逆行オイフェ   作:クワトロ体位

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第41話『精通オイフェ』

 

 グラン暦772年

 グランベル帝国東方辺境領イザーク王国

 ティルナノグ

 

「セリスさまが出てこないの」

 

 シグルドがバーハラで非業の死を遂げてから十一年。

 勇者達の遺児、そしてシグルドとディアドラの遺児であるセリスを抱き、オイフェらはここティルナノグへ落ち延びていた。

 臥薪嘗胆、雌伏の時を過ごす日々。

 もっとも、シャナン王子の元、反帝国勢力の隠れ里となっているティルナノグ。征服者であるドズル家の反乱軍狩りから逃れるにはうってつけの場所となっており、住民らの協力もあってか、一行は比較的穏やかな時を過ごしていた。

 

 セリス達が居を構える屋敷──村長の別宅を借り上げた屋敷で、聖戦の遺児達は健やかに、そして逞しく成長しており、セリスは十三の年頃となった。

 そして、あくる日の朝。

 朝食の時間となっても自室から出てこないセリスに、扉の前で悲しげな表情を浮かべるラナの姿。

 その周りには、ラナの兄レスター、スカサハとラクチェの兄妹、そしてデルムッドの姿があった。

 

「どうしたのだお前達」

 

 中々一階の食堂へ下りてこない子供達を心配したオイフェ。二階へ上がると、そのような光景に出くわしていた。

 

「セリスさまが部屋から出てこないんです。何度も呼びかけているのですが……」

 

 妹の頭を撫でながら、同様に困った顔を浮かべながらそう言ったレスター。

 父譲りの緑髪を特殊な染料で青く染めていたレスターは、いざという時にはセリスの影武者となるよう心がけている。故に、この頃はセリスの一挙一足を常に気にするようになっていた。

 無論、これはオイフェら親達が強いたわけではなく、レスターの自発的な行いだ。

 このようなあどけない子供にまで、そのような悲壮な覚悟を強いているのは、実母であるエーディンを始め、オイフェ達の胸を痛ませていた。

 

「そうか。レスター、何か心当たりはあるのか?」

「さあ……」

 

 ともあれ、今はセリスだ。

 以前は子供達は皆同じ大部屋で就寝していたのだが、流石に思春期を迎えた男女を同じ部屋に放り込むわけにはいかず。レスターとスカサハ、デルムッドの男子組と、ラナとラクチェの女子組でそれぞれ部屋が別れており。

 そして、セリスだけは、あえて他の子供らと別格の待遇となり、専用の個室を与えられる事となる。

 これについては、オイフェの方針に基づいている。

 グランベル解放の旗頭、総大将となるべく、然るべき教育を施す上で、明確な一線を引く必要があったのだ。

 

 とはいえ、就寝時以外は、セリスは皆と行動を共にしていた。

 勉学や鍛錬、もちろん食事もだ。

 セリスは誰にでも優しく、そして積極的に子供たちの輪に加わっていた。傍から見れば、寝る時以外のセリス達は、仲の良い兄弟姉妹と言っても過言ではない。

 だからこそ、この事態は、オイフェにとって些か解せない出来事だった。

 

「セリスさまが、入ってくるなって……」

 

 半泣きでそう言ったラナ。

 事の経緯を聞くと、いつまでも起きてこないセリスを心配し、ラナが部屋のドアをノックしており。

 そして、強い口調でそのように言われたのだとか。

 

「わたし……セリスさまに、嫌われちゃったのかな……」

「ラナ、泣かないで。セリスさまもちょっと機嫌が悪い日だってあるよ」

 

 とうとう大粒の涙を零し始めたラナを、一生懸命慰め続けるレスター。

 そしてその様子を見つめる子供達も、悲しげに表情を暗くさせる。

 オイフェもまた痛ましい思いを抱きつつ、ラナの柔い髪を撫でた。

 

「ラナを嫌っての事じゃないさ。きっと、何か理由があるはずだ」

「オイフェさま……」

 

 泣き腫らす顔でオイフェを見上げるラナ。

 たまらず、デルムッドとラクチェも、ラナへ慰めの言葉をかけた。

 

