは嬉しいけどさ……えっ……柔らか……なにこれ……」

「レ、レイミニャどにょ?」

「柔い……気持ちいい……美味そう……」

「あ、あにょ」

「……んっ! んんっ!!」

 

 ちょっと変なスイッチが入り始めたレイミアだったが、鋼の精神でかろうじて自制せしめる。

 少年のモチモチでツルツルの柔肌を丹念に味わうのを諦めたアラサー女傭兵の忸怩たる思い、推して知るべし。

 

「まあ、やることが山積みだしね」

 

 デューへオイフェの身体を預けながら居住まいを正すレイミア。実際、当面の仕事は山積みであるのは確か。

 小勢とはいえ二百を数えるレイミア隊がいきなり幕下に入ったのだ。流れの傭兵がふらりと加入するのとはわけが違う。

 当面の宿を手配するだけでも中々の大仕事だ。レイミアが直接監督せねば、余計な手間が増えるのは想像に難くなかった。

 

「そういうわけで一旦失礼するよ……デューの坊や。補佐官殿をしっかり支えるんだよ」

「うん。任してよ姐御。ていうかイチャつくのも程々にね」

「うるさい小僧だね」

 

 デューの髪をくしゃりと撫でつつ、レイミアはその場を後にした。

 

「オイフェ、大事ないか」

「殿下」

 

 レイミアと入れ替わるように、グランベル王太子クルトが現れる。

 既に変装(女装)は解いており、バーハラ王家のヘラルディック(紋章入り)サーコートを纏っていた。

 己を気遣うクルトに、オイフェはペコリと頭を下げる。

 

「殿下のおかげで問題ありません。ありがとうございます」

 

 オイフェ達がクルト達と合流した時。オイフェの肉体は簡単な応急処置が施されただけで、非常に痛ましい様子を見せていた。

 もちろん、クルトは即座に治癒魔杖にてオイフェの治療を行っていたが、リライブやリカバーは効果が絶大な反面、治癒対象者の体力を大いに消耗させる。

 通常は絶対安静が必要。しかし、オイフェがそれを拒否し旅路を続けていたのは前述の通りである。

 

「あまり無理はしないようにな」

「お気遣い感謝いたします」

「……」

 

 シグルドへは先程ノイッシュを通じ、オイフェ帰還、クルト来訪を伝えている。

 出迎えを待っている間、会話を続けるクルトだが、どこかその瞳には疑念めいたものがちらついていた。

 

「あら? ねえ、ミデェール。あれはオイフェじゃないかしら?」

「そのようですね姫様──なぁっ!?」

 

 すると、所用の帰りなのか、一人の女性が若い騎士を伴い現れる。

 ユングヴィ公女エーディンと、名実共に彼女の騎士であるユングヴィ弓騎士ミデェールだ。

 

「なに変な声出して。そんなに昨日のプレイ(調教)が忘れられなかったのかしら? ほんと、欲しがりさんなんだから……え……?」

 

 驚愕の声と共に硬直したミデェールを訝しむエーディンだったが、直後にオイフェの隣に佇む貴人の姿を見留め、自身もまた言葉を詰まらせる。

 エーディンよりも早くその存在に気付いていたミデェール。この時ばかりは、弓兵特有の高視力が仇となっていたのか、驚愕のあまり彫像の如く固まっていた。

 

「嘘……殿下……」

「やあエーディン公女。久しぶりだね」

 

 そのようなエーディンへ、クルトは茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。リング公爵を通じ、クルトとエーディンは社交界に於いて気心知れた仲ではあった。

 が、それでも予想だにしない人物であっただけに、エーディンは淑女の礼法(カーテシー)すら忘れ、只々恋人共々硬直するのみであった。

 

「あ、オイフェだ。やっと帰って来れたんだね……ってええっ!?」

「おっほほw開幕デューオイごっちゃんでぇすwww供給過多すぎてどうしてくれんのよマジで……マジで!?」

「どう見てもクルト殿下です。本当にありがとうございました」

 

