逆行オイフェ 作:クワトロ体位
「オイフェ様、どうぞこちらへ」
丁寧な所作でオイフェを案内するスルーフ。
スルーフの案内を受け、オイフェはエッダ城の主が控える間へと静かに入っていった。
城主の間にしてはいささか質素すぎる造り。
簡素な調度品に囲まれ、部屋の中央でオイフェを出迎える、一人の宗教家。
オイフェはその男を見留めると、慇懃に挨拶を述べた。
「お初にお目にかかります。ヴェルダン属州総督補佐官のオイフェと申します。……クロード神父」
ぺこりと、その柔らかい頭髪を揺らしながら挨拶を述べるオイフェ。
少年とも少女とも思える美童の声は、聞く者全てがある種の父母性を刺激せしめる音色。
「……」
だが、それを受けたエッダ教の教主──クロード・ギュルヴィ・エッダは、眉間に少しばかり皺を寄せ、難しい表情を浮かべるばかりであった。
「では、私は失礼します」
普段は柔和な表情で来客を迎えるはずのクロードが、難しい表情で押し黙っているのを不審に思うも、案内役のスルーフはそれ以上訝し事はせず粛々と退出する。
如才ないスルーフ故に、これから行われるであろうセンシティブな会談内容にクロードがやや悩んでいるのだろうと推測し、それ以上の追求はせずにいた。
(さて……)
スルーフが退出し、部屋はオイフェとクロードの二人きりの密室となる。
オイフェはつとクロードの表情を伺いつつ、今後の話し合いの流れを思惟する。
(やはりクロード神父には全てを話す事はできないな……先にデュー殿と話してよかった……)
ここでオイフェが思案するのは、当初の予定を変更し、クロードには全てを打ち明けず、部分的な情報を開示するに留める事であった。
これは事前にデューと相談した結果であり。
持ち前の直感から、デューは敬虔な聖職者であるクロードに何もかもを伝えるのは時期尚早では? と懸念していた。
少年特有の“秘密の共有”という独占欲めいた感情ではない。
むしろ、デューはエバンスへ帰還次第、シグルドら主だった者達へさっさと秘密を打ち明けろと主張している。
どうにも、現時点でのクロードに前世情報を開示するのは、言葉に出来ない漠然とした不安を感じさせていた。
しばらく検討していたオイフェだったが、結局は現時点でクロードに前世情報を伝えるのは見送ることにした。
とはいえ、必要な情報を共有することは変わりは無い。
特に、暗黒教団の脅威は、クロード──エッダにとっても、
そして、現在進行系で暗黒教団の脅威に晒されているのは、オイフェ達──シグルドやディアドラも同様。
万の大軍ならば、鍛え上げた新生シグルド軍、そして己の智謀を十全に振るい、いかようにも粉砕せしめよう。
しかし、暗黒教団の尖兵は只人に紛れ、にわかに牙を剥く闇の異形。
武勇に優れた者であっても、その初襲を未然に防ぐ事は難しい。
特攻精神に溢れたテロリストの初襲を、被害無しで防ぐ事、困難極まりなし。
そして、こちらに出来るのはただひとつ。
闇害が起こり得た後の、徹底的な報復のみである。
もし、シグルドやディアドラの身に闇の魔手が伸びたならば──。
一体何のために己は逆行したのかと、オイフェは死んでも死にきれぬほどの後悔に苛まれる事となるであろう。
その恨み、想像を絶する。
それこそ、
(……)
暗鬱な感情に支配されかけたオイフェは、僅かに頭を振る。
そのような悲劇は、もう繰り返してはならない。
だからこそ、暗黒教団……その謀略の要であるアルヴィスを滅する為に、
そして、いかにクロードがオイフェを疑うことなく、オイフェにとって最適な行動を行うか。
それは、この会談の内容にかかっていた。
思案を巡らせるオイフェであったが、スルーフの気配が遠ざかるのを確認したクロードがその重たい口を開いた事で思考を中断した。
「……書簡の内容は、本当なのでしょうか」
挨拶を返さず、いきなりのこの問いかけは、クロードを知るエッダ教団の者が聞けば正気を疑うほどの無作法。
しかし、オイフェは端然と言葉を返した。
「事実です」
真っ直ぐにクロードを見つめる少年軍師。
少しばかりその視線に圧されたのか、クロードは額に一筋の汗を垂らしていた。
