逆行オイフェ   作:クワトロ体位

39 / 62
第五章
第39話『世界オイフェ』


 

 アグストリア諸公連合

 ノディオン王国

 

 ノディオン王国の首府、ノディオン城の厩。

 グラン暦758年が明け、人々が新年を祝うのもひと段落したこの頃。

 早朝のノディオン城の厩は、そこかしこで霜柱が立つ程冷え込んでいたが、そこに佇む二人の男女の周りだけは、どこか暖かな温度が保たれていた。

 

「さあ、行くわよフィン」

「はい。御伴します。ラケシス様」

 

 ノディオン王女ラケシスは、厩舎から白毛が美しい自身の愛馬を引き、鞍に跨りながら気合十分といった表情を浮かべる。

 気合が入りすぎているのか、その頬は少し赤みが差している。

 姫騎士の気合に応えるは、レンスターの従騎士フィン。彼もまた、故国から連れてきた栗毛の愛馬に跨り、少しばかり浮ついたような、赤らんだ笑顔を浮かべていた。

 

「それ!」

 

 ラケシスが馬を走らせ、城門から出る。

 しなやかに馬を走らせるラケシスを追いかけるように、フィンは手綱を操り馬を走らせていった。

 ラケシスの遠乗りにフィンが付き合うのも、これが三回目。最初は馬の扱いに優れたレンスターの者ですら引き離すラケシスの馬術に、フィンは付いていくのがやっとだった。

 しかし、二回目にはすぐに追いつくようになり、三回目の今ではラケシスと馬を並走させるにまで至っている。

 短期間でめきめきと馬術を向上させるのは、彼がレンスター騎士として相応しき技量を身に着けたいという向上心もあったが、どちらかというと彼自身のある欲求が働いたのいうのが正解だろう。

 

「ラケシス様! 今日はどちらまで!?」

「エバンスの国境近くまで!」

 

 そう言って、ラケシスは楽しそうに馬を駆けさせる。

 美しい金髪を風に靡かせるラケシスの横顔を、フィンは眩しそうに見つめていた。

 

 

 

 

「あの従騎士と一緒だと、よく笑うようになったな」

 

 ラケシス達が遠乗りに出かける様子を、ノディオン城の城閣から見つめるは、ここノディオン王国の主──黒騎士ヘズルの血を受け継いだ、金獅子の王。

 

「嫉妬かエルト」

「違う。妙な事を言うなキュアン」

 

 獅子王エルトシャンは、からかうように口角を歪める盟友──レンスター王国王太子、キュアンへ不機嫌そうにそう言った。

 

「過保護すぎるのも良くないぞ。兄妹は他人の始まりとも言う。適度な距離で見守るのが兄としてのあるべき姿だとは思うがな」

「しかし、最近は街道の往来も増えている。この間も傭兵の集団がエバンスへ向かったという情報があるのだぞ」

「大方オイフェが集めている募兵の口だろう。エバンスに行けばノイッシュやレックス(いい男)が上手いこと躾けるさ。それに、何かあっても妹姫殿はウチのフィンが死んでも守る。そういう風に育てたからな」

「……」

 

 得意げに調子でそう述べるキュアン。澄まし顔で用意された紅茶に口をつけるその様子に、エルトシャンは増々仏頂面を深める。

 とはいえ、確かに己は妹を妙に気にかけ過ぎているのではと、自覚するところもあった。

 

「……ラケシスはノディオン王家の庶子だ。あまり苦労はさせたくない」

 

 そう言って、エルトシャンは窓際から離れ、キュアンの対面に備えられたソファへ腰を下ろす。

 端正な顔立ちにやや憂いを帯びたエルトシャンの表情。しかし、その奥底に秘められたある感情は、対面に座るキュアンは気付くことはなかった。

 

 エルトシャンの実母、ノディオン正妃が病に没した折、女官であったラケシスの母が傷心のノディオン王を慰めた事で、ラケシスは生まれた。

 身分低き者であったラケシスの母は、王の子を身籠った後、王家への畏れからかその姿を消す。

 