 ちょうどその場に居合わせたアゼル&ティルテュwithいい男も、クルトの姿を見ると流石に驚きを隠せず。

 

「君は、確かヴェルトマーの」

「は、はい! ヴェルトマー公爵アルヴィスの弟でアゼルと申します!」

「それから、君は宰相殿の御息女だね。名前は確か……」

「はひ! ティルテュと言いましゅ! お目にかかれて光栄でしゅ殿下!」

「そして君はドズルのいい男」

「よろしくお願いさしすせそ」

 

 極度の緊張でテンパってしまうアゼルやティルテュを微笑ましげに見やるクルト。若者たちの初々しい姿が、とても好ましく思えた。

 

「そんなに畏まらなくても良いよ。ここはバーハラの宮殿ではないのだから。しかし、皆元気が良いね。将来の成長が楽しみだ」

「え、は、はい!」

「あ、ありがとうございマシュ!」

「エリートだから多少はね?」

 

 アゼルとティルテュは変わらず微笑ましい慌て方をしている。それが、クルトの心を和やかなものにしていた。

 

「……」

 

 しかし俯瞰して見ると、クルトは緩んだ表情に影が差すのを自覚した。

 ユングヴィ家、ヴェルトマー家、フリージ家、ドズル家の子女が一堂に会するこの陣容。更に、オイフェから事前に聞かされたところでは、イザーク王家の亡命も密かに受け入れており、加えて叛逆諸侯の陰謀を明るみにするべく、エッダ教主も抱き込んでいる。

 レンスター王太子も属州領の客将として在籍している上に、今日はノディオン王もエバンスに滞在しているとか。

 自分を含めたら、十二聖戦士の血統でダインとセティの一族以外は皆シグルドの元へ集っていることになる。

 

 これではどちらが叛逆者か分かったものではない。

 そう思ってしまうクルトの心情は、直系だけで見ても過半数の聖戦士が一つの旗の元に集うという、物騒なこの現状を認識すれば致し方ないのかもしれない。

 無論、陰謀の裏に蠢く暗黒教団に抗すると考えれば、これはむしろ過小戦力とも言えるが、それにしても。

 

(シグルドは本当に……)

 

 二つの、ある感情を抱くクルト。

 一つは、かのバルドの聖騎士が、本当に野心を抱いていないのかという疑惑だ。

 平民兵を正規兵として編成するという革新的な軍制、そして不相応なまでに充実した軍備。そう遠くない内に、シグルド軍は大陸最強の軍団に成長するだろう。それこそ武力を以てグランベルを、ユグドラルを平定しかねないほど。

 アウグストが謀反の疑いを持っていたように、クルトもまたシグルドの叛逆という猜疑心を抱いていた。

 

 もう一つは、シグルドが意図せずにそれを成している事の、嫉妬めいた警戒心。

 ある意味、こちらの方がクルトにとって衝撃だった。彼の天性のカリスマとも言うべき資質──王者の資質。

 それを見出してしまったクルトは、心の内に薄暗い感情を滲ませていた。

 

 国家の垣根を超えて集まった者達が、シグルドの為に力を尽くす現状。

 対し、己は配下の諸侯の叛乱を招き、バイロンら無二の忠臣を見捨て、おめおめと落ち延びている始末。

 何がグランベルの王太子だ。

 聖騎士一人の人望に負けているではないか。

 (おれ)のなんと情けない姿よ。

 

「……」

 

 クルトは自然とアゼルの赤髪へ視線を向けた。

 劣等感は罪悪感の記憶も呼び起こす。

 アゼルの兄、ヴェルトマー公爵アルヴィス。

 彼から見れば、己は母親を奪い取った悪人なのだろうか。

 いや、贖罪めいた気持ちを向けていても、きっとアルヴィスは自分を恨んでいるのだろう。

 叛逆の直接的な動機ではないにせよ、ある程度の後押しをした感情を持っているのは間違いなかった。

 