もし、この場にスルーフが残っていたとして、この問答を聞いていれば、事前にオイフェが伝えた密書の内容と相違があるのに気付くことが出来たであろう。
オイフェがスルーフに伝えた内容は、シグルドの痴態に関する相談であり。
しかし、実際に書かれていた内容は、全く異なる内容であった。
「……私には信じられません。このエッダに、
オイフェが記載した密書の内容。
それは、エッダ教団内部に隠れロプト信者──暗黒教団の尖兵が潜んでいる事を指摘した内容だった。
当然、クロードはスルーフから渡された密書をひと目見るや、たちの悪い冗談だと信じる事が出来ず。
しかし、公的な立場のあるオイフェがそのような戯れをエッダの教主へ行うか。
否である。
そして、何よりその隠れ信者の名前を具体的に指摘せしめていたのも、クロードがオイフェとの密談に臨む切っ掛けとなっていた。
「ロダン司祭が、隠れロプト信者だなんて……」
青い顔でそう呟くクロード。
ロダン司祭……エッダ教の司祭の中で、クロードに次ぐ階位の持ち主。
先代エッダ教主と共に教役を重ね、エッダ教団の中でも人望が厚いロダン司祭。年若いクロードも、かの司祭の手厚い補佐を受け、今日までの教役を行っていた。
エッダ公国の内政、外交すら、クロードの補佐……いくつかは実権を握る立場であるが、クロードを始めエッダ中の司祭達、そして周辺国やグランベル王宮からの支持は厚い故、問題なくその地位を維持している。
エッダの中で、唯一“偽善面がいけ好かない”と毛嫌いしていたのは、大偏屈者であるアウグストのみであった。
「証拠はこちらに」
戸惑うクロードに構わず、オイフェは一冊の教典を取り出した。
「これは……!」
オイフェが取り出した教典を見て、クロードの表情が強張る。
禍々しいオーラを僅かに発する、邪教の聖典。
漆黒の装丁に記される“Loptr”という文字を見たクロードは、僅かに震える手で表紙をめくった。
「……ッ!?」
表紙をめくると、暗黒神へ永遠の忠誠を誓う言葉と共に、ロダン司祭の名が記されていた。
「確かに……これはロダン司祭の筆跡です。ですが、これは、あまりにも……」
驚愕、恐怖、懐疑がないまぜとなった表情でオイフェを見やるクロード。
ロプト教典の装丁はくたびれ果てており、ロダンの署名もインクがかすれている。
それらが意味するのは、余程長い年月、ロダンがロプト教徒であるのを隠し続けていた、という事実であった。
その事実が、じわりとクロードの心胆を寒からしめる。
そして、このような事実を信じる事はできずにいた。
慄くクロードへ、オイフェは努めて冷静な声色で言葉を返した。
「私がこれを偽造したとお疑いでしたら、その目的、そしてその“利”が何であるのか、逆に教えていただきたい」
「い、いえ、決してオイフェ殿を疑っているわけでは……」
毅然とした態度でそう述べるオイフェ。クロードは困惑を隠せず、ただ少年軍師が突きつけた事実に狼狽えるばかりである。
ちなみに、このロプトの教典は正真正銘、ロダンの所持品である。
エッダ城内にあるロダンの私室、教典の隠し場所を突き止めるのは、前世でエッダ城を十分に検分したオイフェにとって造作も無い事であり。
そして、オイフェの意を受け、ロダンの私室に忍び込み、見事教典を掻っ攫うデューの手腕。
徹夜でオイフェと話し合ったせいで寝不足極まりないコンディションであったが、初めからお目当ての“お宝”の場所が判明し、且つ部屋の主がクロードと共にエッダを留守にしているとなれば、デューにとってその窃盗は赤子の手をひねるようなものである。
教典をオイフェに渡したデューは、そのまま一睡もせずクロードとの会談に臨むオイフェを気遣いつつ、耐えきれぬとばかりに部屋へ直行。未だ高いびきをかくベオウルフを踏んづけながら自分のベッドにダイブし、自由騎士の呻き声を背に深い眠りについていた。
「では、一体……」
僅かに落ち着きを取り戻すクロード。
そのまま、オイフェへはっきりとした口調で問い詰める。
「どうして、ロダン司祭がロプト信者だと存じていたのですか?」
ロダンが隠れロプト信者。それを何故オイフェが知るのか。
「……」
しばし沈黙するオイフェ。
実際、その答えは単純明快。
ただ