「そうだぞラナ。セリスさまが俺たちを嫌うはずがないぞ」

「そうよ!」

「たぶん、ええっと、なにか嫌な夢を見たとか」

「そうよ!」

「もしかしたら、ちょっと具合が悪いだけかもしれないし」

「そうよ!」

「あとはそうだなあ……でも昨日は普通だったし、ほんと何があったんだろ」

「そうよ!」

「ラクチェ、おまえほんとマジで……」

「そうわよ!」

 

 噛み合わないデルムッドとラクチェ。

 見れば、ラクチェのおめめはぐるぐると渦を巻いており。

 剣豪少女は、最初からこの状況にテンパっていただけだった。

 

「……?」

 

 オイフェはふと、先程から黙って俯くスカサハを見留める。

 悲しそうに頭を垂れているのかと思いきや、その頬は少しばかり朱が差していた。

 

「スカサハ。何か心当たりがあるのか?」

「……」

 

 オイフェにそう言われると、益々顔を赤くし、俯くスカサハ。

 スカサハは何事も正直に話し、隠し事も一切しない素直な性格だ。

 それだけに、この様子は何かおかしい。

 

「皆の前では言い辛い事なのか?」

「……」

 

 コクリ、と、僅かに首肯する。

 そうか、とオイフェもまた頷いた。

 

「お前達は先に下に降りていなさい」

「え、でも……」

「いいから行きなさい。もたもたしているとまたエーディン様に叱られるぞ」

 

 朝食を準備しているエーディンの名が出ると、スカサハを除く少年少女達はおずおずと食堂へ向かう。

 

「ラナも行きなさい。レスターも」

「はい……」

「わかりました。ほら、行くよラナ」

 

 オイフェは最後まで残っていたレスターとラナへ、そう優しく言葉をかける。

 ちらちらと後ろ髪を引かれるラナの手を、レスターはしっかりと繋ぎ、やがてデルムッド達の後へ続いた。

 

「さあ、話してごらん」

「……」

 

 人払いが済み、極力小声でそう話すオイフェ。

 スカサハは尚も逡巡するも、やがてポツポツと口を開いた。

 

「あの、昨日ラナがセリスさまと一緒に、セリス様の部屋で勉強をしてて……それで、俺も一緒にいたんですけど……」

 

 セリスが自室で自習をしている時、大抵はラナも一緒に学習するのが常であり。

 時折、スカサハやレスターもそれに参加しているのは、オイフェもよく知っている。

 いつもと変わらぬ光景。

 しかし、スカサハは懸命に言葉を選ぶように、しどろもどろに言葉を続けた。

 

「それで、セリスさまが羽ペンを落としちゃって……ラナが拾ったんですけど……」

 

 ここまでは特におかしな事はない。

 しかし、スカサハは相変わらず頬を染め、恥ずかしそうにしている。

 

「その、その時、ラナの胸が……」

「胸?」

 

 二次性徴を迎えた子供たち。当然、ラナやラクチェも、少女の身体から乙女の肉体へと成長し始めている。

 同時に、最近エーディンが嬉しそうに娘達の下着を繕っているのを思い出していたオイフェ。

 どうも月のものも始まったみたい。ラナは辛そうだけど、ラクチェは全然平気そうね。というかあの子はもう少しデリカシーを持つべきだわ。などと、センシティブな話題も交えており。

 プライバシーが無いように思えるが、いずれ聖戦を戦う子女達の健康状態の把握、その必要性は、エーディンも十分に承知している為、全体を統括するオイフェにだけは共有していた。

 

 それらを鑑みると、少しは話が見えてきた。

 

「セリスさま、わざとじゃないと思うんです。でも、ラナの胸が、セリスさまに見えてしまったみたいで」

 

 一気にそう捲し立てるスカサハ。

 夕刻、湯浴み後の、就寝前の一時。自習の時間はいつもその時間だ。

 そして、就寝前のラナは、エーディンお手製のゆとりのあるシュミーズを纏っていた。

 もちろん、その下には何も着ていない。

 

「それで、セリスさまの、その……あの……」

 

 それから、スカサハは茹で上がった顔で言葉を詰まらせた。

 両親由来の優れた剣才を開花させ始めたスカサハ。母アイラから、卓越した見切りも受け継いでいたのか、その動体視力も並々ならぬものであり。

 故に、見た、というより、見えてしまったのだろう。

 セリスの性の萌芽を。

 