 クルトの視線に気付き、ちらりと視線を返すアゼル。

 やや険しい表情でじっと己を見つめ続けるクルトに、アゼルはおずおずと声をかけた。

 

「あ、あの、僕、何か失礼なことを……」

「バカアゼル! チラチラ見てたらそりゃ失礼になるわよ!」

「アゼルお前さっき俺が着替えてる時もチラチラ見てただろ嘘つけ絶対見てたゾ見たけりゃ見せてやるよよしはいじゃあケツ出せぶちこんでやるぜ嬉しいダルルォ!?」(一呼吸)

「レックスはいい加減自重しよ?」

「アンタさっきから全然噛み合ってないわよ」

「センセンシャル」

 

 とはいえ、息ぴったりなアゼルとティルテュを見ると、やはり和やかな気持ちになる。

 案外、くっつけば仲睦まじい夫婦になるのかも。

 そう思うと、クルトは奇妙なおかしみを覚えた。

 嫌悪感や困惑、不安が混同した感情が、彼らを見ていると幾分か和らぐ。ならば、シグルドに直接会えば、これはどちらに振れるのだろうか。

 

「殿下!」

 

 そうしていると、当のシグルドが大慌てで駆けてくるのが見えた。

 後ろにはキュアン、そしてエルトシャンもいる。

 息を切らせつつも、シグルドはクルトの間に立つと、見事な最敬礼を見せた。

 そのようなシグルドに、クルトは薄い笑みを浮かべる。

 

「どうやら奇襲に成功したようだね、シグルド総督」

「はい、まったく」

「なに、楽にしてくれ。非公式の訪問だからね、これは」

「はい、殿下」

 

 シグルドもアゼルやティルテュのように初々しい様子を見せているが、クルトの瞳は先程よりも険しい光が浮かんでいた。

 

「クルト殿下、お久しぶりです」

「殿下。父王カルフに代わり、不肖このキュアンが挨拶言上を──」

「エルトシャン王、キュアン王子も礼はいりません。どうか楽に」

 

 シグルドに続き礼を尽くそうとするエルトシャン、キュアンを、そう言って制すクルト。戸惑う若君達であったが、当然、彼のグランベル王太子が、なぜ突然エバンスへ現れたのか。

 一同はオイフェへと疑問の視線を向ける。

 

「オイフェ、よく帰ってきてくれたね。でも、これは一体……オイフェ、体調が良くないのか?」

「シグルド様、大丈夫です」

 

 帰還の挨拶を述べる前に、シグルドからそう言われたオイフェ。思わず、瞳が潤む。

 ああ、お優しいシグルド様。

 事の次第を問い質す前に、私の心配をしてくれた。

 だから、大好きなシグルド様。

 少年軍師は、消耗した肉体から、得も言われぬ陶酔感が沸き起こるのを感じていた。

 

「シグルド様。エバンスを不在にしてしまい申し訳ありませんでした」

「それはいいよ。それより、何故殿下がここにいるんだい?」

「それはこれからご説明します。ここではなくお城の大広間へ──」

 

 シアルフィ主従の会話。どこか、兄弟が久しぶりに出会ったような、そのような優しい空気が流れていた。

 

「……」

 

 クルトはそれを少しばかりの羨望の眼差しで見つめていた。

 自分も可愛がっていた臣下がいた。

 ヴェルトマー公爵アルヴィス。

 若くして父ヴィクトルから家督を受け継いた、灼熱の貴公子。

 彼が家督を受け継ぐ遠因となった負い目から、クルトは必要以上に政治的な忖度を施していた。

 しかし、目の前のシグルドとオイフェのような関係性は、終ぞ築くことは出来なかった。

 

 当然か。

 彼らのような、健やかな関係ではなかったのだから。

 不貞を働き、母親を奪ってしまった自分が、何を持って彼に償えるというのだろうか。

 

 自嘲げに口角を引き攣らせるクルト。

 薄暗く、湿った感情に苛まれていた。

 