そして、当初はこのタイミングで前世を打ち明けるつもりであったオイフェ。しかし、予定変更。
事実を
前世でのグランベル解放戦争。
エッダ城攻防戦の際、暗黒神側でエッダを率いたのは、クロードに代わりエッダ教主へ収まっていたロダン。
アルヴィス皇帝の治世下では、ロダンはクロード時代を引き継ぐかのように、帝国内での教役を卒なく指導していた。
だが、ロプトウスに覚醒したユリウス皇子の暴虐が始まると、呼応するかのようにロダンも豹変する。
子供狩りを積極的に推奨し、エッダの教義をロプトの都合の良い様に歪め、逆らう敬虔なエッダ教徒は尽く粛清せしめる。
当然、後に残るは俗世の欲に取り憑かれ、暗黒神に鞍替えした売教僧共のみであった。
ロダンは、初めからロプト教団の尖兵だったのだ。
本性を隠し続け、じわりじわりとエッダを侵食する。それは、クロードが教主として──否、クロードの両親が存命していた時分から行われていた。
そして、それらの証拠は、エッダ城を攻略したセリス軍が、城内を検分した折に発見したロプト教の祭壇から得ている。
ロダンがエッダ城内にて秘密裏に──ユリウスが覚醒してからは堂々と──造設していた、ロプト教の祭壇。
ロプト教団の総元締めともいえる大司教マンフロイからの隠密指令。その内容を、仔細余す所なく保存していたロダン。
その几帳面な性格は、彼本来が持つもので、信仰によるものでは無かったのであろう。
もしくは、暗黒神の時代が必ず来ると確信していたからこそ、指令内容を隠蔽していなかったのか。
最早その真意は不明だが、ロダンがエッダ教徒としてエッダ教団内に潜入し、様々な工作を行っていた証拠は残っている。
その一つに、クロードの両親が死亡し、クロードの実妹が行方不明になった、あの襲撃事件があった。
「クロード神父。貴方のご両親がお亡くなりになり……そして、妹君が行方不明となった事件。覚えているでしょうか?」
オイフェが唐突に言い放ったこの言葉。
クロードは不意に突かれた己のトラウマに、沈鬱とした表情を浮かべる。
「……忘れるはずがありません」
クロードの悲痛な表情。そして、悲哀を滲ませるその声色。
それを聞くオイフェ、表情は一切変わらず。
冷淡に、事実の説明を続けるのみである。
「その事件を謀ったのは、ロダン司祭です」
「えっ──」
更なる驚愕の事実。
困惑を深めるクロードに構わず、オイフェは言葉を続ける。
「先代エッダ教主夫妻を亡き者にし、己がエッダの実権を握る布石にする──ロダン司祭はそう企んだのでしょう」
「……ッ」
「徹底的な実行犯である盗賊団狩りは、ロダン司祭が下手人ごと事件を闇に葬り去りたいと思ったからでしょう。そして、年若いクロード神父の補佐として、エッダを我が物にしようと──」
「待ってください!」
弁を続けるオイフェに、クロードは声を荒げる。
次々と突きつけられるオイフェの言葉に、クロードは軽度の錯乱状態に陥っていた。
「その襲撃事件、そもそものロダン司祭がやったという証拠は!? それに、襲撃事件がロプトと何の関係があるというのです!? そもそも、貴方は私の質問に答えていない! どうして貴方は、それらを知っているというのですか!?」
矢継ぎ早にオイフェを問い詰めるクロード。肩で息をするその様子は、普段の落ち着いたクロードとはかけ離れた姿。
相反するように、冷静極まりないオイフェ。
短く言葉を返す。
「暗黒教団」
「だから、それを何故──ッ」
「暗黒教団は、各公爵家、各王家──ユグドラル大陸全土へ、深い根を張っています」
「ッ!?」
オイフェは語る。クロードにとって寝耳に水のそれは、エッダに収まらず、世界規模での陰謀。
「先のヴェルダン軍の侵攻、そしてイザーク征伐の切っ掛けとなったリボー族長によるダーナ虐殺……これらは、闇に潜む暗黒教団による陰謀の可能性が高いのです」
「……」
「当然、何年も前から、闇の根はヴェルダンやリボーへ張り巡らされています。我が祖父スサールは、その徴候に気付いておりました」
「スサール卿が……?」
思いがけず放たれた名軍師スサールの名。
そして、オイフェは