「……だから、ラナと会うのが、恥ずかしくなったんじゃないかって」

「そうか。よく話してくれたな」

 

 ポンポンとスカサハの頭を撫でるオイフェ。

 最初は、何か深刻な問題を抱えていると思っていたが、聞いてみれば思春期特有の生理現象なだけであり。

 

「あ、あの、俺も、ラドネイと稽古した時に……!」

 

 そして、スカサハはセリスだけに恥をかかせまいと、自身の赤裸々な体験まで語り始める。

 微笑ましい友情にして、無垢な忠誠心の発露。

 

「セリスさまと同じような事があって。それで、その、その日の夜に」

「ラドネイの夢でも見たのか?」

「……はい」

 

 二次性徴を迎えたのは少女達だけではなく、少年達も同じだった。

 そして、オイフェは胸に暖かな思いが湧き起こるのを感じる。

 そういえば、セリス様もスカサハも、そしてレスターやデルムッドも、最近は少し声が低くなっていたな。毎日顔を会わせていると、僅かな変化にも疎くなってしまう。

 そう思いつつも、やはりどこか嬉しそうに表情を緩ませるオイフェ。

 彼らの成長が如実に感じられ、ただ嬉しく思う。

 

 それに、ラクチェが挙動不審だったのも、双子特有の感応力で、大凡を察していたからかもしれない。

 まあ、どちらにせよもう少し踏み込んだ性教育を施す必要がある。そう思い、その手の教育に関しては全てエーディンに放任していた事を反省するオイフェ。

 いや、しかし、やはり自分が口を出す必要はないのかもと、オイフェは思い直した。エーディンはエーディンで、その辺りの機微はよく心得た女性なのだ。

 とまれかくまれ。

 

「分かった。私がセリス様とお話をしよう。スカサハも食堂で待っていなさい」

「わかりました……」

 

 そう言って、スカサハを促すオイフェ。

 

「スカサハ」

 

 そして、トボトボと歩くスカサハの背に、優しく声をかけた。

 

「何も恥じる事はない。お前達が健やかに成長している証だ。ただ、あまり人に話すような事じゃないのも覚えておきなさい」

「……はい」

 

 スカサハは赤らめた顔に、少しだけ精悍な男の顔を覗かせていた。

 

 

「さて」

 

 それから、オイフェはゆっくりとドアをノックした。

 スカサハはよくエーディンの手伝いをしており、洗濯を任される事が多かったので、汚した下着を自分で洗い、諸々を隠蔽する事が出来たのだろう。

 だが、セリスも家事の手伝いは時折しているが、洗濯は任されていない。

 なので、手助けをする必要があった。

 

「セリス様、オイフェです。入りますよ」

 

 鍵は掛かっていないので、すんなりとドアを開ける事ができた。

 そして、ベッドの上で、毛布に包まるセリスの姿を見留める。

 

「セリス様」

「……」

 

 無言を貫き、もぞりと毛布の中で身を捩らせるセリス。

 苦笑をひとつ浮かべながら、オイフェはベッドの縁に腰をかけた。

 少しだけ、栗の花の匂いがした。

 

「とりあえず、お召し物を替えませんか? そのままではさぞかしご不快でしょう」

「……うぅ」

 

 そう言うと、セリスはようやく毛布から顔を出した。

 少し泣き腫らした瞳。

 オイフェは努めて穏やかに話を続ける。

 

「もちろん、エーディン様や皆には内緒にしておきますよ。お召し物は私が洗濯しておきますので」

「……オイフェ」

 

 先程のスカサハと同じ様に、赤らんだ顔でオイフェを見るセリス。

 その顔は、父シグルドより、母ディアドラによく似ていた。

 

「さあ、起きてください」

「うん……」

 

 もじもじとしながら起き上がったセリス。

 しかし、その後、ポロポロと涙を零した。

 

「セリス様、これは恥ずかしいことではありません。セリス様が大人になってきた、喜ばしいことなのですよ」

「違うんだ、オイフェ」

 

 スカサハの時と同じようにそう諭すオイフェ。

 だが、セリスはふるふると頭を振り、何かを懺悔するようにか細い声を上げる。

 

「僕は、最低だ」

「何を仰る」

「でも、僕は」

 