 そして、幾年かの歳月が流れた。

 ラケシスの母を諦めきれなかったノディオン王は、ついには母子を探し出し、宮廷へと迎え入れる事となり。

 エルトシャン十七歳。ラケシス十二歳。

 初めて出会った兄妹は、ひと目で互いが血を分けた肉親だと悟り、家族としての親愛の情を通わせ──。

 

 その時から、兄妹はその親愛の情で、互いの禁忌の感情に蓋をするようになった。

 

 いつから恋をしたのだろう。

 やはり、初めて会ったあの時だろうか。

 

 そのような感情を内々に秘める若き獅子王。

 先代ノディオン王は、息子の禁断の恋を看破したのか、レンスターから少々強引にグラーニェとの婚姻を取り付け、異論は許さないかのようにエルトシャンへ家督を譲り、病没した。

 

「だが、ラケシスばかり構っていると、グラーニェが煩いんじゃないか? あいつ、小さい頃から俺にまで口喧しくてな。何度尻を蹴飛ばされたかわからん」

「……生憎、お前が心配するような事は何もないよ」

 

 キュアンとグラーニェの幼少時分の思い出を聞かされ、エルトシャンは少し表情を緩める。

 レンスター有力貴族の娘であったグラーニェは、幼少期からレンスター王宮へ度々出入りしており、幼いキュアンとよく遊ぶ仲だった。

 それ故、親友とはいえ他国の王妃にも気安い感情を向けている。

 

「良く模擬戦に付き合わされたよ。下手な騎士よりも強いんじゃないのか、グラーニェは」

「ノディオンへ来てからはあまり剣を振っている姿を見ていないのだがな。アレスを産んでから体調も崩してしまったし……」

 

 グラーニェの怒涛の連続斬りからの追撃、そして軽妙な待ち伏せ戦法に翻弄されていたキュアン。

 散々それに苦しめられていたのを思い出したのか、少々げんなりとした表情でそう言った。エルトシャンは苦笑しながら友に応えていた。

 

「まあ最近はよく稽古をしているようだが」

 

 そう言って、エルトシャンは窓際へと立つと、中庭へと目を向ける。

 ワンピース調の動きやすい稽古着で木剣を振るグラーニェの姿が、そこにはあった。

 そして、相手を務めるのは、こちらも軽装で木剣を構える、キュアンの愛妻エスリン。

 

 “よーしそれじゃあ十本目いっくわよーエスリン!”

 “待って。なんでそんなに元気なの? ていうかもう休ませ”

 “しゃあっ! 禁断の竜裂二度打ち!!”

 “あっぶな!? ちょっとは加減しなさいよ莫迦ぁ!!”

 

 息も絶え絶えなエスリンに対し、グラーニェは元気一杯。

 容赦のない打ち込みを見せるノディオン王妃に、レンスター王太子妃はたじたじといった体である。

 

「なあ、普通逆じゃないのかこれ」

「……」

 

 妻達が猛然と剣稽古で汗を流しているのに対し、旦那連中は呑気に茶をすする有様。

 ふとした疑問を浮かべるキュアンに、エルトシャンは黙して語らぬのみである。

 

「しかし凄い効き目だな。オイフェの薬草は」

「……」

 

 そして、病弱だったグラーニェが、見違える程の壮健さを見せているのを、感心するかのように言うキュアン。

 オイフェが用意した薬草の薬効。いささか()()が良すぎる。

 そう思ったエルトシャンは、またも訝しげな表情を浮かべていた。

 

「なあキュアン。シグルドはどこまで──」

 

 ふと感じた、少年軍師の底知れぬ何かを感じたエルトシャン。

 疑念にも似た言葉を、つい親友へと吐き出す。

 

「シグルドは(はかりごと)を巡らせるような男じゃないぞ。巡らせる事ができんとも言うが」

「それは良く理解っている。というか、お前はもう少し言葉を選べ……シグルドは義に篤い男だし、ノディオンの……俺の敵じゃない。それは理解ってはいるのだが」

 

 親友の言葉を先読みするかのように、遮りながらそう断じるキュアン。エルトシャンは尚も言葉尻を濁す。

 