 ああ、シギュン。

 今の私を見て、君は──

 

 

「オイフェ、おかえりなさい」

 

 クルトの耳朶に、どこか聞き覚えのある声が響いた。

 可憐で、儚く、神秘的な声色。

 慈愛に満ちた、精霊の少女の声。

 

「え……」

 

 美しくウェーブがかかった銀髪が、クルトの目に飛び込む。

 そして、その顔立ちは、かつて愛した女性と瓜二つだった。

 

「ディ、ディアドラ義姉様。まず兄上大好きっ子(オイフェくん)より先にクルト殿下へ御挨拶しなきゃ……」

「本当にクルト殿下がいらしていたのね……兄上大好きっ子……わたしのこと……?」

 

 先程の若者達と同様に驚きを露わにし、やや錯乱しているエスリン、ラケシスの姿は、もはやクルト瞳には映っていなかった。

 エスリンに促され、ディアドラはしずしずとクルトの前に進む。

 

「あの、御挨拶が遅れました。わたしはシグルドの妻、ディアドラと申します」

「……」

「あの、クルト殿下……?」

 

 それまでの若者達への対応と違い、呆然と立ち尽くすクルト。

 不思議そうに首をかしげるディアドラを、ただ黙って見つめ続ける。

 

「シギュン……」

「え?」

 

 そう呟いたクルト。

 母の名を呟くクルトに、ディアドラは僅かに驚きの表情を浮かべる。

 

「あの、なぜお母様の名前……を……?」

 

 どこか懐かしく、それでいて寂しい感情が乙女の内に広がる。

 それから、サークレットの下──額の(聖痕)が、じわりと熱を帯びていくのを感じた。

 

「お母様……君の母親は、シギュンなのかい?」

「……はい」

 

 何か、予感めいたものを感じたディアドラ。潤んだ瞳でクルトへ応える。

 クルトはゆっくりとディアドラの髪へ手を伸ばし、美しい銀髪を撫でた。彼の胸には、ヘイムの聖痕が熱く脈動していた。

 

「あ、あの、殿下」

 

 何やらただならぬ気配を受け、シグルドはディアドラの傍へ行こうとした。愛するディアドラ、そして、彼女の胎内に宿っている自身の分身の為に。

 クルトに何か思うわけではなく、これはシグルドの本能的な行動だった。

 

「?」

 

 しかし、誰かに袖を引かれ動きを止める。

 

「オイフェ?」

「シグルド様、大丈夫です」

 

 シグルドの袖をひしと掴み、真摯な瞳を向けるオイフェ。まるで、これから何人たりとも不可侵で、神聖な儀式が行われるとでも言うように、愛する主君を止めていた。

 

「ディアドラ……」

 

 少々不安げに二人を見つめるシグルド。

 しかし、情愛が感じられる空気は、どこか男女のそれとは違うものが感じられた。

 

 まるで、生き別れた親子が出会ったような──

 そのような、慈しい空気。

 

「似ている。シギュンに……」

「……」

 

 ディアドラを撫でながら、瞳を潤ませるクルト。

 気持ちよさそうに、目を細めるディアドラ。

 僅かな接触。そして、血の共鳴。

 それだけで、二人は互いの存在に気付いていた。

 

 お互いが、父と、娘であることを。

 

「あなたは……」

 

 頬に当たるクルトの手へ、ディアドラは自身の手をそっと重ねた。

 

「わたしの、お父様なのですね」

 

 ディアドラは静かにそう言った。

 

「ああ……!」

 

 それを聞いたクルトは、思わず膝から崩れ落ちた。

 滂沱の涙を流し、嗚咽を噛み殺すように泣き崩れていた。

 

「……お父様。泣かないで」

 

 泣き崩れるクルトを、慈しむように抱くディアドラ。

 彼女も、一筋の涙を流していた。

 

 美しい絵画のような光景が現出する。

 まるで、贖罪する咎人を、精霊が慈愛の心で、その罪を赦しているかのように。

 

「オイフェ。お前は……」

 

 これを知っていたのか?