「祖父は暗黒教団の陰謀を看破するべく、少数の手勢にて秘密裏に調査を進めていました。既に王宮にまでかの勢力の根が張っていたため、祖父も慎重にならざるを得なかったのでしょう。ですが、ご存知の通り祖父は二年前に天寿を全うしております。それ故に、私がその調査を引き継いでおりました」
と語るオイフェであるが、これは詭弁、もっといえば大嘘である。
スサールは暗黒教団の存在を、その軍師的本能で察知していたかもしれないが、それを表に出さずに他界している。
どちらにせよ、スサールが暗黒教団の調査など行っていない。
だが、陰謀の全容は事実なのは確か。
結果さえ正しければ、過程などどうでもよく。
要は、オイフェが陰謀の全容を知り得る説得力のある“ストーリー”が必要なのだ。
「不覚極まりない話ではありますが、私が暗黒教団の陰謀……その一端を把握できたのは、我が主、シグルドによるヴェルダン征伐が終わってからでした。ヴェルダンにて蠢動せしめるロプトの手先を捕縛したのです。そして、そやつから襲撃事件の真相を知り得、ロダン司祭がロプト教徒と知る事ができたのです」
嘘も方便は続く。実際にヴェルダンにて暗躍していた暗黒司祭、サンディマは未だに捕縛されていない。
アグストリアに潜伏しているであろうと当たりはつけていたが、オイフェが積極的に捕縛に動いていないため、その消息は不明である。
だが、サンディマが行っていた事は既知であり、サンディマとロダンがロプトの繋がりを持っているのは想像に難くない。
「……それが事実として、何故王宮に知らせないのですか。何故、各国へその事実を伝えないのですか」
「先程も言いましたが、暗黒教団の根は深い。下手に動けば、こちらが闇に葬られかねない。それほど、闇の勢力は大きくなっているのです」
「……」
「故に、ロダン司祭の捕縛は、まだ控えていただきたいのです。教典は、私の手の者が後で気付かれぬよう戻しておきます」
「……それで」
疲れた表情を向けるクロード。
そのままかすれた声でオイフェへ言葉をかける。
「この話を私にして、何をしろと? いえ──」
クロードはロプトの教典を見やる。
闇の教団の陰謀。その存在、その物的な証拠を見ても、尚。
「やはり私には信じられません。これは、何かの間違いではないでしょうか?」
すがるようにオイフェへ視線を戻すクロード。
冷徹な表情を続けるオイフェ。
そして、オイフェの此度の目的を果たす瞬間が訪れた。
「ならば、確かめれば良いではありませんか」
「え──」
「貴方には、
やや
徐々に思い起こされる、オイフェの前世におけるクロード。
悲劇を生き延びたエーディンから聞いた、クロードと、その実妹にして禁じられた伴侶──シルヴィアとの会話。
図らずとも聞き耳を立ててしまった、クロードがシルヴィアだけに明かした話。
「貴方には、真実を知る権利がある。真実を知る手段がある。そして──」
貴方が、真実を知り。
その後に起こる、悲劇を予知し。
神託による、全知を得て。
その上で、貴方は
シグルド様を、ディアドラ様を。
シグルド様の下に集う、勇者達を。
バーハラでの悲劇を予知しておきながら。
貴方は、諦めたのだ。
多くの死を、運命と甘受し。
いずれ世界を、数多の光が照らすと盲信し。
貴方は、そうやって投げ出したのだ。
何故、諦めたのだ。
何故、シグルド様に悲劇を伝えなかったのだ。
何故、運命の扉を閉じたのだ。
予め、悲劇を知っていれば。
もっと有効な打ち手があったはずだ。
運命の扉は、開けたはずだ。
貴方達の世代で、終わらせる事ができたはずだ。
それなのに、貴方は──!
貴方は──ッ!
貴方にはッ!!
「真実を知る義務があるッ!!」
少年の、恨みが籠もりし大喝。
怨念に塗れた、少年の瞳。
怨嗟に塗れた、少年の声。
「ッッ!!」
慄くクロード。
高僧が持つ特有の感受性が、少年が持つ恨みの深淵を覗かせる。
「オ、オイフェ殿……貴方は……」
全身から冷えた汗を吹き出し、クロードはかろうじて震えた声を上げていた。
オイフェは、怨恨を燻ぶらせながら、底冷えするような声を返す。
その瞳は、暗い炎を宿していた。
「ブラギの塔。貴方は、そこで神託を受ける義務があるのです」
少年の冷徹な言葉が、クロードの臓腑へと染み込んでいった。