「だが、オイフェは……」

 

 しかし、ウェルダン戦以降のシグルド──属州総督領の動き、もっといえば、総督補佐官であるオイフェの動向は、エルトシャンもおいそれと看過できないでいた。

 

「オイフェがシグルドを傀儡にしているとでも言いたいのか?」

「だからお前はもう少し言葉を選べ……そういう事を言いたいわけじゃないが、それに近い事が起こっているのではないかと思ってな」

 

 そう言って、エルトシャンはもう一人の親友の姿を思い起こす。

 つい先日、新年の祝いでキュアン夫妻と共にノディオン城を訪れていたシグルドとディアドラ。

 獅子王は幸せいっぱいといった姿を見せていたシグルド夫妻が、何か大きな──とてつもない計謀に巻き込まれているのではないかと、不穏めいた何かを感じ取っていた。

 そして、それに大いに関わっているのが、あのオイフェではないのかとも。

 

「何が言いたい?」

 

 そう言ったキュアン。こちらも、少し怪訝な表情を浮かべる。

 シグルド達がエバンスへ帰城しても、ウェルダンの山賊対策を共に当たるキュアン達だけは、ノディオンへ残っている。

 いや、そういう名目で、エルトシャンはそれとなくキュアンをノディオンへ留めていた。

 深まる疑念を、シグルド抜きで話をしたかったからだ。

 

「キュアン。覚えているか? ノディオンエバンス間の街道で」

「ああ。オイフェが立案した“敵対勢力を効果的に撃滅する布陣”だな」

 

 やや剣呑な空気が漂う中、エルトシャンとキュアンは以前オイフェが進言したある出来事を思い起こす。

 

「ただの図上演習(ウォー・シミュレーション)だと思っていたが、直後にハイラインの軍勢が攻め寄せて来た。オイフェはハイライン軍が来る事を予想していたのではないか?」

「それはそうだろう。オイフェはあのスサール卿の孫だぞ。あらゆる事態を想定していてもおかしくはない」

 

 ウェルダン侵攻の正当性を証明するべく、エルトシャンを訪れていたシグルド一行。

 既に一連の侵攻を問いただすべくノディオンを発っていたエルトシャンと街道で邂逅した一行は、そこでオイフェが簡易的な図上演習を提案し、エルトシャンとキュアンを巻き込んで様々な想定を共有していた。

 

「想定していた仮想敵が具体的すぎる。お前やシグルドには言ってなかったが、オイフェが想定した軍勢はハイライン軍の編成とほぼ同じだったのだぞ」

「では、お前がハイラインの馬鹿王子を討ち取り、その後のイムカ王の調停までオイフェの想定通りだと?」

「……」

 

 キュアンにそう言われ、エルトシャンは押し黙る。

 ハイライン王子、エリオットを先の戦で討ち取っていたエルトシャン。

 当然、ハイライン王ボルドーは、愛息子を喪った怒りで即座にノディオンへ兵を向けようとしていた。

 しかし、狙ったかのようなタイミングで、アグストリアの盟主イムカ王が、ノディオンとハイラインの紛争の調停に出る。

 

 火事場泥棒的な振る舞いをするハイラインの非は、余人が見ても明らかであり、イムカ王に同調するようにアンフォニー王国やマッキリー王国からも調停の使者が来る始末。

 周りに味方がいない事を悟ったボルドー王は、渋々ではあるが調停を受け入れ、ノディオンから幾ばくかの賠償金を得る事で手打ちにした。

 

 喧嘩両成敗の形となったわけだが、実質的にはハイラインの暴走でアグストリアとグランベルの全面戦争にまで発展しかねなかったのだ。

 エルトシャンはイムカ王から内々ではあるが、功を労う言葉を賜っていた。

 

 しかし、シグルドがエバンスへ入城した時点で、エバンスからアグストリア各地に密使が出ていた事を、エルトシャンは後々になって気付く事となる。

 密使がどのような内容を携えていたのかは不明だが、ノディオンとハイラインの調停に何かしらの関わりがあるとしか思えなかった。

 

 それに。

 

「……」

 