 即座にセリスの言葉を否定するオイフェ。

 しかし、セリスは続ける。

 

「僕、ラナをそんな目で見てるつもりはなくて……でも……でも……」

 

 切ない表情を浮かべるセリス。

 ぎゅっと胸を抑え、若く青々しい感情を吐露した。

 

「でも、ラナの事を考えると、胸が苦しくなって。それで、あんな夢まで見て……」

 

 ああ、と、オイフェはどこか納得したような表情を浮かべた。

 なんとまあ、お父上に似て不器用で、生真面目なお方だと。

 セリスの外見はディアドラにそっくりだったが、中身はシグルドに瓜二つだった。

 

「ラナに嫌われると思ったら、余計苦しくなるんだ」

「……」

 

 聖戦の系譜を受け継ぐ光の公子。

 しかし、今のセリスは、まだ普通の少年だった。

 純粋で、真っ直ぐなラナへの想い。

 きつく当たったのは、純真な想いの裏返しだった。

 

「そうですか……」

 

 オイフェはそれを好ましいと思った。

 互いの家格が釣り合うとか、相応しい相手だとか、そのような話ではない。

 ラナが、幼少の頃から、セリスを想い続けていたのを知っていたからだ。

 ひとつ呼吸を置く。

 そして、オイフェは若き主君へ滔々と語り始めた。

 

「少し、私の昔話をしましょうか」

「え?」

 

 悲しそうな表情から、少々の好奇心を浮かべるセリス。

 オイフェは話を続ける。

 

「私も同じでした。ある日、朝起きてみると、まあ下着が濡れておりまして」

「オイフェも?」

「はい。皆も同じですよ。とはいえ、あまり人には話す事ではありませんが」

「オイフェも、その、女の子の夢を見たの?」

「そうですね。よく覚えてはいませんが、シアルフィ城の侍女の夢だったのは覚えています」

「シアルフィの?」

 

 オイフェの言葉を興味津々といった様子で聞くセリス。

 どこか、秘密を共有する父子のような光景だった。

 

「オイフェが好きだった人?」

「いえ、そういうわけでは」

「じゃあ、どうしてその人の夢を見たの?」

「恥ずかしながら、侍女達が湯浴みをしているのを覗いてしまいまして」

「オイフェ……」

「あ、いや、自分から覗きに行ったわけではなくてですね」

 

 取り繕うかのようにそう言ったオイフェに、セリスはじとっとした目を向ける。

 苦笑しつつ、オイフェは昔を懐かしむように話を続けた。

 

「バイロン様……セリス様のお祖父様が、面白いものを見せてやると言って、それで付いて行ったら、まあそのような光景に出くわしたのです」

「それは……ごめん、オイフェ」

「セリス様が謝る事ではないですよ。覗いてしまったのは事実ですし」

 

 懐かしきシアルフィの人々。

 今は亡きバイロンとの思い出。

 このようなシアルフィ、バイロンの話は、セリスにとってとても貴重な話であった。

 

「お祖父様はどんなお方だったの?」

 

 何度か聞いた話だったが、改めてバイロンの話を聞きたくなったセリス。

 オイフェはそのようなセリスへ、慈愛に満ちた微笑みを向けた。

 

「厳しいお方でした。ですが、とても優しいお方でもあり、とても楽しいお方でもありました。そして、とても強いお方でした」

 

 それから、いくつかのエピソードを交え、バイロンの事を話すオイフェ。

 シアルフィ家の直系でありながら、シアルフィを全く知らぬまま育ったセリス。

 少し、羨ましそうな表情を浮かべた。

 

「そうなんだ……僕もお祖父様に会いたかったな」

 

 そう言ったセリス。

 己に流れるシアルフィの血、そしてバルドの血。聖騎士の血族。

 だが、求めてやまない家族は、もう目の前のオイフェだけだった。

 

「……いつか、必ず、シアルフィへ帰りましょう」

 

 オイフェはじっとセリスを見つめながら、何度も繰り返した誓いの言葉を述べる。

 シアルフィを取り戻すのは、セリスとオイフェにとって悲願にして宿命であり。

 そして、帝国の圧政から、民衆を救う為。

 そして、暗黒の世を、光で照らす為に。

 

 オイフェは、改めて誓う。

 セリスを、その時まで必ず守り通し、強く育て上げる事を。

 