 そう言おうとするも、シグルドは目の前の光景から目が離せなかった。

 ディアドラ。

 呪われた血を引く忌子。

 そして、聖なる血を引く神子。

 戸惑いながらも、シグルドはずっと、目の前の慈しく、罪深い光景を見守り続けていた。

 

 

「おい、エルト」

「ああ。分かっている」

 

 皆がクルトとディアドラを見守っていた中で、キュアンとエルトシャンはひっそりとその輪から外れた。

 小声でそうやり取りした両雄は、これから始まるであろうグランベル王国──否、ユグドラル全土を巻き込んだ動乱の気配を敏感に感じ取っていた。

 

「そうか。ならば、もはや何も言うまい。フィン、ちょっとこっちへ来い。父上へ使いを出さねばならん」

 

 騎兵指揮官らしく、オイフェの話を聞く前に行動を起こそうとするレンスターの若殿の姿。フィンを呼びつけ、あれこれと指示を下していた。

 もちろん、キュアンはオイフェの話が何であろうと、最後の最後までシグルドに付き合うつもりだった。義兄であるシグルドを助けるのはもちろん、それがレンスター王家の、槍騎士ノヴァの直系として相応しい生き方だと確信していたし、何よりその方が面白そうだった。

 

「……分かっているさ、キュアン」

 

 エルトシャンは物憂げな表情から、何かを決意するように口元を引き締めていた。

 獅子王の(たてがみ)が、僅かに逆立っていた。

 

「エルト兄様……」

 

 そのようなエルトシャンを、ラケシスはじっと、何かを耐えるように見つめ続けていた。

 主君の用命を聞いているフィンの、熱を持った視線に気付かぬまま。

 

 

「……っ」

 

 一方のオイフェ。

 やっとここまで来た。

 そう想うと、身体の節々に痺れを感じていた。

 苛酷な旅路を続けていた肉体が、安息と共に限界を迎えようとしていた。

 

「オイフェ、だいじょうぶ?」

 

 オイフェが体重を預けてきた事で、デューは心配げにそう言った。

 ともすればいつ気を失ってもおかしくないオイフェの状態。

 しかし、少年軍師は、まだ意識を落とすつもりはなかった。

 

「大丈夫です」

 

 目の前の光景は、少年の肉体を補強せしめる情感があった。

 さあ、気合いを入れ直せオイフェ。

 これから、大事なお話をシグルド様達へお伝えせねばならないのだから。

 そう己を叱咤する。

 

「……」

 

 それから、オイフェは改めてクルトとディアドラの姿を見つめた。

 とうとう出会ってしまったヘイムの父子(おやこ)

 それを見て、逆行軍師は何を想う。

 

 守護(まも)らねば。

 

 許されぬ行いの末に生まれた慈しい父と娘。

 そして、聖なる血に混じる忌まわしき暗黒の血統。

 常人ならば、葛藤に苛まれ、大義と情愛の間に揺れ動くだろう。

 

 しかし、それでも愛した人たちの幸せを願うオイフェ。

 葛藤は既にない。情愛と怨念が、今のオイフェを形作っていた。

 感情を優先するという非合理は、少年の心を歪なものにしていた。

 

 それは、いつかは清算しなければならない、少年の矛盾でもあった。

 だからこそ。

 

 レイミア、ごめんなさい。

 私は、全てが終わったら──

 

 

 

「……?」

 

 ふと、オイフェの肩に何者かの手が置かれた。

 それから、少年の鼻孔を掠める、中年男性の加齢臭。

 嫌な予感がしたオイフェは、恐る恐る振り向いた。

 振り向いてしまった。

 

 

「待ちくたびれましたぞオイフェどの

 

 

 振り向けばアウグスト。

 喜悦が限界を超えたのか、湿った吐息と共に口角を歪に引き攣らせ、脂ぎった嗤いを浮かべていた。

 

 オイフェは気絶した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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