 エルトシャンは、図上演習が終わった際、オイフェに言われたある一言を思い出す。

 

 “ああ、近い内に主シグルドを交えて狩猟会をしたいものですね。ラケシス姫もご一緒だと尚更華やいだものになるでしょう”

 

 笑顔でそう言った少年軍師。今を思うと、その笑顔は無垢な少年にあるまじき、悍ましいものが感じられた。

 そして、エルトシャンは否応なしに思い起こす。

 ラケシスと初めて出会った際に、開かれたハイライン王家との狩猟会を。

 

 前日、エリオット王子から公衆の面前で母親を愚弄されたラケシス。前ノディオン王を誑かした女狐とまで言われ、激高したラケシスは容赦なくエリオットを打擲するも、その時はエルトシャンが間を取りなし、一応の和解を果たしていた。

 が、その後に開かれた狩猟会で、ラケシスはエリオット王子に獰猛な狩猟犬をけしかけられる事となる。事故を装ってラケシスへ報復を果たそうとしたエリオットを、またもエルトシャンが寸出の所で妹姫を救っていた。

 

 忘れていたわけではないが、風化しつつあった憎悪を呼び起こされたエルトシャン。

 そして、忘れられない、妹姫への狂おしい恋慕の情。

 それを()()されたのではないかと、この頃ラケシスへの想いが深まるにつれ、エルトシャンはそう疑念を浮かべるようになった。

 その感情さえなければ、ハイラインとの戦いで、エリオット王子を討ち取るまでには至らなかったのではないかと。

 戦場で見た、愛する妹へ手をかけようとした不届き者の顔。

 その顔を見た瞬間、エルトシャンは猛然と魔剣ミストルティンを振るっていた。

 

 エリオットを討ち取った後、エルトシャンは封印していた妹への想いが増々強まるのを自覚していた。

 以前、シグルドとディアドラの婚姻の日、ラケシスへ夫を迎えるよう言い放った事は、このもどかしい想いをなんとか誤魔化そうとしてたから。

 しかし、あの少年軍師は、それすらも見透かしていたのではないか。

 

 だから、こうして──。

 

「まあ想定通りだからなんだ。世は並べて事もなし。確かにオイフェは何やら色々と動いてはいるが、シグルドの不利益になるような行動はしていないと思うぞ」

 

 湿った情感が沸き起こる中、キュアンの言葉で我に返るエルトシャン。

 キュアンは続ける。

 

「それに、シグルドがこのままグランベルで力を持つのは、我がレンスターにとっても不利益ではない」

 

 一瞬、冷徹な為政者の顔を覗かせるキュアン。

 レンスター王国を背負う若き狼の思惑を、獅子王は見逃さず。

 

「トラキア王国との戦争にグランベルを……シグルドを巻き込むつもりか?」

「せっかく手伝い(いくさ)をしたのだ。それなりの見返りはあって然るべきだと思うがね」

 

 目下、レンスター王国が抱えるトラキア王国との確執。

 どちらかが絶滅しない限り、トラキア半島に渦巻く殺伐とした因縁は晴れないだろう。

 そして、キュアンは自身の手で、この因縁に決着をつける腹積もりでいた。

 

 レンスター、マンスター同盟だけでは、強靭なトラキア王国を滅する事は叶わず。

 ならば、大国グランベルの力を、レンスターの利に沿うように借りるしかない。

 キュアンの父、レンスター王カルフが、ただ息子の恋慕の為にシアルフィと縁戚を取りまとめた訳ではないのは、エルトシャンも十分に察していた。

 

「まあ、大体は父上の思惑だがな。俺やエスリンは本当にシグルドを助けたいと思ってウェルダン戦に参じたぞ」

 

 しかし、為政者としての顔を一枚めくれば、純粋に親友(とも)を想うノヴァの末裔としての顔が現れる。

 

「情勢がどう動こうが、俺は最後までシグルドと共に槍を並べよう。俺はレンスター王族である前に、槍騎士ノヴァの末裔なのだ」

 