 そして、自身の秘めた復讐を果たす事も──。

 

 

「もっとお祖父様の事を聞かせてよオイフェ」

 

 そう言ったセリスの表情は、色々と悩んでいた事を忘れたような、明るい表情だった。

 やっといつものセリスが戻ってきたのを受け、オイフェは苦笑をひとつ浮かべていた。

 

「そうですな。ですがその前に、まずはお召し物を替えましょうか。さ、下着を脱いでください」

「う……うん、わかったよ」

「それから、心配してくれた皆、ラナへちゃんと謝るのですよ」

「うん……わかったよ、オイフェ」

 

 羞恥の感情を覗かせながら、セリスは確りと頷いた。

 そのようなセリスを、オイフェは変わらず慈愛の眼差しで見つめていた。

 

 

「まあ、セリス様は私よりマシですよ。私が初めて下着を汚した時なんか、バイロン様が『祝いじゃ!』なんて言って、城中に言いふらしていましたからね」

「えぇ……その、ごめんオイフェ……」

「セリス様が謝る事じゃ……いえ、やはりこれはちょっと無いですね……」

「うん……ごめん……」

 

 セリスとオイフェの、主従の慈しいひとときであった。

 

 

 

 

 


 

 グラン暦758年

 イード砂漠北方

 グランベル軍宿営地

 

 試胆の時だ。

 そう思いながら、大天幕を潜るオイフェ。

 逆行人生における最大の山場。ここを失敗すれば、オイフェは計画の大幅な修正を余儀なくされる。

 クロード神父との会談は、あれはある意味では簡単であった。

 要はクロードが真実の確認をする為、ブラギの塔へと向かうよう仕向ければ良いだけだった。

 少々個人的な感情が籠もってしまったのは反省点であったが、あの会談はほぼオイフェの思惑通りに進んでいた。

 

 しかし、これから臨むグランベル王国重鎮との会談──シアルフィ公バイロン、ユングヴィ公リング、そしてグランベル王国王太子クルトとの会談は、政治的には初心であるクロードとのそれとはわけが違う。

 海千山千の宮廷政治家らと堂々と渡り合っていたバイロンとリング。特にリングの政治感は、あの宰相レプトールと五分するほどだ。

 その二人からとっくりと政治のイロハを教えられたクルト。その見識は侮れるものではない。

 

 おそらく、此度の陰謀がなければ、数年以内には宰相レプトールを始めとした反クルト派は、政治的に真っ当な手段でバーハラ王宮から一掃されていただろう。

 彼らを“クルト王子暗殺”という強硬手段に走らせたのは、もちろん裏に暗黒教団大司教マンフロイの策動があったのもあるが、それ以上に、このままではジリ貧であるという切迫感も多分に作用していたのだ。

 

「……」

 

 急に心細くなった。

 バイロンに再会するのは、オイフェにとって楽しみでもあり。政治が絡まなければ、バイロンはオイフェにとって親ともいえる好ましい人物だ。

 だが、此度の会談はそのような家族の団欒を許さない、シビアなものだ。自分一人だけで、果たして成し遂げる事が出来るのか。

 あの何者に対しても斜に構えるレイミア。

 彼女は、今は天幕の外でベオウルフと待機している。

 オイフェは思う。レイミアがいれば、この局面で如才なく援護射撃をしてくれるだろうにと。

 

 しかし、レイミアではあまりにも身分の格差がある為、オイフェと同席することは出来ない。

 それに、此度の訪問は、名目上はシアルフィ家育預であるオイフェが、当主であるバイロンの陣中見舞いに訪れたという体だ。

 余人に立ち入る隙は無い。例えレイミアがオイフェの愛妾を自称していてもだ。

 

(いや、腹をくくれ)

 

 密かにそう気合を入れるオイフェ。

 同時に、やはりレイミアは魔性の女であると、そう再認識していた。

 レイミアが隣にいる日々。その内、オイフェはどこか安心感を覚えていたの自覚した。

 元々駒として雇用したのに、気付けばある種の依存心が芽生えてしまった。

 これは危険だ。

 危険な兆候だ。

 下手をすると、レイミアの存在が命取りになるとも限らない──。

 

 オイフェは、レイミアの冷徹な心の奥底に僅かに芽生えた、暖かな火に気付くことはなかった。

 無意識に、その暖かな火に惹かれていた自分に、気付くことはなかった。

 現時点では。

 

 

「オイフェ、久しいな!」

 

 そう思っていると、奥から老齢の貴族が現れた。

 その足取りは壮健そのもの。漲る活力が溢れている。

 バイロン・バルドス・シアルフィは、息子同然に可愛がっているオイフェへ、嬉しそうに歩み寄っていた。

 

「お久しぶりです、殿様──わあ!?」

「ハッハッハッハ! なんだ、まだまだ軽いな! ちゃんと飯は食っているのか?」

 

 挨拶もそこそこに、バイロンはオイフェを軽々と抱き上げた。

 太い腕に抱えられたオイフェは、驚きと共に、懐かしい感覚により思わず相好を崩す。

 ああ、バイロン様だ。殿様だ。

 厳しいけれど、強くて、優しい殿様!

 

「おいバイロン。オイフェが可愛いのは分かるが、それくらいにしておけ」

 

 そう言ってバイロンを嗜める二人目の老貴族。

 ユングヴィ公爵リング・ウルル・ユングヴィは、やれやれといった体でバイロン達を眺めていた。

 

「やかましい。オイフェはシアルフィの子だぞ。他人にとやかく言われたくないわ」

「ほほー。オイフェ、バイロンはこう言っておるが、お主にとって儂は他人なのかのう?」

「い、いえ、そのような。ああ、ユングヴィ卿、お久しぶりでございます」

 

 抱っこされながらリングへ挨拶を述べるオイフェ。

 幼少の頃、両親を亡くしたオイフェ。育預としてシアルフィ家の一員となってからは、シグルドやエスリンに連れられ、良くユングヴィへも遊びに行っていた。

 そこで、利発なオイフェは、リングからも可愛がられることとなる。

 

「ユングヴィ卿か……なんじゃ、随分と他人行儀じゃのう」

「あ、いえ、その……えっと、リング様」

 

 オイフェがそう呼び直すと、リングは好々爺といった表情を浮かべ、オイフェの柔い髪を撫でた。

 

「いやしかし、しっかりと成長はしているようだな。筋肉が付いてきた。嬉しく思うぞ」

「い、いえ。あの、そろそろ下ろして……」

「なに、遠慮するでない。昔はこうやって、よく儂の膝の上に座っておったではないか」

「は、はい……」

 

 バイロンは近くの床几へオイフェを抱え、そのまま膝の上に乗せており。

 属州領補佐官という公的な身分を持つオイフェであっても、子供──いや、孫のように扱っていた。

 リングもリングで近所のおじいちゃんといった空気でオイフェに接しており、「菓子でも食うか?」と構ってくる始末だった。

 

(やり辛い……)

 

 懐かしい顔ぶれで暖かな気持ちになったオイフェだが、本来の目的を考えると、この状況は宜しくない。

 というか、距離感が近すぎる。

 これではシリアスな話題は切り出し辛い。

 

「懐かしいな。こうやって儂と一緒に風呂も入ったことも覚えておるか?」

「え、ええ。よく覚えています」

 

 その後、侍女の湯浴みを覗きに行こうと誘われたこともね! と、オイフェは密かに思うも、それは言わないでおいた。

 

「そう子供扱いするでないバイロン。オイフェが可愛そうじゃろ。飴食べるか?」

「何を言っておる。オイフェが子供じゃないのは儂も知っておるわ」

 

 そう言って、バイロンはニヤリと諧謔実のある笑みを浮かべる。

 

「表にいる女傭兵、アレがお前のコレだろ?」

「えっ!?」

 

 小指を立てながらニヤニヤと好色な視線を向けるバイロン。

 戸惑うオイフェに構わず、爺共の少年イジりは続く。

 

「いやはや、どんなおなごかと思えば、中々良い趣味をしているではないか」

「え、いや、えっと」

「オイフェ。まあお前の年頃なら女を覚えておくのも良いが、ありゃちと()()が立ちすぎておらんか?」

「いやリング。年増を選んだのは正解だ。()()()のおなごは年増に限る」

「そうかのう。オイフェには同じ年頃の娘が良いと思うのじゃが」

「違うぞリング。お主だってそれなりにおなごに精通していると思うが、儂が思うに、やはり初めては年増の包容力に包まれた方が上手く()くのだ。精通だけに」

「ちょちょ、ちょっと待ってください!」

 