 高潔な聖戦士としての矜持。

 そして、義兄であり親友であるシグルドの為に、その義を貫く事を誓うレンスターの王子、キュアン。

 その姿が、エルトシャンには少しだけ眩しく見えた。

 

「俺は……」

 

 エルトシャンは想う。

 主家への忠。

 親友への義。

 そして、家族への情。

 そのどれかを選べと言われたら、果たして自分は──。

 

「ま、お前はお前の信じる道を行けばいいさ」

 

 そのようなエルトシャンの胸中を慮ってか、キュアンは滋味のある口調でそう言った。

 

「俺の信じる道……」

「そうだ。オイフェが何を謀っているのかは知らんが、俺やシグルドはお前の意志を尊重するよ。例えどのような事になろうとも」

 

 誰が為に戦うのか。

 それが肝要だ。

 

 そう言って、キュアンは少しだけ諧謔味のある笑みを浮かべた。

 シグルド軍は、国家や家に固執している者はいない。

 皆、誰かの為に剣を取り、槍を奮って来たのだ。

 そして、それはあのオイフェも同じ。

 言外に、そう伝えていた。

 

「ただ、とりあえずは妹離れをした方がいいと思うがな。ところでウチのフィンなのだがな、あいつは今は従騎士だが、ああ見えて実はそれなりに家格は良くてな」

「お前という奴は……」

 

 やや強引に弟分を推すキュアンに、エルトシャンもまた少しだけ口角を引き攣らせていた。

 

 

 

 

「フィン、お腹が空いたわ。ここで一休みしましょう」

「はい。ラケシス様」

 

 遠乗りに出たラケシスとフィン。

 エバンス領との境にある小川に到着し、馬を一休みさせるついで、自身らも休息を取るべく川べりにて腰を下ろす。

 敷物を敷き、持参した弁当を広げるフィンの手際。少しばかり焦っているのか、見習い騎士のたどたどしい仕草に、ラケシスは小さな微笑みをひとつ浮かべていた。

 

「あの、これは私が作ったのですが……」

 

 おずおずといった体で、サンドイッチを差し出すフィン。

 断面が少しばかり崩れており、挟んであるハムやレタスも形が悪い。

 ラケシスはそれをつまむと、黙って口の中へ放り込んだ。

 

「……四十点ね」

「そ、そうですか……」

 

 もぐもぐと咀嚼し、そう言ってのけたノディオンの姫。

 金獅子の姫君の採点に、レンスターの若武者はがっくりと項垂れる。

 

「でも、この間よりはマシね。それなりに美味しいわ」

「そ、そうですか!」

 

 ラケシスの微妙な褒め方にも、嬉しそうな顔で応えるフィン。

 己の言葉ひとつでコロコロと表情を変えるフィンに、ラケシスは面白い人、といった感情を抱いていた。

 イーヴやアルヴァ、ノディオンの騎士達は杓子定規的な反応しか見せず、ラケシスを完全に子供扱いしている。

 

 しかし、フィンだけは決して己を子供扱いせず。

 立派なレディとして扱ってくれる。

 ここだけは、兄の──大好きなエルトシャンと違っていた。

 そして、己の言葉に初心な反応を見せるのは、フィンだけだった。

 もっとも、レディの扱い方は、スマートなものではなかったのだが。

 

「あ、あの、何か?」

「別に」

 

 じっとフィンの顔を見つめていたが、ふいと顔をそらす。

 ラケシスはもくもくとサンドイッチを頬張り続けていた。

 

(……わたしって嫌な奴だ)

 

 フィンが己に向けている感情は、乙女はそれとなく気付いていた。

 身分違いも甚だしい失敬な感情ではあるのだが、今のラケシスにとって、それはある想いから()()するにはちょうどよいものだった。

 

 わたしは、エルトシャンが好き──

 兄としてではなく、一人の男として──

 

 エルトシャンが妹への想いに懊悩していたように、ラケシスもまた兄への想いに悩み苦しんでいた。

 エリオットから救ってくれた時。

 いや、それより前、初めて出会ったあの時から。

 説明のつかない、切ない感情が、ラケシスの中で渦巻いていた。

 