 唐突にスケベトークをおっ始めた爺二人。

 オイフェは慌てて取り繕うばかり。

 同時に。

 

(……流石です。殿様、リング様)

 

 やはり、一筋縄では行かない。オイフェがただの陣中見舞いに訪れたわけではないのを、どこか察している節がある。

 故に、このような茶番めいた空気を作り、オイフェを試しているのだろうか。

 もっとも、半分、いや八割くらいは、ガチでオイフェを可愛がっている節もあったが。

 

(さて、どのように話を切り出すか……)

 

 バイロンとリングは、聖戦士の直系であり、老練な政治家でもあるのだ。

 これから始めようとする会談で、果たしてどれだけ主導権を握れるのか。

 そもそも、彼らのペースに嵌っている時点で、それがどれだけ難しいのかも。

 オイフェはそう思考する。

 だから、何かしらの切っ掛けがほしかった。

 

 すると、早々にその切っ掛けが訪れた。

 

「なにやら楽しそうですね、バイロン卿、リング卿」

 

 気品のある声が響く。

 バイロンとリングはそれを聞くと、即座に立ち上がり、腰を深く折った。

 

「あ、これは」

 

 オイフェも慌てて拝礼をしようとしたが、バイロンに抱えられている現状、満足な礼を取る事ができない。

 山吹色の長髪を壮麗に靡かせた貴人は、そのようなオイフェに穏やかな笑みを向けていた。

 グランベル王太子、クルト・アールヴヘイム・バーハラだ。

 

「殿下。粗相をお許しください。何分、私めの子が訪れておりまして」

「良いのですよバイロン卿。常の様子で構いません」

「はっ。格別なご配慮に感謝致します」

 

 そう言って、クルトはバイロン達の対面にある床几に座る。

 それを見た後、バイロン達も床几へ腰をかけた。

 

「このような無礼をお許しください。私はヴェルダン属州総督補佐官、オイフェ・スサールと申します。クルト殿下に拝謁を賜る名誉、真に光栄な思いでございます」

 

 バイロンに抱っこされた状態ではあるが、オイフェは真摯な表情でクルトへ挨拶口上を述べる。

 それを意外そうに見つめるクルトやバイロン。

 どうやら、この少年は場の空気に呑まれまいとしているようだ。

 

「構いませんよ。オイフェ補佐官」

 

 あくまで嫋やかな笑みを崩さず、オイフェの無調法を許すクルト。

 この場合、家族の団欒に割って入ったクルトの方が、無作法の誹りを受けてもおかしくはなかった。

 此度オイフェの訪問。クルトへの謁見は、明日の予定だ。

 だが、オイフェが無頼の傭兵を引き連れ参陣したのを、クルトもまた見留めており。

 

 それ故、興味が湧いた。

 この少年は、本当は、どのような意図でこの場に訪れたのだろう。

 ただの陣中見舞いなら、護衛をつけるにしても、もっと少人数のはずだ。

 しかし、引き連れた傭兵団。護衛というより、物騒すぎる“戦力”だった。

 

 公的な場所での謁見より、私的な場所で話をしてみたい。

 このようなクルトの内意を受けたバイロンとリングは、こうして必要以上にくだけた空気でオイフェを出迎えていたのだ。

 

「オイフェ補佐官も、常の言葉で話をしてください」

 

 にこやかにそう言ったクルト。

 その言葉を聞き、オイフェの眼光は、柔らかな少年のそれではなく。

 使命、悲願、宿望。そして、復讐。

 様々な想いを秘めた、軍師の瞳に変わっていた。

 

「殿様……バイロン様。下ろしてください」

 

 オイフェが纏う空気が変わった。

 それを感じたバイロン。頷くと、オイフェを膝から下ろした。

 クルトの前へ跪き、オイフェはその凛とした瞳を向ける。

 

 そして、オイフェの口上が始まった。

 

 

「クルト殿下。殿下には、我々と共にグランベル──属州領へ落ち延びて頂きたい」

 

 

 場の空気は、もはや先程の呑気な空気に戻る事はなかった。

 

 

 

 

 

 


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