 だが、それは言うまでもなく禁忌の感情。

 近親など、とんでもない事なのは、余人に言われなくても十分に理解っている。

 だからこそ、辛い。

 辛い想いに苦しんでいた時に、出会った。

 レンスターの、純粋な従騎士に。

 

「……」

 

 彼もまた、乙女をひと目みた時に、焦がれるような想いを抱いてしまったのだろう。

 そして、その慕情に、乙女は逃避するかのように身を寄せた。

 己を慕う心を、己が慕う心を隠滅する為に利用した。

 

 傍から見れば、最低な女だ。悪女っていうのかしら、こういうのって。

 

 最初は、からかい半分の逃避。しかし、フィンと交流を続ける内に、幾ばくかの罪悪感も感じるようになった。

 フィンのあどけない笑顔を見る度に、乙女の心は揺れ動く。

 こんな感情を抱くようになるなんて、思ってもいなかった。

 

「……」

「あ、あの、どちらへ?」

 

 いたたまれない気持ちになったのか、ラケシスはサンドイッチを食べ終えると、そのまま黙って立ち上がる。

 

「レンスターの騎士は、レディが花を摘む所にまでエスコートするよう教わるのかしら?」

「はあ、花を摘むなら私もてつだ……あ、いや、その、あの、いえ、そういうのじゃ!」

 

 やや天然気味な反応を見せるフィン。

 それを見て、ラケシスは毒気を抜かれたような、綻んだ笑みを見せた。

 

「馬鹿ね、貴方って人は」

「は、はい……」

「そんな遠くまで行かないから、ここで待ってて」

「は、はい!」

 

 顔を真っ赤にさせてあたふたと慌てるレンスターの従騎士へ、乙女は軽やかな足取りで近くの森へと足を運ぶ。

 歩きながら、先程までの自身の感情を咀嚼していた。

 

(ズルい女ね、わたしって)

 

 居心地の良いフィンという陽だまり。それが、乙女の狂おしい感情を慰めていた。

 いつか、エルトシャンへの感情を完全に断ち切る時が来るだろう。

 でも、それは想像するだけで、乙女の胸を切り裂かんばかりに苛む。

 

「ズルい女ね、わたしって……」

 

 つい、そう独りごちる。

 乙女は、己に芽生えた感情に、ただ振り回される日々を過ごしていた。

 

 

 

「ん……」

 

 小川から少し離れた場所、森の中。

 尿意を覚えていたのは確かではあったので、ラケシスは手早く用を済ましていた。

 淑女たるもの、野で用を足す動作も瀟洒なものであるのだが、それはそれとして人に見られてはならぬのは絶対の是である。

 

「さてと」

 

 金糸の刺繍が施された下着を履き直し、スカートをたくし上げる。腰に下げた短剣も確認し、身だしなみを整えた。

 手水が無いので、早く小川へ戻り手を洗いたいものだ。

 そう思い、ラケシスはその場から離れようとする。

 

 その時。

 

「おやおや、これは眼福……」

「ッ!?」

 

 不気味な声が響く。

 瞬間、ラケシスは誰何の声を張り上げようとした。

 

「おっと、大きな声を出してもらっては困りますね」

「ァッ!?」

 

 しかし、ラケシスはそれ以上声を出すことができなかった。

 全身が金縛りにあったかのように硬直し、それ以上動くこともできない。

 

「ふっふっふ……いけませんなぁ、供も連れずにこのような所へ……」

「……ッ!?」

 

 薄暗い森の奥から、一人の男が現れる。

 薄汚れた緑のローブを身に纏う男の表情はよく見えない。

 しかし、悍ましい怨念めいたオーラが、男の周囲を漂っていた。

 

「クククク……ヴェルダンの一件から、こうして身を潜め続けた甲斐があったものよ……」

「ッッ!!」

「ああ、無理に声を上げない方がよろしいですよ。ラケシス姫」

「ッッ!?」

 

 自身の名を呼ぶ男の姿に、ラケシスは恐怖を滲ませた瞳を向ける。

 何かしらの術を使ったのか、男が近付くにつれ、ラケシスの硬直は強まっていった。

 見ると、男の周囲には同じようなローブを纏う数名の男達もいた。

 

「サンディマ様、術の準備は整えております」

「うむ。汚名返上の機会だ。抜かるでないぞ」

「はっ」

 

 そう言って、部下と思われる者が森の奥へと消える。

 突然発生したこの異常な出来事に、ラケシスは慄くばかりだった。

 サンディマと呼ばれた男──ヴェルダン王国を破滅寸前まで追い込み、暗黒教団の尖兵として蠢いていた魔道士サンディマは、ラケシスへ悪意が籠もった嗤いを浮かべていた。

 

「突然の無礼、平にご容赦して頂きたい。しかし、我らの悲願の為……貴女には少しばかり協力して頂きます」

 

 サンディマはそう言うと、残った配下の暗黒魔道士へ目配せをする。

 意を受けた魔道士達は、ラケシスを拘束すべく縄をかけた。

 

「ッッ! ッッッ!!」

「聞きたい事は沢山あるでしょうな。しかし、知っても意味がない事だ。貴女はこれから我々の操り人形になってもらうのだから」

「ッッッ!!!」

 

 ラケシスの敵意を受けても尚泰然とするサンディマ。

 暗黒教団の秘術、“洗脳術”の準備が整えられた森の奥へ連行される乙女へ、つらつらと言葉をかけていた。

 

「ようやく判明したシギュンの娘の居所……しかし、エバンスは異様なまでに守りが固い。ですが、友好国であるノディオンの姫──ラケシス姫、貴女なら容易くシギュンの娘を誘き寄せる事が出来るでしょう」

「ッッッ!!!」

「何、事が終わったら貴女の身柄は丁重にノディオンへ送り返しますよ。もっとも、アグストリアも我が神の贄となる運命ですが」

「~~ッッ!!」

 

 先のヴェルダンでの陰謀が失敗し、潜伏の日々を過ごしていたサンディマ。しかし、教団の悲願──聖者マイラの血を引く娘を得るまで、イード砂漠へ帰還する事は出来ない。

 生き残った配下を使い、シギュンの娘──ディアドラの居場所を、苛烈な残党狩りから逃れながら捜索していたサンディマは、ついにその居場所を突き止めていた。

 しかし、手堅い防衛体制が整えられたエバンス城は、手配書が出回ったサンディマでは忍び込む事すら難しく。

 それに、常にエバンス城最強の戦力──聖騎士シグルドが、ディアドラの側にいる。

 うかつに手が出せないと悟ったサンディマは、更に潜伏を続け、なんとかしてディアドラを拐かす手段を練っていた。

 

 そして、機会が訪れる。

 最近、妙にレンスターの若党と遠乗りに出かけるノディオンの姫の存在。

 それが、サンディマにとって光明であり、陰謀成就の手段となっていた。

 

「怖がる事はありませんよラケシス姫。少しばかり……夢を見ていただくだけだ」

 

 森の奥へ連れられたラケシス。簡易的な祭壇が拵えられたその場所へ誘われると、サンディマは洗脳を施す為の儀式を始めた。

 

「さあ、ラケシス姫……我が瞳を見るのだ」

「ッッッ」

 

 暗い、海の底のようなサンディマの瞳。

 その黒い瞳を見る内に、ラケシスの意識は徐々に遠ざかる。

 

(ああ、助けて……助けて、エルト兄様……!)

 

 薄れゆく意識。

 その中で、乙女は想い人の名を呼ぶ。

 しかし、それに応える者はいない。

 

(助けて、助けて……兄様……たすけて……)

 

 徐々に、ラケシスは闇に飲まれる。

 己が己でなくなる感覚が、ひどく悍ましいものに感じられ、全身から冷えた汗を流す。

 乙女の思考は、完全に闇に飲まれようとしていた。

 

 

(たすけて……フィン……)

 

 

 ふいに、あの青髪の従騎士の姿が浮かんだ。

 だが、彼も、乙女の声に応えることは──

 

 

「ギャアッ!!」

 

 突として、サンディマ配下の悲鳴が響いた。

 

「なっ!?」

 

 洗脳を施す為に集中していたサンディマは、乱入者の姿を見てその術を止める。

 そして、青髪の騎士の、凛とした声が響いた。

 

「ラケシス様ッッッ!!!」

 

 槍を振るい、次々と暗黒魔道士を屠る、レンスターの若武者、フィン。

 怒りに身を任せたレンスター流槍術に、暗黒魔道士達は反撃する間もなく斃れていった。

 

「クソ! 邪魔をするでない!!」

 

 功を焦ったか、サンディマ。

 フィンの乱入を許したサンディマは、己の迂闊さを呪うも、即座に暗黒魔導を発動すべく魔導書を開いた。

 

「死ね!」

「グッ!?」

 

 Jötmungandr(ヨツムンガンド)

 

 必滅の暗黒魔術。

 フィンは四肢を闇の波動に貫かれ、糸の切れた人形のように倒れた。

 

「フィ……フィン……!」

 

 拘束術が弱まったのか、ラケシスはフィンの元へ駆け寄る。

 よろけた足を必死で動かし、死人のように白い表情を覗かせるフィンの元へ辿りつくと、その身体を揺すった。

 

「フィン! フィン!」

「ラケ……様……お逃げ……くだ……」

「駄目よ! 貴方を置いては行けない!」

 

 不完全な暗黒魔術だったのか、かろうじて即死は免れたフィン。

 しかし、その身は既に死に体。これ以上の戦闘継続は不可能であり、途切れた声でラケシスへ逃げるように呟くのみであった。

 

「ふん、少々想定外の事が起こったが……だが、それまでよ」

 

 ゆるりとラケシス達へ近付くサンディマ。

 予想外の出来事を受け、苛立ちを隠せないようにそう嘯く。

 

「ラケシス姫、観念するがよい」

「くぅッッ!?」

 

 フィンを守るようにサンディマと対峙するラケシス。

 しかし、彼我の戦力差は歴然としたものであり。

 サンディマは再び拘束術を発動し、金髪の美姫の動きを止めた。

 

「ぁ……ぅ……!」

「さぁ、こっちへ来るのだ!」

 

 ラケシスの髪を掴み、強引へ祭壇へと引っ張るサンディマ。

 

「ラケシス……様……!」

 

 連れて行かけるラケシスを見て、フィンは己の無力さを呪う。

 守るべき人を守れない、己の無力。

 何故、この身は動いてくれないのだ。

 

「くっ……!」

 

 絶望に苛まれる、レンスターの従騎士フィン。

 ぎゅっと目を瞑り、どうにかしてラケシスを救うべく思考を巡らす。

 しかし、どう考えを巡らしても、ラケシスを救う手段は思いつかなかった。

 

 想い人を救えない無念が、フィンを蝕んでいた。

 

 

「ガァッ!?」

 

 

 唐突に聞こえた、サンディマの悲鳴。

 目を開けるフィン。

 直後に見えたのは、血を吹き出す喉を抑えるサンディマの姿だった。

 視界の隅に、サンディマの喉を斬り裂いたであろう小ぶりのナイフが、地面に突き刺さっていた。

 

「いけないねえニイチャン。魔道士とタイマンするなら、まず喉を狙わねえと」

 

 茶化すような不遜な声が聞こえる。

 声の方向に目を向けると、深い森の中でも巧みに騎馬を操り、不敵な面構えを見せる一人の傭兵がいた。

 

「ガ……ぎ、ぎざま──」

「うるせえ。もう死んどけ」

「ギッッッ!!」

 

 喉を抑えながら傭兵へ憎悪を向けるサンディマ。

 しかし、傭兵の男は飄々とした体でサンディマへ剣を振った。

 更に深く喉を抉られたサンディマは、怨念を籠もらせながら絶命した。

 

「ふっ、俺をやれるヤツはいねぇよ──」

 

 そして、傭兵の男は、ややあっけに取られるラケシスとフィンへ、不敵な面構えのままこう言った。

 

 

 

「世界ひろしと言えどもな!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




フィン「世界ひろしさん……」
ラケシス「一体どんな人なんだろう……」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。